2010年8月3日火曜日

「自由意志」―神経科学・村上春樹・仏教― やれやれ

神経科学が発展するにつれ、「自由意志」(free will)の問題は社会全体を巻き込もうとすらしている。

Libetの発見は、私たちが自らの「意志」を意識する約0.5秒前にはその意志が企図する行動が脳内ですでに起動しているということだった。私たちの「意志」とは、実はそれ自身によって行動を起動するものでなく、既に起動された行動に気づくだけのことであり、私たちの「意識」とはその起動された行動にせいぜいストップをかける(veto)あるいは修正するぐらいのことである --この意味でやはりKrashenは正しかったのだ。

参考:
ベンジャミン/リベット著、下條信輔訳(2005)『マインド・タイム 脳と意識の時間』岩波書店
Benjamin Libet (2005) Mind Time Harvard University Press
"MIND TIME" by Benjamin Libet (and some thoughts of mine


ここでさらにやっかいな問題が生じる。私たちの意図・行動も実は、約0.5秒前に無意識に脳で起動されていたものだとしたら、その意図・行動を停止させようとする拒否(veto)すらも実は無意識のうちに脳で起動されていたのものではないか? つまり私たちは状況に埋め込まれた身体(embedded body)、身体に直結した脳(embodied brain)により動かされているだけの存在ではないのか? 私たちが意識とか自由意志とか呼んでいるものは、実は私たちの行動をほとんどコントロールできないもの、せいぜい単なるモニターなのではないか?

Libetは起動された行動の意識による拒否(veto)は、それ以前の無意識的起動を必要としないものだと論じている。だが、私は正直、その議論が妥当なものなのか判断できない。だから私たちは意識による行動のコントロールや自由意志といった概念を深刻に問い直さなければならないということに同意せざるを得ない。

私も先程知ったばかりなので、まだ全文を読んでいないが、The Law and Neuroscience Projectは A Judge's Guide to Neuroscience: A Concise Introduction. という小冊子を刊行した。法曹界は神経科学を学ばなければ、これからきちんとした法的判断ができなくなると考えているのだろう。


近代的考えにとって最も恐ろしい見解の一つは、自由意志の否定だろう。つまり私たちの行動は予めすべて決定されているという考えだ。しかし私たちはその可能性に対してさえも、近代的考えを擁護する見解を既に有している。それはThe New York TimesおよびWiredに引用された小説家Ian McEwanの見解だ。


[拙訳・意訳] 私たちは自由意志をもっていないという科学的立論には反駁のしようがないように思える。しかし、だからといって、私は私自身に対して道徳的責任をもたなくてよいということにはならないのではないか。私が言いたいのは、私は私自身の所有者であるということだ。私は私の過去、私の始まり、私の感じ方を所有している。例えば、もし私の犬や子どもが他人に噛み付いたり、私の車が坂を下りはじめ何かを損傷したら、私は私自身の責任を認めるだろう。だから同じように、私は私自身という小さな船の動きを制御できないにせよ、私は私自身の行動にすべての説明責任を負うべきだと考える。私は私自身の所有者であり、そのことによって私は私自身に対して責任を有すると感じざるを得ないのだ。
“I see no necessary disjunction between having no free will (those arguments seem watertight) and assuming moral responsibility for myself. The point is ownership. I own my past, my beginnings, my perceptions. And just as I will make myself responsible if my dog or child bites someone, or my car rolls backwards down a hill and causes damage, so I take on full accountability for the little ship of my being, even if I do not have control of its course. It is this sense of being the possessor of a consciousness that makes us feel responsible for it.”

この見解によって、たとえ神経科学が人間には自由意志はないと主張しても、私たちの近代社会の枠組み・規範・倫理・法体系などは保たれるといえるのかもしれない。一安心というべきだろうか。


だが私は、自由意志の擁護は可能だと考える。長期的な意味での自由意志である。短期的には確かに「自由意志」とは、Libetが言うように無意識が起動した行動の拒否に留まるのかもしれない(そしてその拒否すら無意識が起動したのかもしれない)。だが、私たちは、私たちが一時的にせよ意識したことを、私たち自身というシステム(オートポイエーシス・システム)の外に出して、私たちの環境 ―私たち自身というシステムの状態とは独立して存在する外部:ルーマンの用語― にすることによって、私たち自身を長期的に導くことができると考える。


私は毎日走ると決めたとしよう。しかし、しばらくすれば私は(無意識の起動により)走りたくなくなるかもしれない。かくして私は走らなくなる。だが、私が「毎朝必ず走ってから出勤すること」と玄関先に張り紙をしたらどうだろう。もちろん一枚の張り紙だけで私が変るとは言わない。しかし張り紙は私の無意識の状態とはまったく無関係に玄関先に存在する。その存在によって私というシステムに視覚的に刺激を与え続ける。私は私の意識(「毎日走る自分になりたい」)を外在化することにより、私の無意識とは独立に外部から(環境から)私に刺激を与え続ける別個のシステムを創りあげたのである。その別個のシステムに制御されることで、私は私が望んだ自分になる可能性を高めることができる。

さらに、私は「毎日走る」と友人に宣言したとしよう。友人という私とは別個のシステム(私にとっての環境)は、時に私に「走ってる?」と尋ねる。私が今朝は走らなかったというと私を嘲弄し、私が翌朝は走ることを促す。私というシステムの状態とは独立に、私が望んでいた状態に私がなることを私に促す。

もう少し高尚な話題にするなら、私は私の理想(自由意志)に近い本を見つけるとしよう。私はその本を定期的に読む(あるいはいやでも目に付くようなところにその本を置いておく)。さらに私は日記を書く。私の意識を外在化し、日記帳の上に対象化し、いつでも見れるようにする。そういった環境を作り上げることにより、私の理想を記した本と私の現実を書いた日記 ―両者とも元々は私の意識に存在したものである― を見比べることが私にとって可能にそして容易になる。

私は見比べる。外在化され、私自身というシステムの外部の環境となった本と日記は、私の意識を刺激する。その刺激された意識により、私の無意識も多少なりの影響を受けるだろう。大切なのは、ここでの刺激は自己刺激ではないことである。自己の外部(環境)からきた刺激であり、その意味で私の内部状態とは独立した力をもつ刺激である。この外部的刺激が、私自身の内部状態がどうであろうと、私を変える可能性を高める。

このような議論を英語ブログでもしたのだが、うまく説明できたか自信がない。だから他人の言葉を借りることにする。


まずは先程たまたま読んだ村上春樹の言葉。

村上春樹はフルマラソンを走るが、フルマラソンは慣れた者にとっても過酷なものである。途中で歩き出したくなるという誘惑(無意識の起動)は強い。しかし本番でそのように棄権をしなくても済むように、村上春樹は長期的に準備する。


これまでの三ヶ月は「とにかく距離を積み上げていこう」ということで、むずかしいことは考えず、徐々にペースを上げながら日々ひたすらに走ってきた。総合的な体力の土台作りをしてきたわけだ。スタミナをつけ、各部の筋力をアップし、肉体的にも心理的にもはずみをつけ、志気を高めていく。そこでの重要なタスクは、「これくらい走るのが当たり前のことなんだよ」と身体に申し渡すことだ。「申し渡す」というのはもちろん比喩的表現であって、いくら言葉で言いつけたところで、身体は簡単に言うことを聞いてくれない。身体というのはきわめて実務的なシステムなのだ。時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する。その結果、与えられた運動量を進んで(とは言えないかもしれないが)受容するようになる。


フルマラソンを完遂するという決意の固い村上春樹にとってすら、マラソン本番での肉体の疲労は抗しがたい。ついつい立ち止まってしまうことすらあるかもしれない。そういった無意識の起動に負けない「自由意志」を持つために彼が選んだ方略は、マラソン当日になんとか意志を奮い立たせるとかいうのではなく、長期的に自分というシステムを少しずつ改変していくというものであった。

そのように長期的に「自由意志」を実現させようとする村上春樹でさえ、35キロを過ぎた時点での不全感などは克服しがたいものである。彼はこう言う。

そう、ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。
やれやれ。


そう、私たちの「自由意志」とは「やれやれ」と言うに過ぎないものかもしれない。私たちの「自由意志」には明らかな限界がある。私たちの「自由意志」ができることは、長期間におよぶ執拗な反復によって何とか自分を自分が望むように変えようとすること、そしてその変えようとするプロセスを願わくば自分のシステムの一部にしてしまおうとすることだ。


やれやれ。


やれやれ、となったところで仏教の言葉を借りよう。(私はなぜか今晩眠れず、本を次々に読んだり、このようにブログを書いたりしている。私の自由意志は自ら眠ることすら実現できない)。


手元の概説書は「アーラヤ識」について次のように述べる。


身体や言語に現れる善悪の言動と、意(こころ)に起こる善悪の考えは、必ずその印象の勢力(習気)を維持しつづける。これがアーラヤ識(潜在的こころ)に残留する。ところがそのアーラヤ識が蓄えた印象は、次に外界から入ってくる刺激に対して反応を示し、はたらきを起こす。記憶(印象)が呼び覚まされるのである。 ・・・ 迷いの根源はアーラヤ識にあり、そのはたらきは植物の種子に似て、これが次の行為に影響を与えると唯識学派は考えた。そして彼らは、アーラヤ識を迷いを生み出す種子を収める蔵と見たのである。
整理してみよう。アーラヤ識は外界を認識し、同時に内面から我が身を見ながら、感覚器官からくる情報を印象として残す。その印象を外界の刺激に応じて反応させ、記憶されたものを与える。この記憶を生ずるもの(種子)から、身体の次の行為が生まれる。その行為の印象がまたアーラヤ識に蓄えられ、さらにアーラヤ識からそれらの印象が生起する。これが繰り返し行われているところが身体である。身体の諸行為は、このアーラヤ識から発生するはたらきにほかならない。



仏教のすごいところは、その見解が現代のシステム理論や神経科学と一致しているように思えるところだけれど、それはさておき、私たちは「アーラヤ識」 ―無意識と言い切っていいのだろうか― に拘束されてしまっている。出口はないのだろうか。「解脱」は不可能なのだろうか。

世間を正しく見て解脱を得る心とはどんな種子から生まれるのだろうか。それは、教えを絶えず聞き(薫習)、その聞くことが習性となり、種子として形成されることで、最後には解脱を得るに至ると考えられた。その種子を保存、蓄積するのがアーラヤ識である。
教えを絶えず聞くはたらき(薫習)は、アーラヤ識の中に共存し、寄生して和合するという。それを有名な「乳と水」の喩えで『摂大乗論』は説明する。
つまり水に混在した乳のように、アーラヤ識のはたらきのなかに、聞くという習性がある。乳は水そのものではないが、水と共存し、混在し和合している。ところが乳はけっして水にはならない。乳が絶えず水のなかに注ぎ込まれると、乳の量が増え続け、ついには水はなくなり、乳だけになってしまう。聞く習性もそのように種子となるのである。


私たちが無意識の拘束から少しでも離脱することができるとしたら、無意識の外部にある「教え」(知恵)を絶えず自らに示すことによってである。その外部からの刺激の影響をできるだけ私たち自身に与えることにより、私たちは私たちが望んだ自分を創り出すことができる。たとえそれが「やれやれ」というぐらいのまどろこしいものにせよ。



Libetの神経科学的知見から、村上春樹ひいては仏教まで来てしまった。常識ある人は眉をひそめるかもしれない。しかし私は結構当たり前のことを述べていると思っている。

自分を作り替えたいなら ―自分の「自由意志」を発揮したいなら―、短期間でなく長期間にわたって自分を作り変えよ。自分を作り変えるといっても、直接的でなく、間接的に、自分自身というより自分の環境を整備することによって自分を作り変えよ。環境をして自らに自らが望んでいた刺激を与えつづけしめよ。環境というのは明らかな外部かもしれないし、自分の身体かもしれない。いずれにせよ、まずは環境に働きかけ、環境整備に責任を持て。環境整備こそが私たちの責任であり自由意志なのかもしれない。

言い換えるなら、自分の意識に少しでも「自由意志」なるものが浮かんだら、それを外在化・環境化せよ。内なる意識は言語化せよ。言語は物語にして他人と共有せよ。可能ならば物語を書き取り、さらに対象化せよ。対象化した物語を流通させ、よりよき物語を公共的に共有せよ。そしてそのように公共的に認められ共有された物語をして自らの指導原理とせよ。公共的な指導原理を ―万人に受け入れられるカント的な原理を― 常に自らへの刺激とし、自ら直接的には操作できない自己自身を間接的に制御せよ。制御の中にこそ私たちの自由はある・・・。


うまく私は説明できたのだろうか。わからない。私としては、私の理解なる内的意識状態をこうして外在化・対象化して、未来の私への刺激とすることによって、あるいは皆さんの反応を私への刺激とすることによって、私をできるだけ作り変えようと試みるしかない。



やれやれ。








Go to Questia Online Library






【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

1 件のコメント:

那賀乃とし兵衛 さんのコメント...

意識はモニターである、との見方、同感です。
そしてそのモニターが無意識に大して働きかけることができるわけですから、そこには複雑なフィードバックが起こり、決定論にはならない、予測不可能な豊穣が生まれ、それが人間の意識には自由意志として感じられるのではないかと。
実際に「自由」なのかどうかは、神のみぞ知ることに思えます。