2010年8月15日日曜日

イ・ヨンスク(1996)『「国語」という思想』岩波書店

十年以上ぶりにに読んだら、はたせるかな面白かったです。やはりこの本は、言語教育関係者必読の名著といえましょう。

以下、私の印象に残った点を私なりにまとめます。恣意的な選択ですし、私の書き換えも多く入っていますので、ご興味の方は必ずご自身でこの本を読んでください。


■近代国民国家的な「国語」の誕生
フランス革命の際のフランス語は「国語」(langue nationale)として「国民」(nation)の精神的統合の象徴となった。(iiiページ)

■「国語」から「日本語」へ
近代日本において「日本語」という地盤は確立しておらず、むしろ「国語」という理念が先行し、それによって「日本語」が徐々に確立していったといえる。(iiiページ)

■森有礼に関する通説
例えば時枝誠記は森有礼について「明治の初年に、森有礼が、日本語廃止、英語採用論を唱へ、アメリカの言語学者ホイットニーにたしなめられたことは、有名な話である」と述べているが、こういった見解が森に関する通説となった。(6ページ)

■森有礼の実際の主張
しかし森がホイットニーに対して実際に提言したのは、日本が「通商語」として英語を採用することが不可欠であるということであり、日本語の使用をやめるべきだとは一言も述べていない。(7ページ)

■森有礼の簡易英語論
森は実利主義に徹しており、彼は英語の綴りや動詞活用などの不規則性を正す簡易英語(simplified English)を提案した。(8ページ)

■ホイットニーの反論
森に対するホイットニーの反論は主にこの簡易英語論に対するものであった。(9ページ)

■日本の言語状況に対するホイットニーの意見
ホイットニーは、「土着の言語」である日本語による教育こそが日本の社会的文化的発展にとって必須と述べているが、そのためには日本語をローマ字化し、さらには「日本で中国語のしめていた地位を英語にゆずり、英語を学問語、古典語(the learned tongue, the classical language)にする」よう提案している。つまり中世におけるラテン語やイギリスの植民地における英語の地位を日本においても英語にもたせるべきだとホイットニーは主張した。(9ページ)

■森有礼の日本語廃止論
森が日本語の廃止について述べたのは『日本の教育』の序言であり、そこで彼は、西洋の学問、芸術、宗教から学び、日本の国家の法律を保持するためには「日本の言語」(the language of Japan)では不十分だと述べている。(10ページ)[ちなみに森はこれらの文章を国外で英語で書いている]

■森有礼にとっての「日本の言語」
森が「日本の言語」として捉えたのは、日本語と中国語の無秩序な混合状態であり、また話しことばと書きことばの間に絶望的な隔たりがある状況であった。(11ページ)森の時代の「日本の言語」はまだ近代的に成熟していなかった。

■馬場辰猪の森批判
『日本語文典』とも通称される、おそらく日本最初の記述的体系性をもった日本語の文法書An Elementary Grammar of the Japanese Languageを書いた馬場辰猪は、森を批判し、英語の強圧的な導入は言語の壁により国内に社会階級の分裂をもたらすだろうと説いた。(14-17ページ)

■近代的書きことばを持たなかった明治初期の日本
しかしその馬場でさえ、日本語は話したが、書くのは英語だった(21ページ)という事実が端的に示すように、その頃の日本には近代文明を表現できる書き言葉が育っていなかった。(22ページ)

■言文一致の必要性
漢文訓読体から脱却し、近代的な書きことばを創り上げるには、聞いても読んでも誰でも同じように理解できるという「言文一致」の理念と、その理念に基づいて実際に言文一致の言語を創り出すための冒険が必要だった。二葉亭四迷は、思うように文章が書けないとまずロシア語で書いてからそれを口語日本語へと逆翻訳したというが、これもそういった言文一致の日本語を創り出すための試行だったのかもしれない。(22ページ)

■「国語」の二つの課題
やがて日本語は「国語」として結実し始めるが、その「国語」とは、言文一致をはたし、かつ「国体」イデオロギーにつながる国家的意識を確立するという二つの課題を担うこととなった。(23ページ)

■言文一致と社会変動
話しことばと書きことばの不一致が急に問題になったのは、一つにはそれまでの社会秩序が崩壊したからともいえる。武士階級と知識人の文化語であり行政語であった漢文あるいは漢文訓読文が、民衆のうえにふりかかったきたからである。(47ページ)

■福沢諭吉の文体
福沢諭吉が著作で用いた「世俗通用の俗文」は国民的コミュニケーションのための画期的な発明であったともいえる。(48-49ページ)

■国策としての言文一致
1900年(明治33年)に帝国教育会は、「言文一致会」を発足させ、言文一致を国家の言語政策のなかにとりこんだ。(66ページ)後には、言文一致が国家・国運・国勢を左右する国家事業としてとらえられた。(70ページ)

■「国語」の理念は明治20年代を土壌としている
明治10年代が自由民権運動と欧化主義の時代とすれば、明治20年代は日清戦争(1894-95年/明治27-28年)を頂点とする官民一体による統一的「国民」の創出と「国家」意識高揚の時代であったといえる。国語の理念はそういった背景に育まれた。(86
ページ)

■「国語科」の設立は明治20年前後
中学校においてそれまでの「和漢文科」が「国語及漢文科」になり、師範学校で「国語科」が設立されたのは1986年(明治19年)の学校令による(文部大臣は森有礼)。帝国大学において「和文学科」が「国文学科」に改称されたのは1889年(明治22年)。(87ページ)

■上田万年とドイツ留学
上田万年は国語改革に大きな影響を及ぼしたが、それには彼のドイツ留学(1890年明治23年から)が大きな影響を与えている。
19世紀前半のドイツではフンボルトの創設したベルリン大学に象徴されるように、古典主義と人文主義が教育の指導理念とされていた(111ページ)、上田が留学した頃はちょうど青年文法派が進出し、科学的言語学によって古典語以外の言語にも古典語と同等の研究対象としての価値が認知されはじめていた頃だった。(110ページ)。1890年に国王ヴィルヘルム2世は「ドイツ語をギムナジウムの教育の基礎としなければならない。われわれは若いドイツ国民を教育すべきであって、若いギリシャ人やローマ人を教育すべきではない」と述べた。(112ページ)。

■上田万年の言語観
上田は帰国後、明らかな国家的意識をもって言語を捉える。彼の次の発言などは近代日本の<国語>イデオロギーの特徴をよく表している。
言語はこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとえていえば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最もつよき最も永く保存せらるべき鎖のために散乱せざるなり。(122-123ページ)

しかしその当時まだ「言文一途[ママ]の精神を維持し居る国語」は確立していなかった。(141ページ)

■規範としての学問
上田にとって客観的現実の分析は手段に過ぎず、国語はなによりも規範設定を目的とする学問であった。(148ページ)上田(および彼の後継者の保科)の特徴は、客観的立場からの言語の記述と説明が、いつのまにか規範設定の論理になっていくことであった(224ページ)

■保科孝一
上田万年の門下からは、新村出、小倉進平、金田一京助、橋本進吉、藤岡勝二、岡倉由三郎などが出たが、言語政策と言語教育で上田の仕事を引き継いだといえるのは保科孝一である。(162ページ)

■保科の留学
保科は1911(明治44)年-1913(大正2)年にヨーロッパに留学するが、そこでボーゼン州におけるポーランド人の「ゲルマン化政策」(同化政策)を学ぶ。このドイツ社会とポーランド人の関係は、後日、日本と挑戦の関係と二重写しになる。(230ページ)

■ゲルマン化政策での言語政策
ゲルマン化政策においては、公用語、裁判語、軍隊語、教育語としてポーランド人にドイツ語を使わせた。中でも教育語としてのドイツ語採択が最重要視された。(238ページ)

■皇民化政策での言語政策
1937(昭和12)年には日本の植民地支配のクライマックスとして皇民化政策が実施され、すべての植民地異民族を「皇国臣民」へとつくりかえることが至上命令とされた。(245ページ)

■「朝鮮語及漢文」
1911年(明治44)年の朝鮮教育令にはたしかに「朝鮮語及漢文」という科目があったが、実際には漢文のみが、あるいは漢文解釈のたんなる補助手段としての朝鮮語が教えられたにすぎなかった。この科目は「国語」教育のための補助手段であった。(252ページ)

■「教化意見書」
1910年(明治43)年に作成された内部資料の「教化意見書」は、大日本帝国が世界の国々は類例のない「無比ナル国体」にもとづいているという前提から始まり、その「国体」は「万世一系ノ天皇ヲ戴ケル日本帝国民ノ忠義心」により支えられているとしている。(256ページ)

■植民地支配における「国語」
日本が自然主義的「国体」概念に固執すればするほど、異民族の「同化」はそもそも不可能に思えてくる。(260ページ)しかし、<内面>と<外面>、さらに<自然>と<人為>を媒介する言語(国語)を学ぶことによって同化は可能とされた。(261-262ページ)

■満州国での言語政策
だが実際の言語政策は具体的とはいえず、多民族国家である満州国でも公用語は何語かが法的に定められることはなかった。(265ページ)1939(昭和14)年の国語対策協議会では、植民地からの国語教育担当者から、アクセント、発音、語法、語彙などすべての面で「標準語」が定まっていないことに不満が集まった。(293ページ)

■結び
近代日本の「国語」は脆弱であり、植民地どころか国内でさえ、一貫した言語政策を打ち立てることはできなかったといえる。(311ページ)




私の勝手なまとめは以上です。以下は蛇足で、私見を述べます。


○私たちが現在「日本語」と信じて疑わない、書きことばに基づきながらも話しことばとしても通用する言語を創りあげた明治の先達はやはりすごかった。

○「日本語」を創り上げる際に、それまでの漢文調の言語教養と江戸の話し言葉、加えて、新たな外国語からの翻訳活動が大きく関与したことは、漱石の文体を見ても明らかだろう(参考『漱石の漢詩を読む』)。日本語は、伝統に基づきながら、新しいものを取り込むことによって創造された。

○この「日本語」の創成という観点から明治の文章を通時的・体系的に読んでみたら面白いだろう。(老後の楽しみね。笑)

○しかしその「日本語」が、民衆自身が生み出す書きことばや話しことばにまでなったかというのは別問題であり、これは現在にいたるまで学校教育の大きな課題となっている。「きちんとした日本語」が書け、話せるようになることは学校教育の一つの大切な目標である。

○だが現在の学校教育に対して悲観論を述べれば、学校教育関係者の言語的自覚が足りず、日本語が新たな概念(自然科学・社会科学・人文学)を表現できる力を開拓しているかどうかが疑わしくも思えてくる。私が言いたいのは「知識人層」の安易なカタカナ語使用である。

○個人的には、(名指しをして悪いが)日本語教育関係者が平気で「シンタックス」「アスペクト」「プロフィシェンシー」などのカタカナ語を使うことに怒りさえ感じている。日本語教育関係者は日本語の将来に対してどのような考えをもっているのだろう。(この話は長くなりそうなので、ここでやめる)。

○植民地政策においての言語政策は「日本語は日本人の精神的血液なり」などという感情的な理念ばかりは立派だったが、その理念が何に帰結するのかという概念的分析が欠けていた。おそらくはその結果として、言語政策はおよそ具体的でなかった。この感情的訴え・概念的分析の貧困・具体性の欠如は、先の大戦においてのみならず、現代の政策にも見られる日本の特徴の一つである。

○これから日本国が、日本語をどう創造(自己再生産)してゆくのかというのは、日本の言語教育の根本的問題の一つであろう。

○明治以降から近年までの「英語」は日本語の創造に関与していた。「英語」は単なる"English"ではなく、日本の教育制度の中の一教科であった。昨今は言語教育関係者に米英で教育を受けた者がますます多くなっているせいか、「英語」を単に"English"の普及としか考えないように見受けられる場合もあるように思う。これでよいのか。反動的な国粋主義に陥ることなく、ポスト近代の言語教育を総合的に考える必要があるのではないのか。


愚見はとりあえず以上です。


ともあれ歴史的な事実を知り、そこから考えるためにはとてもいい本です。ぜひお読みください。


⇒アマゾンへ







Go to Questia Online Library

0 件のコメント: