2013年8月7日水曜日

[草稿] 英語教師が自らの実践を書くということ (1) ―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―



[ この記事は、昨年(2012年)の8/4に行われた全国英語教育学会山形大会での発表をまとめた草稿です。完成原稿は「樫葉みつ子・上山晋平・山本真理・柳瀬陽介 (2013) 「英語教師が自らの実践を書くということ (1)  ― 日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から」 『中国地区英語教育学会研究紀要』No.43, 2013, pp.61-70. 共著」の形で論文化されました。ここではその元になった草稿を掲載します。

草稿掲載は研究者コミュニティで全世界的に容認されている慣行だと理解しています。また、この草稿には、私としては言いたかったものの、査読者により削除を求められ、論文では姿を消した表現もそのまま残っていますので、私としてはぜひこのような形で公開しておきたいと考えています。

きたる2013年8月10日の全国英語教育学会札幌大会の発表は、昨年度のこの研究を継続発展させたものです。できるだけ面白いフォーラムにしますので、ぜひご参集ください。特に小中高の現職教員の研究力と実践力を統合的に向上させることに興味をおもちの方、どうぞお越しください。]



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英語教師が自らの実践を書くということ (1)

―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―


広島大学                 樫葉 みつ子
福山市立福山中・高等学校 上山 晋平
兵庫県立北須磨高等学校   山本 真理
広島大学                 柳瀬 陽介



1 序論

  教師に対する社会からの要求は近年ますます高まる一方、教師はますます多忙化している。平成18年度「文部科学省教員勤務実態調査」によれば、小中学校の教諭の平日の残業時間は、昭和41年にはひと月に約8時間だったものが、平成18年度では約34時間と、26時間も増えている。この調査における残業時間には、教員が持ち帰って行う授業準備などの業務は含まれていないので、通勤や持ち帰りの仕事を考慮すると、時間的なゆとりがほとんどない教師の生活実態が浮かんでくる。同調査は、現在の教師の職場での休憩時間の平均は1日14分だとも報告している。

  この多忙化から現れた現象は、学校の同僚性の低下である(文部科学省2006a)。また、校内研修の減少、自主的研究会の衰退も指摘されている(山崎・榊原・辻野2012)。本来、教師は学校という現場で育つ。その現場は児童・生徒との関係性だけでなく、同僚教師との関係性でも成り立つ場である。教師は、職員室で同僚と様々な課題について会話を交わしたり、校内研修その他の研究会で実践報告をしたり、教師仲間からフィードバックを得たりする中で、自分の視野を少しずつ広げ、状況を深く理解し、考える力をつけてきた。しかし、今やそのような時間が大きく奪われている。

  そのような現状を受けてなすべきことの一つは現場研修の機会の回復・獲得であるが、他方、その回復・獲得が短期間には実現しがたい以上、教師は現状でも可能な自己成長の方法を探究することも必要である。山崎ら(2012)は、専門的な教職像を「省察的実践家」に求めているが、その省察・リフレクションを一人でも行うことができるジャーナル・ライティングは、この意味でとりわけ注目される。このような認識から本論文の第一著者と第四著者は、自らの実践の中にジャーナル・ライティングを取り込んで長年にわたり自己改革を続けている中高教員2名を第二・第三著者として招き、研究チームを結成した。

  しかしながらジャーナル・ライティングひいては質的アプローチ全般に対する日本の英語教育学界の理解は未だに乏しい。浦野 (2012) は、中部地区英語教育学会紀要36-41号の実証研究151本を分析した結果に基づき、質的研究法がなかなか浸透していない理由として、紀要のページ数制限が足かせになりthick descriptionができないこと、および、査読者が質的研究に精通していないため適切な審査ができていないことを推測している。実際、量的研究法については非常に充実した内容をもつ竹内理・水本篤 (2012) 『外国語教育研究ハンドブック』でさえも、質的研究法の記述は、学問一般で常識的に質的研究法として認識されている方法のごく一部しか扱っていない。このように質的研究法・アプローチに対する理解が共有されていないなら、国内外の教育学一般では既に十二分に認められているジャーナル・ライティングも、他ならぬ英語教育学者によって阻害されかねない。

  したがって本論文では第二・第三著者のジャーナル・ライティングの事例を、当人との密接で批判的な対話から分析的に考察し、ジャーナル・ライティングが日本の英語教育界においても有効なものであることを実証的かつ原理的に解明することを目的とする。実証性は、実践者としての第二・第三著者のジャーナル・ライティングについて具体的に解明することにより担保する。本論文がさらに原理的解明を加えるのは、質的アプローチに対して未だに投げかけられる「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」という認識論的反省を欠いた的外れの批判(鯨岡、2005)に対して応答するためである。残念ながら認識論的考察を展開しても、量的アプローチの信奉者は「そんな哲学的議論は必要ない・わからない」と対話や理解を拒絶することが多い。したがって、本論(および本論に続く今後の研究)では、日本の英語教師が、日本語もしくは英語で自らの実践について書くというジャーナル・ライティングがどのような営みかを少しずつ原理的に解明する(もちろん、本論文だけで解明は終了しないことはこの時点で述べておく)。

  もちろんこれまでの日本の英語教育界に、ジャーナル・ライティング、およびそれに連なるAction Research, Exploratory Practice, Reflective Practiceについての研究がなかったわけではない(佐野 2000, 2005; 高橋 2011; Yoshida, Imai, Nakata, Takeuchi, and Tamai 2009)。そういった研究の流れを受けて浮かび上がってきたことに、教師は熟練するにつれ、ある授業要因Aを、A単独で認識することから、A-Bの関係性、A-B-Cの関係性、A-B-C-Dの関係性・・・(Bなどの記号は他の関係要因を抽象的に意味している)と、多重の関係性で認識できるようになること(柳瀬 2009) や、この認識力の高まりは観察力・分析力・思考力に類別できること(柳瀬 2012b)、さらには自らをどう観察し記述するかという自己観察・記述の問題としてとらえられること(柳瀬 2012a)がある。本研究はこれらを理論的背景とする。

  この背景を踏まえて、本論文の目的である、2つの事例の実証的検討を通じてのジャーナル・ライティングの原理的解明の課題を、さらに具体的に述べるなら、実践者が自らの実践に対して働かせる観察力・分析力・思考力を育む自己観察・自己記述をより理論的に解明すること、とまとめられる。本研究の意義は、直接的にはジャーナル・ライティングの効果的実践のために資することだが、間接的意義は、英語教師ということばの教師が、自らの実践というもっとも切実な課題に対して、書くことの質を高めてゆくことに繋がることである。ことばの教師が自らの仕事についておざなりな文章でしか考察できないのは、アイロニーである。英語教師が日本語および英語で自らの仕事について書き、国内・国外の英語教師と連帯することは、これからの英語教師の重要な課題である。


2 方法

  質的研究法では、データとなる言説が生じる際の背景となる権力的・社会的関係性について自覚しておくことが必要なので、ここで研究チームの関係性について記述しておく。第二・第三著者は前述のように中高の教師である(第二著者は中高一貫校、第三著者は高校で、共に公立校)。第二著者は自らの実践を日本語で記述し、それをブログや書籍の形でも公開している。第三著者は英語で自らの実践について書き、それは公開せず自分か信頼のおける人だけに見せている。他方、第一・第四著者は大学に籍をおき教師教育に携わっている(両者とも教育実践のジャーナル・ライティングを長年続けた経験はないが、第四著者は研究・教育内容についてのブログを日英語で多く書いている)。こういった関係性では、権威主義的な「大学研究者vs中高現場教師」の「指導-拝聴」という構図にひきずられ(注1)、対話の対等性が損なわれる場合がある。これを避けるため、第一・第四著者は抑圧的態度を排し、下に書く相互確認を何度も繰り返しまた言動で表すようにした。その結果、この研究の口頭発表(90分間のフォーラム形式)ではお互いのことを基本的に「さん」の呼称で呼ぶことが自然な関係性が構築できた。

  相互確認したのは以下の四点である。(ア)この研究は特定のジャーナル・ライティング形式だけを推奨するものではない。(イ)特定の実践者だけがすばらしいといった主張をするものでもない。(ウ)英語教師の成長には個々人の個性が反映されると考える。(エ)自分が否定されることを怖がらずに、自分の(部分的)否定を、自己再生の契機と考えよう。この四点は口頭発表の際にも聴衆に示した。  今回の研究は準備期間を入れるなら約半年間にわたり、主には次の10の手順で進められた(ただし準備期間以前にも四人の著者は相互の研究・教育活動についての理解を有してはいたことは付記しておく)。手順は、(1) 書面による10の質問、(2) 書面による10の質問への回答、(3) 書面によるさらなる3つの質問、(4) フォーラム前日の相互信頼感のさらなる醸成のための話し合い、(5) フォーラム当日の壇上での対話、(6) フォーラム参加者との質疑応答、(7) 音声記録の聞き返しとメール交換、(8) 第四著者による第一次原稿の執筆、(9) 第一次原稿への相互コメント、(10) 第一著者による改訂(第二次原稿)、(11) 第二次原稿への相互コメント、(12) 第一著者による最終原稿作成、である。それぞれの詳細は後述するが、基本的に書記言語を通してのコミュニケーションが (1) ~ (3) と (7) ~ (10) で、口頭言語でのコミュニケーションが (4) ~ (6) である。学会発表では、(5) の当日発表は予め書記言語で準備されていたテクスト(予稿)を口頭言語で発表することも多いであろうが、今回の研究では、醸成された相互信頼による対等性にもとづいて、即興的に発話し、言説データの内的妥当性(メリアム 2004) を高めることをめざして、(5) の対話を、基本的には当日初めて行うものとした。なおその対話をフォーラム聴衆にも理解してもらうため、(1) ~ (3) のデータは予め予稿集およびWebで公開しておいた。また (5) ~ (6) は録画・録音し四人の著者で共有した(対話の中で個人特定はできないものの、生徒の個性について語っている箇所があったので、万が一の誤解を避けるため録画・録音の一般公開は見送った)。

  質的研究については、その独自性の理解を欠いたまま、量的研究の認識論から妥当性や信頼性に対して疑義が表明されることは前述した通りだが、念のためこの点について確認しておくと、本研究は内的妥当性を上述の相互信頼・対等性・対話の即興性に求め、外的妥当性を複数の実践者について検討し次年度もさらに別の複数の実践者を検討することにより高めようとしている。また信頼性については (1) ~ (3) のデータ公開(注2)と (5) ~ (6) の録画・録音を複数回再生すること、および特に (8) ~ (10) を中心として著者間でチェックと批判を頻繁にすることなどにより担保することを試みた。


3 結果と考察

  紙幅は限られているので、ここでは手順の (2) と (5) と (6) で得られた知見を主に報告し、その他の手順については簡単に報告する(上述の浦和 (2012) にもあったように、原稿の紀要は量的研究論文を主に想定しているせいか、質的研究論文にとっては頁数が十分でないことがほとんどである。本論はその問題点を少しでも克服するため(注2)の措置をとった)。

3.1  10の質問への回答とその分析

  手順(1)の10の質問(ジャーナル・ライティングの実態に関する4問、認識に関する6問)であり、その質問と回答の概要は表1と表2のようにまとめられる。

表1:ジャーナル・ライティングの実態



第二著者(日本語執筆)
第三著者(英語執筆)
書き始めたきっかけ
教師生活1年目に読んだ本の「書かないと 実践は残らない」という言葉に触発された。教師人生の有限性を感じた。
勤務しながら通学した大学院の課題の一環として始めた。最終的には修士論文もジャーナル・ライティングについて書いた。
いつ・どこで・何を・どのように書くか
授業だけでなく学級経営・校務分掌・部活にわたって「うまくいったこと」「新しく取り組んだこと」「発見したこと」を書き、「自己更新」感を高める
ある一つのクラスについてだけ週に2,3回書く。うまくいった点もいかなかった点も、なぜそのようなことが起こったかも含めて書く。
書いたものを読み返すか
「メモ」→「実践記録」→「ブログ」→「発表資料」の4段階で書き、段階を進めるにつれ読み返している。
あまり読み返さないが、内容は頭に残っている。
書くことの苦労や限界
ポイントだけでもよいから、その日のうちに書くことを意識的に行なっている。「時間があるときに書こう」では書けない。だが時間を作り出すことは簡単ではない。
観察力が高まったせいか、以前より他人の言動に対して鋭敏になったり自分の弱さに向き合うことになったりして一時は書くことをやめようかとも思った。





表2: ジャーナル・ライティングの認識



第二著者(日本語執筆)
第三著者(英語執筆)
書くことの感触の変化
書く経験を重ねるにつれ、頭が整理され考えがまとまり、他人も読みたくなるように書くことが短時間でできるようになった。
最初は課題と論文のためであり他人のために書かなければならないという義務感をもっていた。今は義務から解放され、書くことが生活習慣。
書き続けたことによる自分の変化
気づきが多くなり、メモ取りの頻度が増えた。読者を想定することにより自分の実践を俯瞰的にとらえられるようになった。
「なぜ」を自問することが増えた。「よかった」や「だめだった」で終わらず分析するようになった。分析のために自他の観察や自他との対話が増えた。
これからも書き続けるか
必ず書き続ける。教師としての時間は有限であり、生徒にとっても二度とない時間である。自分の体験を残し、次の改善につなげるためにも書き続けたい。
おそらく書く。書くと辛いこともあったが救われたことも多い。自分が見ていることがすべてではないことが感じられるようになり、生活そのものも変わった。
もし書いてこなかったらどうなっていただろうか
授業の質は高まらなかったし、発表や書籍公刊の機会も与えられなかっただろう。「書くことは自他の幸福につながる」と信じる。
自分のまとまらない思いを抱えて、他人から傾聴され承認されることをもっと求めていたかもしれない。
もし英語で(もしくは日本語で)書くならばどうなるか
英語で書くと英語力は高まるだろうが、時間がかかるし、他の人のためになるという効果は薄くなるだろう。書くことの目的が記述言語の違いとなる。自分は当分、日本語で書き続けるだろう。
英語なら職員室・部活の場・喫茶店などで書いても、ほとんどの人に傍目から読まれることがないので便利。ジャーナル・ライティングを普及させるためには日本語の方がいいかもしれないが、自分はジャーナルの公開は考えていない。
その他
書くことは残すこと。考えること。拡げること。自分の実践を自他に活かすこと。 自分を育てること。新たな発見をすること。
自分自身を冷静に見つめ、目の前の状況を受け入れることができるようになった。自分の意思を確認することで、ただ周りに流されたり不安なままやりすごすことが減った。





原理的に重要な知見をまとめるなら次のようになる。

・自らの実践について書き続けることにより、観察力・分析力・思考力などが高まり、自分および自分の生活が変化する。
・(自分自身を含む)読み手がどのような存在であるかが、書くことに大きく影響する。

この二つの論点から、第四著者は、自らの実践について書くという自己観察・記述がいかに観察力・分析力・思考力を高めるのかをより解明するために、第二著者に以下の質問 (a)、第三著者に (b) をフォーラム当日に尋ねることとした。第一著者は、読み手が周りにいない教師に対してジャーナル・ライティングをいかに普及させることができるかという観点から、第二・第三著者両人に対して (c) の質問をすることにした。

(a) 四段階 (メモ・実践記録・ブログ・発表資料)で改訂する (revise) ことについてもっと解説してほしい。自己観察・記述のあり方が変化するのだろうか?
(b) おざなりのことばでしか自分を語れず書くことが自己改革につながらない人もいるのに、なぜ自己変革につながるような自己観察・記述ができたのか?
(c) まったく経験もないしメンターも周りにいない人が実践について書いてゆきたいとしたらどのような助言をするのか?

これらの質問は、フォーラムの一ヶ月前に第二・第三著者に提示された。その際、第一・第四著者はこれらの質問をした背景や自分なりの考えも提示したが、それには拘らずそれらを否定することも歓迎するという当初からの相互確認を繰り返した。第二・第三著者からの返答は、フォーラム当日に初めてすることとし、第二・第三著者がよく考えたことを、フォーラムまでにさらに高めた相互信頼関係の中で、フォーラム当日に、ニュアンスを伝えやすい口頭言語で発表し語り合うこととした。

3.2  フォーラムでの対話とその分析

  上記の流れを受けて、フォーラムでの対話が行われたが、ここではその当日の対話を概括して報告する。

(a) 改訂について

  前節に掲載した(a)の質問の背景として第四著者は、社会学者ルーマンの二次的観察・記述の理論について簡単に触れ、(i) 時間をかけて目前に自らの言語表現を視覚化する、書くという行為は、自分が書いたことを観察する行為(リフレクション)でもあり、(ii) その自己観察からさらなる分析と思考が促され、(iii) その分析と思考から「ありえたかもしれない」現実の可能性が浮かび上がり、その結果第三著者の述懐にあったような「自分が見えたことだけが現実ではない」という認識も生じうるのではないかと説明した。さらに、第二著者の四段階の書き分けにおける改訂は、改訂の二次的観察・記述性が極めて明確ではないのか、と問うた。つまり、少なからずの人にとっての改訂が、誤字脱字や「てにをは」のチェックにとどまるのは、自己観察(およびそこから生じる分析と思考)が十分でないからであろうが、第二著者は、書くことを明確に四段階(メモ・実践記録・ブログ・発表資料)に分けて、それぞれの段階での目的と読み手を明確に想定しているから、自己観察と分析・思考が促されているのではないか、という趣旨説明であった。

  それに対する第二著者の最初の答えは「そう言われればそうかもしれない」であり、続けて第二著者は「書く時から、予め後で自分が読み返したくなる・読み返しやすくなるように、他人でも読みたくなる・読みやすいように、タイトル・目次・表現をつける(ただし最初の段階のメモはとにかくひたすら書く)」など改訂の具体について説明した。さらに対話を重ねる中で第二著者は、「師匠」と仰ぐ(インフォーマルな関係での)メンターの「書いたら、批判的な読者を想定して、その人ならどう言うだろうということを想像しながら、読み直し改訂せよ」と口癖のように言われていたことを述懐した。

  この具体的工夫の説明とメンターの口癖は、それぞれ「未来の先取り」と「二次的観察の象徴的人格化」とまとめられるかもしれない。つまり第二著者は、四段階の書き分けを習慣化することにより、既に書く時点において、書かれた文章が読まれる未来の時点を先取りし、かつその読みを行う人物を「批判的読者」として象徴的に概念化していると解釈できるだろう。

(b) 自己改革につながる自己観察・記述について

  質問 (b) の背景として、第四著者は「自分に向き合う」ことは多くの神話や物語で鏡などのイメージで語られていることであり、人間にとって決して容易なことでないと考えられると述べ、多くの人間は自らについて書こうとしても固定的なおざなりのパターン(例、愚痴や自己憐憫など)で書いてしまう中、なぜ第三著者は、正面から向き合うことが苦しくなるぐらいの自己観察・記述ができたのか、あるいはそれはそのような自己観察・記述を「やっちゃった」のか、と尋ねた。

  それに対して第三著者は第一声で「『やっちゃった』のかもしれない」と苦笑しながら答えた(このように口語やパラ言語的表現でニュアンスを伝えやすいのが直接対話の長所である)。第三著者のそれからの発言は、最初はA4ノートに3分の1ページも書けなかった自分が今では平気で2,3ページ書けるようになったかの自己分析であった。第三著者は、書けない自分に直面し自分には観察力がないと思っている時に、第三著者の授業風景を観察した者に「生徒を見ていないのでは」と指摘され驚いた。というのも第三著者の自己認識は「自分は生徒のことを見ている」であったからである。そこから一方では「見る」とは何かについて考えながら、他方でジャーナルを「書くために見る」ようになった。つまり以前は「生徒のA君が寝ていた」だけであった「見る」ことを、授業の様子をより具体的にジャーナルに書くために、「どの授業の流れで、どのくらいの時間、どのような様子で寝ていた」と「見る」ことがより具体的にそして冷静になっていった。おそらくはその具体的で冷静な観察により、第三著者はさらに、「寝ている生徒を起こすにも、やり方次第でうまくもゆけば逆効果にもなるだろう。それならば○○のように起こしたならばどのようになるだろう」と、生徒の居眠りという教育的には否定的な事象に対して、想像的に知性を働かせ主体的に取り組むようにもなった。これについて第四著者は、実践について書くことを習慣化することにより、観察力が向上し、それにより分析的に思考して、その思考からいわばAction Researchのように授業改革の可能性を探求できる主体性が育ったのではないかと解釈し、第三著者もこの解釈を「そうかもしれない」と受容した。

  しかしこの高まった観察力・分析力・思考力を教室外でも使用してしまうことにより、第三著者はさまざまなことに気づき・検討し・究明しようとして、「気にしぃ」(=万事につけ気にし過ぎてしまう状態)に陥る。これが「やっちゃった」の含意である。だがこうなった時期は、大学院修了数ヶ月後で読み手としてのメンターを制度的に失った状態であった。本人はジャーナル・ライティングを大学院修了後も続けるべきという義務感を覚え、そのことにより一層の苦しさを感じていたが、大学院の同級生から「そんなら、書くのを止めたらいいやん」と(第三著者からすれば驚くほど)あっさり言われ、その解放感から涙を流した。夏休みに突入することもあり、結果的に書くことをしばらく休止した形になったが、9月からは制度的な読み手なしに、義務感からも解放されて、自分のために書くようになり、第三著者は今日までジャーナル・ライティングを続けている。鋭敏で的確な自己観察・記述は自己改革につながるものだが、他方で認知的・心理的負担にもつながり、「何のため」(あるいは「誰のため」)に書くかという基盤が揺らぐと、いたずらに本人を苦しめるものになると言えるかもしれない。

(c) メンターがいない状況でのジャーナル・ライティングについて

  教師集団が弱体化し教員が孤立する現状では、優れた「読み手」(第二著者なら「師匠」、第三著者ならメンター)をもつことは容易ではない。故に、周りに読み手がいない状況でジャーナル・ライティングを行うとしたらどのような助言をするかというのが、元中学教員の第一著者の問いであった。

  これに対して第二著者は、書かないと自らの実践は残らないし、残らないと改善を考えることもできないのだから、「ぜひ書いてみよう」と述べた。しかしそれに続けて「何のために書くか」を明確にしないと書くことの焦点が定まらないし、ブログなどの一般に公開された媒体では、否定的な言辞を誤解されて社会的な問題を起こしかねないことに注意を喚起した。また一教師としての自分が感じて考えることは、他の誰もが経験しないことなのだから、その個性を有限の人生時間の中で育ててゆく意義を説き、書くことによる「自己更新」感の喜びを対話者と聴衆に伝えた。

  第三著者は、授業改善のためなのか、自分をより知るためなのか、というように目的次第で自分の助言は変わってくると、やはり書く目的の重要性を述べた。逆に言うなら自発的な目的なしに「流行っているから・いいと言われているから」と書き始めても長続きしないだろうということである。さらに第三著者は、メンターが大学院の指導教師であったが、それ以上に「読み手」であったことが決定的に重要だったと述懐した。この場合の「読み手」とは、書かれていることのより詳細な具体的事実やその背景の心情や考えを尋ねることはあっても、「そういう時にはこうすればいい」「それはこう考えろ」などと望まれてもいない助言や忠告をしない人間である。ジャーナルを読む人間が、もっぱら助言者や忠告者であれば自分は書き続けることはできなかったと第三著者は考えている。「それではそのような『読み手』を見つけるにはどうしたらよい」という第四著者の質問に、「それが簡単にわかれば苦労しない」と苦笑しつつも、一言で言うなら「相性」や「匂い」で直感を働かせながら近づき、お互いにだんだんと関係を親しくしつつ、読んでもらう(あるいはお互いに読み合う)ことを助言した。第四著者は、「匂い」などと論文に書けば量的研究だけを信奉する査読者には罵倒されるが、と言い会場を笑わせた後、「匂い」といった主観を神秘化したり特権化したりしてはいけないが、主観(あるいは相互主観)は私たちの否定できない側面であることを強調した。

  これらの登壇者間の対話を終えたあと、フォーラムでは、予定よりも多く40分の時間をとり、聴衆との対話を試みた。以下は、その一部の概要である。

(d) 書くことの目的・内容・読み手・書き手・媒体の相互関連性について

  第一質問者は「本当に書きたいこと」があればどの媒体に書くかと尋ねた。個人日記のようにして書けば否定的なことばかりになりがちだし、かといってSNSなどに書くとなればプライバシーや守秘義務についての格別な配慮がいるという自身の経験を踏まえての質問だった。しかし「本当に書きたいこと」というのは、少なくとも第三著者にとっては理解し難い概念であった。第三著者にとって「本当に書きたいこと」とは、誰を読者として考えるかによって初めて定まることだからである。第一質問者の「広く一般に伝えたいこと」であるという補足説明を受け、第二著者は「即時性ならブログ。長い目で見れば書籍」、第四著者は「少なくとも3~5倍、ひょっとしたら10倍ぐらい時間がかかるが学術的内容なら英語ブログ」と答えた。しかし第四著者は、他の英語教育関係者からの、英語表現の巧拙・間違いだけに集中した否定的なコメントに苦しんだ経験を語った。上掲の表でも第二・第三著者ともに、広い読者層を求めるなら日本語で書く、と述べていることからしても、「コミュニケーションのための英語」というスローガンとは裏腹に、英語教師の実人生においては、英語がコミュニケーションのための言語としては十分に認識されていないことがうかがわれる。

  第二質問者は、原理的解明を目指すというフォーラムの趣旨を理解した上で、やはり具体的なテクスト(書かれた内容)を知りたいと要望し、第二・第三著者は、公開に差し障りがない範囲で具体的内容を口頭で紹介した(ただし第三著者は、もともと書かれた英語をそのまま読み上げることなく、日本語に抄訳して紹介するコミュニケーションを選んだ)。この具体的内容の共有の後、第二質問者は、具体的な内容を読み手が読むことにより読み手が成長し、読み手が成長することで書き手も成長できるのではないかと指摘した。

(e) 登場人物を実名で書くことについて

  上記の具体的内容の共有において、登壇者はもちろん登場人物(生徒)の名前は匿名・仮名にしたが、第三著者は、自らの記述では登場人物の名前をすべて実名で書いており、それにより記述が一気にダイナミックになることを説明した。第二著者も最初は自分専用のテクストでも匿名・仮名を使っていたのだが、それだとその後に読み返した時に、誰のことかわからなくなってしまった。そこで実名での記述を開始したところ、想起に容易なだけでなく、何より記述の生き生きさがまったく別物になったという(実践記述に際しての実名使用に関しては、寺島 (2002) にも同様の指摘(「生徒の顔が見えるようにすること」がある)。

(f) 書くことから生じるヤル気・冷静さ・勇気

  第三質問者は、ジャーナル・ライティングが、精神的安定やヤル気以外にも、問題への冷静な対応を生み出しているのではないかと尋ねた。これに対して第三著者は、自ら書いて考えたことによって、考え抜いたという静かな自信があるので、これ以上は当人に聞いてみるしかないと冷静に問題行動を起こす生徒に何が問題なのかを尋ねる勇気が定まると答えた(ただし問題行動を起こす生徒は、たいてい教師に怒られると思い込んでいるので、尋ねることは必ずしも容易ではないと付け加えた)。第二著者は、問題について書いているといつのまにか解決方法が浮かんでくるのは不思議なぐらい多いとも述べた。このようなジャーナル・ライティングの有効性を受けて、第四質問者は、ジャーナル・ライティングは教師の仕事の一つとして、その時間を制度的に保障してもいいのではないかと問題提起をしたが、残念ながらそれを検討する時間はフォーラムには残されていなかった。


4 結論

  本研究の課題は、実践者がジャーナル・ライティングの自己観察・自己記述において、観察力・分析力・思考力をどう育むかを理論的に解明することであったが、それについては3.1を受けての3.2において、以下のような知見が得られた。(a) 改訂に習熟することにより、しばしば「二次的観察の象徴的人格化」が起こり、書く際に過去を振り返るだけでなく「未来の先取り」もできるようになり自らの実践を俯瞰できるようになる。(b) しかし自己改革につながるジャーナル・ライティングは時に認知的・心理的負担につながりかねないので、何のために書くのかという基盤をはっきりさせなくてはならない。(c) 助言や忠告よりも理解を求める「よい読み手」がいるに越したことはないが、よい読み手がいなくても目的意識をはっきりさせてジャーナル・ライティングをとりあえず始めてみることは推奨できる。(e) 例えば臨床心理学界にケース記述の文化があるように、これからは英語教育界でもプライバシーや守秘義務などを考慮した上での豊かな記述のための文化を構築し共有してゆく必要がある。(f) ジャーナル・ライティングを、実践者に精神的安定やヤル気だけでなく冷静さや勇気をもたらす実践と考えるなら、その機会を実践者に(制度的に)保障するべきだろうが、その前にさらにジャーナル・ライティングを実証的かつ理論的に研究して、ジャーナル・ライティングに対する理解を深める必要がある。




1  佐藤(2009)は、大学研究者が小中高の現場教師の授業の「良い点・悪い点」を指摘し「指導」する権力構図が、現場の理解を阻害することを指摘し、自らの圧倒的な現場体験からも大学研究者は現場教師をまず理解しなければならないと説いている。

2  (1)~(3)のデータについては著者名を匿名化した上でWeb上に掲載し、本研究の信頼性の担保のための一助としている(https://www.box.com/s/r36eh8joggkaj33kfpfu)。


引用文献

Yoshida, T., Imai, H., Nakata, Y., Takeuchi, O., and Tamai, K. (2009). Researching Language Teaching and Learning: An Integration of Practice and Theory. New York: Peter Lang.

浦野研.(2012).「課題別研究プロジェクト:英語教育研究法の過去・現在・未来」(第42回中部地区英語教育学会岐阜大会口頭発表資料).

鯨岡峻.(2005).『エピソード記述入門 実践と質的研究のために』東京:東京大学出版会.

佐藤学.(2009).『教師花伝書』東京:小学館.

佐野真之.(2000).『アクション・リサーチのすすめ』東京:大修館書店.

佐野正之.(2005).『はじめてのアクション・リサーチ』東京:大修館書店.

高橋一幸.(2011).『成長する英語教師』東京:大修館書店.

竹内理・水本篤(編著).(2012).『外国語教育研究ハンドブック』東京:松柏社.

寺島隆吉 .(2002).『英語にとって「評価」とは何か?』岐阜:あすなろ社.

S.B.メリアム(著)、堀薫夫、久保真人、成島美弥(訳).(2004).『質的調査法入門―教育における調査法とケース・スタディ』京都:ミネルヴァ書房.

文部科学省.(2006a).「中央審議会(答申)今後の教員養成・免許制度の在り方について」(最終閲覧日:2012年9月30日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/06071910/003.htm

文部科学省.(2006b).「文部科学省教員勤務実態調査」(最終閲覧日:2012年6月8日)http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/icsFiles/afieldfile/2010/09/22/1297939_09.pdf 
 
柳瀬陽介.(2009).「質的研究のあり方について」吉田達弘・横溝紳一郎・今井裕之・玉井健・柳瀬陽介(編).『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』309-325.東京:ひつじ書房.

柳瀬陽介.(2012a).「言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述」『中国地区英語教育学会研究紀要』42,51-60.

柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂(編).(2012b).『成長する英語教師をめざして』東京:ひつじ書房.

山崎準二・榊原禎宏・辻野けんま.(2012).『「考える教師」―省察、創造、実践する教師―』東京:学文社.

追記:本研究は、科研「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」(課題番号24520622)の成果発表の一部である。 






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