2009年4月3日金曜日

大学・大学院で身につけるべき教養とは

新年度が始まるにあたって、改めて私が学部生・大学院生にどのようなことを学んで欲しいと思っているのかと考えてみたら、次のようにまとめられるのではないかと思えましたので、ここで書きつけておきます。いつものように批判を乞います。


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大学・大学院では、極めて狭い専門的な知識だけでなく、広く深い教養を身につけてください。

大学・大学院で身につけるべき教養とは、次のようにまとめられます。


「ある項目の共時的なつながりと通時的つながりをできるだけ学び、そういった項目が複数存在し相互に関係しているシステムの複合的なふるまいを理解して、自らの人生を豊かにすること」


もう少し詳しく解説します。大学・大学院では、高校までで学んだ(0)レベルの知識


(0)ある項目を、その限定された範囲で理解し、操作することができる。


に加えて、(1)から(4)のレベルの知識を身につけることによって(5)の知恵に到達することが大切だと私は考えます。


(1)ある項目が、実はその時点で限って(=共時的に)も、他の多くの項目と関連していることを理解し、(0)で学んだことも、少し詳しいレベルでいえば、共時的関係を考慮に入れないと現実世界ではうまく使えないことを学ぶ。

(2)ある項目が、実は共時的なだけでなく通時的に(=過去にも未来にもつながって)関係していることを理解し、(1)で学んだことも、もう少し詳しいレベルでいえば、通時的関係を考慮に入れないと現実世界ではうまく使えないことを学ぶ。

(3)ある項目が、共時的にも通時的にも複合的なシステムの中で動いていることを理解し、いかなる知識も現実世界の全体性の中で慎重に使われるべきことを学ぶ。(0)レベルの知識だけで考える危険性はもとより、(0)、(1)、(2)レベルの知識を切り離してしまって考えることの危うさを理解する。

(4)自分がある複合的なシステム理解をしたとしても、その理解が必ずしも他人に共有されるわけでなく、他人は別様の合理的なシステム理解をしているかもしれないことを理解する。どのシステム理解もある意味、「どれも正しく」(=それなりの合理性をもっている)、「どれも誤っている」(=それぞれの限定的な理解でしかない)可能性を踏まえた上で、異なる理解が共存できるだけでなく、相互を補完、活性化する社会づくりを目指せる。

(5)人間の知識の妥当性と限界性について的確な判断ができるようになり、物事の全体性やバランスを失わない調和の取れた思考と行動ができる。



残念ながら、現在は大学・大学院でさえ、(0)の限定的な学習ばかりを強調しているように時に思えます。もちろんこの(0)レベルの学習は、後の高次レベルの学習のためには必要なのですが、このレベルだけの学習しかしないなら、その狭い範囲の視野から得られた知識を振り回し、複合的な世界の中では逆効果を生み出してしまうことがたくさんあります。

ですが世間では「○○さえすれば、××になる!」といった扇情的なキャッチフレーズが横行しており、またそのような傾向に迎合する知識人もいないわけではありませんから、大学・大学院ではぜひともこれよりも高次のレベルの学びをして、「知識あるバカ」「学歴の高いバカ」にならないようにしましょう(自らの無知を棚に上げた偉そうな言い方をお許しください)。

(1)のレベルの学び[=共時的関係性の理解]で、自らが関心をもっている項目が、いかに他の項目と関連しているかを少しずつ学んでいってください。ですから「どうやったら最短時間で単位が取れるか・論文が書けるか」といった発想ばかりにとらわれずに、学問的な「回り道」「遊び」の中でよく考える習慣をつけてください。

(2)のレベル[=通時的関係性の理解]では、物事を現時点だけで考えるのではなく、10年前、半世紀前、一世紀前、数世紀前はどうだったのかということを理解し、現時点での常識に縛られないようになってください。またその歴史的な過程で、どんな合理的な進展があったのか、どんな不合理的な展開があったのかを学んでください。さらに、もし自分がその時点での人間だったらどう考えただろうかと仮説的に想像力を行使する訓練をしてください。そうして歴史的な洞察を得ることにより、私たちは私たち人間にとっては不可知な未来に対するある程度の見通しを得ることができるのかもしれません。未来も5年後、10年後、半世紀後・・・と様々なスパンで考えるべきことは言うまでもありません。

(3)のレベル[=共時的関係性と通時的関係性の統合]は、知識から知恵に移るレベルといえるかもしれません。これまで学んだ、(0)、(1)、(2)それぞれのレベルでの分析を、それぞれの限界をわきまえた上で正しく行ない、それらが相互作用をした場合にどのような結果が生じうるのかという可能性について、複数のシナリオを理性的に考察できるように目指すべきかと思います。

(4)のレベル[=異なる複数の理解の社会的共存繁栄]は、さらに他者との差異を肯定的に活用できることを目指します。人間は誰も全知であり得ず、それぞれが限定的な知を出し合い、何とかこの世界で幸福な世の中を作り上げようとしているにすぎないことを理解した上で、知識を社会的に活用することを学びます。

(5)のレベル[=知識を経た知恵]は、(0)から(4)の学びを身につけ、この世の中で豊かに生きることができるようになった状態です。実は机について勉強したことがほとんどなかったりした方の中にも、深い人生経験と円満な人格からこのレベルの知恵を身につけていらっしゃる方はたくさんいらっしゃいます。大学・大学院での学びによってこの(5)のレベルの知恵をつけようとする者と、実人生だけで知恵をつけられた方の違いは、前者が(0)から(4)の学びを自覚的に、そして反省的に行ない、必要に応じて(0)、(1)、(2)、(3)、(4)のどのレベルの学びでも新たに行なうことができるようになっているから、おそらくは新しい状況での対応力が少しは優れているかもしれないということです(それでもやはり「知識」(特に(0)レベルの知識)は暴走しかねませんから、細心の注意が必要です)。

要は、「ニーバーの祈り」として知られる次の願いを、大学・大学院では信仰によってではなく、知識獲得によって達成しようとしているとも表現できるのかもしれません。


God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, courage to change the things that should be changed, and the wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。






あるいは私が忘れられない漫画の台詞で言うなら、突然の洪水で一家全員で命を奪われた父親の幽霊が、その洪水との不思議な縁で結びついて、自らの貧困と運命を呪詛する少年(昇平)に言った言葉を、大学・大学院では行なおうとしているとも表現できるかもしれません。

「でも、昇平くん、生きてよく観察し、そして深く考えなさい」

(山本おさむ、「ランドセル」(『オーロラの街 2 』所収)より)



いずれにせよ、大学・大学院で勉強できるということは、本当に貴重なことです。お互いに啓発して学び合いましょう。






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