2010年10月14日木曜日

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡1912-1951』講談社現代新書

■観光バスの学びと森の中で迷う学び

効率的な現代の学校教育は、たとえてみるなら学習者を観光バスで次々に山頂に連れて行くようなものである。観光バスは快適な舗装道を走る。道中、ガイドは左右に見える風景を解説する。やがてバスは頂上近くに到達し、客は100メートル程度歩き、山頂からの眺めを堪能する。そうしてバスは次の山頂を目指す。かくして客はこのうえないほど効率的に山腹と山頂からの数々の眺めを「学ぶ」。

もし目的が眺めを知ることだけならばこの学びは素晴らしいものだ。だがもし目的が、自ら山に登ることができることだとしたらどうだろう。山を登り切る脚力はもちろんのこと、けもの道らしき痕跡を辿りながら、迷い遭難することを怖れ、自らのすべての感覚と知識を総動員し山頂を目指すこと―これらのおよそ「効率が悪い」試行錯誤こそが独力で山に登ることができるようになるためには必要なことだろう。現在の学校教育は学習者に自力で登山できること―誰も知らない未来を切り拓くことをうまく教えているのだろうか。

無論現実には、観光バス的な効率的な教育も必要だろう。とにかくある程度の基礎は一定の時間内に教えなければならない。しかし観光バスに乗せてばかりでは、自ら道を見い出す術と力は身につかないだろう。学校教育のどこかでは学習者を森に一人追いやらねばならない。


■哲学に結果はなく、過程があるのみ?

哲学を学ぶことにおいては、ことさらに観光バス的学びに依存することに警戒しなければならない。かつて私は優秀な若手研究者(英語教育)に勧められて、ある「新進気鋭」の学者の著作を読んだ。「哲学的基礎に基づき大胆な構想をもった心理学系の研究」という触れ込みだったが、100ページほど読んで私は読むのを止めてしまった。おそらくは私の偏見なのだろうが、その本の「哲学的基礎」とは、哲学のガイドブックの切り貼りのようなものにすぎなかった。「○○という哲学者は、まあこんなことを言っていますよね」のような要領のよい無難なまとめが継ぎ足されてばかりいる。この著者がこれらの哲学的問題に苦しみ自ら考え、その葛藤をどうにか表現しようとしているという「自ら哲学している姿勢」がまったく伝わってこなかった。少なくとも私にはそう思われた。私は哲学あるいは研究に過度にロマンチックな態度を求めているのかもしれない―おそらくこれがシロウトの陥穽なのだろう―だが私は正直このような要領のよい本に嫌悪感すら感じる。これはそのような本の中に自分のような擬似哲学的態度を見出しているからなのかもしれない。だがいずれにせよ、哲学を学ぶことは観光バスから次々に風景写真を撮ることではない。

哲学において効率的な学習はありえない。哲学はある人にとってやらざるを得ないもの、その問題について考えなければ一歩も進めないものだ。哲学においては「目的地」に到達することより、森の中で「これが自ら進むべきけもの道か」と迷いながら、一歩一歩を切り拓いていくことの方が大切である。哲学に結果はなく、過程しかないと言ってもいいのかもしれない。哲学の「解説」には注意しなければならない。


■哲学の優れた解説書

だが上記の若手心理学系の「哲学」解説などではなく―あるいはこのブログの哲学解説ではなく―、きちんと哲学をしている人の優れた解説書というのは、観光バス的ではない。ふもとから頂上までの全行程を歩かせることはしないが、車で要所まで読者を連れてゆくと、「ここはこのような場所であり、おそらくここを切り抜けるには植生の具合と鳥の声に注意して方向を定めなければならない。また足元の朽木には気をつけるように。それでは次の集合場所で会いましょう」と読者に自ら森に入ることを促す。解説書の範囲ではあるが、読者は自ら哲学することを学ぶことができる。

しかし、このように優れた解説書がある場合でも、哲学の場合、読者はまず原典(といっても私のように学力がない者は翻訳書)を読むべきだろう。そこで二読、三読し、「わからないのだがどこか一筋の光が見えているように思えてならない」という不全感に苦しむべきだろう。そうしてさらに読み直し、だんだんと自分なりにけもの道を見つたのかと思いながらも、ヘトヘトになって自分の知的体力が尽きたと思ったときに優れた解説書を読むべきなのだろう。さもないと観光バス的学習に慣れた昨今の大学生は、解説書の上澄みだけを要領よく掬うような真似をしかねない。擬似哲学は、疑似科学や擬似芸術と同様、私たちが避けなければならないものである。



■ウィトゲンシュタイン哲学の優れた解説書

前置きが長くなったが、本書(鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡1912-1951』講談社現代新書)はウィトゲンシュタイン哲学の優れた解説書である―と断定的、権威的に書いたが、私は何度も言うように自分の哲学的能力にはきわめて懐疑的である。だからここから「だ・である調」から「です・ます調」に変わります(まあ、単純w)。平成軽薄体とまではいかずとも、多少文体を楽にして、自らの思い込みや虚勢から多少なりとも自由になることを目指します(そんなに単純なものかなぁww)。

本書は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』『哲学探究』(英語の新訳はPhilosophical Investigations)を自分なりに読んだ人が読むと哲学への非常によい導きとなる本かと思います。

私自身は大学院生の時に他研究科の講義でウィトゲンシュタインについて学んだものの、半年ぐらいはわかったようなわからないようなグズグズした状態でした。ところがある日歩いていたら、突然「あ、わかった」と思い(込み)、全集を買い、自分なりに読み込み始めました。結果的に何度も読んだのは『哲学探究』(の特に1-242節)、『青色本・茶色本』『確実性について』でして、『論理哲学論考』は読んでも皆目見当がつきませんでした(『論理哲学論考』をまがりなりにも読めると思ったのは数年後イギリスでスピノザに関する講義を数回受けた後でした)。このような私ですが、もう少し前にこのような本を読んでいればもっと啓発されたと思います(もちろん私はウィトゲンシュタインに関する解説書は何冊も読みました。今回はこの本を紹介していますが、別にこの本だけが優れた解説書などと言いたいわけではありません)。

以下は、私なりにこの本から印象的だった箇所を抜き出したものです。上述のガイドの「植生の具合と鳥の声に注意して方向を定め、足元の朽木には気をつけよ」という言葉を「まあ、上下左右に気をつけて行けってことよ」と翻訳するような乱暴で愚かな行為ですが、本書およびウィトゲンシュタイン哲学へのきっかけの一つになればと思い、書きます。



■「論理」とは、語ることを可能にする根底的条件

「論理とは何か」と正面きって問われると困惑します。一つの答え方は「論理とは、それ自身は語られないにもかかわらず『語ること』を可能とするような根底的条件」であり、(カント的な意味で)「超越論的」なもの(72ページ)とするものです。


■論理は「語り得ない」のか?

しかし論理は「語り得ない」ことなのでしょうか。確かにウィトゲンシュタインは、次のようにも言っています。


言語の中に反映されていることを、言語は描出できない。
言語において自らを表現することを、我々は言語によって表現できない。
『論理哲学論考』4.121 (本書75-76ページより引用)


このように魅惑的な断言がなされると、私のように哲学よりも擬似哲学をやりがちな人間などは「論理は語り得ない」と虎の威を借る狐のように教条的に周りに吹聴するのですが、鬼界先生は、端的に「論理学をはじめとする様々な場で我々は現実に論理について語っている(ように思われる)」(78ページ)と指摘します。さあ、どう考えるべきか。

鬼界先生は、ウィトゲンシュタインはここで「安易な神秘主義」(81ページ)に陥っているのではないかと論じます。ウィトゲンシュタインは非常に内的な人でしたから、神秘的なるものへの畏敬の念を忘れず、どこかに神秘的なものの領域を確保しようとしていました。しかし彼は同時に非常に明晰な思考をする人でしたから論理的な思考から離れることができません。『論理哲学的論考』で彼が見い出した道は「論理的神秘主義」(83ページ)―論理を尽くして、その後に論理的に説明できずに残るものを神秘的なものとすること―でした。しかしウィトゲンシュタインは「論理は語り得ない」とすることにより、彼の目指した論理的神秘主義から逸脱し安易な神秘主義に陥ってしまったというのが鬼界先生の見立てです。論理は「語るべきでない」ことであっても、「語り得ない」ことではないからです。

「語るべきではない」あるいは「適切には語り得ない」ことと、「いかようにも語り得ない」ことが異なることはマイケル・ポラニーも言っているということは、私も技能と言語の関係についてまとめた時に引用しました。(「インタビュー研究における技能と言語の関係について」


私には私が語り得ない知識があると主張することは、私がそれに関してしゃべることができることを否定するのではなく、私がこの知識について適切にしゃべることができるということを否定するものである。 (Polanyi 1962, p.84)


鬼界先生も、論理について語ることは、「語るべきではない」ことであっても、「語り得ない」ことではないと考えます。私たちが普通に言語を使う時、論理はその言語使用の「根底条件」として語られないまま―「語り得ないまま」ではありません―に言語使用を支えています。しかし言語使用に疑義がもたれた時など、私たちはその言語使用の根底条件である論理を、ことさらに言葉にして語ります(これを職業にしているのが論理学者でしょう)。論理は語り得るのです。しかし、そうして言語化された論理は、使用の実態から抜き出されたものに過ぎません。言語の中で語られないままに働いている論理とは様子を異にしています。

鬼界先生は言います。


論理を用いることが論理を生かすことであるのに対し、論理について語ることは論理を殺すことなのである。より一般的に言えば、ある行為について語ることは、その行為を「標本化」し、殺すことである。言語にとってもっとも重要なのが生きて使われることであるとすれば、そうした二次的な言語使用は言語から生命を奪う過程であり、なされるべきことではないといえるだろう。論理や論理形式は示されればよいのであり、あえて語るべきではないのである。(83-84ページ)


ウィトゲンシュタインは、論理的神秘主義を志向するも、神秘的なるものへの畏敬が強すぎて、安直に「論理は語り得ない」と断定してしまったのではないかというのが鬼界先生の見解です。


■命題は一種の絵画に過ぎないのか

私にとって印象的だったのは、いわゆる「命題画像説」―絵画が事態に登場する人や者を色と形で表現するのに対し、命題はそれを名で表現するのであり、命題とは名を使って描かれた絵だ、という考え(91ページ)―に対する鬼界先生の見解です。通説では『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインはこの命題画像説を唱えたとされていますが、このようにあまりにも単純で通俗的ともいえる見解をわざわざウィトゲンシュタインが何年も費やして書き上げた『論理哲学論考』で言いたかったのだろうかと鬼界先生は素朴な疑問を投げかけます。

鬼界先生は、ウィトゲンシュタインが論じていたことは実は、命題と絵画は異なるということだったと主張します。命題とは「論理的足場」であり否定・連言・選言・条件といった「論理定項」により拡張する無限大の「論理空間」に位置する一方、絵画にはそのような論理の働きがないからです。

命題(例えば「秀吉は大阪城を築いた」)は、一見単独である事態を描いているだけのようにも思えます。しかしこの命題に「論理定項」を適用すれば様々な事態が派生しえます。例えば否定だったら「秀吉は大阪城を築かなかった」、条件だったら「秀吉が大阪城を築いたならば・・・」です。これらの事態でさえ絵画では描き難いものですが、ある論理的足場である命題は、論理定項の適用により、あるいは別の論理的足場との連結により無限に表現可能な事態を生成しえます。その可能な事態の全体が「論理空間」だと鬼界先生は述べます。


この巨大な全体こそ「論理空間」に他ならない。それは全ての可能な思考からなる宇宙であり、全ての思考と存在の可能性を尽くすものである。この論理空間という観点から考えるなら、一つ一つの命題はもはや独立した存在でも、一個の像でもなく、巨大な思考空間を支える格子の一つの格子点にすぎない。それぞれの格子点は可能な思考の宇宙の中の一つの場所を意味し、一つの可能な思考を表す。これが「論理的場所」である。それゆえ命題によってある事態を描写するとは、一つの像を描くというよりは、むしろ思考の宇宙の中の一つの論理的場所を指定することなのである。これこそが『論考』の最終的な命題理解であり、その言語観の核心をなすものである。(98ページ)


絵画と命題(言語表現)の違い、そしてウィトゲンシュタインが目指していた論理的神秘主義について鬼界先生は次のようにまとめます。


絵画は意味を持つが、我々はそれを思考できない。絵画は論理を有しないが故に論理空間とは無縁であり、まさにそのために言語と思考によって尽くせない意味を有するのである。純粋な絵画は無限の意味を内包する。他方、語られた言葉はどのように短いものであれ、思考の全宇宙とともに与えられる。語られた言葉について考えるとは、思考の宇宙の中の一つの論理的場所について考えることであり、その場所から無数の思考の場所へと伸びる経路について考えることである。言葉で何かを語るとは、無限に広がる思考の経路への入り口を示すことなのである。
語るとはこのようなことである。それが言葉を持つということであり、人間であるということなのである。言葉を持つ存在としての人間は、すでに無限の思考宇宙の中に存在しているのである。それは語りうるもの、思考しうるもの、存在しうるもの、の全領域であり、限界である。もし「神」という名がこうした存在と思考の領域を越えることの象徴であるなら、人間は言葉をもつ存在であることにおいて、すなわち人間であることにおいて、すでに「神」と内側から接しているのである。これが人間が「神」と接しうる唯一の道である。(101-102ページ)



■言語と生、あるいは私

論理がその生きる場である言語使用から取り出されて語られることをウィトゲンシュタインが嫌った(否定した)ことからもわかるように、ウィトゲンシュタインの言語観は、私たちが生きていることと深く結びついたものです。


我々が言語について哲学的に考察しようとするとき、我々が求めているのは言語という一対象について考えることではなく、人間の存在を包括するようなものとしての言語の本質をとらえることである。(124ページ)


いやウィトゲンシュタインの場合、「私たちの生」というより「私の生」と言語の結びつきを強調したといえるでしょう。端的なのは「これ」という表現です。「これ」という表現は、話者の裁量によって大部分が定められる表現であり、<私は「これ」によって・・・を意味した>というような「私」の意図が込められた「私の表現」なのです。言語使用には「私」という言語主体の存在が欠かせないというのが、ウィトゲンシュタインが強調したことといえるでしょう。(166-167ページ)


■論理から文法へ

言語における、生きた人間―あるいは端的に「私」―の存在を重んずるウィトゲンシュタインは、次第に超越論的で無人格的・脱人間的な「論理」から、人間的な「文法」という用語を言語使用の根底条件として使い始めるようになります。例えば同じ視野の中に二つの異なる色が存在するのを私たちは不可能としますが、これは論理的な不可能性というより、文法的な不可能性―言語学的に厳密な意味での「文法」ではなく、言葉の働きといった一般的な意味での「文法」での不可能性―と言うべきではないだろうかというわけです。(212ページ)


■内容主義的意味概念から機能主義的意味概念へ

さらにウィトゲンシュタインは『哲学探究』に至って、機能主義的意味概念へと転換してゆきます。『論理哲学論考』の意味観が、述べている内容を中心にしたものであったのに対し、『哲学探究』では文が我々の全生活の中で演じている役割を中心とする機能主義的意味概念になります。(246-247ページ)言語使用という私たちの生活様式・生の型を表現する用語が「言語ゲーム」ですが、この「ゲーム」(Spiel)は日本語でいうなら「遊び」や「劇」といった側面も兼ね備えた言葉です。(249ページ)。私たちが言葉を身につけるということは、論理空間に生きることを意味する以上に(あるいは以前に)様々な言語ゲームにより人間として生きることを学び実践することなのです。


クモが自らの糸で巣を織りなしてゆくように、我々人間は言葉を紡ぎながら人生という織物を織りなしてゆく。それは無秩序な織物ではなく、いくつもの型が交わりながら浮かび上がる複雑な模様を持った織物である。その中で繰り返し繰り返し生じる生の型、つまり人生の様々な典型的な場面・典型的な言語使用局面が「言語ゲーム/劇」と呼ばれるのである。人間が言葉を習得し、使用するとは、こうした型を一つずつマスターし、自らの言葉によってそうした型を編み続けてゆくことである。(255ページ)



■私たちの確実性とは何か

客観的で数学的ともいえる論理は、人間にそれ以外の(論理的な)思考を許さない根底条件ですが、私たちが人間として積み重ねてきた生活様式・生の型、あるいはそれを表す言葉の「文法」(言語学的な意味でなく、一般的な意味での「文法」)も私たちの根底条件です。「文法」を越える言語使用を私たちは認めることができません。認めるならば、私たちの大地(根底条件)が揺らぎ、もはや何がまともで何がまともでないかの判断もできなくなるからです。

哲学者のムーアはかつて「私には手が二本ある」という命題を疑えるかという問いを出しましたが、ウィトゲンシュタインはこう言います。


重要なのは、ムーアがここに手があることを知っているということではなく、もし彼が「もちろん私はこれについて間違っているかもしれない」と言うなら彼のことが理解できないだろうということなのである。そうしたことで間違うとは一体どういうことなのか、と我々は問うだろう。たとえばそれが間違いだと判明するとは一体どんなことなのか。(『確実性』32節)


言語学の統語論(言語学的な「文法」)は「私には手が二本あるが、もちろん私はこれについて間違っているかもしれない」という言語の生成を許します。しかし私たちが日常生活で「私には手が二本あるが、もちろん私はこれについて間違っているかもしれない」と真顔で発言する人を目の前にしたら、私たちはもはや何をどう考えていいのか、どうその人と暮らしてゆけばいいのかわからなくなります。そういった一般的な言語使用、ひいては生き方の点での「文法」はこのような言語使用を認めようとしません。


■「私は知っている」ということ

しかし逆に、私たちが私たちの生活の中で有意味に(ウィトゲンシュタイン的に「文法的に」)「私は・・・を知っている」と言う時、私たちは私たちが認める人間の生活の根底条件を示していると言えましょう。いや、ここでは「私は」という言葉が使われているのですから、この文は「私」が私の生き方を通じて、私なりに捉える人間的な論理空間を示していると言うべきでしょう。「私」という人間は、「私たち」という類的存在が築き上げた様々な言語ゲームの網の目の中に生きています。その中で「私は知っている」あるいは「これ」という表現に端的に示される言語使用で、「私」は自らの存在を賭けて何が人間の人生であるかを示そうとします。


我々が言語ゲームに参加し、言葉によって人を動かしたり、動かされたりという「呪術的」とすら呼びうる力を得るのは、単に事物や事態を非人称的に記述するだけでなく、自らを「私」と名乗りそこに参加するからである。「私」と名乗るとは、魂を持つものと成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。付随するあらゆる帰結とともに自らの言葉と行為を慈しみ、それらの親となる用意があるということである。(415-416ページ)


本書の終結部分での鬼界先生の言葉です。


こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見出したのである。言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームに形を与えることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめるからに他ならない。(417ページ)


私は英語教育・言語教育を考える際に、言語哲学を言語学以上に重要なものとみなしていますが、それはこのようなウィトゲンシュタイン哲学に接しているからです。どうぞ本書を、そしてウィトゲンシュタインの著作をご自身でお読みください。




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