2010年9月13日月曜日

批判とは差異の消去でなく、差異の活用

大修館書店『英語教育増刊号』に書いた私の書評に対して、靜哲人先生がコメントを書いてくださいました

私としては、この靜先生のコメントが私の書評(増刊号に掲載)と共に読まれるならば、特に付け足して言うことはありません。

また私の書評はその対象である靜先生の『英語授業の心・技・体』と共に読まれることを意図して書かれたものだということはご理解ください。ですから私の増刊号書評を読んだ人はぜひ靜先生の『英語授業の心・技・体』を読んでください(逆に『英語授業の心・技・体』を既に読まれた方は機会があれば私の増刊号書評も読んでみてください)。

さらに靜先生はこの『英語授業の心・技・体』を、日本の学校英語教育がこのままであってはならないという強い思いから書かれたのだろうということも付け足しておきます。その企図に関しては私も意を同じくします。だからこそ私は今年の書評の冒頭にこの靜先生の本をもってきたわけです。私が増刊号書評の冒頭箇所に引用した靜先生の指摘を無視して、何が科学だ、哲学だ、改革だ・・・と私も思います。この指摘された事実を前に、いくら理屈を述べても仕方ないと思います。


ただ私は靜先生の書き方にちょっと気になるところがありましたので、その点を上記書評に書きました。既に多くの人に読まれているこの『英語授業の心・技・体』が誤読・誤解されることを恐れたからです。

影響力ある言説というのは、原典が意図していたことを超えて単純化されイデオロギー化されてしまうというのは世間でしばしば観察されることです。私は靜先生のこの本がそのように誤読され、単純な精神の持ち主の群れにまつり上げられることを怖れます(すみません、私は元来心配しすぎの悲観主義者なのでw)。

一方、靜先生もその私の書評が誤読・単純化されること(その結果、私の書評が靜先生の著作の全面否定として捉えられること)を怖れて上記ブログ記事を書いたのかとも私は思います。少なくとも私は、それぞれの表現やその解釈に関する細部を除けば、靜先生の元々の考えと私が考えていることには大きな違いはないと思います。ウェブ上の断片的な情報を元に、不毛な個人的な対立を煽るような方がもしいらっしゃるならば、そのような方には、ぜひウェブ上の文章だけでなく出版物(『英語授業の心・技・体』および『英語教育増刊号』)をお読みの上、ご自身でよく考え、英語教育実践の改善にお互い努めることができたら幸いに思います、と呼びかけます。


しかしながら私はこのブログ記事を書く事で、私が増刊号書評で提示した論点を消去するつもりはありません。すなわち靜先生の主張を誤解し単純化した発想(「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度」)が行き着くところを怖れます。私は「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度」と、私の考えの差異を強調したく思います(どうぞ増刊号を読んでください)。差異の提示と、それによる思考の複眼化が批判の目指すべきものかと思います。


話は大きくなりますが、しばしば「批判」という言葉は、相手との差異を消去し否定することを意味してしまっているように思えることがあります。

差異の消去・否定の典型例は、相手の主張および相手の人格の全面否定です。全面否定により、相手の主張が生み出した世界の異なる見方を消してしまおうとします。具体的なやり方でいいますと、片言隻句などを(次々に)取り上げ、それが完全に自分の思い通りの表現になっていないことなどを理由にして、相手を「誤っている」「信頼できない」など決めつけ、しまいには罵倒までし始めて相手の人格や存在すらも否定し消し去ろうとします。このように自らの世界観だけが正しく、自らの世界観を他人が共有しさえすれば世界は素晴らしい場所になる、そのためには異なるものはすべて否定・消去されるべきだ、とでも思っているような方の言動には私はどうも共感できません。


全面否定ほど露骨でない差異の消去法は、相手の言説と自分の言説は異なるものではないと、相手の言説がせっかく示した差異を強引に自分の言説の中に組み込んでしまうことです。自らの言説をわざと曖昧にして、世間受けするようにすることと言えるかもしれません。自らの言説を精緻化することを拒否することでもあります。シンポジウムなどで時々見られる方略です。

社交上、私たちはこの方略をしばしば採択しますが、信頼できる相手と冷静にゆっくりと話し合いができる場合はこの方略は取るべきではないでしょう。異説というのは自説を明確にしてくれるものです。異説があることにより自説がもたらすかもしれない単純な世界理解が防げます。

私たちが問題にする現象はしばしば複雑・複合的(complex)なものです。そのような現象について単純すぎる知性が「問題解決」を試みようとするとき、その単純な「問題解決」はしばしば害をもたらす、というのが私の基本的信念です(もちろん私たちが問題として取り上げる必要もない単純な事柄には単純な考えで対処するべきなのは言うまでもありません。私が言っているのは「物事はすべて複雑・複合的だ」という単純な一般化ではありません)。



批判という行為は、差異を際立たせ、世界の多元的な見方を促進すること、および多元的な見方のそれぞれがその見方を貫いてゆけばどのような結果にたどり着いてしまうのかを明確にすること(マックス・ウェーバー)かと思います。差異を否定・消去するのでなく、差異を肯定し、その差異を活かして、複合的な事象に柔軟に対応できる策を検討するのが批判行為が目指すことかと私は理解しています。

ですから私はこのブログ記事で、靜先生の言説が招きかねない誤解(「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度」)と私の考えの差異は否定しません。この差異が明確になることにより、日本の英語教育がより現実的になることを願っています。

この言明自身が単純すぎるものであるかもしれないことを私は怖れますが、私はある考え・人物・組織などを全面肯定しようとする衝動(そしてその反動で他を全面否定しようとする衝動)を怖れます。ですから私はウェブの可能性には期待をしつつも、衝動的なウェブ言動には警戒をしています。私自身しばしば過度な一般化で単純な知性の悪癖に陥りがちな人間ですから、衝動的なウェブ言動からはできるだけ距離を取りたいと思います。











Go to Questia Online Library

【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

0 件のコメント: