前の記事にも書いたように学校の機能の一つは、子どもを成熟させ大人にすることである。では大人になるとはどういうことだろう。この本の著者で精神科医の片田は次のようにまとめる。
大人になるということは、挫折に挫折を繰り返し、親の期待とも折り合いをつけながら、自らの卑小さを自覚していく過程である。言いかえれば、自己愛の傷つきを積み重ね、万能感を喪失していくことによって、はじめて等身大の自分と向き合えるようになる。こうして、自らの立ち位置を認識する、昔ながらの言葉で言えば「身の程を知る」ことによってしか、地に足のついた努力ができるようにはならないのだ。実にせつないことではあるが。
この万能感の喪失、つまり「断念」を受け入れられない若者が、ものすごく増えているように筆者には感じられる。これはとりもなおさず、大人になることの拒否、つまり「成熟拒否」である。(46ページ)
万能感を守ろうとする歪んだ自己愛は、しばしばひきこもりへと人を誘う。現実や他人との葛藤がなければ万能感を保てるからだ。さらにインターネットはひきこもりを居心地のいいものに錯覚させる。
ひきこもりの多くが、インターネットなどのバーチャル・リアリティーに没頭するのも、自己愛的な万能感を守るためであると思われる。多くの場合、現実の対人関係が苦手で、何かでつまずいたことをきっかけにしてひきこもってしまうのだが、インターネットの世界では、他人の視線を気にする必要がないので、対人恐怖的なストレスをそれほど感じずに交信することができる。また、自分の言いたいことを一方的に相手に送りつけて、いやになったらいつでもやめられるという気軽さもある。何よりも、自由に交信し、巨大な量の情報を操作することによっって、現実の枠組みも制約も超えた無限のパワーを手に入れた気分になれる。(47ページ)
現代の私たちが成熟を拒否しているとしても、それなら昔はどうだったのだろう。片田は昔は「子供組・若者組のような同年齢集団や親戚・隣人など周囲の人を含めた大きなネットワーク」(86ページ)が「しつけ」をしていたと述べる。昔は様々な人間関係が、多様な価値観を教え、人を自然に成熟に導いていたのだ。
しかし戦後の民主主義の理念を一言で表すとすれば、それは「規範からの解放」であった。かくして子どもも大人も他人からから自由になった。それは干渉からの解放であったが、他方、コミュニケーションという相互作用的自律システムの枠組みから外れてしまうことでもあった。現代日本人は、周りとのコミュニケーションの中で自らを律するのではなく、すべてを自己意識の中の自己決断で自己責任でもって決めるということを社会のタテマエとした(145ページ)。
だが人間は、あるいは個人の意識は、それほどに知恵あるものではない。コミュニケーションという文化を失った個人はしばしば迷走・暴走する。インターネットでの交信は、上記のような理由で深い意味でのコミュニケーションとはなりがたい。だから孤立する人間はしばしばインターネット上でさらに迷走・暴走する。
インターネット抜きの現代社会はもはや考えがたい。だが自らの「コミュニケーション」がほぼインターネット上のものだけだったら、私たちは警戒する必要がある。インターネットは現実生活のコミュニケーションを補完するものであっても、それを代替するものではない。インターネットに依存した生活を送るとき、インターネットは偽りの万能感を育み、成熟を妨げ、ますます人を孤立させる道具となりうる。インターネットの怖さの一つはここにある。現実世界の、葛藤に満ちたコミュニケーションを大切にしよう。現実世界の労苦こそが私たちを正気に保ってくれる。
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