2010年9月1日水曜日

橋本治(2010)『言文一致体の誕生』朝日新聞出版



私は橋本治の熱心な読者ではないのですが、彼は私のような人間にとって厄介な書き手です。西洋近代の論説文を規範とする言語教育を推進している大学人としては、橋本氏の文章は時として添削したくなるぐらいにイライラするものです。しかしその短慮をしばし抑えておくと、和文的な流れで、うねうね、ゆらゆらと文章を紡いでいく氏の文体からなんとなく理解がじわじわと進んでいくような気になってきます。これはこれで一つの文化だと思わざるを得ません。

このような文体による文章は西洋近代的論説文に翻訳できるのか、翻訳してしまったら元々の文章がもっていた読者への働きかけは保たれるのかというのは興味深い問いですが、それはさておき、ここではこの本から私が学んだポイントをいくつか極めて即物的に下にまとめておきます。

ご興味が生じた方はぜひご自身でこの本を読んでください。




■古事記

『古事記』が成立した8世紀の初めに「漢字を使ったメモ程度の文章」はあっても、「漢字を使った日本語の文章」はまだ確立していなかった(和歌や歌謡は「日本人が口にしていた言葉」を定型化した表現にすぎない)。だからこそ太安万侶は『古事記』の序文で「漢字だけで日本語の文章を書く苦労」を述べている。太安万侶の苦労は明治の言文一致体を創り上げようとする二葉亭四迷と同じようなものであると考えることができる。『日本書紀』は漢文体で書かれたので中国語を踏襲すればよく、そのような苦労はなかった。(18-19ページ)



■和漢混淆文の完成

日本には、日本語系の和文脈と中国語系の漢文脈の二つの文学史が併行していたといえる。和漢混淆文の完成は、例えば南北朝時代(14世紀)の『徒然草』に見られるが、このような作品の成立により近代以前の日本語が統一されたわけではない。(22ページ)

和漢混淆文が完成して行く時代とは、難解な漢文脈の文章が平易化するのと同時に、俗の和文脈が漢語を取り込んで高度化してゆく時代と捉えることができる。13世紀の『平家物語』冒頭部分がいい例である。(25ページ)

同じく13世紀の『愚管抄』では、著者の慈円(比叡山延暦寺天台座主)は(外国語である)漢文の読み書きができ、かつ(和文脈の)歌人でもある人間として、「明確に論旨を通すための日本語」として和漢混淆文で書くことを試みた。しかしそれは「普段に流通するような日本語で面倒臭い話をする」という前衛的な試みであり、「和漢混淆文だから分かりやすい」などといういものではない(49ページ)。これは、英文解釈の授業で外国語である英語を日本語で理解しようとして、モゴモゴと文節レベルでなんとか日本語にしながらも文全体ではまともな表現になっていないかもしれない日本語を生み出していたことにたとえられる(44ページ)



■二葉亭四迷の忍耐

ロシア語からの翻訳もやっていた二葉亭四迷は、自らの母語でもある「東京弁」による三遊亭円朝の落語(55ページ)に代表されるような俗語表現に、「欧文と漢文由来の漢語造語」を混入させようとしていたが、同時にいくら新しい訳語を創ってもそれが日本語に馴染まなかったらどうにもならないということを知っていた。(168ページ)

逆に言うなら近代的な言文一致体が成立したというのは、そこまでに日本語話者の「自在にして柔軟な思考の変化」を含んだ成熟があったということである。(169ページ)




ここから私の蛇足ですし、実際の証拠と付きあわせて考えていない(私の悪い癖である)憶測にすぎませんが、明治以降の外国語(英語)教育と日本語の関係も


(1)翻案的な大胆な書き換えによる翻訳作品で兎にも角にも西洋的思想を理解(目標言語重視翻訳)

(2)理解した西洋的思想をまがりなりにも基盤としつつ、直訳的な翻訳で、西洋的思想のより精確な理解と前衛的な日本語表現の創造という実験的試行錯誤を行う(起点言語重視翻訳)

(3)西洋的思想の理解と日本語表現の実験的試行錯誤をもとに、これまでにはない思想の振幅をもった新しい日本語文体を創り出す(目標言語重視翻訳と起点言語重視翻訳の対立からの新たな日本語創造としての翻訳)



とまとめられるかもしれません。

近年は哲学の翻訳書でも、意味不明の直訳日本語でなく、一読してわかる日本語での翻訳作品が増えてきました。さらに言うなら、最近の哲学書は、昔の哲学書とくらべてずいぶんこなれた日本語で書かれていますが、このように現代日本人が「平明な」日本語で西洋哲学を語り・書くことができるのも、先行世代の前衛的日本語実験があり、それによって私たちも数多くの「前衛的日本語」を取捨選択し、多くの表現が「平明」と思われるようになったからといえるのかもしれません(ハイ、憶測です)。


さらに妄想するなら(笑)、ブログといったこのような新媒体での表現も新たな試行錯誤であり、こういった試行錯誤により、日本語も新たな変化を遂げているのかもしれません。


脱線が過ぎました。どうぞ本書をお読みください。


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