2010年9月20日月曜日

近藤真(2010)『中学生のことばの授業』太郎次郎社

■「生きること」と「意味」

自然は斉一だと物理学者は言う。世界は誰が観察しても同じものだというわけだ。

世界は観察者によって別様に立ち現れると人文系の人間は言う。世界は人により文化により異なるというわけだ。

おそらく「世界」という言葉で意味することが異なっているのだろう。「世界」という言葉で、自然科学者は対象としての「自然」(nature)を考え、人文系の人間は自分自身の「人生・生活・暮らし・生きること」(life)の総体を考える。人文系および市井の人々にとって「この世界」とは自らがその中を生きている現象の総体である。

私たちが生きることは、自然の諸条件により大きく左右される。早い話が食べるものがなければ私たちの生きることは成り立たない。しかし自然の諸条件だけが私たちが生きることを規定しているのではない。自然科学の対象である自然にはまったく現れない(と断言していいのだろうか?)「意味」が私たちが生きることには必要だ。人間は食物的飢餓に苦しむが、意味の飢餓にも苦しむ。意味を見い出せない人生、否定的な意味しか見い出せない人生は辛い。

それでは私たちは「意味」をどのように見出しているのだろうか。本格的な議論をする準備も力量も私は今持ちあわせていないが、「意味」を担う最大の媒体の一つが言語であることは間違いあるまい(「身体」も重要な媒体だろうが、ここでは議論から割愛する)。


■自己観察の言語化としての自己記述

私たちは暮らしの中で、ぼんやりと自分を観察している。それは明確な自覚以前の「気分」なのかもしれない。だがその気分といった自己観察も、時には言語による自己記述によってより明確な輪郭を与えられる。「ああ、すっきりした」といった単純な言葉ですら、発せられるや否や、自らは ―あるいは自らが生きている世界の総体は― そのようなものとして意味づけられる。自己観察は自己記述により一層の意味づけがされる。自己観察とは自己が経験している世界の観察であり、自己記述とは自己が経験している世界の記述なのだから、世界観察は世界記述により明確な意味を与えられると言っていいのかもしれない。だが表現の煩雑さを避けるため、これからは自己観察と自己記述に、それぞれ世界観察と世界記述の意味も込めることとする。

「明確な意味」といったが、それは「同じ言語を使うものに共感してもらいやすい」という機能を指しており、言語による自己記述が、常に自己観察の的確な反映であるとは言い切れない。例えば「うーん、驚いたというか、戸惑ったというか・・・」と言葉を重ねる人は、自己記述が自己観察を捕えきれていないという思いに駆られている。どんな言語化でもすればいいというわけではない。

だがその自己記述への不全感も、自己観察を言語化し、対象化したからこそ覚知できたことだろう。「自己観察→自己記述」と進み言語化がなされるが、言語化は「『自己観察→自己記述』の自己観察」を促す。「自己観察→自己記述」が言語により形式を与えられ、観察しやすい対象となったからである。自己記述はさらなる自己観察を促す。言語使用により私たちはより的確に自己を ―そして世界を― 記述しさらに的確に観察することができる。


■どんなことばを自分に贈るか

自己記述は自分に対する贈り物である。自己記述は自らを(取り敢えずとはいえ)規定する。自己記述とは自らの生に意味を与えることである。それだけに自己記述は重要である。単純で否定的なことばしか見い出せない者は、単純で否定的な人生を送ることとなる。そんな人は単純で否定的な人生を自らに対して贈っているのだろう。

もちろんすべては自らが見い出し自らに贈ることばによって決まるなどという暴論を述べているわけではない。ある種の物理的現象は、どう言葉を弄しても否定しがたい。だが、極端な例を出すなら、アウシュビッツという極限状況でさえ、人が自分自身にどういうことばを贈ることができたかで、人生がさまざまに変わっていったというのは、フランクルが証言する通りだ(わかりやすい本なら『それでも人生にイエスと言う』、有名な本なら『夜と霧』)。私たちは権力者やずる賢い者によるごまかしに悪用されないように気をつけながらも、自分が自分に対して贈ることばの重要性を認識すべきだろう。


■どんなことばを他者に贈るか

もちろんことばは他者にも贈る。佳きことばは、まさに他者への恵みである。どんなことばを他者に贈るかで私たちの人生は、世界は創られてゆく。

とはいえすべてのことばが贈り主の意図通りに受け入れられるわけではない。時に贈り主の込めた意味は理解されない。時に理解されても受け取りは拒まれる。だがそのことばは、発せられた形式を与えられた限りにおいての永続性を得る。その時に意図された理解や反応が得られずとも、どこか残像として贈り主にも宛先人にも残り、それらの人々の人生と世界の縁を紡ぐ。私たちの人生とは、いかにことばを贈り贈られたということなのかもしれない。もちろん人間は言語的な存在だけではないのだから、上に述べたように身体といった他の側面を考えなければならないのだけれど・・・


■言語教育の根幹

私たちは日頃、どんなことばを自分に、そして他者に贈っているのだろう。この言語使用こそは、人生を築く重要な基盤である。言語教育の根幹は、どのようなことばを自分と他者に贈るか、そして贈るためにどのようにしてことばを見い出すか、さらには見い出すためにどのようにして多くのことばに出会うかということにあるだろう。



■近藤真先生の実践

前置きが長くなりすぎた。私は近藤真先生の『中学生のことばの授業 詩を書く・詩を読む』の紹介をしたいのだった。私は以前、敬愛する友人に薦められて『コンピューター綴り方教室』を読んだ。滅法面白かったのでホームページに感想を書いた。短く粗雑な感想だったが、近藤先生はそれを覚えていてくださったのか、今回出版社を通じて私にこの『中学生のことばの授業 詩を書く・詩を読む』贈ってくださった。

すばらしいことばの贈り物だった。

何より著者の、そして引用される中学生のことばがすばらしい。高度に機能的な学術論文(あるいはそのできそこない)ばかり読んでいると、このようなことばが慈雨のように感じられる。誤解しないでほしい私は技術的な言語教育の推進において人後に落ちるつもりはない(少なくとも細々とだが「英語教師は理系に学ぼう」といった企画も続けている)。だが言語教育は、技術的言語の教育だけには終わらない。創造的言語 ―自らを創り出す言語― の教育は言語教育の欠くべからざる要素だ。いや基盤といってもいいだろう。創造的な言語使用こそが私たちの人生と世界を創り上げるのだから。

谷川俊太郎の詩を使っての主体性の発見は、生徒一人ひとりの「森」(=他人がみだりに踏み込んではならない禁忌の領域。あるいは他者にはわからない、もしかしたら自分自身すらわからない神秘の空間)への気づきにもつながる(50ページ)。七・五調の定型が「言葉に立ち止まる力」 ―「情報リテラシー」の一側面― を育む(86ページ)。連句が教室を、表面的でない深いコミュニケーションの場に変える(107ページ)。詩のことばが、自分の内面をひらき自分を語るための、つまりは自己表出のための「触媒」になる(218ページ)。俳句で、ことばを「理解」できないにせよ、それと「和解」することを教える(235ページ)。これらの実践のことばの力はそのまま生徒の生きる力につながっている。


英語教育は、特に最近は技術的言語の教育として捉えられている。私もそれに異論はない。言語はある意味徹底的に技術的に教えられるべきだろう。

だがそれが言語教育のすべてではない。言語教育の根底には創造的言語の教育がある。言語を見出し、言語を贈る力が言語使用の基盤である。

いかに言語を見出し、それを自分自身にそして他者に贈ることができるか ―この基盤が貧しかったり歪んでいたりするところに、技術的言語使用ばかりが向上したら、どこか恐ろしいところに私たちは導かれてしまうような気がする。


進学高で未来のエリートたる若者に技術的指導ばかりしている先生方、教育困難校で技術的言語教育のさまざまな意味での限界を感じている先生方、中堅校でどこにも焦点が絞られない授業で困っている先生方、ぜひこの本を読んでください。いやビジネス書ばかり読んで、文学を読むことを忘れてしまった大人の皆さま、ぜひ読んでください。

近藤先生、素晴らしいことばの贈り物をありがとうございます。



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