たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に会うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。
あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというように、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。(22ページ)
しかし、物語には良い物語も悪い物語もある。私たちは物語という形で、どんな自己記述を自分に贈るかで自らの人生の意味を大きく定めてしまっている。偽りの自己万能感を与えるような物語だけを自分自身に語り続け、その物語に居着いてしまうなら、私たちはどんどん現実世界に適応できなくなり、確実に不幸になってゆくだけだろう。物語であればどんな物語でもいいというわけではない。
特に世間で通用している物語には注意した方がいいかもしれない。それは「世間の常識」でありながら、一方でそうであるがゆえ、人を過剰に追い詰めたりしてしまう。単純で頑なな物語を自分に植えつけてはいけない。
私たちは自らの物語を掘り起こさねばならない。自分と世界の深いところに埋れている物語を。
「書くこと、文章に姿をあらわさせること、それは特権的な知識を並べることではない。それは人皆が知っていながら、誰ひとり言えずにいることを発見しようとする試みだ」
まさにその通りです。数学者が、偉大な何者かが隠した世界の秘密、いろいろな数字のなかにこめられた、すでにある秘密を探そうとするのと同じように、作家も現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出し、鉱石を掘り起こすようにスコップで一所懸命掘り出して、それに言葉を与えるのです。(50ページ)
そうやって掘り出してきた物語は、科学的命題のように明晰で単純なものではない。安易な物語はそれを一言で要約することを可能にするが、優れた物語はそのような単純化を拒む。人文的知恵の表現は、科学的知識の表現と異なる。小説という物語を書くことについて小川は次のように述べる。
人間の孤独を書こうとか、家族の絆について書こうというような、非常にわかりやすい一行で書けてしまう主題を最初に意識してしまったら、それは小説にならないのです。言葉で一行で表現できてしまうならば、別に小説にする必要はない。ここが小説の背負っている難しい矛盾ですが、言葉にできないものを書いているのが小説ではないかと思うのです。一行で表現できないからこそ、人は百枚も二百枚も小説を書いてしまうのです。(65ページ)
だから私たちは安直な単純化を拒み、「現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出」す忍耐をもたなければならない。それは過去を見つめることであり、観察者になることである。(78ページ)
観察者になることは、よき観察者になることは、容易なことでない。人間的な成熟も必要だ。だが、よき観察者になり、よき物語を自分にそして他人に贈ることができるようになった時、人間は静かに幸福になれるのかもしれない。
私も若い時は、自分自身がいちばん重要な問題でした。自分が何者かということを知ろうとして小説を書いていました。二十年ほど書いてきて自分がそんなにこだわるほどの人間じゃないことがだんだんわかってきました。いったん自分から離れて、自分が想像も予想もしなかったような広い場所にたって世界を観察する。観察者になるという姿勢を持った時、生きている人も死んでいる人も、自分も他人も動物も草も花もみんな、あらゆるものが平等に見えてきた。自分自身に埋没しないという姿勢で、書いていこうと思うようになったのが、この一、二年ぐらいでしょうか。そのことに少しずつ気づきながら、小説を書くことが喜びでもあり、また苦しい作業でもあるということを学んでいる最中です。(82ページ)
よく見て、静かに語ろう。よき物語を。
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