■「情報」とは、意味ある違い ―差異を生み出す差異
前の記事で「差異の活用」について書いたが、もちろん差異(違い)があれば何でもいいというわけではない。学生さんにある二つのテクストを比較させ違いを述べよと指示すると、時々おそらくは真っ先に目についたであろう表面的な違いを指摘する学生さんがいるが、もちろん違いが見つかれば何でもいいというものではない。私の指示の意図は、「意味ある違い」あるいは「重要な違い」を選択せよ、そしてその選択によりあなたの理解度を示せ、というものである。
「意味ある違い」、あるいは「重要な違い」というのは、ベイトソン流に言うなら「差異を生み出す差異」(a difference which makes a difference)であり、これが彼の「情報」(information)の定義である。「情報」とは、数ある差異の中でもその情報発信者が「意味ある」あるいは「重要」だとみなした差異である。
■情報発信者が企図せずして顕にしてしまうこと
だから情報発信により、実は私たちはその発信された情報を受け取るだけでなく、その情報発信者がどのような判断をしたのかということを知ることができる。つまり情報発信を観察することにより、観察者としての私たちは、その情報発信者について知ることができる。その情報発信者がどのような判断をするシステムなのかということを知ることができる。これは情報自体の文字通りの意味(literal meaning)の把握でもなく、その発信者が意図した意味(speaker meaning)の推定でもない。情報発信者に関するこの知見は、情報発信者を注意深く観察する者のみが得ることができる解釈であり、情報発信者が元々企図していたことではない(もちろん、「この情報を発信することで人々は自分のことをこのように判断するだろう」という周到な企図をもって情報発信する場合もあるが、それはここでは例外とする)。
■情報発信をする自己を観察するということ
と、情報発信者と観察者が別人であることを当然の前提のように書いてきたが、もちろん情報発信者と観察者が同一人物であることもありうる。情報発信をする自己を観察するわけである。
だがこの観察は、自らがある情報に気づくだけでは行うことが難しい。情報を私たちは日常的に見出している。だがその発見の多くは一過性のものであり、私たちはそれらに気づいても、すぐに他の作動を始める。「あっ」「へぇーっ」と思ったものも、多くは他の作動を始めた次の瞬間には忘れられる。このように次々に忘れ去られる情報を観察するのは難しい。情報に気づき、かつ他の作動に移行しながら、加えてその情報の気づきを観察するなどといったことを同時に行うことは、私たちの認知能力にとって負荷が多いからだ。
だが情報を発信するなら ―後に自己観察をする自分自身を含めた他人が観察しやすいように、自ら見出した情報を自らの頭の外に出すなら― その情報選択という判断を観察することが容易になる。頭の外に出す方法もっとも簡便な方法の一つは口頭でその選択した情報を述べることであろうが、もしその情報選択を何か永続性のある媒体(紙、コンピュータなど)に書き記すならば、書き記すという手間はかかるものの、観察はずっと容易になる。情報発見の後にゆっくりと観察できるからだ。多くの場合、情報発信を記述し残すことによって自己観察は、はじめて可能になる。情報発信が「私はこの情報を選択したのだ」だという自己記述でもあるとすれば、自己記述が自己観察を容易にすると表現できる。自己観察を反省と言い換えるなら、自己記述が反省を促すとも表現できる。
■書くことにより知る
私たちは刻々と情報を見出す。日常的に行為に埋没している私たちは、情報(差異を生み出す差異)と非情報(特段の差異を生み出すわけではない差異)を区別するのに忙しい。例えばGoogle Reader (RSSリーダー)で毎日500以上のブログ見出しを目にする私は視線を高速で移動させ、ちょっとでも面白い(「情報になる」)と思った見出しにはクリックをして星印をつける。そして次の瞬間には次の見出しを見ている。私は情報/非情報の区別あるいは判断を次々に行っているのだが、いちいちそれについて考えはしない。考えていたらとてもでないが多くの見出しを処理できない。
星印をつけ終わると、星印がついた見出しだけを画面に出す。そうして一日の適当な時間帯にそれらの記事を読み、面白かった情報はEvernoteにコピー保存しておく。さらにその記事の見出しとURLをTwitterに流す(これはクリック一つでできる簡単な作業だ)。
Google Readerの星印、Evernote、Twitterは私の情報発信である。前二者は自分自身だけのもの、後一者は他人に公開しているものという異なる種類の情報発信であるにせよ。情報発信は、その情報の提示だけでなく、情報発信者(つまり私)という区別や判断をするシステムについての情報を提示してしまうから、これらの情報発信の記録を注意深く観察する者は、私というシステムについての何らかの知識を得る。他人という観察者は私という人間の性質を知り、私自身という観察者も私という人間の性質を学ぶことができる。これも情報発信という自己記述のおかげである。
自己記述がなければ、私をよりよく理解するのは、私自身より他人の方かもしれない。実際のところ、日常生活にそのような例はありふれている。「知らぬは当人ばかりなり」で、ある人の癖は周りに熟知され嘲笑の対象とすらなっているのだが、当の本人はその癖に気がついていないということはしばしばあることだ。
自分という人間の理解において、他人に先を越されるというのはあまり気持ちいいものでもないだろう。それを防ぐ一つの方法は、自己観察をきちんと行うことだ。そのためには自己記述が有効である。日記というのは自分しか読まない読み物であるが、そのような読み物に自己記述を重ねることは自らをよりよく知ること、自分を周りから観察している他人よりもよりよく知ることのために有効な手段の一つなのかもしれない。日記のように非公開にするにせよ、このブログのように公開するにせよ、情報発信の記録は、情報発信者について知ることを促す。ただ情報に気づくだけで終わらせるのではなく、気づいた情報を発信し、さらには記録に残しておくことの意義の一つは、この洞察を得ることができることであろう。
■他人による観察の利点
それでは他人による観察に有利な点はないのだろうか。
通常、ある人に対して、他の人々がそれほど注意を払っていることはない。そうなると他人による稀な観察より徹底した自己観察の方が優れているということになるのかもしれない。
ましてや観察する他人の知的能力が、観察される人間の知的能力より低い場合、他人による観察は当人による自己観察に到底及ばない。観察されている人間の区別や判断を、知性において劣る観察者である他人は理解することもできないからである。観察されている人間(被観察者)が、なぜある事柄を情報とし、他のことを情報としなかったのかということが、観察者であるその他人には表面的には観察できても、原理的に理解できない。だから、根本のところで観察者はその被観察者についてわからない。被観察者について判断できない。そのように知的能力に劣る観察者は、権威ある第三者がその被観察者をどのように評価するかを待って、はじめてその被観察者がどんな人物であったかを(間接的に)知るだけである。
だが、観察する他人の方が自己観察する当人よりも知的能力において優れる場合、他人の観察の方が自己観察より的確であることは当然であろう。より知的に優れる他人は、当人が区別や判断できない領分や、大まかにしか区別や判断できない細部で、区別や判断を行い、その当人が成し得たはずの区別や判断まで理解できる。優れた人が、短い時間の観察だけで、ある人の性質をぴたりと言い当て、その当人やその当人の古くからの知り合いまで驚かせてしまうということも日常生活ではたまに起こることである(もちろん自らを優れていると信じて疑わない御仁が、短時間の観察だけである人に対して頓珍漢な断定をすることの方が、日常生活でははるかに多いのであるが)。
と、他人を知的能力に劣るか優れるかと単純に分けて考えたが、他人は当人より異なっているだけでその当人が気づかないことも理解するとも言えるだろう。他人が当人とは異なる判断システムをもち、異なった種類の区別をしているならば、その他人は、その当人が情報と認識したがその他人なら情報と認識しなかったであろうこと、およびその当人が情報とは認識しなかったがその他人なら情報と認識したであろうことを判別できる。つまり、別の視点から見ることにより、当初の視点では見ることができなかったことが見えてくるということである。他人は当人とは異なるシステムであるというだけで当人には見えないものを見ることができる(もちろん、異なるシステムをもつが故に当人には見えてもその他人には見えないものも存在するのだが)。
他人は知的に優れている場合だけでなく、観察される当人とは異なる区別や判断をする場合においても、その当人の観察において有利でありえる。
■コミュニケーションにより他人による観察を自らに反映させる
他人による観察は、自己観察では得られない利点をもつとするなら、その他人による観察を取り込むに限る。どうすれば取り込めるのか。しかし他人の意識(観察内容)をそっくりそのまま自分に取り込むことはできない。私たちが取り込む(あるいはルーマン的にもう少し慎重に言うなら、接する)ことができるのは、他人が外に現した言動だけである。他人の言動を自分のあり方に連動させ他人の影響をできるだけ活用する最良の方法の一つは、その他人とコミュニケーションすることである。他人と「共応」すること(=共に、しかしそれぞれのやり方で応じ合うこと)とも表現できるかもしれない(最近私は半ば意地になって、また半ば楽しみながらカタカナ語を漢字あるいは大和言葉にしようとしている。「共応」とは「コミュニケーション」の翻訳語として私なりに考えた(でっち上げた)造語である)。
私たちは、自分より優れた他人と共応することにより、自分というシステムに刺激を受ける。自分というシステムが開拓され精緻化される。さらに私たちは自分と異なる他人と共応することにより、自分というシステムが撹乱される。自分が思いもつかなかった区別について知ることができる。さらにここまで書くうちに考えついたのだが、私たちは自分より知的に劣った他人と共応することによっても学ぶことができるのだろう。自分が細分化してしまった区別を行わずに大きな区別しかしない知性と出会うことで、私たちは錆びついてしまった大局観を得られるのかもしれない。
いずれにせよ、コミュニケーションにより、つまりは他人と自分を連動させ、それぞれに相手に応じ合うことにより(=共応することにより)、私たちは自らの知性を発展させることができるのではないだろうか。より精緻な区別を、まったく異なる判断を、あるいは忘れかけていた大胆な区分を学べるのではないだろうか。
■コミュニケーションのための自己記述
他人とのコミュニケーションを開始するために行うべきは、自ら情報を見出そうとすることだ。漠然と日々を過ごすのではなく、意味ある違い(差異を生み出す差異)、つまりは情報を見出そうと意識する。情報を見出したらそれを書き出す。その自己記述で自己観察(反省)を行う一方、他人にもその情報を提供する。提供する情報に面白いものが多ければ、やがて見知らぬ他人も私たちの情報の判断基準に興味を抱くかもしれない。そういった他人はやがて私たちの情報発信に連動して言動を行うようになるかもしれない。コミュニケーション(共応)の始まりである。
あるいは自ら情報を発信せずとも、他人が発信した情報に反応してもよいのかもしれない。もちろん、その反応があまりに愚かだったり見当はずれだったら無視されたり嫌われたりするだけだろう。また、反応が面白くても情報発信者が忙しいあるいは他の様々な理由で私たちの反応に連動しないかもしれない(さらには、しつこくとにかく反応してもらうことだけを求める者を人は好まないことも付け加えておくべきだろう)。だが、もし幸運に恵まれるならばその情報発信者は私たちと連動し始めるかもしれない。その連動はたいていの場合において私たちの望んでいた形の反応とは異なるだろうが、それは一種の共応である。
私たちはその共応を契機に私たちの知性を発展させることができるかもしれない。もっとも共応(コミュニケーション)とは、他者の知性がそのまま自分の中に移送あるいはコピーされることではなく、互いが相手を刺激・撹乱要因としてそれを契機にそれぞれに自分で自分を作り変えるという自己創出(オートポイエーシス)なのだから、共応(コミュニケーション)が自動的に私たちを改善するということはない。要は私たち次第であり、私たちがあまりに愚かなら私たちはコミュニケーションを通じてどんどん愚かになるだけだろう(そうして愚かになればなるほど他人からの働きかけは減ってくるだろう)。
しかし仮に誰も私たちと共応しかなったとしても私たちは自己記述をするべきだろう(それが日記というものだ)。自己記述が促進する自己観察(反省)は、自らを再構築する機縁となる(もちろん自らの正しさを信じて疑わない人にとってはそうではないが)。自己記述は、時間をおいて読みなおした場合、ほとんど他人からのメッセージのように読める場合もある。自己記述により、私たちは自らと共応(コミュニケーション)を行うことができる。その共応により私たちは自らを作り変える可能性を高めることができる。もちろん、その自己創出がどのように展開するかというのは、究極のところにおいてその人次第であるということは先程から繰り返している通りである。だが一般論としては次のように言えるだろう。書くことは人の知性を発展させる。
■自分が自分を創出するということ
この駄文の元々の考えは歩きながら思いついたものであり、パソコンに向かえば30分以内にまとめられるものだろうと思っていた。だがその自己観察(情報発見)を自己記述に変えて文章にしてみると、存外に考えが自己展開した。当初書くつもりもなかったことも書くはめになった。書くというのは、閃きの一瞬と異なり、時間のかかることである。その時間の中で、私は何度も何度も自己記述を(つまりは自分の書いた文章)を観察した。数分前の自己記述が現在の自己への刺激・撹乱要因となり、自分が(小さな規模とはいえ)再構成されていった。
そうして創出された自己は自己記述を開始する前の自分が予測していた自己とは異なるものだが、この自己は私自身が創りだしたものであることは間違いない。自己創出(オートポイエーシス)は作動において自己内に閉じられたものであるが、その作動的閉鎖性は自己創出が計画通りとか予測通りに進むことを意味しない。たいていの場合、私たちの中には私たちで列挙・枚挙できないぐらいの多くの要素が存在し、それらの中から「情報」を発見して、その情報を組み合わせてゆくうちに、その組み合わせが新たな可能性を呼び起こしたりして、私たちは自らが予想しなかったことを書き出すことになる。この自己発見的な書き方はビジネス定型文書の書き方とはまったく異なる書き方であるが、書くという文化の重要な側面であろう。
以上書いた駄文をさらに丁寧に観察し、推敲・再構成すればすこしはまともな文章になるのかもしれないが、それは未来の自分(あるいは読者であるあなた)に任せることとして、本日はこれで文章を終える。私としては、今回のこの自己観察と自己記述が、私という人間を少しはまともなものにしたことを、あるいはせめてより劣悪なものにしなかったことを祈るばかりである。
Tweet
Go to Questia Online Library
【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿