典型的な応答をいくつか書いておきますと、
・書くということは、自分と向き合うこと。最初の内はリフレクションを書けないのは、時間がないからだと思っていたが、実は自分を見つめて、ありのままの自分を認めようとすることが怖かったから。
・「自分はできない」で逃げてごまかしていた。
・理論が助けてくれると思い、大学院に行ったが、自分が気づかないと自らの実践は変わらないことがわかった。
・実際に書いてみたら、驚くほどに書けなかった。授業中に様々なことが起こっているはずなのに具体的なことが書けない。生徒を見ている「つもり」だったことに気づいた。
・気づくということは生徒が見えるようになるということ。
・ジャーナルを英語で書く事で二重の意味で対象化ができる。つまり実践を振り返って日本語で表現することで、自らの実践を言語の形で対象化(第一次対象化)ができるが、日本語で書くとついつい感情的な表現(例「がっかりした」)などに引きずられてしまう。その点、英語で書くと、まずは頭の中で日本語を浮かべたとしてもそれを英語にしようとする時、その日本語表現で自分は何を感じているのか・何を言いたいのかを再検討しさらに自分の実践を対象化できる(第二次対象化)。こうすることで「生の自分」とうまく距離を取り、より十分に自分を観察できるように思う。また英語でジャーナルを書き続けることで、英語教師としての自覚と自信にもつながるように思う。
自分の研究の一つのアプローチとして、実践者の話を丁寧に聞くということを充実させてゆきたいと思います。
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