2013年7月20日土曜日

実践者として現場で考えるための方法論





私は高等教育の最優先課題とは「読み、書き、考える」ことがきちんとできる人材を育てることだと思います。「えらく控えめでないですか」と訝しく思う方もいらっしゃるかもしれませんが、多くの学生さんは目を活字に沿って上下(あるいは左右)に動かすことを「読む」ことだと思っています。「書く」ことはワープロで漢字変換などを間違えないことぐらいに思っています。私からすればきちんと読み書きができる学生さんというのはむしろ珍しい存在です。

ましてや「考える」ということを学生さんは苦手にしています。昨日の記事の「教英新入生の4月末での決意 -- 3ヶ月後の今、学生さんはどう変わっているのか(あるいは変わっていないのか)」の学部新入生の感想にもあったように、高校までの教育できちんと考えることを学んでいない学生さんも少なくありません。

ですが、実社会に出た時に、懇切丁寧に指示されたことならなんとかできるが、少しでも未知の状況になるとお手上げになる(質問もできないし、下手をすれば泣き顔になる)では役に立ちません。私は学歴に関係なく、現実世界への対応力をもって「知性」と定義していますので、大卒・大学院卒でもそういった知性を欠く「バカ」はたくさんいます(私も偉そうに言えませんが 汗)。もちろん逆に学歴はなくとも賢明な人はいくらでもいます。

ですから、大学で教鞭を取る者としては、(受験勉強だけしかせず「バカ」になってしまったプライドの高い学生さんも含めて)若い人が現実世界の現場に出た時にきちんと考えられるようにしなければと思っております(参考記事:考える・調べる・尋ねる)。

そのための最適の方法の一つは論文執筆のゼミ活動ですが、いかんせんゼミは少人数ですし、きわめて限られた時間でしか指導することができません。ここは大学生活の大多数を占める通常の講義形式でも、日常の読み書きでも、学校を離れた生活場面でも、「考える」ことができるように、「考える」ための方法論を私なりに提示しておくべきかと思いました。

そこでこの記事では、先日の記事(栗田哲也 (2012) 『数学による思考のレッスン』ちくま新書)に基いて、私なりに 「概念の理解の仕方」と「仮説の生み出し方」についてまとめてみます。若い人が、ゼミ活動などで教員に直接的に指導されている時間だけでなく、日常のあらゆる側面で考えることができるようになるためにまとめたものです。





どうやって新しい概念を理解するか




新しい概念(X)を学んでも、それを一問一答式に「X = Y」と丸暗記して「XってYのこと」としか覚えていないと、そのXは自分の思考や行動ではほとんど応用できず、目の前にある一問一答式のテストに合格した後は、すぐに自分の記憶からも抜けてしまうことは皆さんもご承知の通りです(時に丸暗記力に優れた学生さんは、何年も前に覚えた「X = Y」を再生できて、私などが「Xって何のこと?」と聞くと得意気に「Y!」と答えますが、「それではそのYとはどういう意味?」や「それはZとはどう違うの?」などと聞くとポカンと口を開けてしまいます。そうのを見ると私は哀しい気持ちになります)。

ここでは新しい概念が「身につく」ように理解するための6つの方法を提示します。



(1) 翻訳:思い切ってわかりやすいことばに言い換えてみる

「X = Y」の「Y」という表現はしばしば抽象的で自分の実感の伴わないものです。思考力抜きの丸暗記が得意な人ならともかく、それでは記憶にも残りにくいですし、実感がわきませんから、自分がこれまでに学んできたものとの関連も感じられません。ですから、ぜひとも「X」および「Y」を思い切ってわかりやすいことばに翻訳してみてください。

もちろん翻訳は妥当なものでなくてはなりません。ただ勝手に言い換えただけでは単なる誤解かもしれません。自分で翻訳したら、「X」という概念が出てくる度にその翻訳を想起し、その翻訳で前後の意味が通るかを確認してください。何度か確認するにつれ、その翻訳では通用しないことがわかる場合もありますし、その翻訳でもきちんと意味が通る場合もあります。

とはいえ翻訳はあくまでも代用品にすぎませんから、最終的には「X」という用語を覚えなければなりませんが、「言い換えるなら」「要は」と「X」について考え抜いた後なら記憶は容易でしょうし、何よりその概念を活用できます。

丸暗記学習はやめて、できるだけ、自分のことばで言い換えて、その言い換え(翻訳)が他の場合にも(さらには他の人にも)通用するかを確かめてください。



(2) 比喩:さらに大胆に別領域のものに喩えてみる。

翻訳よりも大胆なのが比喩です。「X」をまるで別領域の(しかし自分がよく知っている領域の)何かに喩えてみようとすれば、私たちはより深くより広く自分の知性と感性を動員させて考えます。

もちろん比喩もいいかげんなものであってはいけません。「X」を「M」に喩えたら、「M」における「M - M' - M''」といった関係が「X」においても「X - X' - X''」と成り立つのかを自ら吟味しなければなりません。さらに(翻訳と同じように)その比喩が他人にも(少なくとも「M」の領域を知る人間には)通じるか、できれば「X」と「M」の両方をよく知る人間に「なるほど、うまい!」と言ってもらえるか確かめてみるべきです。

このような比喩による説明は、子どもにもよくわかってもらえますし、常日頃から比喩を探していると想像力も豊かになります。新しい概念を理解する際にはぜひ比喩も使ってみてください。



(3) 差異: 他の概念との違いを明確にする

私にとって理解し難い学生さんの言動は、新しい概念を学んだ時に、それを以前に学んだ類似概念と対比させずに、すぐに丸暗記しようとすることです。いわば(比喩の使用です!)一つ一つのブロックを集めるように知識を増やすだけで、ブロック間の関係はまったくなく、箱の中にさまざまなブロックが雑然と積み上げられているだけです。

新しい概念を学ぶとは、その新概念をこれまでの概念ネットワークの中のどこかに位置づけることです。その位置づけによりこれまでの概念ネットワーク構造が変わっていきます。新概念を学ぶことは、単なる知識の追加ではなく、これまでの知識の組み換えを行うことです(時に概念構造そのものが根源的に変更される場合もあります)。

ともあれ、新しい用語を聞けば、必ずそれと似た概念用語を思い出し、それらとの違いを明確に言語化してください。差異を言語化できなければ必ず教師に質問してください教師がその質問に答えられずさらには「そんなことはどうでもいいんだ」と不機嫌な顔をするなら、その人は単に教員免許状をもっているだけのバカですから、そんな人は相手にせず自分で考え続け、調べていってください。ある日「あっ、こういう違いか!」とわかる時も来るでしょう。その時その概念は「身につき」ます。



(4) 機能: その概念が登場することでどんないい事があるのか考える

新概念が重要なものであるなら、それには必ず有用性が備わっています。その概念が登場することによって、これまで見えていなかったことが見えるようになったりするはずです。概念には機能があります。

「その概念の働きは何なのか」、「その概念を提唱したのは、なぜそれを必要だと考えたのか」、「自分もこの概念を知ることで、どんな知的変化が生じるのか」を徹底的に考えてください。自分なりの考えが定まってきたら、それを教師に尋ねてみてください。



(5) 図解: 概念の機能やその他の概念との関係性を図示してみてください

概念の機能や関係性をうまく図や表にまとめてみようとすることはいい思考訓練になります。多くの学生さんは図表作成を小手先のこととしかとらえず、図表作成とは何より思考の整理であり訓練であるということを理解していません(だから学生さんの作成する図表はどこか欠損があったり余分だったり、理解しがたかったり誤解を生じさせやすかったりします)。

自分がまとめたことを考え抜いて図表にするには数十分(ときには数時間、数日)かかります。何度も図解して修正して考えに考えてください。

最初の思いつきを書くには手書きが一番ですが、修正を重ねるにはパソコンの方が便利です。「思考ツールとしてのプレゼンテーションソフト」をぜひ読んでください。



(6) 実例: 何よりもその概念が当てはまる実際の例を探してください

実例をあげることを、ここでは一番最後に書きましたが、抽象的なことを聞いたら「例えば?」とその実例を探すことは、私たちがまずやるべきことかもしれません(ここでの「たとえ」とは、比喩ではなく字義通りの例、つまり「喩え」でなく「例え」のことです)。

抽象論が好きな人は「例えば」を自問することを習慣づけてください(逆に、具体的なことを語り続けることが好きな人は「つまり、どういうこと」と自分の論を抽象化することを習慣化してください)。



以上の「翻訳」、「比喩」、「差異」、「機能」、「図解」、「実例」を、新しい概念を学ぶ際に心がけてください。







ちなみに、こういった考えながら理解するすばらしい例が『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)』 で学ぶことができます。







この本では、生徒役の野矢茂樹氏(哲学)が、教師役の西村義樹氏(認知言語学)にどんどんと質問し自分の理解を確かめながら、教師役の西村氏の既存の知識理解も揺さぶってゆきます(これは考えながら問う野矢氏だけでなく、きちんと答えようと考える西村氏もすごい)。

内容的には、生成文法との対比で認知言語学を理解しようとするもので、英語教育(言語教育)を志す者にとっては最適の本の一冊、というよりも傑作です。

少なくとも大学院を目指す学部三年生はこの本を読んでおいてほしいと思います(逆に言いますなら、この本を読めないなら大学院は諦めた方がいいです)。

もちろん大学院を目指さなくても、考えながら理解するとはどういうことかを、言語学を題材にして学べる本ですから、お薦めです。マーク・ピーターセン (2013) 『実践 日本人の英語』(岩波新書)の高校生でも読めるぐらいのわかりやすさはありませんが、言語について専攻する大学生・大学院生に対してはやはり次のように言いたいです(笑)。



言語専攻の大学生・大学院生なら、

買え。

読め。












どうやって仮説を生み出すか




探究の対象である何かを理解するだけでなく、それについてある程度の見通しを立てようとすれば、探究の対象についての仮説(=ある程度の理論)をもつ必要があります。

紙の上だけで研究をやっている人にとって仮説や理論は、「偉い人」の先行研究が一方的に与えてくれるものかもしれませんが、現実世界の現場で考え行動しなければならない人にとって、仮説や理論は自ら生み出さねばならないものです(いや、誤解のないように言い直しますと、自然を対象にして研究する一流の学者は皆、自ら仮説や理論を生み出します。仮説や理論を人から頂戴するだけで自ら生み出さないのは二流・三流の学者です)。

仮説を生み出す一つの方法、想像力により現実世界の混沌にある程度の形を与え、論理力によりその形を堅牢なものにすることです。








■ 想像力 (IMAGINATION)

(1) 生活の想起 (Life)

何かよくわからない探究の対象 (object of inquiry)がそれなりに定まったら、それと似た事象が自分がよく知る生活の中にないかを想像する(この場合の「生活」には日常生活だけでなく、本で学んだ概念などの知的生活も含まれる)。



(2) 比喩 (Metaphor)

生活で想起されたものを比喩としてみることにより、探究の対象が少しでも解明できないか考えてみる。



(3) 類推 (Analogy)

探究の対象(X)に対して何らかの比喩 (M) を思いついたら、そのMについて丹念に思い起こし、XをそのMに類したものとして考え、M - M' - M''の構造的関係をXについてもあてはめ、X - X' - X''であるとすればそれはどういうことかとX'やX''について想像して考えてみる。



(4) モデル (Model)

この類推がある程度うまくいったら、そのX - X' - X''をとりあえずの自分の仮説モデルとして採択する。







■ 論理力 (LOGIC)



(1) 分析 (Analysis)

自分が仮説的に採択したモデルを、それだけで(=もとの比喩・類推とは独立させて)吟味し、相互関係に矛盾や漏れがないかを確認する。



(2) 要素 (Element)

分析してもモデルに深刻な問題が生じないようなら、そのモデルを構成する要素を枚挙しそれぞれについて定義しておく。(モデルの問題が深刻なものでないのなら、それを自覚しておくにとどめておく。モデルとは単純化であり、どんなモデルも完全なものではない)。



(3) 組み合わせ (Combination)

吟味した要素を、これまでにはなかった組み合わせで結合してみて、その新しい結合に何か意味があるかを考えてみる(もれなく組み合わせをするには、マトリックス形式の表がしばしば便利)。有意義な組み合わせが新しい理論の核になる。



(4) 演繹・拡張 (Deduction/Extension)

新しい理論の核を、論理的に展開するか(=演繹)、少し条件を変えた上で類似の命題が出ないかを確かめてみる(=拡張)。いずれにせよ、ここは手堅くやらなければ駄目。手堅くやれば、生活を想起することで着想を得た比喩が、類推・モデルを経て、分析・要素分解・要素結合され新しい理論の核となり、その核が論理的に展開・拡張されて新しい理論となる。





以上が、私なりに想像力と論理力を使って、最初は自分でもよくわからなかった探究の対象を理論化する方法です。

私はこの方法をしばしば取りますが、自分でも思い出深いのは、「とにかくすごい!」としか言いようのなかった田尻悟郎先生の実践(探究の対象)を、ハンナ・アレントの哲学というまったく異なる領域を比喩にしてそこから類推し分析し考えを展開していった「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」。当初私はアレントについてまったくの偶然から知るようになり、知れば知るほど、田尻実践との類推が可能なように思え、でもそうは言ってもアレントを誤解していないかと恐れながらずっと考え続けていったので特に思い出に残っています。



最近読んだブログ記事で非常に印象的だったのは、私が敬愛する山岡大基先生のホームページブログです。特に以下の記事では【 】に示された思考法が示され、やはり山岡先生は複雑で多忙な現場の中でもきちんと考えることができる本当に頭のいい方なのだと再認識しました。

もちろん上で私が図式化した項目と順番で思考が進んでいるわけではありませんが ―人間の思考とは、時に分離し、時に融合し、時に並走し、時に跳躍し、時に遡及するものです― 実践者としての思考のいい例としてここにご紹介します(この紹介についてはご本人から予め許可を得ています)。

Fat Eyes 【比喩と類推】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/189.html

ダイコトミー 【分析】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/192.html

「授業構成」という観点 【要素・組み合わせ】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/183.html

あいまいなわたし、まいんどこんとろーる? 【常識的な言葉遣いを疑う】
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/187.html

(英語)教員の「センス」 【複眼的思考】(参考:アクション・リサーチの合理性について
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/talent_for_teaching.html





これらの山岡先生の記事について授業中に軽く触れたら、何人もの院生がこれらの記事を読み、感想を書いてくれました。以下はその一つです。



SS君: “今を楽しめ!”


 わたしが学部3年生のときに中四国九州学生バドミントン選手権大会という大会がありました。表題のことばは、その大会でK大学のA選手が発したことばです。
 (中略)
  いよいよ試合が佳境に入ってK大学の仲間であるB選手が苦しくなってきます。そこで、4年間の思いを込めてA選手がB選手に向かって発したことばが、“今を楽しめ!”でした。そのことばを発したA選手の表情と声のトーンが、今でもわたしの中に残っています。それ以来わたしは、“今を楽しむ”ようなバドミントンをやるように心掛け、大会で苦しくなったときはそのことばを発し、良い方向に向かいました。

 今日の授業で柳瀬先生は、山岡先生のブログを受けて、考えることをやめない大切さを説かれました。山岡先生は、あの方が院生のときに得た知識にたよって教師をしているのでもなく、他人の考えに依存して教師をしているのでもなく、山岡先生が「今」身をおいている環境で考えをめぐらしています。あの方にとっての「今」を土台にして、教育に関して考え続けられています。

 かの菊池省三先生も(Facebook上で目にみえる形でも)、常に「今」の子どもたちと向き合って考え続けています。決して褒めことばのシャワーを固定した方法論になどせず、常に変化させていっています。

 これら御二方からも学べるように、「今」を考え続ける姿勢が教員になったときに一番大切な習慣ではないでしょうか。「教員になったら、わたしも常に考え続けたい」と言いたい所ですが、大学院生である「今」求められるのは、「今」を大切にして考える姿勢です。わたしは、「今」習っていること(CALxでもAASLAでも)をつい教育実践や英語教授に結び付けてしまうのですが、それは将来のわたしであって「今」のわたしではありません。もちろん英語教育を考えることは重要ですが、もっと「今」実感の沸くバドミントン・2階の院生研究室・麻雀・書道・最近のニュースなどに結びつけた理解をしていかなければ、本当の理解は得られないと思います。今後は、授業中・研究室メンバーや同級生と話しているとき・教採の勉強のときなどいつでも持ち続ける意識をさらに強めなければならないと思います。久留米大学のA選手の“今を楽しめ”を日常でも意識すると共に、“今を考えろ”を座右の銘にすべきかなとも感じます。




ついでながらに紹介しますと、以下もある学生さんが授業の感想の一環としてWebCTシステムに残してくれた文章です。私としては抽象的な概念をできるだけ生活実感の中で理解することを奨めているので、学生さんはしばしばこのような文章を書いてくれます。



NA君: コーヒーと授業


先頃日記を読み返していたら、今回の授業と関わる(とおぼしき)話が出てきた。またぞろよくわからない話をしてしまうことになるかもしれないが、ご容赦願いたい。

留学から帰ってきてからしばらくの間、留学中足しげく通い詰めたカフェの、『あのコーヒー』を再現しようとしていた時期があった。具体的な内容は割愛するが、とにかくありとあらゆる思いつきを試した。しかしそうして淹れたコーヒーは、『あのコーヒー』には遠く及ばなかった。そこで私は、あの味が出せないのは技術面の問題と考え、有名店を巡って技術を教えてもらう(盗む)ことにした。そんな折、懇意の豆屋に教えてもらったカフェに行く機会があった。

その店の主に「『あの味』を再現できなくて悩んでおり、技術面の問題だと思うので見学させてほしい」と伝えると、彼は少し笑って、「それはね、きっとコーヒーじゃないですよ」と言った。聞けば、彼は先代バリスタが亡くなってから、『あの味』を完璧に再現しようとしていた時期があったが、やがて「同じ味は絶対に出せない」と気づいたのだと言う。彼に言わせれば、『味』は単純に豆や焙煎などの『コーヒーに直結する要素』だけではなく、採光、音楽、雰囲気、ヒト、コミュニティとしての性質などの『空気』が関係するのだそうだ。特に「ヒト」は大きな要素であり、「その人の味」や「その時の味」が確かに存在するのだという。だから、そうやって出来もしないことを追い求めるのではなく、「『そのときのあなた』が心から美味しいと思うコーヒーを淹れれば良いのではないでしょうか」とのことだった。

それを聞いた私は、憑き物が落ちたような感覚を抱いた。私がコーヒーの味だと思っていたものは、その時の私の心情を含めた『空気』だったのだ。きっと今、あのカフェのあの席でコーヒーを飲んだとしても、『あのコーヒー』の味ではないのだろう。そう考えるようになって、ようやく自分の淹れたコーヒーを素直に楽しめるようになった。



これらは、そのまま授業にも言えることだろう。教材・教具・指導法など「授業に直結する要素」をいくら真似ても、目標とする授業にはなり得ない。その場で出来る最善を尽くす、と言えば当たり前に聞こえるが、誰しもが持っている「理想」に拘泥しないということは、決して簡単なことではない。そうした時にキーになるのが、exploratory practiceという考え方ではないだろうか。

理想とする何かと比べ、出来ていない点を数えると辛くなるが、現状を良くする為に何かをなし、それによって良くなった点を数えるのは楽しいものだ。私が考える exploratory practice は後者だ。コーヒーでも、挽いた豆のサイズを変えてみたり、抽出温度を変えてみたり、湯量を変えて変化する味を楽しんだりするのは楽しかった。やってみた結果を踏まえて現状を変えてゆくのは、きっと授業でも楽しいはずだ。現状を観察し、自分の起こす変化を楽しむ(そして後始末をする)精神を持てるようになりたいと思った。




さらに紹介しますと、以下は「ルビュ言語文化教育」というメールマガジン(無料)にあった記述ですが、これも教員といった実践者が現場で考え抜くことの重要性を訴えています(ちなみにこのメルマガはお薦めです)。

国語教員たちは,授業方法についてはよく議論していたものの,根本的な教育観については議論していなかった。私が国語能力とは何なのか,何を目指しているのかなど,本質的な質問をすると,「私たちは授業に自負心を持っています」「我が校の国語教育はすばらしい」「いろいろな授業をもっと参観したほうがよかったですね」などと言われ,それ以上つっこむと失礼だというバリアを張られた。私は批判ではなくただ意見交換がしたかったのであるが,その思いは通じなかった。

なぜ現場が閉塞しているのか。それは教師たちが教育について根本的に考え,意見交換をする必要性を自覚していないからである。実習校は私立の伝統校であり,特に何十年にも亘り受け継がれてきた独自のカリキュラムで国語教育を行っている点を学校のアピールポイントの一つとしていることから,相当の自信,自負心を持っていた。しかしその自信や自負心が,現場の閉塞性を生じさせている原因になっていると感じた。

http://archive.mag2.com/0000079505/20130719080000000.html






以上、私なりに概念の理解の仕方、仮説の生み出し方を解説し、いくらかの実例も示しました。無論、これは私なりの方法にすぎず、概念理解や仮説生成には他にもたくさんの方法があるでしょう。大切なことはこういった方法論についてオタク的に論評することでなく、現実生活のあらゆる側面で理解を深め仮説を立てながら考え行動することです。

大学時代にぜひとも考える習慣を身につけてください。





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栗田哲也 (2012) 『数学による思考のレッスン』ちくま新書
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付記

以下の本のある章では、私は優れた現職教員の方々の観察力・分析力・思考力についてまとめました。約7000字の原稿です。よかったらぜひお買い上げの上、お読みください。









追記 (2013/10/12)

アインシュタインも、創造における組み合わせの重要性を語っています。

http://www.brainpickings.org/index.php/2013/08/14/how-einstein-thought-combinatorial-creativity/

しかし、ここでは彼の「イメージ」 (images)、「情動的基盤」 (emotional basis)、「視覚的であり筋肉運動的」 (of visual and of muscular type) に 注目したいと私は考えます。
彼の「組み合わせ遊び」 (combinatory play) による創造は、私たちが考える以上に、ぼんやりとして情動的かつ身体的であるように思います。




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