2009年4月21日火曜日

佐野正之先生への感謝と回答 (アクションリサーチについて)

大修館書店『英語教育』2009年5月号の「英語教育 研究と実践」のコーナー(86-87ページ)で、佐野正之先生(横浜国立大学名誉教授)に拙論(「Exploratory Practiceの特質と『理解』概念に関する理論的考察--アクションリサーチを越えて」(中国地区英語教育学会研究紀要 No. 38, pp. 71-80 以下「EP論文」と略記)に対する書評をしていただきました。拙論を同誌の貴重な紙面で取り上げて下さったことに対して深く感謝すると共に、そこで佐野先生が表明された疑念にここで答えてみたいと思います。なおEP論文は、Scientific Research (SR), Action Research (AR), Exploratory Practice (EP) を類型的に対比したものであり、ここからダウンロードできます

佐野先生はEP論文から表1を再掲し(補注1参照)、長文も引用(補注2参照)引用して下さることで拙稿を最大限フェアに理解しようとなさってくださっています。まずはこのことに私としては感謝せざるをえません。

さらに佐野先生は「柳瀬氏の主張に賛同する点は多々ある」として、SR こそが英語教育研究のあるべき姿だと(やや惰性的に)信じられている点、先入観から自由になることが重要である点、「教師の成長」を尊重すべき点などに共感を示してくださっています。


ですが佐野先生は「反面、奇異に感じられた点」として以下の三点をあげられています。


(1) AR の学問的背景が「教育工学」となっている(補注1の表1を参照)。これは「一般にARの基本概念とされている『社会構成主義』とは全く異なる」のではないか。

(2) 「ARでは生徒を問題と見る」とあるが、「ARでは『問題』は生徒に起因するよりも、これまでの指導(教師との人間関係も含めて)や状況によって生み出されたものだという認識が一般的だと思う」。

(3) 「ARがアクションを優先するあまり、教師の成長につながりにくくなっている」という主張はどのようなデータに基づいているのだろうか。これはこれまで多数の現職教員とARを実践した私の実感とは全く逆である。


これらの疑念の多くは、ARという用語で、実際にどのような研究を意味しているかということを明確に理解することでかなり解決するのではないかと私は考えます。


ER論文で、私は横溝 (2004)を引用し、日本ではARが「仮説検証型AR」と「課題探究型AR」という強調点を異にする二種類のどちらかで理解されることが多く、特に英語教育界では「仮説検証型AR」(=問題解決のために仮説を立てて、その仮説を検証してゆくAR。一部の口の悪い人によるなら「お手軽な実験研究」)がARの典型例として考えられ、日本語教育界では「課題探究型AR」(仮説やアクションよりもリフレクションを重んずるAR)が典型例として考えられていることを述べました。それら二種類のARとSRおよびEPの関係を図示したのが「図1:ARと、SRおよびEPの関係」(72ページ)です。その図で表されている関係を下に少し形を変えて表現します。SR、AR(およびその二つの側面)、EPは以下の連続体で考えられるべきというのが私の主張です。


SR - 仮説検証型AR - AR - 課題探究型AR - EP


さらにこの図1のすぐ下に私は「つまり仮説検証型のARはSRに一部重なり、課題探究型のARはEPに一部重なるということである。」という注記を添えています。

私はこの論文を英語教育の学会誌に投稿したわけですから、ARという用語で主に「仮説検証型AR」を意味しました。実際私が見聞きする英語教育界のARでは、「仮説検証型」の発想から抜けきれないものが多いように思います。しかし書評の文面からしますと、佐野先生が見聞する英語教育界のARは、「課題探究型AR」が多いようです。この認識の違いから上記の疑念の多くは生じているように思えます。

もし英語教育界のARの多くがリフレクションや理解を重視している「課題探究型」だとしたら、私は喜んで私の認識の歪みを認め、英語教育界の健全な成長のために喜びます(そうだったら本当に嬉しい)。ですが、私の正直な懸念はまだまだ従来の実験研究の発想に縛られた「仮説検証型」のARが英語教育界では多いのではないかということです。


ともあれ、ここでは「英語教育界のARは『仮説検証型』が多い」という横溝(2004)の主張および私の実感を基盤にして上記の疑念に答えます。

(1)はARを「教育工学」的と評したことですが、これは「仮説検証型AR」が、「問題解決」を目的とした「準実験デザイン」に基づくことが多いという認識から生じた主張です。「教育工学」という用語で私が意味しているのは、「教育工学」の定義(「教育学研究の一分野。主に工学的な手法を用いて効果的な教育方法を研究・開発するために行う技術学」)、および「工学」の広義の定義(「広義には、ある物を作り出したり、ある事を実現させたりするための方法・システムなどを研究する学問の総称」)(いずれもgoo辞書に掲載されている『大辞林 第二版』からの引用)から理解されるものです。つまり、仮説検証的ARは問題解決のための効果的な方法・システムを研究・開発するものである、という理解を「教育工学」という言葉を使って示したわけです。これ自体は私はそれほど間違った理解だと思っていません。

また、佐野先生は社会構成主義を「一般にARの基本概念とされている」とされていますが、私の理解が正しければ社会構成主義をARと結びつける論考は日本の英語教育界ではあまり見かけたことはありません(索引がないので簡単に目でチェックしただけですが、佐野 (2005)にも「社会構成主義」の用語は見あたりません。Kurt Lewinの考えは確かに社会構成主義に近いものかと思いますが、彼を「社会構成主義」の代名詞として使うことは少々無理があるように思えます)。私個人の考えでは、リフレクションを重んずる課題探究型のARなどは社会構成主義と非常に親和性の高いものだと理解していますが、そういった明示的理解が、日本の英語教育関係者の多くに共有されているとは思えません。(これも私の誤りで、日本の英語教育関係者の多くが社会構成主義に通暁しているなら本当に嬉しい限りです)。

(2)の「ARでは生徒を問題と見る」という佐野先生の引用はEP論文からの直接引用ではありません。EP論文では例えば表1でも、問題という用語を使う場合も、わざわざ(それだけに)カギ括弧をつけて「問題」と表現しています。本文中でも「学習者は、教師の思い通りの学習をすることができない「問題」として認識される。」(74ページ)とカギ括弧をつけて表現しています。カギ括弧をつけることで「敢えていうなら」といった含意を示しているのは日本語の慣用法にならった表現です。これも英語教育界のARを「仮説検証型」と認識することから生じた見解です。繰り返しになりますが、仮説検証型のARでの仮説はあくまでも「問題解決」のためであり、リフレクションが軽視されているからです。

(3)のARがアクションを優先するあまり、教師の成長につながりにくくなっている」という主張は、EP論文では(佐野, 2005, p. 13)という文献情報を添えてなされたものです。佐野 (2005, p. 13)では、「アクション・リサーチの進め方Q&A」のQ1として「授業の何が問題かわからない。発見の仕方を教えてください」があげられています。これは私もしばしば聞く教師の質問であります。

私(および私の知る研究者の何名か)は、このようなQが出ることは、日頃のリフレクションがほとんど根付いていないことを示し、そのような状況でARをやらなくてはならないと教師が感じてしまうことは、ARがまだまだ上から押しつけられるような形になっており、教師の成長と乖離しているのではないかと考えています補注3)。

もっとも佐野(2005)のこの箇所だけを取り上げて、佐野先生の考えるARあるいは日本のARの全てが教師の成長に資していないと主張するのは公正な主張とはいえませんし、私もそういうつもりはありません(ですから補注3に見られるように、私は数カ所で間接的な表現を使い、主張の直接性を意図的に弱めています)。実際、佐野先生は佐野(2005, p. 30)でARの物語性を雄弁に語っていますから、佐野先生が念頭におかれているARはやはり(横溝の二分法を使うなら)「課題探究型」なのでしょう。


以上述べましたように、佐野先生の疑念は、佐野先生のAR認識と私のAR認識が異なっていることから生じていると考えられます。佐野先生が佐野(2005, p. 30)のような認識を持っているのでしたら、佐野先生が関わっておられるARは問題解決的な仮説検証型ARではなく、課題探究型のものであり、それゆえに私のAR批判の多くはirrelevantであるように思えることは当然でしょう。

ですが、私の認識は前にも述べましたように、まだまだ日本の英語教育界では惰性的に「(量的)実験研究」の枠組みを範型とする考えが強く、ARもリフレクション中心の課題探究型ではなく、仮説検証型であることが多いというものです。これも繰り返しになりますが、もし私のこの認識が誤ったものでしたら、私は自らの誤りを喜んで認めます。しかし2009年3月号の『英語教育』が「英語教師として自分を見つめ直す方法」の特集を組み、玉井健先生の論考を載せ、5月号の「読者論断」にその論考への熱烈なエールが寄せられているといった現象は、まだまだ日本にはリフレクションを重んずる文化が根付いていないということを示しているのではないかと懸念します。



疑問に答えようとするなかで、私が誤解を重ねてしまったかもしれないことを私は怖れます。私は佐野先生ともどなたとも、微細な点についての長々とした「論争」をするつもりはありません。誤解は指摘して下さればすぐに正します。

また私はExploratory Practiceという用語をしばしば使いますが、この用語の「輸入代理店」のようになって、この用語を振り回して、妙な権威を生み出すつもりなどはまったくないことも申し添えております。上記の玉井健先生などは「リフレクティブ・プラクティス」という用語を使っておりますが、私は(私が理解している限りでは)この用語でもまったく問題ないと思っております。

ただExploratory PracticeもReflective PracticeもあくまでもPractice (実践)であり、字義的にはResearch (研究)の一種として考えられるAction Researchとはやはり力点を異にしていると私は思っています。実践者にとって最も重要なことは(同語反復的ですが)実践であり、研究ではないと考えます。ただ実践も、ただ毎日行なうだけではなく、それは探究的か、リフレクティブであるべきだというわけです。

ですが、ARも課題探究型として考えるならEPとの共通項を多く有し、過剰に対比的に考えることは不必要です(その点、EP論文のサブタイトル「アクションリサーチを越えて」は表現がきつすぎたのかもしれません)。ですから私は佐野先生の書評の最後の部分、「ARなのか、それともEPなのか。教師が問題意識に合わせて選択できることが望ましく、また、それが可能なように援助することが教員養成に関わる者の責務だと思う。そのための共同戦線こそ、今、求められているのではないだろうか」には全面的に賛成します。私がEP論文で言いたかったことをその点から言い換えますと、これ以上ARを自然科学的な仮説検証に引きつけて考えるのは止めようということです(補注4)。そうしてリフレクションあるいは理解を重んずる文化を学問的にも制度的にももっと教育界に根付かせようということでしたら私はどなたでも「共同戦線」をはります。




補注1 表1:SRとARとEPの特徴の対比 (EP論文71ページ)

 

Scientific Research

Action Research

Exploratory Practice

隆盛時期

1980年代

1990年代

2000年代

目的

一般法則定立

問題解決

理解の深化

方法

実験計画法

準実験デザイン

定めない

重視すること

厳密性

説明責任

Quality of Life

結果

規範提示(prescription

記述(description)

相互の成長

世界観

一般的因果性

個別的因果性

個別的複雑性

学問的背景

個人心理学

教育工学

生態学的言語習得論

学習観

認知行動

仕事

Life

研究期間

横断的に短期

縦断的に中期

持続可能で恒常的

学習者

データ提供者

「問題」

協働実践者

研究者

三人称の中立的存在

一人称の単数

一人称の複数

研究者と実践者の関係

研究者が実践者を指導

実践者が研究者

になる

実践者が探究的になる

研究の

主な公表対象

学会誌

利害関係者

当事者および当事者に共感する者

欠点

教育への介入が

過剰になる

アクションの自己目的化・過剰負担化

自己満足に

終わりかねない



補注2 EP論文75ページからの引用は以下の通りです。


実践者が最初にそして恒常的に行うべきなのはEPであり、その後に可能ならばAR、さらには適切かつ必要ならばSRが来るべきである。その理由は、事態の深い理解こそが「問題」の特定や解決、ひいては状況を考慮しない一般法則の定立に先行しなければならないからである。私たちはしばしば自らの先入観でもって、限られた理解の中でしか、事態を捉えようとしない。その狭い理解の中で「問題」を見つけたと考え、その解決手段を計画したとしても、その「問題」の認識が誤っていたり、歪んでいたりしたら、その「解決」は、良くて骨折り、悪くて事態の悪化になりうる。私たちは、問題解決の計画を立てて実行する前に、多面的に振り返り、気づきを深める必要がある。場合によっては、事態を改善するためには、結果の白黒を出さなければならない時限的な介入(AR)ではなく、長期的な教師の自己変革の方が必要な場合もある。アクションを起こす前に、教師と学習者が相互に理解を深めることの方が必要である場合もある。【ここからの箇所を佐野先生は「中略」としています: 生徒とのコミュニケーションで、自らを振り返り、生徒を見直し、関係が深まり、授業も自然と良くなっていった経験をもつ教師も多いだろう。ましてや一般的なSRは、固有の状況にある授業の直接的改善につながるとは限らない。ARやSRは必ずしも事態の改善のためには必要ではない。
したがってEPからARへ、ARからSRへと移っていくことは、「必要」でもなく「進歩」でもないと考えるべきであろう。その変化は、むしろ「変異化」もしくは「特異化」として捉えられるべきではなかろうか。:「中略」部分はここまで】SRの一般法則定立は、しばしば私たち教師の実践感覚の喪失を意味する(科学的なアプローチしかとらない研究者に指導を受ける現職教員の大学院生は、大学院では実践的なことは忘れて、科学的方法論で解答できるリサーチ・クエスチョンのことだけを考えてくれとしばしば要求される)。また、ARの問題解決は、時に、私たち教師が人間に関わるというよりは、「仕事遂行」中心の見方をする存在へと変容してしまうことを意味しかねない。EPがEPの深まりと広がりに留まり、ARやSRに「変異化」しないことは、とがめられるべきことではない。


補注3
EP論文の正確な表現は、「また、期待されたようにARが教師の成長に貢献しているかどうかについては疑問が残らないわけではない。実際問題としては、アクションが強調されるあまり、問題を特に見出していない状況においても問題を見出して(佐野, 2005, p. 13)、それを「問題解決」しようとあせるあまり、ARが実践感覚と離れはじめ、教師は徒にARの実行で疲れるばかりで、教師の成長へとつながりにくくなっていることも仄聞される。」(71ページ)です。

補注4
ただし私は「英語教育」という言葉でカバーされる広汎な現象のどの部分も自然科学の対象となりえないといったことを主張したいのではありません。この点、私は「女教師ブログ」の2009年4月12日記事の「科学的英語教育研究」に共感します。ただ私は、私なりに自然科学について(およばずながら)理解を深めれば深めるほど、英語教育研究は厳密な意味での自然科学ではありえないと思ってしまいます。とはいえもし「科学」を「社会科学」「人文科学」「科学研究費」といった用法にみられるように広義の意味で使うのならば、私はそれほどその用法には反対しません。まあ実際私は「科学研究費」をもらっているわけですし(笑)。



参考文献

佐野正之(2005) 『はじめてのアクション・リサーチ』 大修館書店

横溝紳一郎(2004) アクション・リサーチの類型に関する一考察:仮説-検証型ARと課題探究.  『JALT日本語教育論集』 8, 1-10.





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