キーワードおよび論文の背景は次のようなものです。
キーワード
目的・目標概念、人間形成、アレント、複数性、政治性
背景
英語教育も学校教育の一環であるならば、教育基本法の精神に則り、人間形成を目指すべきである。しかし現状では、英語教育の目的・目標設定が、教育システムの外部から「政治」的に影響を受けることも多くなった。数値目標や資格試験の到達度、あるいは説明責任などに振り回される現場も多い。だが、現場を振り回している「目的・目標」や「政治」などの概念は、実は往々にして未整理なままのものである。英語教育という営みに学問的にアプローチする私たちは、単純な知性が複合的な現場の実態を過剰に支配し、現場を歪めてしまうことに抵抗しなければならない。しかし他方で「人間形成」という概念も、一歩間違えば、単なる個人的な価値観の押しつけや、通俗的な思い込みの凡庸な刷り込みになる。私たちはこれらの概念に関して、適切な理解をもつ必要がある。
2 件のコメント:
ハンガリーで日本語教育に携わっている者です。論文興味深く読みました。(用語が難しくて理解できていないところもありますが・・)
論文の主張しているところ(の一部)は、上越教育大学の西川純教授の提唱する『学び合い』と非常に似ていると個人的に思いました。(西川教授は違うというかもしれませんが)
『学び合い』の主張
1)人間は種レベルで他者と学び合い問題を解決する能力がある。(これがなければ既に絶滅しているはず)
2)しかしこれは家族・村レベルの能力
3)近代社会は拡大化・複雑化し、元々人間の持っている能力では足りない。
4)学校は「自分とは違うできるだけ多くの他者と折り合いをつけて問題を解決し目標を達成する経験を積み、その有用性を学ぶ場」であるべき・・
日本語教育でも「異文化コミュニケーション」が叫ばれていますが、個人的にはこの「異文化」の規定がとても狭いような気がしています。
ご存知かもしれませんが参考までに西川教授のサイトアドレスを記します。
www.iamjun.com
szeidzsiさん、
わざわざのコメントをありがとうございました。
西川先生の論考は知りませんでしたので、早速
勉強しようと思います。貴重な情報提供に
感謝します。
日本語での「異文化」の規定が狭いかもしれない
とのご指摘、同感です。
妙に青臭い議論をするわけではありませんが、
日本では「純」なものを作り上げて、自分たちは
それに属するのだと主張し、そこから少しでも
逸脱するものは積極的に排除して、「心地よい」
「私たち」の世界を作ろうとすることが少なくない
と思います。
ともあれ、ありがとうございました。
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