2010年7月29日木曜日

「中学英語教育の課題」

明日、広島市の「市中研」 ―正式名称忘れた(汗)― で講演する際に使用するスライドをここで公開します。




タイトルは「中学英語教育の課題」で、以下の6つの部分から構成されています。


1 社会的・時代的背景
2 「生きるための力」と「学力」の関係
3 英語学力としての「言語コミュニケーション力」
4 小・中・高・大の連続の中で捉える英語学力
5 中学校英語教育の焦点
6 英語教育は生きるための力を育てられるのか?


この講演は、従来の私の言語コミュニケーション力論に新しい意味づけをして、一種の「物語」にしようとしたものといえます。

従来の私の論としては、3と4が大津由紀雄(編)『危機に立つ日本の英語教育』慶応義塾大学出版会で述べた「言語コミュニケーション力の三次元的理解」を基にしたものですし、5の内容も以前に広島市内の研修会でお話したことがあるものです(若干の追加はありますが、それらは微々たるものです)。

しかし1の「社会的・時代的背景」は(根幹の議論は大津由紀雄(編)『日本の英語教育に必要なこと』慶應義塾大学出版会に基づくものの)、最近のエピソードを入れ、現時点で英語教育を考え直すよう試みています。

2ではそういった社会・時代を生きるために必要な力を「社会性」(「現代社会における英語教育の人間形成について」を参照)と「自己組織性」(ルーマンの論考および横溝紳一郎(編著)『生徒の心に火をつける―英語教師田尻悟郎の挑戦』教育出版を参照)として、その社会性(=自らとは異なる存在とコミュニケーションを撮り続ける力)と自己組織性(=自らを破壊しないで自らを変革する力)を培うことを、最も抽象的・一般的・広義に捉えた学力と論じました。

この意味での学力とは、現代社会を生き抜くために必要な力であり、学校とはその力を子どもにつける場所だとさらに論じました。加えて、この意味での学校は、子どもが大人になるためにくぐり抜けなければならない「通過儀礼」であり修練であるという見解を提示しました。この見解は、昨今の見解、例えば学校とはカスタマーである子どもにサービスを提供する機関であるとか、学校はすぐに価格に還元できる力を子どもが支払う対価に応じて供給する機構であるなどといったものと極めて異なるものです。後で述べますように、学力は現実社会性での妥当性を有するものでなくてはなりませんが、学校の主な機能は子どもを大人にすることであり、子どもは社会が用意した学校という通過儀礼をまずは有無を言わずにくぐり抜けなければならないと学校を意味づけました。

このような見解は荒唐無稽だと感じる方もいらっしゃるかもしれません。私としてもまだ生煮えの思考を語っているきらいは否定できませんが、私なりに学校の「再生」を考えていますと、学校は現代人にとっての ―きわめて機能的な― 通過儀礼だというメタファーあるいは物語が存外有効なのではないかと思えてきましたので、今回聴衆の皆さんの反応を見ながら語り、その語りの観察の中から考えを深めてゆこうと思っています。

3では、そういった、現代社会を生きるためにくぐり抜けなければならない学校で培われる「学力」(「英語学力」)が、現実生活でも妥当な力であることを示すために「言語コミュニケーション力」論を説明し、「英語学力としての言語コミュニケーション力」という概念を提示します。従来私は「言語コミュニケーション力」を「学力」とは別概念として考えてきましたが、学校英語教育について考えるうち、両者は連結させる必要があると思えてきましたので、今回はこのような論の展開をしています。

3に続いて4と5で言語コミュニケーション力論を学力として捉える試みを続けます。

6はまとめで、いかに現代社会を生き抜く力の一端を子どもが獲得し大人になることを、英語教育が支援できるのかについて整理しました。

つまりこの講演では、


現代社会の分析
⇒社会性と自己組織性の重要性
⇒社会性と自己組織性を培う学力
⇒社会性と自己組織性を培う学力としての英語コミュニケーション力
⇒学力としての英語コミュニケーション力をつけるための小・中・高・大(特に中)においての課題


といったアクロバットのような論理展開の物語を語るわけです(汗)。詳しく見るなら論理の要請というより、私の知見に引き寄せた展開もあるでしょう。ですが、今の時点で私なりに「中学校英語教育の課題」というテーマで考えたならこうなるということを恥を忍んで公開します。

音声は明日の講演録音をファイル形式にしてアップロードする予定です。

公開するということは、批判を受け入れるということです。批判を受けることは時に辛いものですが、私のような凡人は批判を受けないとなかなか自らを改善できないのでご批判があればお寄せください(でも罵詈雑言は嫌よ←基本的に弱気w)


追記、
言語コミュニケーション力を「学力」として捉える際には、英語力を文字にして対象化する中学という段階が重要であるということも今回新たに論じました。これはオングなどのメディア論を読んでいるうちに考えたことです。








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2 件のコメント:

佳樹 さんのコメント...

こんばんは、兵教の吉田先生にお世話になっていた兵庫県三田市の堂本です。
先生のブログを時折拝読させていただいておりますが、お初コメントです。

さて、今回の先生の試みですが、まだコメントできるほど熟読していない中で恐縮ですが、一中英教員として、御礼を申し上げたいと思います。
 

というのも中英教育に前向きに取り組み、理論を基に体系づけていただいたのは、私の中では柳瀬先生が初めてだったからです。


そして私のつたない実践もまだまだ研鑽の必要がありますが、言語コミュニケーションとは何かのスライドで理論的に説明してもらっていると思ったからです。(このあたりの実践は先生に聞いていただいてご指導いただきたいと思います。

壮大な試み本当にありがとうございました。現場での視点を述べられるよう、先生のご講演内容をしっかりと勉強させていただきます。

柳瀬陽介 さんのコメント...

堂本先生、
過分のお言葉をありがとうございます。
実は明日、このスライドを少しバージョンアップさせて、もう少しゆっくり時間をかけてお話する機会を得ました(聴衆は別の方々です)。
講演音声については、その音声を公開しようと考えております。
また近いうちにそのスライドと音声をアップロードしますので、よかったらまた見て・聞いてやってください。
いつかお会いしてゆっくり話ができることを楽しみにしております。
暑い日が続きます。ご自愛ください。
柳瀬陽介