2009年5月1日金曜日

佐野正之先生からのお返事

先日、このブログに「佐野正之先生への感謝と回答 (アクションリサーチについて)」という記事を書いて、その記事の存在を大修館書店編集部を通じて佐野先生にお知らせしましたら早々に(4/23)下記のお返事を頂きました。

返事をいただきながらも私が出張をしたり、出張で風邪をひいてしまったりして対応が遅れましたが、非常に情報量の高いお返事でしたので、私のブログにも転載させていただくことを佐野先生に打診しましたら、佐野先生から快諾をいただきましたので、ここに転載する次第です。

お返事の末尾にある佐野先生のお誘いに私がのったことは言うまでもないかと思います。

改めて佐野先生に感謝します。



柳瀬陽介先生

先日は先生の論文についての私の書評にご返事をいただきありがとうございました。

大修館の■■さんを経由して、昨日とどきました。私の意図を正確に読み取っていただき、今後の展開についても、「小異を捨てて大同につく」ことができるのではないかと期待をいだいています。手短に、問題になっていた3点についての私見を補足説明します。


1) 「社会構成主義」について

 ARは実践から生まれたという経過があって、「基礎となっている学問」という発想自体が実はなじまないのかもしれません。私の2冊の本の中でも言及されていない(実際に、欧米で出版されているARの本にも、それほど言及されてはいないと思います)のも、そのためです。ただ、教員養成の本を見ると、たとえば、Jon Roberts. Language Teacher Education. Arnold ではくわしく述べていますし、特に、フィンランドの教員養成を論じているRitva Jakku-Sihvonen and Hannele Niemi(eds.) Education as a Societal Contributor. Peter Lang では、フィンランドの 教員養成では、よく知られているポートフォリオを用いた振り返りだけでなく、ARが授業改善力を伸ばすために多用されている様子がわかります。そして、よく知られていることですが、フィンランド教育の指導理念は「社会構成主義」で徹底しています。


2)生徒の位置づけについて

 実際に私が指導して修士論文として書いたARの論文には、数量的なデータを用いて、ある意味では応用言語学的なアプローチで書いたものもあります。しかし、この場合でも、教師の認識の変化を無視した論文はないと思います。必ず、「生徒の変化」に付随して起きていて、その点の記述があるはずです。ただ、修士論文の場合は、副指導教官や他の大学院の担当者をも納得させる必要があったということも事実で、そのための作戦として、数量的な成果を誇示する側面もあることは事実です。

ところが、四国や神奈川県のように、現職の先生が一斉にARに取り組むとなると、そうした資料を集めることが実際上できなくて、数量的なデーターとしても、期末テストの成績やアンケート調査の結果など、ごく限られたものになります。しかし、そこでも8割かたの教師のコメントにでてくるのは、「生徒の変化というと自信はないが、自分の意識は変わった」というものです。ですから、現場のARは生徒の成績を上げるという点では成功しない場合でも、教師の意識の変革があり、そこでは生徒の役割についての認識の変化が含まれることがほとんどです。


3) 教師の変化について

 横溝先生の日本語教師の場合のARは、省察に基づく教師の気付きを中心にしたものが主流で英語教育(というよりは、私が提唱するARと言ったほうが正確かもしれませんが)でのARは、改善の結果を求める傾向が強いという指摘は事実だと思います。しかし、私はそれは、ARが実行される場面や状況によって変化するもので、基本的な考え方は一緒だと思っています。横溝先生の実践の場合は、いわば先生がメンターとなって、個々の学生の実践の省察に先生が関ることによって教師としての成長を促すことが意図されているように思います。それは、実践者が学生で、いわば、授業力をつける途上でのリサーチとなるということとも関係しています。その意味では、ポートフォリオを用いた授業力の向上と似ているように思います。しかし、英語教育の場合は、多忙な現場の、一応は授業力は自分なりにはあると考えている先生が対象です。しかも、その先生たちひとりひとりに目をかけて育てることはできません。自分で判断して進めてゆくしかありません。その人たちの注意を授業改善に向けるには、「自分を見つめなおしなさい」というよりは、「今困っていることの解決を生徒と一緒に図りましょう」というほうが取り付きやすいのではないかと思っています。もし、解決を真剣に追求すれば、その過程で教師としてのありように変化が生まれるのは間違いないからです。

以上、簡単ですが、補足説明をしました。これは先生の論に反論するという趣旨のものではなく、紙面の関係で書き加えることができなかった点を追加したまでのことです。参考になれば幸いです。

また、よく聞く話しですが、現場から来ている大学院生 が「ARで修士論文を書きたい」 と希望すると、いろいろな反対が陰に陽に出てきてきて、論文の質そのものよりは、ARだというだけで冷たいあしらわれたり、「論文ではないから受理しない」と脅かされることがよくあります。これはとんでもないことで、教師を志望して大学や大学院で勉強する学生が、将来の仕事に役立つと信じて選んだ研究テーマを、大学教官の不勉強や学問的好みのために、追求できないなどということは許されてはならないことだと思っています。このような思いから、大学や大学院で、授業力や授業改善力をつける必要性を広くアピールする必要性があるのではないかと長崎先生たちとと話しあい、具体的な方策を探っている最中なのです。是非、先生にもこの輪に加わっていただいて、運動を広めていきたいと考えていますが、どうでしょうか。

私が書評で訴えたいと思った のも実はこの点なのです。

長いメールになってしまいましたが、最後の書いてある点について賛同いただけるようでしたら、今後また、長崎先生を通じて、また、私からも連絡を取らせていただきますので、ご一報くだされば嬉しく思います。それでは、今日はこれで失礼いたします。

佐野正之





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