その自覚があるかないかは別にして、彼の魂は別の人に引き継がれている。
これから50年、100年たって、忌野清志郎などという固有名詞がごく一部の好事家にしか知られなくなっても、彼の魂は生き続ける。
人を変え、形を変え、時を超え、場所を越え。
なぜなら私たちは人類としてつながっているからだ。
私たちは個として人類の中に生まれ、人類の中に個として消えて、人類の中に人類として生き続ける。
愛し合ってるかい?
追記(2009/05/06)
桑田のこのアベーロードの凄いところは以下のようにまとめられるかもしれません。
(1)単なる替え歌ではない
ただメロディーに合わせて、適当に日本語の歌詞をつけたものではない。
(2)単なる空耳メロディーではない
ある曲の一節だけに空耳日本語をあてるのは、ちまたでもよくやられているが、桑田の作品はそのような単純なものでない。
(2a)統合的なテーマを持っている。
桑田はメロディーのある一節だけに空耳日本語をあてるだけでなく、一曲まるごと、というよりアルバム「アビーロード」全体のメロディーラインに、空耳日本語を創作的にあてた。しかもそれらの日本語が一貫的なテーマを持っている。
(2b)日本語を音響的に解体した上で空耳作詞をしている
通常の空耳ソングは、日本語の音韻体系(子音(C)+母音(V))を崩さない日本語をあてているが、桑田はおそらく日本語の音韻体系を解体して(といっても英語的な音韻体系に即して)日本語を聞き、歌うことができる。
つまりCVCの構造、もう少し詳しく言えば(ある一定限度まで)複数の子音を連続させることができる+CVC+とでも表記すべき構造で日本語を音響的にとらえ直して空耳歌詞を創り、歌っている。またそれぞれのCやVも時折露骨に英語風に変えることによって「空耳性」を高めている。
ですからアベーロードは、画面に出るオリジナル英語歌詞と桑田の空耳日本語歌詞を素早く読みながら、桑田の日本語発声を聞くというように多重的に楽しむと、「うわっ、オリジナル英語をこのように日本語にしている!」という沢山の発見をすることができるかと思います。
まあ、ものすごく手をかけた遊びであり、これを完璧なバンドコピーと桑田の見事な歌唱力でやるわけですから、本当に凄いとしか言いようがありません。
「英語はどれだけ日本人に浸透したのか」という問いに対する、一つの興味深い象徴的なエピソードとして解釈することもできるかと思います。
初期のサザンオールスターズの熱心なファンであった私は彼らが一種マンネリ化し、おそらくはそれと共に「国民的バンド」となるにつれ、彼らに対する興味を失っていました。
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