2013年7月20日土曜日

実践者として現場で考えるための方法論





私は高等教育の最優先課題とは「読み、書き、考える」ことがきちんとできる人材を育てることだと思います。「えらく控えめでないですか」と訝しく思う方もいらっしゃるかもしれませんが、多くの学生さんは目を活字に沿って上下(あるいは左右)に動かすことを「読む」ことだと思っています。「書く」ことはワープロで漢字変換などを間違えないことぐらいに思っています。私からすればきちんと読み書きができる学生さんというのはむしろ珍しい存在です。

ましてや「考える」ということを学生さんは苦手にしています。昨日の記事の「教英新入生の4月末での決意 -- 3ヶ月後の今、学生さんはどう変わっているのか(あるいは変わっていないのか)」の学部新入生の感想にもあったように、高校までの教育できちんと考えることを学んでいない学生さんも少なくありません。

ですが、実社会に出た時に、懇切丁寧に指示されたことならなんとかできるが、少しでも未知の状況になるとお手上げになる(質問もできないし、下手をすれば泣き顔になる)では役に立ちません。私は学歴に関係なく、現実世界への対応力をもって「知性」と定義していますので、大卒・大学院卒でもそういった知性を欠く「バカ」はたくさんいます(私も偉そうに言えませんが 汗)。もちろん逆に学歴はなくとも賢明な人はいくらでもいます。

ですから、大学で教鞭を取る者としては、(受験勉強だけしかせず「バカ」になってしまったプライドの高い学生さんも含めて)若い人が現実世界の現場に出た時にきちんと考えられるようにしなければと思っております(参考記事:考える・調べる・尋ねる)。

そのための最適の方法の一つは論文執筆のゼミ活動ですが、いかんせんゼミは少人数ですし、きわめて限られた時間でしか指導することができません。ここは大学生活の大多数を占める通常の講義形式でも、日常の読み書きでも、学校を離れた生活場面でも、「考える」ことができるように、「考える」ための方法論を私なりに提示しておくべきかと思いました。

そこでこの記事では、先日の記事(栗田哲也 (2012) 『数学による思考のレッスン』ちくま新書)に基いて、私なりに 「概念の理解の仕方」と「仮説の生み出し方」についてまとめてみます。若い人が、ゼミ活動などで教員に直接的に指導されている時間だけでなく、日常のあらゆる側面で考えることができるようになるためにまとめたものです。





どうやって新しい概念を理解するか




新しい概念(X)を学んでも、それを一問一答式に「X = Y」と丸暗記して「XってYのこと」としか覚えていないと、そのXは自分の思考や行動ではほとんど応用できず、目の前にある一問一答式のテストに合格した後は、すぐに自分の記憶からも抜けてしまうことは皆さんもご承知の通りです(時に丸暗記力に優れた学生さんは、何年も前に覚えた「X = Y」を再生できて、私などが「Xって何のこと?」と聞くと得意気に「Y!」と答えますが、「それではそのYとはどういう意味?」や「それはZとはどう違うの?」などと聞くとポカンと口を開けてしまいます。そうのを見ると私は哀しい気持ちになります)。

ここでは新しい概念が「身につく」ように理解するための6つの方法を提示します。



(1) 翻訳:思い切ってわかりやすいことばに言い換えてみる

「X = Y」の「Y」という表現はしばしば抽象的で自分の実感の伴わないものです。思考力抜きの丸暗記が得意な人ならともかく、それでは記憶にも残りにくいですし、実感がわきませんから、自分がこれまでに学んできたものとの関連も感じられません。ですから、ぜひとも「X」および「Y」を思い切ってわかりやすいことばに翻訳してみてください。

もちろん翻訳は妥当なものでなくてはなりません。ただ勝手に言い換えただけでは単なる誤解かもしれません。自分で翻訳したら、「X」という概念が出てくる度にその翻訳を想起し、その翻訳で前後の意味が通るかを確認してください。何度か確認するにつれ、その翻訳では通用しないことがわかる場合もありますし、その翻訳でもきちんと意味が通る場合もあります。

とはいえ翻訳はあくまでも代用品にすぎませんから、最終的には「X」という用語を覚えなければなりませんが、「言い換えるなら」「要は」と「X」について考え抜いた後なら記憶は容易でしょうし、何よりその概念を活用できます。

丸暗記学習はやめて、できるだけ、自分のことばで言い換えて、その言い換え(翻訳)が他の場合にも(さらには他の人にも)通用するかを確かめてください。



(2) 比喩:さらに大胆に別領域のものに喩えてみる。

翻訳よりも大胆なのが比喩です。「X」をまるで別領域の(しかし自分がよく知っている領域の)何かに喩えてみようとすれば、私たちはより深くより広く自分の知性と感性を動員させて考えます。

もちろん比喩もいいかげんなものであってはいけません。「X」を「M」に喩えたら、「M」における「M - M' - M''」といった関係が「X」においても「X - X' - X''」と成り立つのかを自ら吟味しなければなりません。さらに(翻訳と同じように)その比喩が他人にも(少なくとも「M」の領域を知る人間には)通じるか、できれば「X」と「M」の両方をよく知る人間に「なるほど、うまい!」と言ってもらえるか確かめてみるべきです。

このような比喩による説明は、子どもにもよくわかってもらえますし、常日頃から比喩を探していると想像力も豊かになります。新しい概念を理解する際にはぜひ比喩も使ってみてください。



(3) 差異: 他の概念との違いを明確にする

私にとって理解し難い学生さんの言動は、新しい概念を学んだ時に、それを以前に学んだ類似概念と対比させずに、すぐに丸暗記しようとすることです。いわば(比喩の使用です!)一つ一つのブロックを集めるように知識を増やすだけで、ブロック間の関係はまったくなく、箱の中にさまざまなブロックが雑然と積み上げられているだけです。

新しい概念を学ぶとは、その新概念をこれまでの概念ネットワークの中のどこかに位置づけることです。その位置づけによりこれまでの概念ネットワーク構造が変わっていきます。新概念を学ぶことは、単なる知識の追加ではなく、これまでの知識の組み換えを行うことです(時に概念構造そのものが根源的に変更される場合もあります)。

ともあれ、新しい用語を聞けば、必ずそれと似た概念用語を思い出し、それらとの違いを明確に言語化してください。差異を言語化できなければ必ず教師に質問してください教師がその質問に答えられずさらには「そんなことはどうでもいいんだ」と不機嫌な顔をするなら、その人は単に教員免許状をもっているだけのバカですから、そんな人は相手にせず自分で考え続け、調べていってください。ある日「あっ、こういう違いか!」とわかる時も来るでしょう。その時その概念は「身につき」ます。



(4) 機能: その概念が登場することでどんないい事があるのか考える

新概念が重要なものであるなら、それには必ず有用性が備わっています。その概念が登場することによって、これまで見えていなかったことが見えるようになったりするはずです。概念には機能があります。

「その概念の働きは何なのか」、「その概念を提唱したのは、なぜそれを必要だと考えたのか」、「自分もこの概念を知ることで、どんな知的変化が生じるのか」を徹底的に考えてください。自分なりの考えが定まってきたら、それを教師に尋ねてみてください。



(5) 図解: 概念の機能やその他の概念との関係性を図示してみてください

概念の機能や関係性をうまく図や表にまとめてみようとすることはいい思考訓練になります。多くの学生さんは図表作成を小手先のこととしかとらえず、図表作成とは何より思考の整理であり訓練であるということを理解していません(だから学生さんの作成する図表はどこか欠損があったり余分だったり、理解しがたかったり誤解を生じさせやすかったりします)。

自分がまとめたことを考え抜いて図表にするには数十分(ときには数時間、数日)かかります。何度も図解して修正して考えに考えてください。

最初の思いつきを書くには手書きが一番ですが、修正を重ねるにはパソコンの方が便利です。「思考ツールとしてのプレゼンテーションソフト」をぜひ読んでください。



(6) 実例: 何よりもその概念が当てはまる実際の例を探してください

実例をあげることを、ここでは一番最後に書きましたが、抽象的なことを聞いたら「例えば?」とその実例を探すことは、私たちがまずやるべきことかもしれません(ここでの「たとえ」とは、比喩ではなく字義通りの例、つまり「喩え」でなく「例え」のことです)。

抽象論が好きな人は「例えば」を自問することを習慣づけてください(逆に、具体的なことを語り続けることが好きな人は「つまり、どういうこと」と自分の論を抽象化することを習慣化してください)。



以上の「翻訳」、「比喩」、「差異」、「機能」、「図解」、「実例」を、新しい概念を学ぶ際に心がけてください。







ちなみに、こういった考えながら理解するすばらしい例が『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)』 で学ぶことができます。







この本では、生徒役の野矢茂樹氏(哲学)が、教師役の西村義樹氏(認知言語学)にどんどんと質問し自分の理解を確かめながら、教師役の西村氏の既存の知識理解も揺さぶってゆきます(これは考えながら問う野矢氏だけでなく、きちんと答えようと考える西村氏もすごい)。

内容的には、生成文法との対比で認知言語学を理解しようとするもので、英語教育(言語教育)を志す者にとっては最適の本の一冊、というよりも傑作です。

少なくとも大学院を目指す学部三年生はこの本を読んでおいてほしいと思います(逆に言いますなら、この本を読めないなら大学院は諦めた方がいいです)。

もちろん大学院を目指さなくても、考えながら理解するとはどういうことかを、言語学を題材にして学べる本ですから、お薦めです。マーク・ピーターセン (2013) 『実践 日本人の英語』(岩波新書)の高校生でも読めるぐらいのわかりやすさはありませんが、言語について専攻する大学生・大学院生に対してはやはり次のように言いたいです(笑)。



言語専攻の大学生・大学院生なら、

買え。

読め。












どうやって仮説を生み出すか




探究の対象である何かを理解するだけでなく、それについてある程度の見通しを立てようとすれば、探究の対象についての仮説(=ある程度の理論)をもつ必要があります。

紙の上だけで研究をやっている人にとって仮説や理論は、「偉い人」の先行研究が一方的に与えてくれるものかもしれませんが、現実世界の現場で考え行動しなければならない人にとって、仮説や理論は自ら生み出さねばならないものです(いや、誤解のないように言い直しますと、自然を対象にして研究する一流の学者は皆、自ら仮説や理論を生み出します。仮説や理論を人から頂戴するだけで自ら生み出さないのは二流・三流の学者です)。

仮説を生み出す一つの方法、想像力により現実世界の混沌にある程度の形を与え、論理力によりその形を堅牢なものにすることです。








■ 想像力 (IMAGINATION)

(1) 生活の想起 (Life)

何かよくわからない探究の対象 (object of inquiry)がそれなりに定まったら、それと似た事象が自分がよく知る生活の中にないかを想像する(この場合の「生活」には日常生活だけでなく、本で学んだ概念などの知的生活も含まれる)。



(2) 比喩 (Metaphor)

生活で想起されたものを比喩としてみることにより、探究の対象が少しでも解明できないか考えてみる。



(3) 類推 (Analogy)

探究の対象(X)に対して何らかの比喩 (M) を思いついたら、そのMについて丹念に思い起こし、XをそのMに類したものとして考え、M - M' - M''の構造的関係をXについてもあてはめ、X - X' - X''であるとすればそれはどういうことかとX'やX''について想像して考えてみる。



(4) モデル (Model)

この類推がある程度うまくいったら、そのX - X' - X''をとりあえずの自分の仮説モデルとして採択する。







■ 論理力 (LOGIC)



(1) 分析 (Analysis)

自分が仮説的に採択したモデルを、それだけで(=もとの比喩・類推とは独立させて)吟味し、相互関係に矛盾や漏れがないかを確認する。



(2) 要素 (Element)

分析してもモデルに深刻な問題が生じないようなら、そのモデルを構成する要素を枚挙しそれぞれについて定義しておく。(モデルの問題が深刻なものでないのなら、それを自覚しておくにとどめておく。モデルとは単純化であり、どんなモデルも完全なものではない)。



(3) 組み合わせ (Combination)

吟味した要素を、これまでにはなかった組み合わせで結合してみて、その新しい結合に何か意味があるかを考えてみる(もれなく組み合わせをするには、マトリックス形式の表がしばしば便利)。有意義な組み合わせが新しい理論の核になる。



(4) 演繹・拡張 (Deduction/Extension)

新しい理論の核を、論理的に展開するか(=演繹)、少し条件を変えた上で類似の命題が出ないかを確かめてみる(=拡張)。いずれにせよ、ここは手堅くやらなければ駄目。手堅くやれば、生活を想起することで着想を得た比喩が、類推・モデルを経て、分析・要素分解・要素結合され新しい理論の核となり、その核が論理的に展開・拡張されて新しい理論となる。





以上が、私なりに想像力と論理力を使って、最初は自分でもよくわからなかった探究の対象を理論化する方法です。

私はこの方法をしばしば取りますが、自分でも思い出深いのは、「とにかくすごい!」としか言いようのなかった田尻悟郎先生の実践(探究の対象)を、ハンナ・アレントの哲学というまったく異なる領域を比喩にしてそこから類推し分析し考えを展開していった「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」。当初私はアレントについてまったくの偶然から知るようになり、知れば知るほど、田尻実践との類推が可能なように思え、でもそうは言ってもアレントを誤解していないかと恐れながらずっと考え続けていったので特に思い出に残っています。



最近読んだブログ記事で非常に印象的だったのは、私が敬愛する山岡大基先生のホームページブログです。特に以下の記事では【 】に示された思考法が示され、やはり山岡先生は複雑で多忙な現場の中でもきちんと考えることができる本当に頭のいい方なのだと再認識しました。

もちろん上で私が図式化した項目と順番で思考が進んでいるわけではありませんが ―人間の思考とは、時に分離し、時に融合し、時に並走し、時に跳躍し、時に遡及するものです― 実践者としての思考のいい例としてここにご紹介します(この紹介についてはご本人から予め許可を得ています)。

Fat Eyes 【比喩と類推】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/189.html

ダイコトミー 【分析】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/192.html

「授業構成」という観点 【要素・組み合わせ】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/183.html

あいまいなわたし、まいんどこんとろーる? 【常識的な言葉遣いを疑う】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/187.html

(英語)教員の「センス」 【複眼的思考】(参考:アクション・リサーチの合理性について
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/talent_for_teaching.html





これらの山岡先生の記事について授業中に軽く触れたら、何人もの院生がこれらの記事を読み、感想を書いてくれました。以下はその一つです。



SS君: “今を楽しめ!”


 わたしが学部3年生のときに中四国九州学生バドミントン選手権大会という大会がありました。表題のことばは、その大会でK大学のA選手が発したことばです。
 (中略)
  いよいよ試合が佳境に入ってK大学の仲間であるB選手が苦しくなってきます。そこで、4年間の思いを込めてA選手がB選手に向かって発したことばが、“今を楽しめ!”でした。そのことばを発したA選手の表情と声のトーンが、今でもわたしの中に残っています。それ以来わたしは、“今を楽しむ”ようなバドミントンをやるように心掛け、大会で苦しくなったときはそのことばを発し、良い方向に向かいました。

 今日の授業で柳瀬先生は、山岡先生のブログを受けて、考えることをやめない大切さを説かれました。山岡先生は、あの方が院生のときに得た知識にたよって教師をしているのでもなく、他人の考えに依存して教師をしているのでもなく、山岡先生が「今」身をおいている環境で考えをめぐらしています。あの方にとっての「今」を土台にして、教育に関して考え続けられています。

 かの菊池省三先生も(Facebook上で目にみえる形でも)、常に「今」の子どもたちと向き合って考え続けています。決して褒めことばのシャワーを固定した方法論になどせず、常に変化させていっています。

 これら御二方からも学べるように、「今」を考え続ける姿勢が教員になったときに一番大切な習慣ではないでしょうか。「教員になったら、わたしも常に考え続けたい」と言いたい所ですが、大学院生である「今」求められるのは、「今」を大切にして考える姿勢です。わたしは、「今」習っていること(CALxでもAASLAでも)をつい教育実践や英語教授に結び付けてしまうのですが、それは将来のわたしであって「今」のわたしではありません。もちろん英語教育を考えることは重要ですが、もっと「今」実感の沸くバドミントン・2階の院生研究室・麻雀・書道・最近のニュースなどに結びつけた理解をしていかなければ、本当の理解は得られないと思います。今後は、授業中・研究室メンバーや同級生と話しているとき・教採の勉強のときなどいつでも持ち続ける意識をさらに強めなければならないと思います。久留米大学のA選手の“今を楽しめ”を日常でも意識すると共に、“今を考えろ”を座右の銘にすべきかなとも感じます。




ついでながらに紹介しますと、以下もある学生さんが授業の感想の一環としてWebCTシステムに残してくれた文章です。私としては抽象的な概念をできるだけ生活実感の中で理解することを奨めているので、学生さんはしばしばこのような文章を書いてくれます。



NA君: コーヒーと授業


先頃日記を読み返していたら、今回の授業と関わる(とおぼしき)話が出てきた。またぞろよくわからない話をしてしまうことになるかもしれないが、ご容赦願いたい。

留学から帰ってきてからしばらくの間、留学中足しげく通い詰めたカフェの、『あのコーヒー』を再現しようとしていた時期があった。具体的な内容は割愛するが、とにかくありとあらゆる思いつきを試した。しかしそうして淹れたコーヒーは、『あのコーヒー』には遠く及ばなかった。そこで私は、あの味が出せないのは技術面の問題と考え、有名店を巡って技術を教えてもらう(盗む)ことにした。そんな折、懇意の豆屋に教えてもらったカフェに行く機会があった。

その店の主に「『あの味』を再現できなくて悩んでおり、技術面の問題だと思うので見学させてほしい」と伝えると、彼は少し笑って、「それはね、きっとコーヒーじゃないですよ」と言った。聞けば、彼は先代バリスタが亡くなってから、『あの味』を完璧に再現しようとしていた時期があったが、やがて「同じ味は絶対に出せない」と気づいたのだと言う。彼に言わせれば、『味』は単純に豆や焙煎などの『コーヒーに直結する要素』だけではなく、採光、音楽、雰囲気、ヒト、コミュニティとしての性質などの『空気』が関係するのだそうだ。特に「ヒト」は大きな要素であり、「その人の味」や「その時の味」が確かに存在するのだという。だから、そうやって出来もしないことを追い求めるのではなく、「『そのときのあなた』が心から美味しいと思うコーヒーを淹れれば良いのではないでしょうか」とのことだった。

それを聞いた私は、憑き物が落ちたような感覚を抱いた。私がコーヒーの味だと思っていたものは、その時の私の心情を含めた『空気』だったのだ。きっと今、あのカフェのあの席でコーヒーを飲んだとしても、『あのコーヒー』の味ではないのだろう。そう考えるようになって、ようやく自分の淹れたコーヒーを素直に楽しめるようになった。



これらは、そのまま授業にも言えることだろう。教材・教具・指導法など「授業に直結する要素」をいくら真似ても、目標とする授業にはなり得ない。その場で出来る最善を尽くす、と言えば当たり前に聞こえるが、誰しもが持っている「理想」に拘泥しないということは、決して簡単なことではない。そうした時にキーになるのが、exploratory practiceという考え方ではないだろうか。

理想とする何かと比べ、出来ていない点を数えると辛くなるが、現状を良くする為に何かをなし、それによって良くなった点を数えるのは楽しいものだ。私が考える exploratory practice は後者だ。コーヒーでも、挽いた豆のサイズを変えてみたり、抽出温度を変えてみたり、湯量を変えて変化する味を楽しんだりするのは楽しかった。やってみた結果を踏まえて現状を変えてゆくのは、きっと授業でも楽しいはずだ。現状を観察し、自分の起こす変化を楽しむ(そして後始末をする)精神を持てるようになりたいと思った。




さらに紹介しますと、以下は「ルビュ言語文化教育」というメールマガジン(無料)にあった記述ですが、これも教員といった実践者が現場で考え抜くことの重要性を訴えています(ちなみにこのメルマガはお薦めです)。

国語教員たちは,授業方法についてはよく議論していたものの,根本的な教育観については議論していなかった。私が国語能力とは何なのか,何を目指しているのかなど,本質的な質問をすると,「私たちは授業に自負心を持っています」「我が校の国語教育はすばらしい」「いろいろな授業をもっと参観したほうがよかったですね」などと言われ,それ以上つっこむと失礼だというバリアを張られた。私は批判ではなくただ意見交換がしたかったのであるが,その思いは通じなかった。

なぜ現場が閉塞しているのか。それは教師たちが教育について根本的に考え,意見交換をする必要性を自覚していないからである。実習校は私立の伝統校であり,特に何十年にも亘り受け継がれてきた独自のカリキュラムで国語教育を行っている点を学校のアピールポイントの一つとしていることから,相当の自信,自負心を持っていた。しかしその自信や自負心が,現場の閉塞性を生じさせている原因になっていると感じた。

http://archive.mag2.com/0000079505/20130719080000000.html






以上、私なりに概念の理解の仕方、仮説の生み出し方を解説し、いくらかの実例も示しました。無論、これは私なりの方法にすぎず、概念理解や仮説生成には他にもたくさんの方法があるでしょう。大切なことはこういった方法論についてオタク的に論評することでなく、現実生活のあらゆる側面で理解を深め仮説を立てながら考え行動することです。

大学時代にぜひとも考える習慣を身につけてください。





関連記事

コンピュータと人間知性の共進化について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_7852.html

コンピュータ上で「思考」をするために
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_03.html

思考ツールとしてのプレゼンテーションソフト
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_496.html

まとまった文書の作成法
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/blog-post_21.html

栗田哲也 (2012) 『数学による思考のレッスン』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/2012.html





付記

以下の本のある章では、私は優れた現職教員の方々の観察力・分析力・思考力についてまとめました。約7000字の原稿です。よかったらぜひお買い上げの上、お読みください。









追記 (2013/10/12)

アインシュタインも、創造における組み合わせの重要性を語っています。

http://www.brainpickings.org/index.php/2013/08/14/how-einstein-thought-combinatorial-creativity/

しかし、ここでは彼の「イメージ」 (images)、「情動的基盤」 (emotional basis)、「視覚的であり筋肉運動的」 (of visual and of muscular type) に 注目したいと私は考えます。
彼の「組み合わせ遊び」 (combinatory play) による創造は、私たちが考える以上に、ぼんやりとして情動的かつ身体的であるように思います。




2013年7月19日金曜日

教英新入生の4月末での決意 -- 3ヶ月後の今、学生さんはどう変わっているのか(あるいは変わっていないのか)



新学期始まってそれほど時間がたっていない4月26日に私の講座(「教英」)の新入生を対象に「教養ゼミ」の授業を行いました。一昨年は、「『教養ゼミ』での学部一年生へのメッセージ」を使って話をしましたが、今年は以下の記事を中心にこちらでスライドを作り、私が語りかけ新入生同士にも話し合ってもらいました。



北川智子 (2013) 『世界基準で夢をかなえる 私の勉強法』 幻冬舎

学校に行けば行くほど バカになるかもしれない (試験には受かる かもしれないけど)

映画を繰り返して見て、 ついでに英語を身につけよう

ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!

字幕付きの無料動画で楽しく英語を学ぼう!

英語動画で高度な英語説明力をつけよう!

英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう




来週の7/24に私はもう一度「教養ゼミ」でお話させていただく機会を得ました。私は日頃新入生と接することがないので、彼・彼女らがどう変わっているのか楽しみです。

同時に、彼・彼女らが仮になんら変わっていなくても驚きません。長年にわたって植えつけられた思考や行動の習慣を変えることはそれほど容易ではないからです。しかし、もし変わっていたら、もう一度(今度は少し別の方法で)焚きつけようと思っています。

以下は4月の教養ゼミを受けての感想の中で印象的だったもののいくつかです。タイトルは私が勝手につけましたが、文章そのものには(ごく些細な修正を除けば)手を入れていません。もしよろしければお読みください。



*****



HSさん: 自ら調べ、考え、解決していく学び

  私は柳瀬先生が書かれた記事を読み、試験合格を最終目的として効率ばかりを追求するような教育法は、実社会に出ていく人間に対して反教育的であるとも言える、ということに対して深く共感するとともに、自分が高校時代にお世話になった学校の先生方のことを思い出しました。

  私は一般入試を受け、この教英に合格しました。また、私の母校は中高一貫の進学校であったため、中学校の頃から「大学受験に向けて」組まれたカリキュラムに沿って学習してきました。そんな中で、私はふと在学中に「この勉強には果たして意味があるのだろうか」という考えが芽生えることがありました。それはこの記事に書かれているように、当時受けていた授業が入試に合格するためだけの効率ばかりを追求した、whyのないものであったからなのだと思いました。

  しかし、私が高校3年生の時に英語を教わった先生は、それまでとは全く違いました。ただ文法を教えたり、単語の意味や発音を教えたりするのではなく、あるテーマに沿った英文を生徒に読ませ、その文章が書かれた時代背景や歴史、思想などについても興味深い話をしてくださりました。もちろんそのような知識は、センター試験や大学入試(広島大学以外のことはよく知りませんが)では出ることはほとんどありません。しかし、私自身もそのようなことに疑問をもつ方であったので、とても面白く、通常の英語の授業という枠を超えた学習をすることができました。

  またその先生は、授業で取り扱ったテーマについて疑問があれば、自分で調べ、まとめ、それでもわからなかったら先生に質問するといった形で生徒に学習させていました。それは、とても手間のかかる学習法です。入試に合格するためには、非効率的であるかもしれません。しかし、この記事にもあるように、効率主義的な受験勉強ではなく、手間はかかろうとも創造的で探究的な喜びを感じられるような学習は、自ら考え行動しどんな状況にも対応していく力を養うためには、必要不可欠なものだと思います。私もこのように、生徒自身の中のwhyを呼び起こさせ、自ら進んで学ぶことの楽しさを伝えられるような指導ができたらいいなと思いました。このたび拝見した記事は、私は将来どのような教師になりたいのか、という教師像を改めて考えるきっかけとなりました。

  柳瀬先生が進められている英語の勉強法について、身体と状況が繋がりを持つ映画を何度も何度も見る、というのはとても効果的だと思いました。ただ文字として書かれた英語ではなく、その英語の正確な意味やニュアンスを感じ取るためには、やはり映画のようにその英語が使われる場面や発話者の表情からそこで話される英語の表現を感じとることが必要であると思うからです。英会話について、私は、英語の論文を読むのは高校時代からかなり練習していて得意な方なのですが英語を話すことは苦手なので、初級者だと思います。これから、先生が進められている「集中的入出力訓練」を実践してみようと思います。

  最後に、私はこれらの記事を読み、大学ではただ授業を受けテストに合格し単位をもらうというのではなく、授業を受けていく中で疑問が生まれたら、自ら調べ、考え、解決していくよう心がけていこうと思いました。



AS君: 私の知っている英語は本当の英語なのだろうか

  私は課された課題文を読んで、これからの英語学習に対する考え方を改めねばならないと、そう感じました。「これから」というのは大学在学中に限ったことではなく、英語教師になってからも、さらには生涯を通してずっとかもしれません。

   課題文にあったように、英語教師にいま要求されているのは高度な英語説明力だと思います。複雑な内容を簡潔に説明し、相手に信頼感を与える説明力とありましたが、まさしくこれこそが英語を学習する者としての素質の一つだと納得しました。しかし、それを現在の自分、もしくは英語学習者としての過去の自分に当てはめた時に、私にはその素質があるのだろうかとふと考えました。答えは「NO」でした。

   先生のおっしゃる印象的な要約、的確な用語選択、複雑だが分かりやすい文法構造、訴求力あるデータ表示、魅力ある画像提示、明瞭な発音、魅惑的な発声、音楽的抑揚、大胆な律動、豊かな身体表現といった要因に対する私の到達度はお世辞にも高いとはいえません。だからこそ、上記の自問に「YES」と答えることができませんでした。

   では、なぜ私の到達度は充分な段階に達していないのか、そのことについて分析してみました。すると、その原因は私の英語に対する向き合い方にあるということが分かりました。私的な話ですが、予備校で2年間浪人していたこともあって、私は受験英語としての英語にしか触れてこなかったのです。大学に合格するために、他の受験生よりも点数を取るために英語を勉強してきました。だからこそ、私はこう思うのです。私の知っている英語は本当の英語なのだろうか、と。

   そう考えてみると、私はまだ本当の英語を知らないのだと思いました。先述の印象的な~とか、音楽的な~とか、豊かな~など、受験英語だけでは身に付かない本当の「生きた」英語をいかにして身につけていくのか、その方法の一つが先生のおっしゃる優れた英語動画を観ることだと思います。これが私の決意したことでもあるのですが、今まで映画を英語の音声や字幕で見たり、英語動画を繰り返し見たりする等の学習方法を実践したことがありません。なので、これを実践していこうというのが私の決意です。生き生きとした躍動感のある英語表現に触れることはどんなに楽しいことだろうかと期待もしています。

   私は英語教師になりたいです。英語のあらゆる側面を生徒に伝えることのできる教師です。ですが、このままでは私は受験でのみ通用する英語しか教えられない教師になってしまいます。だからまず、自分から変わりたいです。そのために英語に対する向き合い方を改めていきます。生徒に教えるためには、教師自身が生きた英語を身につけておかなければなりません。今回の課題文ではそのきっかけを見つけることができたと思っています。





OT君: 正直なところ、大学でこういう「勉強したい」と思うような話が
聞けるとは思っていませんでした

 記事を読んで感じたことは、自分の英語学習に対する意識や方法が間違っていたということです。高校時代はとにかく大学受験に受かることばかり考えてひたすら単語帳を読む、ひたすら過去問を解く、ひたすら英文をリスニングするという勉強方法でした。当時、英作をしたときに別解が出た時、「覚えやすい解答を覚える」という方法を取っていた事を思い出します。クラスメイトの中にはその別解を見て「なぜ自分の答えはダメなのか」「自分の答えとはどこが違うのか」と質問を度々している人もおり、自分はそれを見て「なぜあんな無駄な事をするのか。答えを覚えればいいだけなのに」と考えていました。柳瀬先生のおっしゃる「バカ」になっていました。TEDに関しても、高校時代に塾の先生に見てみるといいとは言われていましたが、「受験が忙しいから」と言い訳をして見ていませんでした。

 先日のメールでも書いたと思いますが、大学ではスピーキングの機会が増え、今まで受験の中では自信のあった英語がまったく活かせず、自信を失っています。これからは受験英語から言語としての英語を学ぶようにしなければなりません。僕は洋画が好きで、小学生、中学生のころには数百の作品を見たので、面白い作品がいくつか記憶にあります。柳瀬先生の記事に具体的な洋画や字幕の活かし方があったので、「面白い作品」を「面白い教材」として使っていきたいと思います。その中で、きっと高校時代に機械的に覚えた単語も言語として使える物になると思います。

 大学での勉強はどう取り組めばいいのかよくわかっていませんでした。先輩からは「この講義は単位が取りやすい」というような話ばかり聞かされ、僕自身、教員免許さえ取れればあとは遊べるという考えになりつつありましたが、教育の現場が変わりつつある今、意識を変えてよりよい教師になるために勉強をすべきだと感じました。柳瀬先生の講義と記事はいい刺激になりました。正直なところ、大学でこういう「勉強したい」と思うような話が聞けるとは思っていませんでした。ありがとうございました。





HF君:「なぜ?」から好奇心へ

  僕はこの広島大学に入るまで、高校で受験に合格するためだけの学習をしてきたのだと痛感しました。おっしゃるように、‘why’を追求する精神が欠落してしまっているかもしれません。しかし思えば、僕の高校の世界史の先生は、「なぜ~なのか?」「どうやって~?」をその都度徹底的に教えてくれました。また、ただ教えるだけではなく、生徒に質問をしてから、教えるという体制をとっていました。正直、無理して短い時間を削ってやる必要はないのではないか…?と考えた時もありました。(実際、授業が急ぎ足になったこともありましたし。)この文章を読み、改めて思い出してみると、‘why’を教えてもらっているときは楽しかった気がしました。その答えが印象的であればあるほどその範囲の世界史はどういうわけか覚えやすかったりしました。僕が世界史を好きだったのはその先生の授業の仕方によるものなのかもしれないと思いました。おかげで、自分から興味を持って、空き時間に特に試験に出る可能性もない資料集の片隅を見て、友達と無駄に覚えあい、クイズをだしあう、また部活の文系メンバーも全員世界史が好きで、(少し異常かもしれませんが)筋トレ中に世界史用語でしりとりなんかもしていました。勉学における、「なぜ?」や「どうして?」に興味を持つとある種の楽しみをもって勉強できます。学習に楽しみを見つけることが重要だと考えました。

  僕は試験の現代文の評論などで新たな考え方、知識が手に入ることが好きでした。だから紹介していただいた、英語で書かれている雑学や英語の動画は、非常に僕自身興味をもちながら英語を学ぶことができるという最高の学習だと思いました。今までインターネットは娯楽にしかすぎないと考えていた自分にとって革新的でした。映画はもちろんこれらの手段を使って英語を学習したいです。単語集などは極限抑えて、生の英語に触れ、その英語を使うことをしていきたいと思いました。今の段階ではまだ頭のなかで考えながら英語を話している僕だが、この学習法で身体に身についた英語、いうなれば「身体の延長としての英語」を目指してやっていきたいです。





SK君: 教員になって社会の「ものさし」を変えたい

  私がこれらの文章を読んだ後で一番深く考えさせられたことは、現実と理想との大きなギャップでした。そして全ての記事を読んだ後で、私の考えの中心的な役割を果たしてきたのが「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)」の記事でした。

   恥ずかしい話ですが、私の高校時代は特に部活動に積極的に参加しているわけでもないのに成績はひどいものでした。偏差値が全てではないかもしれませんが、高校三年生の私にとって50にも満たない偏差値を見ることは自己責任だとは言え、非常につらいものでした。当時の私はこの記事の内容のようなことを全く考えることもなくただ丸暗記をして、どうして?(why?)などという感情はむしろ自分にとって有害なものだと感じていました。そして残念なことに実際に現代の受験の仕組みはそのような姿勢で挑むことが一番の必勝法のようにも思われます。そして自分もそうであったように受験生は受験を終えてつかの間の味気ない達成感を感じたあとはせっかく得た知識や教養をあっけなく忘れさってしまいます。

   こんな事を今の受験生に言えばきっと奇麗事だといわれてしまうでしょうが、興味や楽しさの沸かないような学習を迫ってくるような現代の受験の風潮に乗っかるくらいなら、いっそ自分が追及したいと感じる学問を自分なりの方法で徹底的に追求してもらいたいと思います。しかし、そんなことを実際にしてしまうと教師からは、我侭といわれ社会に出る際にも不当な苦労を強いられるでしょう。

 そこで将来、高校の教員を目指す私が教員になってからの目標として定めたことは、社会の「ものさし」の定義を変えることです。今の学生はいかに決められた事柄を覚え、いかに良い学校に入るかによって測られ社会に出る際の待遇が変わるという傾向がやはり強いような気がします。そんなくだらない「ものさし」を私は、自分を熱くさせる学問を徹底的に追求し続けることのできる人間こそが報われるという「ものさし」に変えたいと思いました。

   具体的にはまず、将来自分の専門になるであろう英語からはじめたいとおもいます。他の記事で見たような学習方法、いや英語を感じる方法は本当に自分にぴったりな手段だと思いました。自分は映画が本当に大好きでひどい時には、ツタヤの店員に覚えられてしまいました。はじめは苦労も多いでしょうがこの方法で自分の乏しい英語力を趣味と一緒に楽しみながら伸ばしていこうとおもいます。

  しかし、映画が大嫌いだという学生もいるかもしれない、自分とは全く違う趣味をもつ学生もいるかもしれない。そう思うとふと、不安になりました。だから私は、この大学での四年間または六年間の中で教英の仲間はもちろん先輩、後輩、教授、異文化の人々と仲を深め、多くの人の価値観に触れることで将来出会う自分の生徒の本質を理解する力を身につけようとおもいました。
 英語という多くの人との輪を広げることのできる道具の魅力を伝えることのできる教員になることを私はこの大学で目指します。



NAさん:このままでは、どんどんバカになって、なんとなく大学生活を終え、
思い描いているような教師にはなれないと思います

   私は最初の文章である、”学校に行けばいくほどバカになるかもしれない”という題に衝撃を受けました。そして、なぜそう考えられたのだろうかと疑問に思い、文章をすべて読んだうえで納得しました。

   私も常々受験勉強に対して疑問を抱いておりました。なぜこんな詰め込み学習をさせられるのか、この勉強は将来必要であるのか、受験が終わればみんな忘れるのに何のために覚えているのか、などです。さらに、勉強したことをいざ実生活で生かそうとしても、常日頃座学中心な分、なかなかうまくいきません。このような教育制度に疑問を感じつつも「勉強を継続する力や、効率よく作業できる力を身に付けているのだろう」と勝手に解釈して一人で自己完結していました。

   しかし、この文章を読んで、やはりそうではなかったのだと感じました。詰め込み学習では、実際の生活であらゆる物事に対応する力が身に付きません。物事に対応するとき、人は自分で考え、あらゆる解決方法を挙げ、その中から最適であるものを選択しなければならないからです。日頃whyの思考を捨て知識だけを蓄えた人間は、そのようなことができないと思います。いつも自分で考え、行動し、身に付けた知識を実生活に生かすことが大切であり、そのような人間がいわゆる”生きる力”を持っているのだと感じました。

   さて、それがわかったところで、自分は何をすべきなのか。私は高等学校の英語教員になりたくて教英にきました。しかし、入学してから今まで、受け身で授業を受けており、Whyの精神を持って積極的に勉学に励むことはできていないように思います。このままでは、どんどんバカになって、なんとなく大学生活を終え、思い描いているような教師にはなれないと思います。

   そこで、ほかの文章も読んで考えたことは、自分のペースを守って楽しく積極的に学ぼう、ということでした。詰め込みの英語学習はやめて、実際に使える英語を身に付けよう、そして自分も生徒に使える英語を教えられる教師になりたいと感じました。英語は言語です。母語を習得するとき、人は座学をしているわけではありません。英語習得も、耳で聴き、口で話して習得することが大切であると学びました。私はシャドーイングが好きなので、洋画や洋楽などをたくさん聴いて、たくさん話そうと思います。このように、英語を自然と体に身に付けて、それを実生活で使えるように、さらにはその体験を生徒にさせることができるような教師を目指して、自分のペースで頑張りたいと感じました。

   これらの文章を読んで、自分の学習や英語に対する考え方が大きく変わりました。ありがとうございました。



KSさん:生徒に英語の面白さを伝えられ、英語を好きになってもらえるような
授業をする教員になろう

  Don’t study English. Use it. という言葉が印象に残りました。柳瀬先生のおっしゃる、捨てるべき・変えるべき英語の勉強法に、自分ががちがちに縛られていたことを6つの記事を通して自覚しました。記事の中にあった大学新入生と同じく、私も単語集で勉強を再開しようとしていました。耳と口を重点的に訓練するべきだと知ることができたので、TED、パソコンを使ったラジオ英会話(ラジオ英会話は母にすすめられ、今年からしようと思っていたのですが、アパートに電波が届かず挫折していました。ぜひ利用してみたいです)等の学習法を取り入れてみようと思います。また、YouTubeもTEDのように英語の勉強ツールになり、しかも自分の気になる単語から動画を検索・視聴できる、というところがとても良いなと思いました。機械が本当に苦手なので、少しずつ自分用に設定を変えていこうと思います。

  高校時代、私の周りには英語嫌いの友達、嫌いじゃなくとも英語学習に面白さを感じず、淡々と学習している友達がいました。友達は、なぜ海外で働く気が皆無なのに英語をこんなに勉強しないといけないのかと言っていましたが、記事を読んで、友達の英語嫌いは毎週のように行われた単調な単語100問テストや、脱線なく息の詰まるような授業を通して、英語=苦痛・入試に出るから勉強しないといけないもの、だと感じたことが原因だったのではないかと思いました。しかし、与えられた授業時間の中で生徒が希望する大学に行けるように授業を効率よく行わないといけない教師の立場を考えると、面白くて力のつく授業を行うことの難しさを改めて感じました。また、先生のおっしゃるwhatとhowばかりでwhyのない授業や説明が学びの姿勢として改善されるべきものだ、ということは納得したのですが、じゃあ英語という言語・授業におけるwhyは何か?自分が授業をする時、どんなことをwhyとしてとりあげるのか?と自問したときに答えを思いつくことができませんでした。読書で自分の視野を広げ、教養をつけるとともに、四年間の広島大学での授業や授業外での活動を通して答えを見つけていこうと思います。

  また、英語字幕がなぜ日本語字幕と違い、実際の音声とあまりずれがないのかも知ることができ、英語字幕の効果が分かりました。一人称単数を考えてみても、英語がIという一つの言葉で表現するのに対して、日本語は表現する言葉の数が多い(私・あたし・うち・俺・僕・わし等)ことを再認識し、日本語と英語の言語の違いが身近な映画に現れているなんて?と、ちょっと感動しました。

(中略)

  行きたかった教英に入れたからには、英語や英語圏の文化に深い教養をもち、生徒に英語の面白さを伝えられ、英語を好きになってもらえるような授業をする教員になろうと思います。そのためにも友人と情報交換を欠かさないようにしてTOEICもTOEFL-ITPも英検も毎回受験するよう心掛け、柳瀬先生がおっしゃるように、授業の中でも外でもよく学び、よく遊ぶ充実した大学4年間を送ろうと思います。



NKさん: whyと問うたものを解決させた過程が自分の中に残っていく大切な英語力

   柳瀬先生が書かれた6つの記事を読んで、まず私は英語で映画鑑賞をして英会話力を身につけていこうと思いました。高校生のころから、英語も一つの言語であるから、ただ問題集を解くだけではいけないと思い、リスニング用問題集のCDを使ってスクリプトを見ながらシャドーウィングしたりリピーティングしたりしていました。しかし、リスニング問題用に作られた英文なので、それが実際の英会話として使われている表現かどうかが分からず、ただ英語を発音しているだけになりつつありました。でも、映画はほとんどが実際に使われている英会話なので、覚えるくらい繰り返し練習すれば、自分の口から自然な英語が出てくるようになるので、最も短く、で楽しみながらできる英会話学習なのではないかなと思いました。日本語のバージョンのストーリーを知っている映画を使って少しずつ英語でも理解できるようになれたらいいなと思っています。

 次に、英語を学んでいく際に、“why”と問いながら勉強していきたいと思いました。今まではどうしても大学合格という目標をもとに、受験英語としての英語を学んできていることが多かったので、whyと問う間もなくwhatやhowだけで英語学習を進めていました。でも、一番必要なのはwhyと問うことであってそのwhyと問うたものを解決させた過程が自分の中に残っていく大切な英語力なのではないかと思います。やはりwhatやhowだけの英語学習は、ただの機械的な作業であり、そこで身につけたものはある程度時間が経過した後すぐに忘れられてしまうものなのではないかなと思います。だから、whyと問ったものを解決させていった過程を大切にして、英語学習を進めていきたいなと思います。

 また、将来、英語教員を目指すものとして、やはりただひたすら問題集を解いて身につけた英語力だけでは生徒へ指導しきれないと思います。実際に使われている英会話を身につけ、使ってみてインプットすることができてはじめて生徒へ指導することができるのではないでしょうか。また、国際化がすすみ、日本人の英語力強化が求められている今だからこそ、私たち教員が自然な英会話力を身につけて、教壇に立つべきだと思います。そんな実践的な英会話が自然と口から出てくるぐらいまで、耳と口を使って英会話力を身につけていかなければいけないなと感じました。

 最後に、やはり英語も日本語と同じ言語です。ただひたすら問題集を解くだけではある程度以上は身につかないかもしれません。また、問題集を解くという機械的な作業を繰り返すだけではいつかは疲れてやめてしまうかもしれません。ある程度の単語力は必要だと思いますが、英語での映画鑑賞という楽しみながら英会話力を身につけることができるのは本当に良い学習方法だと思います。人間、楽しいものなら続けられると思うので、映画を使ってコツコツ自然な英会話力を身につけていきたいなと思いました。そうやって身につけた英会話力の成果がTOEICやTOEFLの成績につながるよう、日々努力を重ねていきたいと思います。



OMさん: 大学で学ぶにあたって、このもやもやを解消しようとする姿勢を
大事にしようと思いました

 今回は、主に「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)」を読んだ感想を提出します。

 まず、本文を読む前に、バカとは何かを考えました。とっさに、勉強ができない人(つまり成績が悪い人)、学力とは無関係に、社会に適応する能力が足りない人の二種類が思い浮かびました。柳瀬先生の指すバカは、後者に近いものと考えます。

 私は先生がおっしゃる通り、学習には「why」が必要だと思います。私は、「why」を突き詰めようとすればするほど、今自分がどこにいるのか分からなくなってしまうタイプだったため、最終的には「what」「how」を詰め込む人間になっていました。それが、確かに、最短経路だと信じ、今この状況(最近でいうと大学受験)では、回り道をする余裕はないと考えたからです。

 私は「why」を自分が納得いくまで突き詰めなかったことを、特別後悔はしていません。小中高での学びは大学での研究につながるものですが、まず、大学に入ることができないと、研究現場にたどり着くことすらできない。だとしたらやはり、その先の発展を見込めるかどうかは別として、とにかく頭に知識を詰め込むしかなかったように思うし、高校時代の私に、「why」を求める精神的余裕も、時間もありませんでした。後悔をしていないと述べたのは、結果的に今このように志望大学に合格できたからです。

 「why」の探求を世間が避けようとする理由のひとつに、単に時間が足りないから、ということが挙げられると思います。実際、私もそれを理由に避けてきました。しかし、一度「why」の答を追い求めることを知った生徒は、通常(淡々と受身の勉強をする)より速いスピードで勉強が進められるのではないか、もしそうなれば、結局「why」を重視する授業内容にしたところで、全体として教師が生徒に提供できる知識の量はさほど変わらないのではないか、とも思うわけです。その生徒が学ぶ教科に抱く興味関心の度合いにもよる(いくら「why」の答を見つけたとしても、それにどの程度生徒が興味を持つかは人それぞれであるでしょう)と考えたら、「why」をもっと織り交ぜた授業をすることはやはり難しいのかもしれませんが、現状のままだと、先生のおっしゃる「バカ」の増加を食い止めることは難しいと思います。

 日本で最高峰の進学校と言われる灘高校や開成高校の生徒には、どれくらい「バカ」がいるのでしょうか。やはり彼らのレベルまでになると、「why」を追求することが慣習化しているのでしょうか。だから頭が良い(ここはストレートに成績が良い)のでしょうか。やはり彼らは「バカ」ではないのでしょうか。
 
 先生の記事を読んで、いろいろなことを考えたのですが、いろいろなことを考えすぎて、上手く文章にできませんでした。気づいたことは、今の自分に「why」を求める心があるということです。今すごくもやもやしているのですが、この、答を求める感触が大切なのかなと考えます。
 大学で学ぶにあたって、このもやもやを解消しようとする姿勢を大事にしようと思いました。これが私の決意です。


*****


学生さんの感想の紹介は以上です。

「教英」では教員志望の学生さんが圧倒的に多いのですが、私は教英を「教員採用試験対策予備校」のようにするつもりはまったくありません。徹底的に「教える-学ぶ」ということについて考え直して、同時に英語教員として英語をしっかりと「身につけて」ほしいと考えています。

「教える-学ぶ」ということについては、やや挑発的なタイトルをもつ以下の本が面白いです。古今東西の作品からのさまざまな引用もありますから、教養の幅をつけたい学部生さんにはいい読書になるかとも思いますので、ここでお薦めしておきます。













2013年7月17日水曜日

「教師は学校の中で育つ」 -- 亘理先生のコメントを受けて





■ 教師集団としての成長と世代間継承の仕組み --それは複合的なものに決まっている!



静岡大学の亘理陽一先生が下記ブログ記事でコメントを寄せてくださり、上記で私が「教師は専門職であり、大学・大学院教育だけで十分な教育をすることは不可能で、在職中の研修が不可欠である」と表現したものの、それだけでは十分に意味が伝わらない(あるいは誤解・曲解されてしまう)点について詳しく補ってくださいました。亘理先生に感謝すると同時に、ここでその記事のURLを紹介します。




教員養成の「破綻」を引き寄せるもの

http://watariyoichi.blogspot.jp/2013/07/blog-post_17.html




その一部をここでも引用します(強調は柳瀬が加えたものです)。



「大学の『英語教育学者』の責任」を棚上げしたくて言っているわけではない。要するに,個々人に過度な期待を課すのではなく、「教師集団としての成長と世代間継承(の仕組み)」という視点も加えてこの記事を読んでほしいということだ。

「きちんとした発音指導ができず」「中学生が英語の文字・単語が読めないことを『こんなもんだ』と諦めてしまっている教師」や、「いいかげんな音読と直訳だけの授業)しかしない教師」はともかくとして,そもそも,新人教師が現場に加わるために必要な「力量」とはどのようなものか,コンセンサスがあるわけではない(実態としては「教員採用試験」というハードルがあるのみ。これは教師教育研究が引き取るべき課題だが)。

そして,新人教師が時間をかけて育ち,その成長を支援する中で中堅・ベテラン教員もまた自らを省みる。そういう仕組みを崩壊させてきた,あるいは継承可能な形で作ってこなかったのだとしたら,その責任は誰にあるのか(複合的なものに決まっている)。

パッチワークのように「研修」をつぎはぎしてどうにかなるというような発想も限界だと思う。細切れの研修を外から押し付けるのではなく,教師(集団)の取り組みを支援し,それが結果として「研修」となっているような仕組みが必要だ






この記事で亘理先生はご自身の過去記事にリンクをはっていますが、その記事の中にも共感する箇所がありましたので、そこも引用します。



むしろ教師集団として、年齢も経験も得意・不得意も異なる同僚とどう仲良くケンカしながら専門的文化を構築し、毎日の実践と職務に七転び八起きしながら成長し続けるか、その環境をどう作ろうとしているか、それこそを厳しく見ることが重要だと考える。現時点でどういう地平にいようと教師は教師であり、違う地平にいようと同僚は同僚なのだ。私は以前、学習者について以下のように書いたことがあるが、これは英語教師(集団)にも当てはまると考える(亘理 2010: 30。カッコ内は引用にあたって追加した)。

外国語としての英語(の教育)に関する能力は、それ自体が多面的で、人間の多様な能力・価値の一部に過ぎないのだから、それを学ぶ(そして教える)過程は、人間性やものの見方・考え方を豊かにするものではあり得ても、人を選別したり自尊心を傷つけたりするものであってはいけない。


この点でも、即物的完成品としての教師像は、専門職のダイナミックな成長についての考察を欠いており不毛だ。英語教師としてのfundamentalsの議論はあってもいい。叱咤激励もよろしくどうぞ(「ダメだ」とか「辞めろ」は叱咤激励にあらず)。しかしそれにしたって、色んな教師がいていいじゃないの。学習者の成長を温かく見守れるんなら、教師の成長も温かく見守ってよ。







■ 父性原理と母性原理のバランス

「教師は学校の中で育つ」と私も確信しています。私は大学・大学院で教師教育に全力を尽くしていますが、実際の学習者集団も同僚集団もいない大学・大学院という環境で実践家としての教師の力量が十全に育てられるわけはありません。

また、仮に「完成品としての教師モデル」(亘理先生の用語です)を厳しくして教員としての採用時の基準を高いものにしても、それはまさに新自由主義的発想であり、就職不安に怯える若者にさらに過剰な負担を求め、一部の「生き残り」と引き換えに、大量の脱落者を生み出す恐れがあると私は考えます。

新自由主義的発想を持つ人なら「生き残りのために死力を尽くすこそが当たり前ではないか!」とおっしゃるでしょうが、私はすべての子どもを育てようとする発想が強い学校(特に義務教育)の人間の採用に、(私からすれば)過度の競争的風土を導入することには賛成できません。

河合隼雄氏のことばを借りるなら「我が子は良い子」という包摂的な母性原理と、「良い子は我が子」という選別的な父性原理の両方がバランスよくあるのが理想なのでしょうが、新自由主義的発想はどうも父性原理が強すぎるのが気になります。と言いつつ父性原理が欠如してしまえば、これまたとんでもない事態になりかねないのが人間というものでしょう。

下の引用は毎日新聞の報道(2013年4月14日)ですが、この自民党の教員制度改革案も、下手をすれば教員志望の若者の多くの士気(そして健康を)深い所で損ないかねないものだと私は懸念しています。



公立学校教員の免許・採用制度改革を検討している自民党案の概要が13日、分かった。教員希望者に「准免許」を与えて学校に配属、「数年の試用期間」を経た上で「本免許」を与える「インターン制度」を導入し、指導力向上を目指す。本免許を与えた教育委員会が任免権を持ち、責任を負う。現在の制度を抜本改革する内容で、党の教育再生実行本部や政府の教育再生実行会議の議論を経て制度設計に入る。指導力向上を目指して民主党政権時代に打ち出された「教員の修士レベル化」は事実上、凍結される見通しとなった。

現在の教員免許制度では、大学などで教員養成課程の単位を満たせば、卒業時に免許が与えられ、採用試験に合格した自治体の学校で勤務する。1年間は試用期間になっている。中央教育審議会は昨年8月、指導力不足解消のため、教員を「大学院の修士レベルを修了する」とする内容を答申していた。これに対し、自民党内では「大学院で勉強すれば指導力が向上するものではない」と異論が出ていた。

 関係者によると、大学などで教員養成課程を満たした教員希望者に卒業後にまず「准免許」を与える。採用試験を経た上で、希望勤務地の教育委員会を通して学校に配属し、常勤講師と同じ待遇で勤務。場合によっては学級担任や部活動も受け持ちながら「試用期間(インターン)」として学校に所属する。期間は3年または5年を軸に検討が進む方向だ。 (後略)

http://mainichi.jp/select/news/20130414k0000e040122000c.html







■ 教員集団の自発的・自生的な連帯

さらに上記の自民党改革案では、教育委員会が研修によって教員の指導力向上をはかるとなっているようですが、制度的な研修(特に所属する学校という文脈から離れた研修)には明らかな限界があることは、佐藤学先生も指摘する通りです(参考記事: http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/06/blog-post_19.html)。







ですが、学校現場はどんどん多忙化し管理化され、教師は次々に相互扶助する時間も体力も気力も奪われてきています。

そんな中、著書を著す教員も多くいます。一例として私がこの9月に出る大修館の『英語教育 増刊号』の年間書評で取り上げた笹達一郎先生の言葉を引用します。


2010年代には、学校現場で働く数多くの教師が退職し、新しい教師が教壇にたちます。自治体によっては、この10年間で学校現場の半数が退職されるケースもあります。学校ではいったいどのようなことが起こるのでしょうか。

教師が教科指導の専門としてある程度一人立ちするまでに、10年近くかかります。ベテランの現象と若手の増加。専門的知識やジギュつは研修等でも伝達されるでしょうが、経験や観、コツなどの知恵の部分については学校現場での経験の中でないと継承が難しいものです。年齢構成のアンバランスな学校現場の中で、授業づくりの知恵はどうなっていくのか。これが私の心配していることです。 (笹 2013 3ページ)





同じような思いから大塚謙二先生(8/10のシンポにも登壇します)も下の本を出版しています。






また、大塚先生はさらに近刊でより英語教育に特化した『英語教師力をアップする100の習慣』も出版します。



さらに大塚先生も講師としてしばしば登場する「英語教育達人セミナー」(達セミ)は、18年もの長きにわたって全国で継続・展開している教師による草の根研修です(「自分たちの研修は自分たちの手で!」)。私は達セミ15周年お祝いメッセージでも書いたように、「達セミを語らずして、現代の日本の英語教育を語ることはできない」と心底思っています。まだ達セミ・メールマガジンを購読していない人はどうぞこれを機会にぜひ購読してください(無料ですし、購読によるなんの義務もありません)。




メールマガジン「英語教育の達人をめざして」

http://www.mag2.com/m/0000014984.html




しかしこのような教員による自助努力ができるのも、教員の身体と心(そしておそらくは魂)が健康に保たれてのことです。

教師をいたずらに管理し、教師の自主性・自発性を奪い、とても有益とは思えない書類仕事などで気力・体力を消耗させることは、教師の力量を損ない、ひいては次世代の子どもの潜在力までも損ねてしまいます。

言いたいことはいくらでもありますが、それこそ私の気力・体力(そして時間)が尽きて来ました。でもこの記事を書く気力・体力を与えてくれたのは、亘理先生が現職教員に対してもっているであろう連帯感・同僚性であり、それに喚起された私がもつ現職教員(特に卒業生)に対して感じている連帯性・同僚性です。教師・教育関係者の皆さん、連帯しましょう(←って、お前はチャップリンか! 笑)









I’m sorry, but I don’t want to be an emperor. That’s not my business. I don’t want to rule or conquer anyone. I should like to help everyone - if possible - Jew, Gentile - black man - white. We all want to help one another. Human beings are like that. We want to live by each other’s happiness - not by each other’s misery. We don’t want to hate and despise one another. In this world there is room for everyone. And the good earth is rich and can provide for everyone. The way of life can be free and beautiful, but we have lost the way.

Greed has poisoned men’s souls, has barricaded the world with hate, has goose-stepped us into misery and bloodshed. We have developed speed, but we have shut ourselves in. Machinery that gives abundance has left us in want. Our knowledge has made us cynical. Our cleverness, hard and unkind. We think too much and feel too little. More than machinery we need humanity. More than cleverness we need kindness and gentleness. Without these qualities, life will be violent and all will be lost....

The aeroplane and the radio have brought us closer together. The very nature of these inventions cries out for the goodness in men - cries out for universal brotherhood - for the unity of us all. Even now my voice is reaching millions throughout the world - millions of despairing men, women, and little children - victims of a system that makes men torture and imprison innocent people.


To those who can hear me, I say - do not despair. The misery that is now upon us is but the passing of greed - the bitterness of men who fear the way of human progress. The hate of men will pass, and dictators die, and the power they took from the people will return to the people. And so long as men die, liberty will never perish. .....

Soldiers! don’t give yourselves to brutes - men who despise you - enslave you - who regiment your lives - tell you what to do - what to think and what to feel! Who drill you - diet you - treat you like cattle, use you as cannon fodder. Don’t give yourselves to these unnatural men - machine men with machine minds and machine hearts! You are not machines! You are not cattle! You are men! You have the love of humanity in your hearts! You don’t hate! Only the unloved hate - the unloved and the unnatural! Soldiers! Don’t fight for slavery! Fight for liberty!

In the 17th Chapter of St Luke it is written: “the Kingdom of God is within man” - not one man nor a group of men, but in all men! In you! You, the people have the power - the power to create machines. The power to create happiness! You, the people, have the power to make this life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

Then - in the name of democracy - let us use that power - let us all unite. Let us fight for a new world - a decent world that will give men a chance to work - that will give youth a future and old age a security. By the promise of these things, brutes have risen to power. But they lie! They do not fulfil that promise. They never will!

Dictators free themselves but they enslave the people! Now let us fight to fulfil that promise! Let us fight to free the world - to do away with national barriers - to do away with greed, with hate and intolerance. Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men’s happiness. Soldiers! in the name of democracy, let us all unite!

http://www.charliechaplin.com/en/synopsis/articles/29-The-Great-Dictator-s-Speech




追記

ノリでチャップリンを引用してしまったけど(笑)、現代に"Dictator"がいるとしたら、それはおそらく特定の個人ではなく、現代社会を動かしている「システム」全体なんだろうなぁ。





現場教師が匿名でも投稿できる投書箱「英語教育:学校教師の声」を設置しました。ぜひご活用ください。







私は大学教育学部に勤務し、英語教員養成および現職教員教育を仕事としておりますが、その中でもっとも重要な任務だと考えていることの一つは、現場の声を聴き、そこから学ぶことです。

この度、「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」のイベントの開催に伴い、学校で英語教育に携わっている教師の正直で率直な声を集めるためのウェブ版投書箱を設置しました。

この投書箱「英語教育:学校教師の声」は、上記イベントだけでなく今後とも学校英語教育改善のために使ってゆきたく思っておりますので、このブログ記事でもお知らせする次第です。趣旨ご理解の上、ご活用していただけましたら幸いです(投書箱へのリンクも自由です。どうぞご活用ください)。











概要を確認しておきます。



■ 目的

さまざまな差し障りから実名での発言がしにくい学校英語教育関係者の正直な声を集めることで、学校英語教育の改善を図る。



■ 投書を期待している方々

何らかの形で学校現場で英語教育に携わっている当事者の方々。



■ 投書の取り扱い

管理者である私(柳瀬陽介:広島大学教育学研究科英語文化教育学講座教授)が随時集まった投書を見て、適宜それを引用したりして、英語教育の現実理解を深めるための活動をします。すべての投書を引用したりするわけではありません。



■ 匿名性

当初は匿名(ニックネーム)でできます。ただし、引用する際にメッセージ内容の事実確認などを管理者である私が行いたい時の連絡用に投書者のemailアドレスをお聞きします。きちんとした事実に基づく提言をするためですし、さらに、万が一紛れ込んでくるかもしれない虚偽のメッセージなどを防ぐためでもあります。この点ご理解とご協力をどうぞよろしくお願いします。



■ Emailアドレスの扱い

投書に伴って管理者である私が入手したemailアドレスは、投書内容に関する連絡以外の用途には決して使いませんし、他の人に教えることも決してしません。



■ その他

ウェブを使った新しいプロジェクトには、どうしても試行錯誤的な側面があります。経験から学んだことは随時このページに書き加え、ウェブという新しい文化を私たちの豊かな生活のために使うよう努力しますので、皆さんもご意見があればどうぞお寄せください。











実際の投稿は上記URLをクリックしてもできますし、下の欄からもできます。もし何か広く伝えたいメッセージがあれば、どうぞ投書してください。










関連情報

英語教師の声を力に変えるために柳瀬が携わってきた主なシンポジウム

「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」(2009年10月11日)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/20091011-12.html

「英語教師が書くということ -日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-」 (2012年8月4日)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/84.html

「中高英語教師が自らの実践を公刊することについて」(2013年7月8日 予定)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/07/810.html





柳瀬が関与した、英語教師の声を集めた本

















「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」(8/4(日) 大阪)にぜひご参加を! 参加できないのでしたらSNSでのサポートや匿名可能投書箱でのメッセージをぜひお願いします





■ イベントの概要

8月4日(日)に大阪で、「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」が開催されます。大阪府教育長の中原徹氏の全体講演を受け、小学校英語教育関係者が、率直に、現実的に、何よりも子どもの未来のために話し合う企画です。



日時: 8月4日(日)

時間: 開場:9:45 開演10:15 終了16:30

参加費: 2,500円

場所: 大阪市立男女共同参画センター 北部館 (クレオ大阪北)

主催: 特別非営利活動法人 グラスルーツ OBK児童英語講師自己研鑚の会

専用HP: http://grassroots-edu.com/obk0804/

専用Facebook: https://www.facebook.com/obk.sokomadeitte

参加申込: http://kokucheese.com/event/index/98417/

問い合わせ: 児童英語講師自己研鑽の会 obkosaka@gmail.com





中原徹氏は、ウィキペディアによれば1970年生まれで早稲田大学卒。24歳で日本の司法試験に合格し東京の法律事務所に2年間勤務。その後米国ミシガン大学ロースクールに入学し、ニューヨーク州およびカリフォルニア集の弁護士資格を取り、2009年まで米国大手法律事務所に勤務。2010年より大阪府立泉高等学校に民間人出身の校長として就任。2013年より大阪府教育長に就任、という経歴をもっています。

教育関係の著作には、以下のものがあります。











英語教育改革に力を入れている教育長として思い切った直言が聞ける機会になるのではないかと思います。この教育長の見解は、大阪府の英語教育に直接的な影響を与えるだけでなく、他所の英語教育にも間接的・波及的に少なからずの影響をおよぼすと考えられます。





■ ファシリテーターとしての私の方針と目的

私はこのイベントに「ファシリテーター」として参加し、中原教育長の発言を受けての午後の討議の司会をしますが、企画の段階から私は、敵対的でなく率直で、教条的でなく現実的な討議ができるイベントにしたく思っています。

企画会議で私が提案した方針は以下のようなものです。



・「反対のための反対」や「賛成のための賛成」はやめる。

・対立が生じるにせよ、不毛な対立ではなく、よりよいものを創り出すための対立を目指

・決して「立場」からの発言をせず、必ず子どものことを最優先しての本音で語る

・討議では時折ボケて笑いを取りながらw、心地良い雰囲気でお互いに正直に語れるようにする。





このような方針を立てたのは、何よりも以下を目的としたいと考えたからです。



本音をなかなか言えない現場の声を聞き出し、よりよい小学校英語教育を創りあげる




英語教育改革を提言する為政者・行政者・民間人、そして英語教育学者のほとんどは、小学生・小学校の生態を知りません。(先日、就任三ヶ月で退職した民間人小学校校長はその典型例と言えるでしょう。参考:内田樹氏のエッセイ(http://www.mishimaga.com/gaihu/009.html)。だからこそ現場の教員の声をもっと広い層の方々に伝えなければならないと考えます。





■ 英語教育関係者はもっともっともっと小学生と小学校教師に学ばなければならない



これを私は、昭和女子大附属昭和小学校校長の小泉清裕先生に学んだのですが、小学校英語教育に対して色々と改革案を提言する者、また実際に教室に入り指導する者は、もっともっと小学生と小学校教師から学ぶ必要があります。さもないとピント外れの指示を強制してしまうことになるからです。小泉先生は以下のように述べます。

中学校の英語教師が小学校の英語活動に本気で参画するのならば、まず、中学校の英語教育と小学校の英語活動の違いを徹底的に理解してから臨むことです。私自身は長年中学校、高校の教師をしていただけに、その匂いがぷんぷんしていたに違いありません。その匂いを消すのにはよほどの覚悟が必要になります。まさに滝にでも打たれてから臨むような気持ちでやる覚悟がほしいのです。 (小泉 2009 155ページ)








この著書に書かれている小泉先生の経験(中・高の英語教師を経て大学教師になり、大学で英語・英語科教育法を教えるようになるが、小学校英語教育に関わり始め、自らの古い英語教育観では小学生に対していい英語教育ができないことを痛感し、学長に嘆願して、大学から小学校に所属を変えてもらい現在にいたる)を読めば、上記の「滝に打たれてでも」というのは決して大げさな表現ではないことがわかるはずです。



同書の後書きで小泉先生はこう言います。

私自身は30年以上の教師生活の中で、その半分の期間を小学校英語の問題に真剣に取り組んできました。しかし、まだそおの入り口にやっと立てただけの気がしています。入り口に立つまでにしてきた最大のことは自己否定です。自分が受けてきた教育、そして自分が中学校、高等学校の英語の教師としてやってきたこと、大学で教鞭をとっていることの肩書きや自尊心などすべてをかなぐり捨てて、新しい自分になることを目指してきました。そのことでやっと少しだけ見えてきたものがありました。(小泉 2009 226-227ページ)


その「見えてきたもの」を凝縮したのが上で一部を引用したの『現場発! 小学校英語子どもと親と先生に伝えたい』です。私が知る限り、日本の小学校英語教育を真剣に考えるための最も優れた本です。(これをその当時の大修館書店『英語教育 増刊号』の年間書評を書く時点でで見落としていたのは、私のもっとも愚かな過ちでした)。



上掲書の理念を踏まえて、具体的なアイデアを書いたのが以下の本です。これは、上掲書で私たちが小学校英語に関する思い込みから(少しでも)解放されれば、小学生の実態をよく知る小学校教師に英語授業(外国語活動)の創造性に火をつけてくれる本で、私は小学校現場に入る度に小学校の先生方にこの二冊を薦めています。






話を「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」に戻しますと、このイベントでは、できるだけ小学校教師の声を拾い、その声から(小学校現場のことを実はよくわかっていない)英語教育関係者や一般市民が学び、同時に小学校教師も声を聞いてもらう経験から、何か大切なことを学ぶ機会としたく思っています。





■ イベントでの主なトピック



「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」としては、とりあえず以下のトピックを立てて議論をする予定です。



1 小学校でのフォニックス導入について

2 小学生の英検受験の奨励について

3 小学校外国語活動の「教科化」について

4 小学校時代に適切な英語教育とは?

5 トップダウン決定とボトムアップ集約について

6 いわゆる「グローバル人材」について

7 その他




小学校英語教育は、今更ストップできるようなものでないと私は認識しています。それならば、それをできるだけよいものにしなければならないというのが現場の発想法かと思います。今回はそんな現場ならではの現実的な(しかし理想も批判精神も忘れない)議論を深められればと思っています。





■ FacebookページやTwitterなどのSNSでぜひサポートを

私としては一人でも多くの方にこのイベントに来てほしいと思っていますが、もし当日来れない方も、以下のFacebookページに「いいね」マークをつけてくださったり、リンクをシェアしてくださったり、書き込みをしてくださったりしてくれたら大変にありがたいと思います。またTwitterなどでの拡散もありがたい限りです。

英語教育関係者は今こそ(ゆるやかに・しなやかに)連帯すべきと私は考えます。このイベントだけのためでなく、今後の日本の学校英語教育の健全な発展のためにSNSでのサポートをお願いする次第です。






「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」

https://www.facebook.com/obk.sokomadeitte






■ 匿名可能の投書箱を設置します

当日イベントに参加して声を上げることもできないし、FacebookなどのSNSで発言するにも差し障りがあるし・・・と躊躇されているの声こそが小学校英語教育を改善するのに重要だと私は考えています。



以下に、匿名可能の投書箱「英語教育:学校教師の声」を作りました。ぜひそこにあなたの声(メッセージ)を書いてください。メッセージを8/4の「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」、および今後のために使わせてもらいます。

なおメッセージを直接引用する場合などに、メッセージ内容の事実確認が必要だと認められた場合は、emailで連絡をさせてもらうことがあるかもしれませんので、投稿者のメールアドレスを書く欄を設けました。虚偽のメッセージを防ぐためでもありますので、ご理解の上、ご記入ください。なお当然のことながら、そこで頂いたメッセージは管理者である私(柳瀬陽介)が責任をもって管理し、メッセージに関する連絡以外の用途には決して使いませんのでどうぞご安心ください。








なお、この投書箱「英語教育:学校教師の声」のURLは以下の通りです。どうぞご自由に拡散してください。









■お申込み



8/4のイベントへの参加申込は以下からお願いします。一人でも多くの参加をお待ちしております。知人・友人にもお知らせいただければ幸いです。







英語教育、とりわけ小学校英語教育の改善には、衆知を集める必要があります。このブログの読者の皆様、皆様一人ひとりができることで結構ですから、学校英語教育改善のためにできる行動をしていただければと願ってやみません。どうぞよろしくお願いします。









2013年7月16日火曜日

7/14講演会「英語教育、迫り来る破綻」に参加して



7/14に開かれた英語教育講演会(「英語教育、迫り来る破綻」 参照:大津先生ブログ江利川先生ブログ)の開催は、時期的に非常に有益なものでした。関係者に深く御礼申し上げます。

私も参加して学んだことは多いのですが、とてもそのすべてを書く時間はないので、以下、重要な点だけを、しかも走り書きの形で残しておきます。



■現在の政権与党等の教育改革案が前提としている思い込み

現在の政権与党等の教育改革案は、社会と教育に関する以下(・印)の思い込みに基づいているが、それらは⇒印の意味で誤っている(あるいは少なくとも偏っている)


<社会に関する思い込み>

・グローバル資本主義競争で勝たなければ、日本は衰退するだけ
⇒グローバル資本主義競争に過剰に巻き込まれずに国民の暮らしを豊かにする方法について考えていない

・「グローバル人材」を育成することが国益であり「教育再生」である
⇒ごく一部の「グローバル人材」を育てるための教育で国民教育がどれだけ損なわれるかについて考えていない

・「グローバル人材」の選別は、とりあえず英語資格試験の点数で行える
⇒「グローバル人材」に関する人格的側面や文化理解的側面さえも実質的に考慮から外している


<教育に関する思い込み>

・言語コミュニケーション力は(他の学力と並んで)個人を対象とした「客観的な」試験で数値化できる
⇒コミュニケーションは、やり取りの中で創発してくるものであり、偶発的な要因が複合的に絡まっており、「客観的」な試験でその力を十全に測定できないという言語コミュニケーション論がわかっていない

・教育改革(あるいは「教育再生」)は、学習者個人間の競争を促進することでなされる
⇒学習者は、周りの人間や環境との相互作用の中で共に(しかしそれぞれに)成長するという<学びの生態学>がわかっていない

・学習とは個人の認知能力の発達だ
⇒学習を個人の、しかも脳の中の問題だともっぱら考えてしまい、個人の脳内の現象に限定されない学習理論を不当に軽視している(これについては情報処理的心理学だけでしか学習を考えていない研究者も批判されるべき)

・英語教育の理想とは、ネイティブ・スピーカー(あるいはそれに準ずる者)が教え、学習者をネイティブ・スピーカーのようにすることだ
⇒言語教育論について無知で、英語教育における単一言語主義 (monolingualism) が強くなった植民地支配的背景を理解しておらず、単一言語主義がもつ限界や欠点(学習者や教師の「複言語主義的な能力」を認めようとしないこと)がわかっていない



■ 英語教育目的論が重要

学校英語教育は、他の英語学習プログラム(例、企業内研修、個人による学習や留学、塾や予備校の受験対策等)とどう異なり、どのような公的使命を現代において有しているのかという英語教育目的論をきちんと展開しないと、英語教育は混乱するばかり。ちなみに英語教育目的論は、公共政策に関するものであり、社会科学的な議論が必要とされる。個人の思い入れの表明は英語教育目的論の名前に値しない。



■ 理性的説得と感情的共感

英語教育に関しては(他の考察対象にもまして)、理性的に考察し議論することが大切であるが、その反面、政治は理性だけでは動かず「勘定と感情」で動くことが大きいことも忘れてはならない。

「勘定」については、グローバル資本主義に過剰適応せずとも「豊か」に暮らせる(というよりその方が豊かに暮らせる)ということを、理論的に明らかにするだけでなく、多くの生活実践で示さねば、人びとの「勘定」感覚から、上記の「思い込み」は消えないだろう。

「感情」については、何より現役の英語教師が積極的に授業公開(YouTube公開も含む)をして、今の英語教育実践は昔と大きく変わり、実際に学習者に英語を喋らせていることを保護者を始めとした一般市民に示さないと、多くの市民は過去の思い出だけで英語教育を語り、「悪いのは英語教師だ」というルサンチマンにしばしば絡み取られる。



■ しかし英語教育界にも徹底的な改革が必要

しかし、英語教育界にも身を切るような改革が必要である。7/14の講演会に足りないところがあったとすれば、それは英語教育界にも徹底した改革が必要であり、自ら血を流さないと一般市民は納得しないという認識ではなかっただろうか。

確かに英語教育界には、すばらしい実践者もいるし、過労死寸前のところでぎりぎりの苦闘をしている教師も多い。その意味で、英語教育界への理解と支援(特に人的・時間的な支援)は必要である。

だが、中には、本人の自覚や努力の不足から、あるいは自己研修する時間や機会の不足から、十分な授業ができていない英語教師がいることも事実である。この事実を改善しない限り、あるいは少なくともこの事実を英語教育界が公に認め、自己改革の意思を明確に示さない限り、一般市民や政治家の理解と支援は得られないだろう。

例えば、「小学校英語教育とは何であり、何のためにあり、どのように行うのか」ということを十分に教えられないままに授業に駆り出され、ALTに任せきりの授業をしたり(しかもそのALTも言語教育については素人だから形だけの授業をしているに過ぎない)、自分が昔習ったような授業をしたりしている小学校教師は少なくない。

中学校英語教師についても、きちんとした発音指導ができない(時には自分自身がきちんとした発音ができない)教師や、中学生が英語の文字・単語が読めないことを「こんなもんだ」と諦めてしまっている教師は少なくない。

高校英語教師についても、英語教師バッシング論で批判される、まさに旧態依然の授業(いいかげんな音読と直訳だけの授業)しかしない教師も珍しくない。そんな授業しかしない教師の中には、そもそも英語が深く読めない教師も存在する(だから旧態依然の授業しかできない)。

しかし一番罪が重いのは、(私も含めた)大学の「英語教育学者」であり、小学校英語教育の理論的な混迷(小学校英語教育のWHATやWHYを突き詰めて考えていない)や実践的な誤解(中学校英語授業を水で薄めたようなものをHOWとしてもっぱら教えている)も、力量のない中学校・高校英語教師を社会に送り出したことについても、大学の「英語教育学者」に直接の責任がある。

だが公正を期すために述べるなら、教育行政者にも責任はある。OECDで最低レベルの教育支出で、一クラス40人という先進国では見られない大人数授業をさせ、教師にはどんどんと書類仕事などを増やし、教師に十分な自己研修の機会(というより健康を取り戻す時間)すら与えていないことを知りながら、「財務省が言うから仕方ない」と教育現場の現実に頬かむりをする教育行政者も(英語)教育界の不全に大きな責任をもっている。教師は専門職であり、大学・大学院教育だけで十分な教育をすることは不可能で、在職中の研修が不可欠である。教育行政者は財務省・政権与党(ひいては財界)の使いっ走りではないはずだ。教育行政者はもっと現場教師のための権限獲得をするべきだ(少なくとも私を含めた多くの教育関係者は、多くの教育行政者が「上意下達」ばかりで、教師や学習者の味方になっていないのではないかと感じている)。



以上を、ごくごく簡単な報告(というより私的な備忘録)とします。最近はとにかく時間がほしいです。


追記

7/14の講演会内容について詳しく知りたい方は、下記の書をお求めください。










追記 (2013/07/17) 
補説記事を書きました。 こちらもぜひお読みください。

「教師は学校の中で育つ」 -- 亘理先生のコメントを受けて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/07/blog-post_17.html

2013年7月13日土曜日

佐伯啓思 (2013) 『貨幣と欲望 ― 資本主義の精神解剖学』 (ちくま学芸文庫)





「市場」という語は、しばしば「開かれた場」の象徴として使われます。誰もが入ることを許され各々の自由意思で交換をする場としての意味です。そこでは自由や公正の概念が重んじられ、革新や進化が促進されます。(ハイエクが自生的秩序といった概念で市場を評価するのもこういった意味合いでしょうか)。

一方、「市場原理主義」といった用語や「市場の論理」といった表現での「市場」には否定的な意味合いがつきまといます。この場合の「市場」は利益第一で人々が競う場であり、しばしば公共性や安全性などが軽視されるといったイメージが付きまといます。(この意味での「市場」はしばしば「新自由主義」との関連で語られます)。

「教育が市場の論理に支配されている」というのは明らかに否定的な表現ですが、同時に「学校を開かれた場所に」という表現には私自身惹かれます。またマット・リドレーが『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』(最近、文庫化されました)で言うように、自由な交換こそが人類を発展させてきたのだと私も考えます。







この二つの意味合いをもつ「市場」ということばをどう理解したものか、というのは私ではなかなか折り合いをつけられない問題でしたが、たまたま本屋で見つけて出張の移動中に読み始めた本書はとてもおもしろく、「資本主義」と「市場秩序」を私たちは区別してことばを使うべきだということがよくわかりました。

以下は、本書を読んでの私の「お勉強ノート」です。三流大学経済学部の学部一年生のノートぐらいのレベルですが、備忘録としてここに掲載しておきます。以下のまとめには、私自身の表現がかなり多く混入していますので、きちんとした理解をしたい方は必ずご自身で本を読んでください。



■ 重商主義者とアダム・スミスの対比

⇒しばしば、アダム・スミスは自由市場の旗手のようにも思われているが、彼が批判した重商主義との対比で考えるなら、彼が重視したのはまず国内での富(豊かさ)であり、自由市場はそれあってのものであることがわかる。他方、重商主義は、保護貿易などにはしったが、その基本的前提はグローバルな市場での貨幣・金銀の獲得であり、こちらの方がむしろ「グローバリスム」の考え方に近い。



<前提とする経済> (49-50ページ)
グローバル経済(重商主義)
VS
 国内経済 (アダム・スミス)



<経済政策> (49-50ページ)
貿易管理による貨幣・金銀の獲得 (重商主義)
VS
国内生産の向上の結果としての自由貿易 (アダム・スミス)


<経済を始める「最初の贈与」> (63ページ)
「最初の暴力」・「最初の略奪」 (重商主義)
VS
土地と労働力という「自然の贈り物」・「神の恵み」 (アダム・スミス)

<貨幣の役割> (80ページ)
(剰余としての)貨幣があって市場交換が(本格的に)始まる (重商主義)
VS
物々交換から貨幣が導入され市場交換へ移行する (アダム・スミス)


<市場交換とは> (97-98ページ)
貨幣的交換レベル:モノはモノと交換されるのではなく貨幣と交換される (重商主義⇒資本主義へ)
VS
財物交換モデル:モノは貨幣と交換されるのではなくモノと交換される(ロックやアダム・スミスひいては新古典派経済学⇒市場秩序へ)


<市場の役割> (122ページ)
貨幣がその価値を自己増殖させるための装置 (重商主義)
VS
土地と労働の生産性を高め、富や富の基礎を適切に配分するための装置 (アダム・スミス)





・ 重商主義

重商主義者は、「富」 (あるいは「豊かさ」 - wealth) を、貨幣つまり金銀であるとした (48ページ)。したがって国富の問題を、貨幣・金銀が大きく動く外国貿易から考え、国境を超えて移動する貨幣と金銀という「グローバルな現実」を前提とし、その意味での国富を増やすために貿易の管理という一国中心的な経済政策を説いた。経済政策だけ見れば閉鎖的に見えるかもしれないが、前提としているのはあくまで「グローバルな経済」である (49ページ)。

・ アダム・スミス

アダム・スミスは、「富」 (あるいは「豊かさ」 - wealth) を、日常品や労働生産物であるとした(48ページ)。したがって「グローバルな経済」により外国貿易で貨幣や金銀を獲得することではなく、国内の土地や労働の生産性を向上させることが国富につながると考えた。富はますは国内の生産から始まり、国内の土地が改良され製造業が発展してから、最後に外国貿易が起こることが「事物の自然な順序」だとアダム・スミスは主張した (50ページ)。アダム・スミスは、国内の土地や労働の生産性の向上を一切もたらす。

・ 16世紀の経済システム再編

ヨーロッパは新大陸から(奴隷的労働によって採掘された)金銀を大量に持ち込み(「最初の暴力」あるいは「最初の略奪」 ― 参考 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)、新大陸やアジアと交易を開始し、ヨーロッパ、新大陸、アジアのそれぞれで比較的秩序だって住み分けられていた交易組織をいったん打ち壊し、遠方の大規模交易をも含めた経済構造へと経済システムが再編成された。この再編により、国民国家を単位とする経済と、それを超えた超国家的経済の二重構造がもたらされた。(56-57ページ)

・ 経済の始まり

富を貨幣となる金銀とする以上、重商主義者にとって経済の始まりは、新大陸から「最初の暴力」もしくは「最初の略奪」によって得た金銀によるものだった。これに対して、富を生活の必要物資と考えるアダム・スミスにとって、経済は土地と労働という「自然からの贈り物」もしくは「神の恵み」によって始まったとされる。(62-63ページ)

・「富」(「豊かさ」) = 貨幣

「富」(「豊かさ」)を、日常の生活を充たすものではなく、貨幣だとする重商主義的見解(ひいては「グローバリズム」)は、日常生活を超えた規模の市場取引で貨幣を自己増殖させることこそが「豊かさ」だと考える。貨幣をもつことは世界を象徴的に手に入れる方法とみなされる。ここで貨幣とは支配力であり、貨幣愛とは権力欲である。(143ページ)





■ ゾンバルトの資本主義とマックス・ウェーバーの資本主義

⇒マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はあまりに有名であるが、彼がこの本で取り上げた「資本主義」は、資本主義の一類型に過ぎず、現在の「グローバル資本主義」はむしろ彼の論敵のゾンバルトの方によってよく取り上げられていた。



<前提とした資本主義> (155ページ)
金融・商業・政府が結合した国境を超えた「賤民資本主義」(パーリア・キャピタリズム) (ゾンバルト)
VS
合理的経営・勤勉労働の職業倫理による「市民的資本主義」(マックス・ウェーバー)

<「大地」とのつながり> (250-251ページ)
「脱大地的」(=特定の場所に固着せずただ「奇食」するだけのボーダレスな商業・金融活動 (ゾンバルト)
VS
「大地」(=具体的な場所)での労働生産による必要物資の交換 (マックス・ウェーバー)







■ 資本主義社会と大衆社会

⇒資本主義社会と大衆社会は互いに親和性が高い。

資本は常に過剰なものとしてさまざまなボーダーを超えて生産体制に入り込み、自己増殖を図る。資本が自己増殖することに適合した社会が資本主義社会である。他方、大衆とは、帰属すべき場所をもたない人々のことである。大衆は、帰る田舎をもたず、特定の地域共同体や階級に深く帰属するわけでもなく、自分たちのための政治的代表をもち得ず、特定の宗教的信念もなく、強い国家意識も公共心ももたない。このような大衆が増えた社会が大衆社会である。(274ページ)

となると、資本主義社会と大衆社会は親和性が高いと考えられる。流動的な大衆を資本主義的生産体制は必要とし、大衆も資本主義生産体制から賃金を得るしか生きる術がないからである。

「大地」から切り離された大衆は「自由」な賃金労働者(そして消費者)となるが、そういった賃金労働者が大多数を占める大衆社会では、関心の焦点は大地に根ざした生産・労働から、いかにして総消費を増加させ雇用と賃金を確保するかに移行する。(293ページ)

資本主義は一方で大衆を動員し「普通の人々」をそこに巻き込むが、同時に資本主義的競争により過剰生産となれば賃金低下と失業率上昇が生じ、資本主義からの脱落者を「普通の人々」の中に生む(367ページ)





■ 資本主義と帝国主義

⇒資本主義は帝国主義の中でさらに膨張した。

資本主義と帝国主義も親和性が高い。資本主義が資本の限りない増殖を根幹とし、帝国主義が経済・政治・文化・宗教も含めた「膨張こそがすべて」の運動だからである。(282-283ページ)





■ マネーゲームにおける貨幣

⇒マネーゲームにおいて貨幣は、人間の生活から離脱し、ひたすら自己増殖することを欲望するものとなった。

十分に組織化された金融市場におけるマネーゲームでは、もはや貨幣はモノの価値を代理するものというよりは、それ自身の分身(株、債権、外国貨幣)と交換されるものである(359ページ)。ルーマンは金融市場を「自己準拠的なシステム」と呼んだが、金融市場では貨幣やもはやモノの世界を象徴するのではなく、自分自身を象徴し自分自身を追いかけている(362ページ)。

人間の心理で言うなら、マネーゲームを駆動しているのは未来への漠たる不安といったものではなく、欲望である。この欲望とは、欲望自体を追い求める欲望である(363ページ)。

各種の自由化や技術革新により世界的に生産過剰傾向になる。これにより先進国の賃金水準が低下し失業率が上がる。かくして生産と労働力と資本が過剰になる。これに消費が伸びないと予測されれば、過剰な資本は金融市場へ流れていく。(366ページ)





■ 経済の歴史を貫く二項対立

⇒重商主義とアダム・スミスの対立や、ゾンバルトとマックス・ウェーバーの対立、あるいは「グローバリズム」と「経世済民」の対立は、以下のような抽象的な二項対立としてとらえることができる。経済には常にこの対立があるが、現代は右項が強さを増し、左項を圧倒している時代である。



固着するもの VS 浮動するもの

生産的なもの VS 金融的なもの

実体的なもの VS シンボル的なもの

確かなもの VS 不確かなもの

不動のもの VS 運動するもの






■ グローバリズムの三つの波

⇒グローバリスムは現代だけの現象ではなく、歴史を見ても少なくとも以下の三つのグローバリズムを想定することができる。

グローバリズムの第一の波は15-17世紀の「大航海時代」(「地理上の発見」)、第二の波は19世紀後半から20世紀初頭にかけての帝国主義の時代、そして第三の波が20世紀末から私たちが経験している時代である。(424ページ)





■ 国家の役割

⇒グローバリズムが今後ますます進行するなら、国家がなすべきことは、グローバル資本主義への過剰適応ではなく、グローバル資本主義に晒されながらも決して根絶やしにされない「大地」を築くことではないか。

市場経済が「大地」から「脱大地化」し、グローバルかつヴァーチャルな世界へ拡張すればするほど、同時に、人は「大地」への回帰を希求するのではないか(参考:『レクサスとオリーブの木』)。もしそうだとすれば、国家の役割は、ただ景気を調整し所得分配を按配するものではなく、人々を確かな形で「大地」に結びつけるものでなければならない。(403-404ページ)。

私たちが必要としているのは、やみくもなグローバル化や金融経済への移行ではなく、またITによる情報化でもなく、それらを意味ある形で定位するべき「大地」をどのように再構成するかという政治的構想力である。(410ページ)











2013年7月8日月曜日

「中高英語教師が自らの実践を公刊することについて」の発表要旨(8/10(土)全国英語教育学会) ― 教師の自律性を高めるためのシンポジウムです





■ 教師の自律性を高めるために

8/10(土)の第39回全国英語教育学会(会場:北星学園大学)で16:00~17:40にシンポジウムを開きます。



中高英語教師が自らの実践を公刊することについて

―日本語事例と英語事例から―


コーディネーター:柳瀬陽介(広島大学)
指定討論者:樫葉みつ子(広島大学)
提案者:大塚謙二(北海道壮瞥町立壮瞥中学校)
提案者:坂本南美(兵庫県立大学附属中学校)




このシンポジウムは昨年のシンポジウム(発表要旨当日進行の成果を受けてのものです(また私の科研の一環でもあります)。そういうこともあり、今年も、「英語教師が自らの実践について書くことにより、どのように成長できるか」というテーマで行い、今年は特に公刊(商業出版や学術出版)をした実践者を招き、話し合いを深めます。

ですが、さらに大きなテーマ、あるいはこの研究の背景あるいは動機は何なのかと自らに問うてみると、これは英語教師の自律性を高めるためのものだと自覚することができました。

日本の教科の中で、英語ほど改革が多い教科はありません。しかもそれは(私が思い出せる限り)どれも外から強いられたような改革で、英語教師の自発的な動きが改革につながったものではありません。

時々の政策や財務省の方針にしたがって、文部科学省が教育政策を発表するや、英語教育界ではさまざまな講演会やセミナーが開かれ、「上意下達」が図られます。いい講師による説明もありますが、講師の中には理念的な説明や具体的な解説もそこそこに「このように方針が決まったのだから、とにかくやりなさい!」とまくし立てる人もいます。おそらくは学問的な権威付けのために呼ばれた大学研究者の中にも、小・中・高の現場のことはあまり知らないのに、自らが興味あるSLA理論の枠組だけから時々の施策を肯定し、これまた「とにかくやりなさい」と圧力をかける人もいると聞いています。

トップダウンで情報が降りてくることのすべてが悪いなどとはまったく思いませんが、英語教師をとにかく管理し操作しようとする動きばかりが強まり、英語教師の自律性を高め、英語教師自身の観察力・思考力・分析力そして判断力を育みそれを活かそうという発想がどんどん軽んじられていることは、組織経営の点からしても、最終的な教育の効果の点からしてもはなはだ疑問です。強めのことばを使うなら、英語教師をひたすら「上」(=文部科学省、ひいては財務省や時々の政治権力者、さらには資本主義社会新自由主義の発想)に隷属させるような体制は、学習者のためにも、教師のためにもならず、国益にも反するものだと私は考えます。



教職とは、教科の専門的知識・技能だけでなく、学習者理解、学習者とのコミュニケーション、学習集団の形成と育成、同僚との協力関係、保護者や地域に対する理解とそれらへのコミュニケーション、そして教師自身の人間的成熟など多方面にわたる職業です『教師が育つ条件 (岩波新書)』は一般書として、『成長する英語教師をめざして?新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』は英語教育の書として、それぞれに教師が育ち成長する条件や過程を記述していますが、教師は、自律した専門職としての自信と責任を感じながら、学習者・同僚・保護者などとコミュニケーションを取りながら仕事をする時に、もっとも教育効果が高まることだと私は信じています。外からの圧力をやたらと教師や学習者にかけることは、一部の才能・環境に恵まれた者を伸ばしても、国全体としては学ぶ文化を損ねてしまう、というのが世界の様々なで少しずつ理解されていることではないでしょうか。(資本主義・新自由主義的発想に頭の先まで浸かった方は「そんなきれい事を!」と顔を歪ませるかもしれませんが、例えばどうぞ以下のビデオなどを御覧ください)








考えてみれば、学習者の自律性 (learner autonomy) は推奨されても、教師の自律性 (teacher autonomy) はほとんど語られないというのもおかしな話です。自ら自律していない(あるいは自律することを妨げられている)者(教師)が、他人(学習者)の自律を育てられるとは私は思いません(育てられるのは、学習者が巧みに権力者の意図を察知し、それに適う言動だけを行う態度だけでしょう)。

教師が自らの実践について書くことにより、思考を深め、観察力と分析力を高め、判断力をつけてゆくという、昨年と今年のシンポジウムも、こういった問題意識から行なっているのだと私は思っています。

このシンポジウムのために、先日私と樫葉先生は、大塚謙二先生の学校を訪れ、実際の授業の様子も見させていただき、合計5時間のインタビューもさせていただきました。坂本先生についても近いうちにお話をゆっくり聞かせていただく予定です。

当たり前のことですが、私はシンポジウムなどに登壇する場合は全力を尽くします。やる気のない発表や、世間のしがらみから仕方なくする発表などはやりません。8/10(土)のシンポジウムに一人でも多くの方が来られることを願っております。





■ シンポジウムの概要

一年目の研究で私たちが明らかにしたことは、教師は、ジャーナル・ライティングを通じて自らを他者化し、かつ、その他者化した自己をさらに二次的に観察・記述する自分を作りだすことでした。教師は、二次的観察・記述により過去から未来にわたり「こうありえた・ありうる現実」を想像することができるようになります。

今回の二年目の研究では、教師が自らの実践の振り返りを公刊(出版)することに注目し、その過程と結果を分析します。実践者としては、日本語で書籍出版をしている教師、実践論文を英文国際学術誌で公刊した教師を招きます。問題意識としては、「一般読者を対象としながら編集者や査読者という熟達の読み手を得ながら書く」こと、および、「日本語での日常の実践的思考を英語に翻訳する」こと、などに注目します。昨年同様、フロアーとの討論を充実させます。実践者と実践研究者のご来場をお待ちします。





■ 柳瀬の予稿原稿



概要

柳瀬 陽介 (広島大学)

キーワード:ジャーナル・ライティング,リフレクション,対話


本研究は二年プロジェクトですが、一年目の研究で私たちが解明したことの主な点は、教師は、(a) ただ実践するだけでなく実践について書くことにより自己を他者化し、(b) 他者化された自己についての観察・記述を推敲することにより過去・現在・未来の現実の可能性を想像できるようになる、ことでした。

二年目の研究ではこの知見を受けて、ただ書くだけでなく、日本語商業出版物や英文国際学術誌に公刊することが、英語教師の認識と実践に対してどのような変化をもたらすのかを、二名の教師教育者と二名の実践者との協働的な研究により解明します。研究の方法は、往復書簡による対話、実際の授業観察と対面しての対話、観察と対話を文章化した上でのさらなる往復書簡による対話などにより、互いに批判的かつ協働的に読み書きを繰り返し、恣意的でなく互いに納得のゆく文章を紡ぎだすものです。 当日の発表では、以下この予稿で明らかにしていることを繰り返し述べることは最小限にとどめ、登壇者間で新たな対話を展開し、加えてフロアーとの対話を積極的に行います。原稿の読み上げ形式ではない、コミュニケーションを重視した発表とします。 予稿時点でわかっていることは、以下、大塚・坂本・樫葉の原稿をお読みいただくようお願いしますが、予め私なりにその要点をまとめておくと次のようにまとめられます。

公刊という、より責任感を伴い使命感を喚起させる書く行為により、日本語書籍を公刊した大塚は、(1) 読者層の公共的な関心に応じて実践意識を変容させ、(2) 生徒をより具体的・細密に観察し、(3) 教室を出ても授業実践について振り返るようになり、(4) 記述が一般読者にも理解できるような分析的なものになり、(5) 実践がより焦点化し、(6) (「理論の応用」でも「実践の理論化」でもない)実践と理論の「融合」を試みるようになりました。

英語論文を国際学術誌で公刊した坂本は、(7) データ・理論・実践・自分との「対話」が深まり、(8) 翻訳を通じて日本語と英語を問わず言葉を学び直す実感を得、(9) 生徒・同僚・自分が存在する教室・学校の「意味」を実感し、(10) 自覚できなかった意識下の本来の自己を(再)認識しました。

つまり、この二年間の研究は以下の図のように整理できます(クリックして拡大)。



図1 本研究プロジェクトの整理


自ら英語を教え、学習者には英語をコミュニケーションのために使用することを促している英語教師が、自らの専門(英語授業実践)を英語で書き、国内外でのコミュニケーションを促進し、英語教育の営みを豊かにすることの意義は否定できません。そういったコミュニケーションが、英語のみならず日本語でも貧困であるとすれば、これほど悲劇的な皮肉はありません。本研究発表を通じて、英語教育に関するコミュニケーションをより豊かにしたく考えています。 以下この予稿では、大塚と坂本がそれぞれ柳瀬と樫葉からの問いかけに答え、最後に樫葉が現時点での総括をします。





■ 大塚謙二先生の予稿原稿



自らの実践を日本語書籍で公刊することについて

大塚 謙二(北海道壮瞥町立壮瞥中学校)

キーワード:生徒観察, 実践記述, 理論と実践



1. 柳瀬から大塚への問いかけ

幅の広い読者層を対象にして編集者の目を経ながら出版をするという書く行為と、一定の限られた読者層に向けて書く行為(生徒や保護者に対して書くことも含む)は、それぞれ先生の観察力・分析力・思考力にどのような変化をもたらしましたか(それとももたらしませんでしたか)。

(1)書くこと全般について

幅広い読者層と限られた読者層のいずれに書く場合も、読む対象者にあわせるように意識します。要するに、読み手に理解してもらえるようにということが大前提です。

(2) 幅広い読者層の場合(英語教師に対する出版物)

英語教育に関する原稿を書く場合の生徒達を観察する視点は、その時に書いている原稿に関連したことをとても注意深く観察するものになります。何をしていても、ふとした時に、そのことを考えている自分がいます。ですから、授業中は観察し、授業以外の時間には、その様子を振り返りながら客観的に見つめなおしています。そうすると、反省点、改善点がふっと思い浮かびそれを次の授業に取り入れたりして、改善を図ります。 また、書く内容については、編集者が「対象を若手教員に」「コミュニケーション活動を幅広い読者に伝えるように」と指定する場合と、私から「教員採用試験に合格したばかりの人、若手教員、困っている教員に書きたい」というように、読者層と内容を提案する場合があります。そんな時には、その読者の時の時代に戻ってイメージします。編集者にも言われましたが、若手の心を捉える内容は、案外、超一流の先生は書けない場合があるそうです。書き手のレベルが上がれば上がるほど、達人の域に達してしまい、難しくなってしまい、ビギナーには理解・実践できない場合があるのではないでしょうか。

ですから、一般的に指導技術に関する原稿の場合は、対象が教師なので一般化できそうな、自分で行なっている授業実践の中でも、生徒のアンケート結果が良かったこと、観察していても良かったことを理解してもらえるように、客観的に文字にできるように心がけます。自分で行なっていることは、自分の中で消化されてしまい説明不足になり、伝わらないこともあるので注意が必要です。また、表現方法は「~をする・したほうが良い・すべき」のようなストレートな表現で書きます。また、できる生徒だけをターゲットにしたことではなく、全てのレベルの生徒達が活動できるような工夫を加えます。

(3) 限られた読者層(生徒や保護者)

学級通信・教科通信では、内容から刺を抜いて、「~だと思います」のようなやわらかい表現を使い、批判的なことはなるべく書かないようにし、良い面を伝える道具として、生徒達のプラスの面を探しながら担任として観察をしていました。書きたいことがプラス面の場合、友だちへの小さな思い遣りの行動なども目につくようになります。また、ある特定の生徒のプラス面だけが掲載されないように平等に見るようになり、なかなかプラス面を探せない生徒の場合、いつもよりも観察を細かくするので、その生徒の思わぬ良い面を見つけることができます。

担任としては、良い面や悪い面で目立つ生徒には頻繁に目が行ったり、コミュニケーションをとったりする傾向があるので、その中間の普通の生徒達にも気配りをすべきだということがわかり、そのことを授業でも気をつけるようにしています。なぜなら、そのような中間層の目立たない生徒達は良い方向にも悪い方向にも行く可能性があるからです。



2. 樫葉から大塚への問いかけ

出版の経験から、自らの授業実践は変わりましたか(それとも特に変わりませんでしたか)。もし変わったとしたら、その変化をできるだけ具体的に教えて下さい。

(1) 英語教育に対する自分の考え方の変化

出版するにあたって、その前の段階として、ワークショップで発表するということがありました。その段階で、自分の実践をハンドアウトにまとめている時に、自分で気が付かないで行なっていた活動の意味や目的を発見し、驚いたことが何度かありました。この驚きは別々の活動との関連性(発展)の発見です。また、単著を出す前に、教職経験8年目くらいから、雑誌や分担執筆の原稿を書くようになり、自分が直感的に良いと思っていることを行うだけでは物足りなくなり、大学院への進学を考えるようになりました。自分の言葉に責任を持てるように、理論的な裏付けが欲しくなり、勉強したいという気持ちが芽生えました。

初任の頃は漠然と、「英語を苦手とする生徒のために」ということを念頭に置いていました。しかし、書くようになってからは、徐々に次の着眼点が芽生えました。①活動の目的や生徒につくと思われる力を明確にする ②活動時間とその有効性(費用対効果のようなこと)を意識する ③意識的に文法有りとなしの活動を取り入れる ④基本に戻るようになり、シンプルな授業や英語教育のコアの部分(不易を大切にする)を大切にする ⑤家庭学習と授業のリンクを意識する ⑥英語の授業を通しての人間教育を意識する ― このような順番で変化がありました。そのため、英語を苦手としている生徒から、得意な生徒までが充実感を得られる授業を目指すと共に、子ども達の進路実現のためにも、四技能の育成のみならず、テストでも点数に結びつくようにして喜びを感じてもらえるようにすることを考えるようになりました。

(2) 授業をしている際の変化

新卒の頃は誰でも経験したように、授業を流すだけで精一杯でした。5年後、多少余裕ができて、生徒を主役にしたスキットビデオを授業に取り入れたり、コンピュータを活用したりするようになりました。10年目にワークショップで発表する機会をいただき、自分の実践をまとめるようになり、12年目には、インターネットを使った実践を初めて英検の雑誌で発表しました。13年目以降のセミナーの資料を作成している途中で、他の発表者との比較で、自分の授業がICTなどの機器に頼りすぎていて、力をつけることよりも、生徒達が楽しめる授業をしすぎていたことに気づき、力のつく授業を目指して、脱ICTで授業をし、コミュニケーション活動、アウトプット活動をより多く取り入れるようになりました。その後、分担執筆の書籍、小冊子の執筆を経て、自分の原稿が公になる数が増加するとともに、その記事に対する責任感を感じ、16年目に大学院へ行き、TBLTに関する研究を進めている先生の元で勉強しました。そこで、英検3級の生徒がコミュニケーションタスクによって得られる暗黙的なフィードバックの知覚の研究をし、その後、職場復帰して、更にタスクやアウトプットを中心とした授業を展開しました。そして、22年目に単著の1冊目を書き、それによって、本当に有効だと思える活動に絞るようになり、その活動を変化させました。例えば、最初は聞くだけの活動だったひとつのことを、話す活動、読む活動、書く活動に発展させていきました。そうしていくうちに、多様な活動を行うのではなく、シンプルな活動でいいことに気が付き、例えば話す活動は、疑問文を話す、疑問文に答える、事柄を説明する、スピーチをすることに絞る。話せることを書かせることにつなげる。という、プロセスで生徒達に効率よく指導することを考えるようになりました。そうなると、中心となる活動が残っていき現在の自分の指導のコアを形成しました。

現在も、第二言語習得研究の使えるエキスを、現場に使えるように調整しながら、試行錯誤をしながら取り組んでいます。日本の英語教育のためには、日本の英語教育理論も必要で、現場と研究の融合を目指していきたいと考えています。



参考



大塚先生の近刊








柳瀬ブログ記事:大塚謙二先生のワークショップに参加して






■ 坂本南美先生の予稿原稿



自らの実践を国際英語学術誌で公刊することについて

坂本 南美(兵庫県立大学附属中学校)

キーワード:インタビュー, ナラティブ, 翻訳



1. 柳瀬から坂本への問いかけ

日頃の実践ではおそらく日本語を基盤として思考し感情を確認していると思われますが、その日本語での実践経験を、英語に翻訳すること、ましてや学術雑誌にふさわしい英語で表現することの経験はどのようなものでしたか。

(1) 日本語での実践経験を英語に翻訳することは、言葉を学びなおす作業

2011年5月にTeacher Developmentから姫路市の公立中学校での実践をまとめた論文掲載の機会をいただきました。これは、9カ月にわたり中学校2年生の選択英語の授業でTeam-Teachingをともに行ったパートナー教師(日本人)の成長の様子を綴ったものです。 この論文の主なデータがインタビューやナラティブであったことから、英語に翻訳するのにはとても慎重になりました。データは、パートナー教師のN先生とのセミフォーマルな二回のインタビューと彼女の記述によるリフレクション、私が書き綴っていたティーチングジャーナル、生徒たちへの口頭によるインタビューでした。インタビューデータは、記述データと異なって、日常行われる会話にほぼ近いもので、地域性を感じる表現や姫路市を中心とした播州独特の言い回しもたくさん含まれています。私たちが語り合ったことや生徒たちの言葉を、その文意に忠実に英語に翻訳していくことは思っていたよりもとても繊細な作業で慎重にならざるを得ないものでした。データ翻訳の時にいつも意識していたのは、語り手の表現に常に忠実であることです。私たちの日常の語りの中には、語り手の教師としての信条や心のあり方、葛藤や喜び、微妙な心の揺れもちりばめられていました。それを英語に翻訳するときに微妙なニュアンスの違いによって誤解を生まないように、日本語の微妙な心の揺れなどのニュアンスは、リフレイズする中で意味を絞り込んでいきながら明確に、同時に日常の言葉の豊かさを残しながら表現することを試みました。また、常に繰り返して日本語と英語を行き来しつつ読み直しながら、時に必要な場合はN先生に確認しながら進めることもありました。結果、前後の文脈を意識下に持ちながら、日本語で論文を書くよりも格段に深い推敲が必要になり、私にとって、英語だけでなく日本語ももう一度学びなおす作業であるように感じていました。

日本語はいろいろな部分を省略して話しても十分に会話の中では伝わりますが、それを英語に翻訳する時に、日本語と英語との間を行き来する私に大きな課題をもたらします。例えば、インタビューの中に「あの時、すごくがくっとなって…」という言葉がありました。その時の教室の様子を思い出して感情や微妙な表現を推敲しながら、「がくっと」なったのは、「怒っていたから…いや怒っていたと言うよりも苛立つ瞬間だった?いや自分へのがっかりした感覚に近かったかもしれない。もう一度彼女に聞いて確認してみよう。」と後で確認をしなおしたことがあります。同じような場面は他にもあり、日本語でならばそのままデータとして書きおとすところを、英語で書く場合には、常にデータの表現に慎重に向き合って言葉を選ぶ作業を重ねる必要がありました。データの翻訳の他にも、特にナラティブ研究の論文では、自分の書きたい本当のところをきちんと英語で書けているか、この単語が最も適しているのかを常に自問しながら筆を進めていました。また、どうしても悶々としてストンと腑に落ちない時には、大学院でお世話になった先生や第三者の方の意見も確認しながら進めた事を覚えています。実践やデータを英語に翻訳する作業は、私にとって日本語、英語を問わず「言葉を学びなおす作業」でした。

(2) 学術雑誌にふさわしい英語で表現することから得た学び

教師や生徒たちの日常の語りを研究の言葉に落としていくことやそれを分析し、議論すること、そこから見えてきたことを丁寧に紐解いていく作業を英語で行うことは、特に書き始めた頃の私にとってとてもハードルの高いものでした。今も研究に携わるときは常にstruggleしながら英語で表現しています。論文としてまとめることは、まるでインタビューやジャーナルデータとの対話であり、実践との対話であり、私自身との対話でした。ナラティブを読むとは紡がれた言葉を紐解く作業でもあるので、その中に言葉の持つ力を感じずにはいられません。それを学術論文にふさわしい英語で、しかもそれらの言葉が持つ生き生きとした力を損なわずにまとめる難しさは今もいつも感じています。実際には、まずは私自身が研究の言葉を繰り返し広く学ぶ必要があって、その上で、理論や枠組みのレンズでデータを見ることからでした。教師になって14年目、思い切って飛び込んだ大学院での学びはその機会を私に与えてくれて、素晴らしい研究者の方との出会いが教室研究の価値をあらためて教えてくれました。正直なところ、教師でありながら研究を始めた頃は、中学校教員の私が国際学術誌に論文を投稿すること自体、本当にできるだろうかという躊躇がありました。それゆえに書き進めていても、日本の公立中学校の教師が書くこの論文が本当に受け入れてもらえるものだろうかという思いも膨らみ、なかなか思い切ることができませんでした。その背中を押してくださったのは、大学院でお世話になった先生でした。

学術論文を書いているということに意識を集中していると、データとの対話、理論との対話、自分自身との対話を何度も繰り返す作業にもつながっていきました。学術論文にふさわしい英語で表現していこうと自分のモードを切り替えていくことで、研究を進めながら、自分自身が研究者と実践者の二つの視点から自らの研究を見るようになったと思います。



2. 樫葉から坂本への問いかけ

自らの授業実践を英語学術誌で公刊した経験により、自分の英語授業は何か変わりましたか(それとも特に変わりませんでしたか)。もし変わったとしたら、その変化をできるだけ具体的に教えて下さい。

(1) 教室の「意味」を実感

自分たちの教室についての研究を公刊することで、何より大きく変わったのは授業や教室の研究を行うことの素晴らしさにあらためて気づいたことです。教室では、起こること一つひとつに意味があり、そこで行われる英語授業という営みを通して生徒も教師も成長していく「教室」の素晴らしさを再確認しました。生徒や同僚と一緒に悩んだり葛藤したり、喜んだり達成感を感じたりするその空間がかけがえのないものだということを認識しました。そういった教室の温かい関係の中で、学ぶことに対する喜びを生徒たちとも共有できるようになってきたと感じるようなりました。その上で、今は私たちが過ごしている教室の意味を探り研究できることに喜びを感じています。研究の言葉で語り、理論のレンズで教室を再度見直してみると、教師としてのみの立場で見ていた教室とはその風景は徐々に違って見えてきました。

また、自分が教師の立場でもありながら、同僚の教師の成長の様子を捉えて公刊させてもらったことへの責任と、ここから私の中にも新たなチャレンジが始まるんだという覚悟のようなものを自覚したように感じています。「さぁ、自分は?これからの自分は?」という感覚です。自分探しという言葉もありますが、むしろ自分はもともと存在していて、その上でこれまで意識の下にあったものが自覚されて、自分はどこへ向かいたいか、何を育てたいかという核になるところを再認識しました。教師も生徒も学ぶ喜びを共有できる教室で、温かな関係を育てる、そこでの生徒の成長をすぐそばで支え、見守る。そんな教室の価値をあらためて認識しています。さらに、同僚性について以前より深く考えるようになり、教師たちの草の根活動的な研修会や研究会を考えるようになりました。教師同士のつながりを意識した時、私たちはきっともっと大きな力を得るようなるのだと思います。また、この論文公刊に際して国内や海外の研究者や教員の方々と交流することができ、学びを深め視野を広げる機会をいただきました。



参考

坂本先生の学術論文

Professional development through kizuki - cognitive, emotional, and collegial awareness

Teacher Development: An international journal of teachers' professional development

Volume 15, Issue 2, 2011

http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/13664530.2011.571501#.Udorhjtmh8E


坂本先生の日本語執筆










■ 樫葉みつ子先生の予稿原稿



実践の振り返りの公刊と英語授業

樫葉 みつ子(広島大学)

キーワード:省察、実践の発達、教職の専門性



1. 教師の実践の発達

実践の場面における教師は、自分自身にのみ注意が向く段階から、生徒の学習へと注意が向けられる段階へと発達を遂げ、また、教職観を成熟させていきます(ダーリング‐ハモンド・パラッツ‐スノーデン編 2009)。しかし、発達には個人差があり、また、契機となるものやそれによってもたらされるものも一様ではありません(山崎 2012)。



2. 書籍や論文の公刊による英語授業の変化

大塚先生と坂本先生の英語授業の変化についての叙述を見ると、生徒の学習に対する責任の負い方、果たし方に大きな変化があったことがわかります。

初任の頃は漠然と「英語を苦手とする生徒のために」と思っていた大塚先生ですが、英語授業に関して書くようになってからは、授業での目標、活動の目的、時間配分、文法指導と活動のバランスなど、成果をより一層意識して授業を構成するようになりました。「生徒達が楽しめる授業」よりも「力のつく授業」を目指すようになったのは、出版という形で自分のそれまでの実践を振り返ったことで、教師として本来果たすべき生徒に対する責任をさらに強く認識したからなのでしょう。

授業の準備段階での計画性において際立つ変化を示す大塚先生とは異なり、坂本先生の成長は教授観と学習観の変化に見られます。「同僚の教師の成長を捉えて」実践論文を著した坂本先生は、生徒の成長を支援したり見守ったりすることが教師の役割だと考えるようになりました。論文を書くことを通して、「生徒が学びの担い手に育つ、出来事に満ちた教室の素晴らしさに出会ったこと」が教授―学習スタイルからの大きな転換をもたらしたのです。

大塚先生と坂本先生の発達は、単に生徒の学習へと注意を向けることに留まらず、このように、生徒の学力を十分に保障し学習者としての自律を促進しようとする域にまで達しています。現実の授業は、絵に描いたような「いい授業」とは違うかもしれません。しかし、これだけの専門的な知識をもった先生方が、生徒の学習を自分の責任として引き受け、思考・判断・行為する限りにおいて、その授業は生徒のために最善を尽くして行われているとは言えないでしょうか。



3. 教職の専門性

 教師と生徒との関係は、医師と患者とのそれに似ています。教職を医師と同様の対人関係専門職のひとつとして捉えると、その専門性は生徒のもつ可能性を最大限に引き出す手助けをする行為において発揮されると考えられます(今津2009)。熟達の読み手を得ながら実践を書き、読み手の視線を自分に向けて実践を行っている大塚先生と坂本先生は、生徒に対する権威者としての教師の役割意識を脱却し、クライアントである生徒の学習に対して責任を負う教師として、その専門性を高めているのです。



引用文献

今津孝次郎(2009)「教職専門職化の再検討」油布佐和子(編著)『リーデイングス 日本の教育と社会15 教師という仕事』日本図書センター

ダーリング‐ハモンド,L.・パラッツ‐スノーデン,S.(編)秋田喜代美・藤田慶子(訳)(2009)『よい教師をすべての教室へ―専門職としての教師に必須の知識とその習得―』新曜社

山﨑準二(2012)『教師の発達と力量形成―続・教師のライフコース研究―』創風社