きたる8/4の「小学校英語教育 そこまで言って委員会 - 現場からの逆襲」で大阪府教育長の中原徹氏の英語教育論を受けて議論をします。その準備として中原氏の著書二冊を読んでおりましたので、本日その簡単なまとめをここに書きます。
中原氏は(私が言いますとかえって失礼かと思いますが)相当に実務能力が高く、合理的精神をもち、社会の権力(牽制)関係についても知悉しています。さらに、アメリカでの弁護士経験を通じて英語・異文化での苦労も知り、民間人校長職も経験して教育現場を知っています。ですから、中原氏の英語教育改革論は、非常に現実的であり、よくある外野からの無責任な英語教育改革論では決してありません。英語教育関係者・英語教師はきちんと中原氏の立論を理解しなければならないと私は感じています。(中原氏の略歴はウィキペディアを御覧ください)。
特に学生の皆さん、現代の英語教育に求められているレベルを理解するため、ぜひ下のまとめを読み、動画を見て、興味があれば著作(特に『国際的日本人が生まれる教室』)をお読みください。
結論から申しますと、私は「すべての大学入試をTOEFL iBTに」といった形での英語教育改革は(コストの意味でも、学習レベルの意味でも)あまりにも非現実的ですし、言語政策的にも慎重な議論が必要と考えていますが、以下の中原氏の論のように理性的に英語教育改革を立論されると、英語教育界は変わらざるを得ないと考えています。
もちろんその変化は中原氏が言うとおりの変化にはならないでしょうが、こういった理性的な英語教育改革論を受けてまでも、学校英語教育関係者が自己改革を進めないなら、学校英語教育は社会からの信頼をますます失い、その結果として(不満をもつ市民の感情をうまく増幅させた)為政者による強行改革をさらに招くだけでしょう。
これまでも学校英語教育は、「世間からの不信⇒外部からの改革強行⇒教育のさらなる不全と教師の疲弊」といった悪い循環に苦しんできました。その中でさまざまな自助努力による自浄化が英語教育界にも見られますが、まだまだ足りません。
現場を預かる英語教師を中心とした英語教育改革を進めるのが私は最善の途だと考えます。その途に至るためにも、以下のまとめをお読みいただけたらと思います。(また、現場の声を集約するためには、投書箱「英語教育:学校教師の声」をぜひご活用ください)。
著書は『国際的日本人が生まれる教室』(単著)と『学校を変えれば日本は日本は変わる』(伊藤大貴氏との対談共著)ですが、以下は前者を (2013a)、後者を (2013b)として中原氏の論をまとめます。
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■ 基本理念
・日本を「強い国」にしたい
中原氏が教育を変えたいと強く願うのは、日本を「強い国」にしたいからである。だがこの「強い国」とは、「国民ひとりひとりが十分に知識、教養、思考力を身につけ、堂々と国際社会においてその存在感を示し、困っている国や人々に手を差し伸べることができる」 (2013a, p. 17)ことを意味している。氏は教育界に入ったのは「英語力を上げて、外資系企業に入社する人を増やすというようなことを意味するのでは、まったくありません」 (2013b, p. 234)とも述べているので、決して経済的な意味だけで「強い国」にしたいと言っているわけではない。(また、二つの著書には軍事力増強についての言及もない)。
・日本の長所
日本は「思いやりの大切さ」を教えてくれる国であり、内戦や貧困のために教育をしっかり受けられない国でなく、「日本人」であることに一定の評価と信用が国際的に与えられている点などで、中原氏は日本人であることにプライドをもち、日本に恩返ししたいと考えている (2013a, p. 201)。
・「グローバル人材」の定義
中原氏のいう「グローバル人材」とは、「異なる文化、言語、宗教の人々と最大公約数的な理解のもとに共存できる人材」(2013a, p. 19)であり、(1) 英語力、 (2) 言いたいことを伝える力、 (3) 日本人としての誇り、 (4) 豊富な知識・教養、 (5) 「変人」になること、としている(2013a, p. 68)。 このまとめは(1)を中心とするが、(2)の基本的な論理学的素養や(4)の幅広さ・奥深さについても中原氏が強調していることは忘れてはならない。
・競争のイデオロギー的否定は無責任
中原氏は「競争によって人類全体がさまざまな発見をしたり、技術を開発したり、人間の可能性を広げてきた」(2013a, p. 57) と考えている。私はマット・リドレーによる『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史』 の考えにならって、この「競争」ということばは、「交換」と替えるべきではないかと考えており、中原氏の「競争」観に全面的に賛成するものではないが、以下の「競争批判」批判についてはまったくその通りかと思っている。
競争を忌み嫌う教員、評論家およびマスメディアらは、競争に勝ち残ってきた結果、今の仕事に就けたのではないでしょうか。自分たちは一定の競争に勝ち残って高い学歴を得て、その恩恵にどっぷり浸かり、安定した生活を得て、自分のお子さんを競争に打ち勝つための習熟度の高い学校に送りながら、他方で競争を否定している人がいるのです。自身の最愛のお子さんに与えてあげたい教育とは異なる教育を、自身のイデオロギーを満たすかのように主張するその姿勢が、私には無責任に思えて仕方ありません。 (2013a, p. 63)
・学校の全面的民営化は危険
企業は利益を前提とする以上、経済的に恵まれない層への学校教育に積極的に働きかけるとは考えがたい (2013b, p. 156)。学力が経済力で規定されてしまうなら、日本の国力を上げることは不可能である (2013b, p. 220)。公立学校への働きかけが中原氏の論の中心である。
■ 世界認識
・日本式スタンダードと米国式スタンダードの使い分け
中原氏は米国での体験から、日本式スタンダードでの言動は通用せず、米国式スタンダードを修得しなければならなかったこと、さらに米国式スタンダードは多くの外国人に通用する西洋式のスタンダードになっていると主張する。(2013a, p. 47) ―ここでは「多くの外国人」であり「すべての外国人」ではないことに注意するべきであろうが、その議論はここでは割愛する―。
だが中原氏は日本式スタンダードの大切さも痛感しており、「世界の人と接するときには、シンプルに言いたいことを積極的に伝えていく「雄弁は金、沈黙は相手にされない」スタンダードを。日本人と接するときには、奥ゆかしさをもった「沈黙は金、雄弁は銀」スタンダードを。」という「二重の基準を用いるアプローチ」 (2013a, p. 155)を勧めている。 ―だが、私が最近お話させていただいた、日本の大学を出て米国大学院でPh.Dを取得しそのまま米国の大学で政治学を教えている日本人研究者は、「米国文化で称賛されるのは話す力というよりは、"a good listener"であることであると述べていた。この場合の"a good listener"とは「沈黙」ではないが、「雄弁は金、沈黙は相手にされない」ということばの単純化には注意が必要であろう―。
・「米国人と対等にやりあう」とは
「米国人と対等にやりあう」とは、なんとなく英語で会話が成立しているようなレベルを意味するものではなく、日常会話ができるレベルでは、会話の主導権を米国人にすっかり握られてしまい、気がつけば「イエス」と言わざるを得ない状況を作られてしまうと中原氏は述べる。 (2013a, p. 72) これはまったくその通りで、英語(外国語)を使う仕事の中でももっとも高度なものの一つである弁護士業をくぐり抜けてきた中原氏のことばは重い。
・東大や京大に入学する学生は、米国大学に入学できる英語力を
中原氏は「日本を代表する東京大学や京都大学などの国立大学に入学する学生は、少なくとも米国大学に入学できるだけの英語力をもつ必要があるのではないでしょうか」(2013a, p. 121)と述べる。
「東大や京大」を「日本を代表するエリートの一部」と読み替えるなら私もこの意見には賛成するが、これを「東大や京大に入学する学生のすべて」や、「全国30程度の大学生全員」さらに「すべての大学入学生」とすると、その制度改革がどのような波及効果をもつのか --日本のエリートが日本語も英語も成熟させるのか、それとも日本語をかなり犠牲にして英語を上達させるのか、後者の場合は、日本語のこれからはどうなるのか(参考:『日本語が亡びるとき』)--などを考える必要がある。
下の動画紹介の欄でも書いたが、おそらく今回の「入試にTOEFL iBTを」の改革論が現実的に実を結ぶとしたら、少数の大学の一部の学部でのAO入試にTOEFL iBTのベストスコアを提出されるぐらいに終わるだろうと私は考えている。このぐらいなら現実的だし、それでも有名大学がこれを行ったらある程度のインパクトは英語教育界に対して与えることができるはずである。(私は改革は志向するが、性急な改革は逆効果や反動を生みかねないという懸念を常に抱いている)。
■実務能力
・議員の核は立法能力
議員は、一部住民の不平や不満を代弁するばかりが能ではない。権力システムの中での議員の中核的役割は、立法をすることである。 (2013b, p. 105) 立法で条例や法律を起草する場合、大切なのは「前文」であり、ここで何のための条文かがすぐわかるように書かれなければならない。そのためには議員は、「行政の人間がうなるほどの勉強を強烈なスピードでこなしていく力が要求される」。 (2013b, p. 22)
・権力システムでは暴走を防ぐ仕組みが必要
中原氏は教育委員会の無責任体制を批判し、教育長の権限を明確にすることを主張するが、その際には教育長の暴走を防ぐために首長が教育長の選任・解任をできるようにすることが必要だとする。さらに首長の暴走は選挙やリコールで有権者がコントロールできるようにし、言論の自由を最大限保障することが必要だと説く。(2013b, p. 49)
・政治と教育は無関係ではありえない
中原氏はまた「政治は教育に対して中立じゃないといけない」とは呪文になっており、政治と教育が分離独立することはないと説く。そこから中原氏は「教育には政治の介入が必要」とし、「議論すべきなのはそれはどんな内容の介入なのか」、「どこまでの介入がよくて、どこから介入してはいけないのか、それを定めるためにどんな仕組みが必要で、それでも介入してきたらどうするか」(2013b, p. 64)を議論していくべきと主張する。
・改革は民主主義のプロセスを経ねばならない
中原氏は、民間校長としての高校英語教育改革(大阪府立和泉高校)の経験を通じて、民主主義プロセスを経なければ改革はできないことを力説する。「『英語教育を変えろ』と評論家やコメンテーターはひと言で簡単に言いますが、こうした丁寧な民主主義のプロセスを経てようやくできることなんです」(2013b, p. 91)という中原氏のことばは、思いつき的な改革論が多い英語教育界が傾聴すべきことばである。
・教師が聖人であることは求めない
中原氏のすぐれた現実性は次の引用にも見られる。
教育の目的は「人を育てる」ことにあります。ですが、その責務は先生一人に課せられるものではないはず。現実的に、学校だけですべてを賄うのは無理だと思います。それは明らかです。
しかし教育界の議論を見ていると、最後は「先生は仏陀やキリストのような聖人になりなさい」という話になる。そんな人はほとんどいませんので、期待が多すぎると思います。現実的に必要なのは、学校の責任と権限を明確にする仕組み作りです。そうして教育行政や地域などと役割分担をする。
私がこういう仕組み面の話をすると、「教師に大切なのは教師の情熱だ、愛情だ、それがおまえには欠けている」と反論されるんです。現場の先生が生徒に接するときに必要なのは、まさに情熱であり愛情ですよ。先ほども言ったように、そこは僕も同意見です。けれども、大きな仕組みの議論をするときは、感情論だけでなく、現実的に実行可能で、継続できる制度か否かを合理的、客観的に考えないといけないと思います。(2013b, p. 201)
教育にすべてを期待するような理想論でなく、教育に何ができて何ができないのか(何をするべきで・何をするべきではないのか)を検討する現実論が必要だというのは、教育学者の苅谷剛彦氏も強調する通り。英語教育界も、いいかがえんに理想論(あるいは感情論)ばかりという状態から卒業し、理想と批判精神を忘れない現実論を語り始めないといけない。
・権限と役割の中での主体性
現実的に改革を進める中で個人レベルで大切なことは「それぞれが自分の権限と役割の中で、主体的に動くこと」(2013b, p. 224) だと中原氏は述べる。「自分の権限と役割の中の主体性」とは至言だろう。(ですが、それに加えて(カントの「理性の公的な利用」という意味で)「自分の権限と役割を超えたレベルでの思考力」も重要であると私は付け加えておきたい)。
■ 学校について
・「改革は二年間で」に違和感
校長就任時に、赴任校での英語教育改革にはどのぐらいかかるのかを教育委員会幹部に尋ねたところ、「現場教師と仲良くなるために一年、次に根回しを重ねて職員会議での最終決定を得るために一年、の二年」かかると言われ大変驚いたと述べている。 (2013a, p. 124)
・ 合理的にリスクを検討し、リスクがなければ(小さければ)実行
中原氏が学校現場では通常ありえないぐらいのスピードで英語教育改革を成し遂げた理由の一つは、合理的な議論を教員集団にもちかけたことだ。中原氏は校長として職員会議で次のように発言したという。
「だらだらと議論を続けても仕方がないので、二ヶ月だけ議論をしましょう。それまで、私は24時間体制で意見交換をさせていただくので、反対のご意見をお持ちの先生はどんどんリスクをご指摘ください。何時でも何曜日でも構いません。その結果、生徒に重大な不利益を及ぼすようなリスクが存在するとなれば、この企画を見直すようにしましょう」(2013a, p. 129)
それでも「校長提案は前例にない」と反対する教員もいたが中原氏は「法律やルールに違反するものではないので私が前例をつくる」とした。
この中原氏のアプローチは、「とにかくトップダウンで決まったことだから、やるように」といった無能な中間管理職(校長)の対局にあるもので、中原氏の実務能力・合理性の高さが伺える。
しかし少しだけ気になるのは「24時間体制で意見を聞く」という言い方。リーダーにはしばしば超人性が求められることは承知しているが、すべてのリーダーが超人であることはできない。したがって、このような言い方が「当たり前」になってしまっては怖いと私は懸念する。
・優秀な教師や行政職を拘束している勤務状況
中原氏は、「子どもたちなんてどうなったっていいや」「俺は定年まで腰掛けてお金もらって生活していければいいんだ」という先生には会ったことがない(2013b, p. 62)と述べ、「中学、高校の先生は、教科指導、担任、クラブ顧問の業務バランスを図ろうとすると、平日の12時間近い勤務に、土日も働くという状態になります」(2013b, p. 197)と教員の勤務状況も把握している。
市教委についても、「やる気がないわけでも、アイデアがないわけでもない」、「有能で人格的にも優れた人たちが市教委にはいる」、「しかし前例や慣例、さらには役所内の人間関係に気を使うあまり、加点を増やすよりも減点を減らすことが重視されてしまうという"文化"が蔓延している」(2013b, p. 75)と評している。
さらに教員は、教育委員会に出す報告書作りによってさらに多忙化していることも中原氏は承知し、これは議会が教育問題のアリバイ作りに教育委員会に報告書を求めてばかりいることが悪いとも指摘している(2013b, p. 103)。議員がするべきことはクレーマーのように行動するべきことではなく、きちんとした勉強をした上で立法をすることであるというのが中原氏の見解であることは上で述べたとおり。
・結果の検証は必要
中原氏は、民間校長として書いた著書で次のように述べている。
私は教育者として、できるだけ具体的な解決策を提示したいとの思いがあります。そして、その解決策は実現可能なものである必要がありますし、また、結果の検証ができるものでなければなりません。英語を学ぶ生徒の顔つきが変わってきた、生徒が英語に興味を持ってきた、というような状態は「英語力を改善する」というゴールに照らせば結果でなく、単なる通過点に過ぎません。やはり、具体的、客観的に測定できる成果を求める手法がとられるべきだと感じています。(2013a, p. 106)
私はこの主張のポイントはよく理解できるものの、
(1)例えばTOEFL iBTのように四技能をまんべんなく測定しようとすると、その金銭的・時間的コストは非常に高くなる、
(2)TOEFL iBTのスピーキング測定でさえ、interactionでのスピーキング能力を測っていないなどの限界がある、
(3) スコアを標準化しなければならない客観式テストではどうしても測れない質的な側面がある(例、上記の「顔つき」 ― 現場の実践者としては非常に重要な指標)
などから、全面的には賛成できない。
もし中原氏の上記の主張が、これらの懸念抜きに単純化して伝わり改革が強行されれば、(1)の要因から安価なテストが選ばれ、そのテストがもつ(2)が忘れられ、質的な(3)が無視・蔑視されることを私は予想するで、このような懸念を表明しておく。
追記
中原氏の「英語を学ぶ生徒の顔つきが変わってきた、生徒が英語に興味を持ってきた、というような状態は「英語力を改善する」というゴールに照らせば結果でなく、単なる通過点に過ぎません。」という見解にはやはり現場教師の一人として違和感を覚えます。
私なりに言い換えるなら、「英語テスト得点といった客観的・具体的に測定できる成果は、『教育』というゴールに照らせば結果でなく、単なる通過点に過ぎません。それよりも生徒の顔つきが変わり、彼・彼女らの興味が深まる方がよほど大切です」となる。(もちろんこれで客観的・具体的指標をないがしろにする言い訳にするつもりは毛頭ない)。
・テストの点数は評価の一つの手段に過ぎない
しかし、中原氏は次のように述べている。
大阪がやろうとしているのは、テストの点数ではなく「受益者である保護者・生徒の評価」を予算と直結させるというもの。保護者や生徒が学校を評価するためのデータをいろいろ開示しましょうと言っているのです。
その中には、もちろん学力 ―すなわちテスト結果― というデータもあります。学力は保護者や生徒の重要な関心事の一つですが、それが全てではありません。校風、教育方針、授業の中身、生徒指導、クラブ活動などの課外活動、進学状況に就職状況・・・さまざまな要素を保護者、生徒は考慮して学校を選ぶと思います。(2013b, p. 98)
これを読む限り、前項の私の懸念は少し解消されるが、それでも学校がこれまで以上に学校の様子を公開・広報しないと、保護者や生徒はわかりやすい数字(テスト結果や進学・就職状況)だけに注目するだろう。公開・広報にも時間的コストがかかるし、さまざまな工夫も必要なのだから、教育行政はそういった支援もしなければならない。
・社交性・想像力・発想力
中原氏は「受験勉強ではまったく測れない」が「社会に出てからは極めて重要な力」として、「社交性 (人づきあいの上手さ)」、と「想像力、発想力」を上げている(2013a, p. 241)。それならば、これらの力の育成をどう保護者や生徒にわかってもらえるかというのも、重要な課題となる。
■ 学校英語教育について
・「英語しか使わない英語の授業」を日本でやっても逆効果
中原氏は、上海の公立高校で完全に英語のみで授業が成立している実践を見て、その質の高さを称賛しているが、その中で「(日本でこれをやろうと思っても、英語の先生と生徒の「話す」能力からして、かえって中途半端になり、失敗に終わります)。」(2013a, p. 82)と述べている。このあたりは中原氏の現実感覚の確かさであろう。
・英語学習の判断を未成年が行うことについて
中原氏は「すべての国民に英語を押しつけるべきではない」という批判には一理を感じつつも、「最終的に英語を勉強しないリスクを判断するのが、小学生、中学生、高校生の場合には、彼(彼女)らが未成年である」 (2013a, p. 95)ことが気にかかると述べている。これも正論であろう。
・小学校英語へのフォニックス導入
中原氏は次のように述べ、小学校英語にフォニックスを導入することの論拠としている。
語彙を増やす際に、正しく聞けて、発音して、書けて、意味を理解する。当たり前と言えば当たり前ですが、残念ながら日本の英語教育ではここを飛ばしてしまい、聞けなくてもよい、発音できなくてもよい、ただ和訳ができればよいというレベルで満足してしまったがために、世界から取り残されてしまっています。 (2013a, p. 112)
中原氏は、フォニックスを九九のような学習として扱い、指導は(英語教育の訓練を受けていない小学校教師が大半の現状では)DVD教材で行えるだろうとしている(2013a, p. 114)。
こういった具体的な点こそ、英語教育関係者がきちんと検討すべきである。8/4の「小学校英語 そこまで言って委員会」に向けて投書箱「英語教育: 学校教師の声」に寄せられた意見の一つとして以下のものがあるが、こういった吟味を「専門家」である「英語教育学者」はきちんとしなければならない(抽象的な理論の話が多い自分自身への自戒も込めて)。
現在、特別支援の視点から英語指導に取り組んでいる者です。
フォニックスを導入するということについて、賛否両論あると思いますが、わたしはそもそもフォニックスをどの段階で入れるかという議論がなされていないことに危惧を感じています。
英語圏でフォニックスはもちろん取り入れられていますが、それは英語の音韻認識が育って次の段階、つまり音を文字に結びつけていく段階でルールとしてフォニックスを導入している事情があります。
そこを全く無視して、日本語の音韻認識しかない子どもたちに、英語の音韻認識を育てないまま、文字と音のルールだけを指導することには問題があると思っています。
http://www.manabishien-english.jp/④ldと英語教育/4-3-音韻認識/
そもそも、英語の読み書きを習得するのになぜこれほど多くの生徒が失敗しているのかという根本的な原因を無視して、フォニックス指導を取り入れてはいけないのではないか・・・。決してフォニックスが悪いのではなく、段階として、小学校ではそれこそ音への気づきからスタートするのが良いのではないかと考えています。
当日は、フォニックス導入の賛否だけではなく、「なぜフォニックスなのか」「フォニックスをこの時期(小学校)に入れる妥当性」といった議論が聞けることを期待しています。
・小学校への英検導入
現行学習指導要領も含めた現状で行える改革として中原氏は、「フォニックスの全レベルをクリアした小学生には、同じく、始業前、放課後、土曜日に、今度は、日本英語検定協会が実施するジョつよう英語技能検定(「英検」)五級をめざして勉強を開始してもらいます」 (2013a, p. 116)と述べている。
これは、教育についても結果の検証は必要という中原氏の信念の帰結だろうが、英語教育関係者としては、そもそも英検五級がどんなテストで、その合格のための勉強を学びの重要な指標として使うことで何が得られ何が失われるのかを具体的に検討する必要がある。
・小学校で英語を教える人材について
こういった英語教育を小学校で行う場合は、ALTや中学校の英語の先生、地域の外国語大学の学生、地域の英語塾の先生などの人材を配置すべきと中原氏は言う (2013a, p. 118)。
しかし「小学校英語教育 そこまで言って委員会」の記事でも引用したように、英語(教育)に長ける者も、小学生・小学校の生態をよく学ばなければ失敗をしてしまうことは、小学校英語教育の第一人者の一人である小泉清裕先生も述懐する通りである。
中学校の英語教師が小学校の英語活動に本気で参画するのならば、まず、中学校の英語教育と小学校の英語活動の違いを徹底的に理解してから臨むことです。私自身は長年中学校、高校の教師をしていただけに、その匂いがぷんぷんしていたに違いありません。その匂いを消すのにはよほどの覚悟が必要になります。まさに滝にでも打たれてから臨むような気持ちでやる覚悟がほしいのです。 (小泉 2009 155ページ)
私自身は30年以上の教師生活の中で、その半分の期間を小学校英語の問題に真剣に取り組んできました。しかし、まだそおの入り口にやっと立てただけの気がしています。入り口に立つまでにしてきた最大のことは自己否定です。自分が受けてきた教育、そして自分が中学校、高等学校の英語の教師としてやってきたこと、大学で教鞭をとっていることの肩書きや自尊心などすべてをかなぐり捨てて、新しい自分になることを目指してきました。そのことでやっと少しだけ見えてきたものがありました。(小泉 2009 226-227ページ)
そうなると楽観はできないことになる。もちろん楽観できないからといって悲観・否定に至る必要はないわけで、もし小学校英語教育を拡充させるとしたら、上記のような問題を解決するような仕組みを英語教育関係者は作り上げる必要がある。(もちろん小学校英語教育を拡充せず(あるいは廃止すらする)という選択もあるだろうが、そういう選択を日本の市民・政治家がするだろうか・・・)。
・高校卒業時にTOEFL iBT について
中原氏は、「高校卒業にTOEFL (iBT。以下TOEFL)で80点から100点を目指す学習内容にシフトしていくべきであると考えます。」(2013a, pp. 118-119)と述べている。これについてはさまざまな現実的問題があり、その問題を無視してこの改革を全国一律に強行するなら、さまざまな問題が新たに生じるだろうというのは、下記の本にも詳しいし、和歌山大学の江利川先生のブログでも再三論じられているので、ここでこの問題はこれ以上語らない(参考:「7/14講演会『英語教育、迫り来る破綻』に参加して」)。
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以上が私なりのまとめです。まとめといっても、ずいぶん多くの論点を割愛したので、中原氏の立論に興味をもった人はぜひご自身で著書を読んでください。
こういった立論を提示する中原氏が大阪府という大都市の教育長になったことの意義は大きいと思います。
私は現状の英語教育には問題点が多いと考えている人間ですので、この立論をきっかけに関係者が英語教育の問題を理性的、合理的、批判的、そしてなにより具体的に解決していくようになればいいと願っています。
逆に悪いシナリオとしては、こういった立論が、(a)「すべての高校でTOEFL iBT」といった極論に変容してしまい自滅・自壊するか、強行され児童・生徒の学びが深く損なわれる、(b)英語教育関係者の感情的反発を招き、英語教育界と世間の間の溝がますます深くなる、といったことが考えられます。
しっかりと英語教育改善を図らねばと思います。
付記
● 文部科学省ホームページ
中原徹氏(大阪府立和泉高等学校校長)意見発表
以下は、このページからの抜粋
大阪府立和泉高校の校長をしております中原と申します。岸和田という一地方の校長がこういう貴重な機会をいただけるということで、本日は一切オブラートに包まずに、私の思いの丈をお話しさせていただきますので、時に生意気な発言もあるかと思いますけれども、国を思っての発言ということで、お許しいただければと思います。
・・・
日本では、それこそ東大を出て、英語も各省庁、あるいは商社、銀行の中ではかなりできるというエリートのエースがハーバードだったり、スタンフォードに来ていると思うのですが、では、その中で、そのアメリカ人と対等ないし彼らからちょっと疎ましく思われるぐらいに頭角を現している人がいるかというと、なかなかいなくて、むしろそこで学んだことを日本に持って帰って、箔をつけるといったら変ですけれども、それを日本で自慢するために今は頑張ろうとじっと耐えている人が多いのです。
・・・
そのうちリーダーが相手にされなくなって、日本企業であっても、トップに、それこそ中国人がなってしまうという、今、楽天もファーストリテイリングも英語を公用語と言っていますけれども、パナソニックも大量に幹部候補生を中国からとろうというような話も報道されていますが、本当にそれが現実のものになって、日本国内であってもリーダーに日本人が立てなくなるという、そんなことがあるのではないかということを懸念しています。
・・・
世界基準で通用する若者を育成するためにおまえは何をしたいのだと私が聞かれれば、これは端的に言ったら、「日本のいいところは残して、悪いところは改善する」、そういうことだと思っています。
・・・
今、戦後65年たちましたけれども、残念ながら、英語教育はほとんど変わっていないと思います。少なくとも私が20年以上前、高校を卒業した時点の高校生の英語力というのは、はっきり言って今の高校生の英語力と変わっていないと思います。ですから、これ以上の失敗はない。どんなに新しいことをやって、仮に大失敗に終わったって、どうせしゃべれない、どうせ使えないという、言い方はすごく悪いですけれども、そういう状況ですから、思い切ったことをやったらいいのではないかというふうに思っています。
例えば、今大阪府で「使える英語プロジェクト」という取組が始まっていますけれども、何をやるかというと、結局大学教授を呼んできてしまう。こんなことを言ったら本当に生意気な発言になってしまいますが、いや、先ほどから生意気な発言は連発しているのですが、65年間大学教授等に頼って、要するに失敗してきたひとつの元凶になった人たちにまたお願いしても同じことをされるのがやはり落ちになってしまうと思います・・・
・・・
小学校における英語教育のカギは「音」。小学校の英語教育が始まりますが、この間JETプログラムのALTを束ねている組合のトップのアメリカ人と話をしました。日本の子供はとにかく音が分からないから、読めないし聞けない。だから、中学校の文法をちょっと易しくしたようなことを小学校からやらせるのではなくて、とにかく正しい音だけ聞かせて欲しい、言わせて欲しいという話になりました。これは私も同感であります。
・・・
● 中原氏の動画
・和泉高校 民間人校長 中原徹 VOICE
短い動画ですので、まずはこれを御覧ください。たいていの英語教師が青ざめるぐらいの英語力で高校生に英語指導をする中原氏を見ると、やはり英語教師はこれぐらいの英語力がなければ、生徒に憧れの念を湧き立たせることはできないと思います。
逆に言いますと、こういった教師を大学が豊富に育成できない限り、いくら制度改革をしても、思うように英語教育改革は進まないとも思えてきます。(付け加えておきますと、校長室から歴代校長の写真を撤去し、在校生・卒業生の絵画作品を掲げたのはすばらしいと私は個人的に思っています)
未来ビジョン/「教育改革」/大阪府立和泉高校 中原徹 1/2
中原氏は極めて正論を述べているように私には思えますが、こういった意見に感情的に反発を感じてしまう英語教育関係者がどのくらいいるかと私は懸念します。(もちろん私は中原氏の発言のニュアンスのすべてに賛同しているわけではありません。こういう時にすぐ揚げ足取りの細かな反論をする人がいますので、念のため述べておきます)。
未来ビジョン/「教育改革」/大阪府立和泉高校 中原徹 2/2
中原氏は、「東大法学部入試だけでいいから英語入試を、過去二年間のTOEFLiBTのベストスコア」にしてほしいと述べています。私見ですが、おそらくは東大といった一部エリート大学のAO入試の英語をTOEFLiBTのベストスコア提出にするぐらいが、現実的な落とし所かと思います。
・中原徹(公述人 大阪府教育委員会教育長) 衆議院予算委員会公聴会にて 「TOEFLで大学入試を」
話し方を見てもわかりますように中原氏の知性は相当に高く、論は非常に説得力をもちます。
これだけの話が衆議院予算委員会で行われたということは、中原氏の英語教育改革論は政治家に強い影響をもっていることを意味すると私は考えてます。
・中原徹 - (20130411) 質疑④ 和泉高校でTOEFL導入までの経緯
上記動画の一部(最後の部分)ですが、中原氏の現実的な英語教師観が伺えます。
・中原徹教育長、なかよしテレビで英語教育を語る
中原氏が発言しているのは、ごく一部ですが、ここでは上の国会での話し方とはまったく異なり、多くの人にわかりやすい話し方をしています。
ただし、「グローバル社会の中で「聴く力」をもつ日本人の評価が高い」という意見に対して、中原氏がやや感情的に否定している箇所は印象的でした。どんな職業にもその特殊性はありますが、やはり弁護士業には特殊な言語文化があるのではないかと私は考えます。
・中原徹教育長、なかよしテレビでいじめ問題を語る
いじめ問題について、中原氏はまわりがちょっと引いてしまうぐらいに率直な意見を言っています。
4 件のコメント:
府教育委員長の中原徹さんの主張は、中・高の英語教育は入試が現状の読み中心では変わらない、せめてトップ大学(東大の法学部だけでもよい)の入試をTOEFL iBTにして「話す」も入れて欲しい、そうすれば日本の英語教育は読み中心からシフト出来る、という点がポイントのようです。
一方『英語教育迫り来る破綻』の主張は、江利川先生:生徒に英語は要らない。卒業後必要に迫られた者が自分の判断でやればよい。そのための基礎を学校側がつけてやればよい。その「基礎」とは、読み中心の英語教育のことですね。斉藤先生も似た主張。そもそも「読みが言葉の基礎になる」という考えは、言語学的に間違っていると思う。
鳥飼先生の主張は、テストで英語力は判断出来ない、というもの。では一体なんでプログラムの評価判断なさっているのか、という疑問が湧きますが。そもそも、教科の「目的」(学生指導要領で示されていますが)があって、その目的達成のための「カリキュラム」がある。そしてそれを「評価(つまりテストで、究極のテストが入試)」しながら進んでいかないのであれば、体重計抜きでダイエットを行なうようなもので、そういったプログラムは上手くいくわけがありませんね。日本では英語の評価法を学ばないんでしょうか。
韓国は、目的、カリキュラムやクラス活動、評価(大学入試であるNEATには当然話技能も入ります)が一貫している。そのためのインフラ(教材、メソッド開発、教員への訓練、試験場整備)も着々と整備中。
『迫り来る破綻』で残念なのは、「出来ない理由」探しの羅列になってしまっていることです。TOEFL iBT導入の話しを受けて、それに対して具体的な提言がなされているとの話しだったので購入させていただいたのですが、抽象的な話ばかりで、それが見当たりません。具体的にどう生徒の英語力を上げていくのか、それを示して頂きたかった。
中原さんの本は、学生の未来のために「どうにかしたい」という思いが溢れていますね。
匿名さん、
コメントをありがとうございます。
今の学校英語教育界は、徳川幕府末期のように思えてなりません。立場上、一応幕臣である私としては(笑)、人との「情」を忘れてはいけませんが、できるだけ「理」をきちんととらえ、新しい現実を見つけてゆかねばと思っています。
2013/08/06 柳瀬陽介
府教育長 中原徹さんの日本の英語教育を変えたいという熱い思いが伝わり「小学校英語教育そこまで言って委員会」に参加して本当によかったです。
私も現状の読み書き中心の英語から、「話す」英語へシフトするため、入試にTOEFL iBTを導入する案には賛成です。
アメリカでの弁護士経験から、中原さんが「交渉して説得して押し込める英語」が必要とおっしゃっていたのは、全く同感です。
私はアメリカに5年、ドイツに4年暮らしたことがありますが、民主社会で「言葉は自分の身を守る武器」だと感じました。
言葉ができないことは、丸腰で利害関係のある戦いに出ていくようなもの。同じ土俵にも上がれません。
日本の若者の中に「交渉して説得できる英語」を身につける人材が育ってほしいと切に願い、中原さんの英語教育改革をサポートしていきたいです。
イクオスさん、
投稿をありがとうございました。
中原氏はしっかりとした英語教育改革案をおもちですが、それが人口に膾炙するにつれ、単純化してしまいかねないことを私は恐れています。しっかりとさまざまなコミュニケーションを重ねなければならないと思います。
2013/08/08
柳瀬陽介
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