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2017年2月17日金曜日

「本読め、新聞読め、英語読め」 --追いコンでの挨拶--



 以下は、本日、私が教英追いコンの席で挨拶として述べたことです(実際の口調は非常に柔らかくしましたが)。

その後の追いコンは、まさに抱腹絶倒の場で、皆、心から楽しみました。

このような場を作り、発展し続けている教英の学生を私は心から誇りに思っています。





*****

卒業・修了予定者の皆さん、おめでとうございます。

本日は楽しみましょう。

私も含めた教員も、動画で今日を楽しい一日にすることを試みています。
後で大笑いしましょう。

ですが、私は一応教員で、かつ、卒業・修了予定者の皆さんにお話できる機会がほとんどなくなってきたので、大学教員の一人としてぜひとも伝えておきたいことを少しだけお話させてください。

短くまとめるなら、それは「本読め、新聞読め、英語読め」ということです(笑)。

これから社会に出て何らかの形でお金を稼ぐ皆さんは、そのお金と引き換えに社会的責任を担います。

今までお金は基本的に親が送金してくるもの、奨学金という形で銀行口座に振り込まれるものだったかもしれません。

しかしこれからは(ほとんどの家庭で)親はあなたに送金してくれません。奨学金は負債という真の姿を示し皆さんは毎月一定額を返済していかなければなりません(給付型奨学金が日本ではあまりに貧困であることに対して私たちは怒るべきですが、それは今は別の話とさせてください)。

今までは適当に単位を取れば、後は気ままに楽しむだけだったかもしれませんが、その時期はもうすぐ終わりです。"Party's over"です。

新しい社会人としての皆さんに私が一層勧めておきたいのは、本を読むこと、新聞を読むこと、英語を読むこと、です。これは私が大学教師として常に皆さんに促していることですが、未だ、十分にそのメッセージが伝わっているとは残念ながら思えません。ですから、今日、繰り返している次第です。

本を読むこととは、吟味されたことばで表現された思考や情感を通して、深く考え深く感じることです。これまで皆さんは、せいぜい学校で出される底の浅い問題にしか接してきませんでした。しかし社会が、あるいは人生が、皆さんにこれから突きつけてくる問題は、解の公式など存在しない深いものです。それに対処するには深い思考と情感が必要です。どうぞ皆さん本を読んで下さい。

新聞を読むこととは、社会について広く知ることです。これまで皆さんは、せいぜい自分の周りのことだけについて配慮していればよかっただけかもしれません。しかし、教師になれば、様々な社会的・経済的・文化的背景をもった生徒とその保護者に対する十分な配慮が求められます。その背景はより広い状況につながっていることもすぐに気づくでしょう。皆さんは社会人として、自分身の回りを超えた広い社会のあり方について知る責任が生じます。日本の新聞については私も批判したいことはたくさんありますが、民主主義社会は、おそらく自発的に支払う購読料という信頼に応えて社会的責任を果たそうとする批判的ジャーナリズム抜きには維持できません。どうぞみなさん、きちんと新聞を読んで下さい(そして新聞に対しても批判を続けてください)。

英語を読むこととは、一つの言語文化圏にとらわれずに、より自由に考え、感じることです。残念ながら私がまともに読める外国語は英語ぐらいでドイツ語はほとんど使い物になりませんが、それでも日本語以外に英語(そしてごくわずかながらのドイツ語)が読めると、日本語だけでは考えられなかったこと、感じられなかったことを経験することができます。トランプ大統領の選出という派手な出来事によって多くの人々が感じ始めたように、今は、世界史的な転換点にいるのかもしれません。世界は連動しています。これがグローバリズムの一つの意味です(グローバリズムとはお金儲けのことだけを意味することではないことは十分ご理解下さい)。皆さんは教英を卒業・修了するのですから、ぜひ英語を読んでその読んだことから社会について考え感じることを習慣化してください。そうやって人生で英語を活かすことができないなら、私はその人がいくらTOEICで満点を取ろうが英検1級をもっていようが、そんな人は残念ながら、単なる優等生、あるいは英語オタクか自分のコンプレックスを資格試験自慢で解消しようとしているだけの人としか思えません。"Read words to read the world"とも言いますが、どうぞ日頃から英語を読んで、この世界について少しでも多角的な視点を得て下さい。

以上で「本読め、新聞読め、英語読め」という私の話は終わりです。教師の悪癖でお説教を、私の悪癖で辛口でしてしまいましたが、本日のお説教はこれで終わりです(さらに、卒業・修了すれば私のお説教も聞かなくて済みます)。

その意味も込めて申し上げましょう。「おめでとうございます」。

本日は楽しみましょう。




2017年1月17日火曜日

学部4年生のM君による英語教師養成システムへの「違和感」の表明



「コミュニケーション能力と英語教育」という授業は学部3年生向けの授業ですが、ほぼ毎年、学部4年生や大学院生が一人、二人、授業を(再)聴講してくれています。以下は、そのようにして現在、授業を再聴講してくれている学部4年生のM君が書いてくれた文章です。

私はこのように自分の所属する機関(広大教英)の英語教師養成システムに対してきちんと批判的な見解を述べてくれる学生さんのことをとても誇りに思います。こういった学生さんを、妙な外圧から守りつつも、変な党派性に陥ることがないように見守り、対話を続けたいと思います。そして独立独歩で思考し発言し行動しながら、他者と連携がとれる若者を育て続けたいと思っています。


以下は、M君の文章(原文)です。文中にある「今回の予習記事」は、この記事の一番下に掲載しています。

広大教英、そしてそれ以外の大学でもおそらく似たような形で行われているはずの英語教師養成システムへの建設的批判としてお読みいただけたら幸いです。



*****


広島大学の教育学部において英語教育を専攻し、はや4年が経ちました。その中で私が教英に関して違和感を覚えた点がいくつかありますが、そのうちの2つが、「他の教科、研究分野との連携、またはその推奨にそれほど積極的でないこと」および「現行のシステムを問い直す機会がほぼ無いこと」です。どちらの違和感に関しても、今回の予習記事を読ませていただければ、それらを違和感として取る事が妥当であることが明らかでしょう。

一つ目の違和感は、「英語教育」という分野を他の分野から独立したものとして捉えてしまっていることにより、「英語教育」が依っている多様な分野への注意が弱まっていることが原因だと考えられます。日本の高等教育機関では専門化が進むにつれ、ますます広い分野での教養的な面がないがしろにされてしまっていると聞きます。広島大学でも、一年生のときには単位のために他の分野を教養科目として履修しますが、それが終わればきれいさっぱり忘れてしまうのが常で、それを咎める者もいません。2年生以降になれば専門への傾倒が急速に強まります。したがって、自分の専門は英語教育だから他の分野を勉強している暇はない、というわけです。しかし、この英語教育と他の分野を全く関係ないかのように区分してしまっていることが、英語教育の視野を狭めているように感じられます。「英語教育学」という学問は存在しないと言われた先生がいらっしゃいましたが、少なくとも英語教育は他の様々な分野からの多大な知見に支えられてきたことを忘れてはならないと思います。単純に考えただけでも、言語学、文学、社会学、心理学など複数の拠り所が挙げられます。英語教育の狭い文脈の中だけで考えていると解決できないことも、他の分野を参照すると解決の糸口が見えることも多々あります。しかし、今の教英の講義においては、他の分野を積極的に参照したりする機会がほとんどないどころか、それを推奨する雰囲気すらないのではないでしょうか。

もう一つの違和感は、現場への適応を第一として考える教師の養成機関としての性格を考えると、至極妥当な印象も受けます。たしかに、大学としては4年という期間の中で、少なくとも現場に適応するための素地を養っておかなければなりませんし、現場、そして現場を動かしている上のシステムに関していちいち疑いを持ったりすれば、いつまで経っても適応できない、というわけです。しかし、この状況は二つの点で問題があります。

一つは、学生は現場に文句を言わず適応していけ、と言われているような状況が生まれている点です。大学では、基本的に「よくできる」学習者を念頭に置いている傾向があり、卒業し新任教師となった学生が無責任にも現場の荒波に放り込まれることになります。たしかに、どれだけ大学で学んできたとしても、現場は毎日のように絶えず状況が変化していく場所であり、そう簡単に適応することはできません。しかし、そうであるからこそ、在学中にもっと様々な生徒像、学校像、教師像を具体的な例からイメージできなければならないと思います。このままでは、最悪の場合、附属学校で理想的な現場のイメージを植え付けられただけの学生を量産してしまうように思われます。これでは、現場のシステムに疑いを持つこともなく、適応することを強いられてしまいます。様々な事例を見ることができる機会があれば、上下下達のシステムと現場がうまく合致していない状況を見ることが多々あると思います。

もう一つは、このような状況が続く限り、現場を上から支配しているシステムは安泰であり、文科 / 現場という支配 / 被支配関係は改善しないという点です。これは非常に単純であり、文科からすれば、大学側がシステムを疑わせない指導をしてくれた方が都合が良い。反対に、いちいちせっかく通達した文科の意向に反発すれば、補助金等も出したくなくなるわけです。したがって、研究費を得るには言うことを聞いておくのが得策というわけです。現場の教員の方々ならなおさらで、公務員である以上、お上の命令に背くことは難しいしくみになっています。しかし、だからこそ、そうした制限の付きにくい学生がこうした議論を行うべきなのではないでしょうか。たしかに教英は現場の英語教員を志望する方が多く、早く現場のノウハウを知りたいし、現場にいかに適応するかが最優先となるのはごく自然かと思います。しかし、仮に私たちがしなければ、こうした議論を積極的にできる機会を持つ人は少ないと思います。もしも教英が日本の英語教育関連のコースの中で優秀だと言われる理由が、上から通達された命令を遂行する能力が高いことだけだとしたら、それは問題である以前に悲しく思われます。良い評価を日ごろからいただいているからこそ、No.と言うべきところでNo.と言う責任が私たちにはあるのではないでしょうか。そういった機会が教英の講義の中であまり設けられてこなかったことは、やはり問題として挙げても差し支えないと思われます。




*****今回の予習記事*****

■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html


■ 「言語学という基盤を問い直す応用言語学?―意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて―」 (応用言語学セミナーでのスライドとレジメ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/blog-post_15.html
■ 今井邦彦・西山佑司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店 (「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」の準備の一環としてのまとめ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/2012-19.html
■ ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html
■ ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/06/blog-post_15.html
■ ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identitat - was oder wie? より
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html




2016年10月4日火曜日

昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想



2015年度後期から始めました昼休みの自主的読書運動である「昼読」を今期も継続します。




方針は基本的に前期と同じです。以下は「昼読」の基本理念です。



*****

あなたが使うことば ― これがあなたの人格を形成します。
あなたの人間関係も、あなたが生きる社会も形成します。

ことばを豊かに丁寧に使うことによって、あなたの平安がもたらされます。あなたの仲間の平安も、あなたの社会の平安も。

粗雑で無思慮なことばは、あなたをかき乱してしまいます。あなたの仲間も、あなたの社会も。


「昼読」とは昼休みに集まって、それぞれが持ってきた本を静かに読む時間を共有する場です。少々行儀は悪いですが、お昼ごはんを食べながら本を読んでもかまいません。読書の文化を根づかせるために行っています。広大の構成員(学生・教職員)なら誰でも歓迎します。

授業期間中の月・水・金の昼休みに行います(ただし初回は10/3とします)。一応12:05-12:45という時間帯を設定しますが、皆さんぞれの都合があるでしょうから、遅刻や早退はまったく問題ありません。場所は教育学部のA棟2階のA212(英語教育学演習室。英語教育学図書室の隣)です。

日本語で書かれた純文学や娯楽小説、あるいはノンフィクションや自然科学の啓蒙書、はてまた新聞でもかまいません。英語ならGraded Readersでも普通のペーパーバックでもかまいません。第二外国語の読本や参考書・問題集も歓迎します(第二外国語の習得はなかなか進まないものですから、第二(あるいは第三・第四・・・)外国語の場合は、自発的に選んだ参考書や問題集を読むことも認めることにしましょう)

ただし自由な読書文化を促進させるための試みですので、必要に迫られての授業の予習などは歓迎しません。あくまで自主的・自発的に選んだ本をもってきてください。

昼読の最後の五分では、その日の読書の感想を周りの人と共有します。その語り合いで私たちの世界が広がることを期待しています。

書物のことばは、(質の悪い例外を除けば)練りに練られたものです。SNSなどで刹那的あるいは衝動的なことば遣いが横行する現在、読書文化を守り、育ててゆきましょう。読書で培われた思慮深いことば遣いこそが近代社会の基礎となると私は信じて疑いません。



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この記事掲載に伴い、前期に熱心に昼読に参加してくれて、ハリー・ポッターの第一巻をフランス語で完読した学部4年生のM君の振り返りを掲載します。この振り返りは8月5日に完成していたものですが、私が、ドイツ語暗唱を続けてくれた学部3年生Tさんの感想と併せてブログ掲載しようと欲張っていたので、掲載が今日まで遅れました(Tさんは現在ドイツの大学に留学しています)。




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“Harry”を「アリー」と読む言語での読書体験


2016年8月5日
学部4年 MY

 今からちょうど2年前、私はパリの中心部から少し離れた通りの、ある書店にいました。数か月間のイギリス留学を終えて、帰国前に友人とフランスに寄って観光しようということで、数日間ですがパリに滞在していました。街を散策中、留学前からフランスで購入したいと考えていた書籍があったため、いくつか書店を覗きながら歩き、お目当ての本を見つけました。 Harry Potter a L’ecole Des Sorciers-言わずと知れたベストセラー、『ハリー・ポッターと賢者の石』のフランス語翻訳版でした。

 一年生のころに第二外国語の授業でフランス語に触れ、興味を抱いたため独学ながら今も学習を進めていますが、パリに滞在した当時はまだフランス語歴(?)も一年ほどで、もちろんハリー・ポッターをフランス語で読める仏語力は全くありませんでした。知っていたことといえば、 “Harry”をフランス語で発音すると、 “h”の音がもともと発音されないため、「アリー」となってしまうことくらいでした(笑)。映画を見ていたこと、そして英語の原文で読んでいた経験はあったものの、それでは太刀打ちできない言語の壁を感じました。実際、半ばお土産として、フランスに来た記念として買ったようなところがあり、案の定帰国後は部屋の本棚にオブジェとしておかれることに。しかし、買っただけで読まないのはやはりもったいないという思いがあり、何とかこの本をフランス語で読むために学習を続けました。

 それから一年半ほどたって、私は教英で柳瀬先生と大学院生の方が主催している読書会(「昼読」)に参加させていただくようになりました。各人が読みたい本をなんでも持ち寄って読もうということでしたので、私は前々から読みたかったハリー・ポッターの仏語版にチャレンジしてみることにしました。柳瀬先生や大学院生の方がドイツ語の本を読まれていましたので、自分も変な対抗心を燃やし(笑)、何とか読んでやろうと、辞書を片手に読書会に通いました。

 最初は1ページ読むのに何十分もかかったりと、かなりゆっくりとしたペースで読んでいました。ただでさえフランス語ということで知らない単語だらけでしたし、加えてハリー・ポッターならではの、魔法使いの世界に関連する語句が多く見られました。1ページに何度も何度も辞書を引くこともありました。しかし、そのようにして読んでいく中で、徐々に読む速度も上がり、時には英語の原文との比較にも注目できるようになりました。「フランス語で読んでるぞ」という(良い意味で)妙な高揚感がモチベーションにもなり、エンディングまで読みきることを目標に、読書会への参加を続けました。

 そうしたフランス語との格闘を続けることさらに半年、先月末にようやく『賢者の石』をフランス語で読み切ることができました。もちろん、細かい文法の用法や文学的な工夫などを理解するためにはまだまだ勉強不足です。しかし、一冊の作品をフランス語で読む、という体験は目で見て分かる証拠として、私の今までの学習を保証してくれている気がします。もともと物語を読むことが大好きで、このこともモチベーション維持に一役買ってくれました。はじめて読んだフランス語書籍が、自分の好きなハリー・ポッターで良かったと思っています。

 また、英語教育を専門として学んでいることとの関連でも少し発見がありました。英語教育の現場には、私のようにある程度英語が得意だったり、得意とまではいかなくても英語が好きである、といった生徒さんばかりがいるわけではありません。また、英語を学びたての頃は誰しも、単語を一つ覚えるにも時間がかかるものです。しかし、今英語教育を専門に大学で学んでいると、そうした学び初めの頃の記憶、苦労して学んだ記憶が薄れてしまっているように感じます。それは私だけでなく、クラスメートの学生、さらには先生方にもやはり共通することだと思います。もともと英語が苦手だったのが後に好きになったという人も中にはいますが、そうでない人がほとんどです。

 こうした記憶を忘れさらないためには、学習者の気持ちが分かるようになるためにはどうしたら良いのでしょうか。その一つの方法として、私は第二外国語学習があると考えています。もちろん、語学学習が好きという点は学習に有利に働きますが、学習の初期段階ではスタートラインは同じはずです。第二外国語のあいさつを覚えたり、自己紹介したりすることを覚えるはずです。そのプロセス自体は第一外国語でも第二外国語でも大きくは変わらないでしょう。そうした学習経験を再体験するためにも、第二外国語学習は非常に重要です。私は学生ということもあり、専門分野の他に第二外国語を学ぶための時間もたっぷりあると感じています。大学にいるときにできることをしておきたいですね。

 「第二外国語」というと、「でもやっぱり今は英語の時代」と思われる方もいるかもしれません。しかし、英語も他の外国語も同じ言語、本質的に優劣はありません。それぞれの外国語を学ぶことには等しく価値があります。私自身、これからもフランス語の学習を続けていきたいと思います。とりあえずの目標は、ハリー・ポッターシリーズを全巻フランス語で読破することです。その後は、前々から個人的に興味のあるフランス現代思想家たちの著作を、フランス語の原文で読み解くためにフランス語の読書力をつけていきたいと考えています。


*****


広大の学生・教職員の皆さん、ぜひ「昼読」にご参加ください!




関連記事

前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html

2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html

月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html



追記

これと同じ記事は、私が所属する講座ブログ(「広大教英ブログ」)にも掲載しています。
広大教英ブログでは、教英に関するさまざまな情報を提供しています。
「広大教英ブログ」もぜひご贔屓に。



広大教英ブログ









2016年10月1日土曜日

自分が理解できないことに出会った時に



前の記事(西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書)でも書きましたように、私は学校教育の重要な目的の一つは、卒業生が人生で未知の課題に直面した時に、その課題専用の学校も教科書も教師がなくても、自ら何とか状況を打開できるように育てることだと考えています。

そのためには、学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度が重要です。その反応や態度が悪いままだと、現実の人生で困ることが多くなるからです。信じていた人からの信じられない言動、起こるはずがないと思っていた出来事の到来などは、実人生では避けられないと思います。その際に、なんとかそこから状況を打開することがそれこそ「生きる力」だと私は考えていますから、私は学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度を良くすることの方が、その時時のペーパーテストでよい得点を取ることよりも大切なことだと思っています。

また今後は人工知能の発展に伴い、解決方法(アルゴリズム)がわかっている仕事はどんどんと人工知能に奪われてゆく可能性がありますから(井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 文春新書)、理解できない問題に対して、何とか対処できる創造的な知性は大切になってゆくでしょう。

以下、私なりの教育・研究体験の中で見てきた、自分が理解できないことに出会った時に学習者が取る反応や態度を三つに分類してみます。下では、私の授業にはまるで問題がないかのような記述が進むかもしれませんが、私の指導技術の向上はまた別問題としてここでは触れません。



(1) 一切の努力を放棄し無関心になる

これは高校生が参加してくるオープンキャンパスで時々観察できます。学部の授業でも極めて残念ながらたまに見られます(その際は、私は心底がっかりします)。「・・・と、このように私たちが当たり前と思っているこの考え方ですけれど、例えば18世紀には・・・」などと私が言うと、オープンキャンパスの約150名の高校生の中の数名は、そのことばを聞いた瞬間に下を向きます。

この例だけでは、そういった生徒・学生が、昔の話を聞いてもわからないと自分で思い込んでいるのか、それとも昔の話を聞いても現世の利益には直結しないと思い込んでいるのかわかりませんが、大学生の話を聞いていると、少しでも授業がわからないと思ったら、寝るかスマホをいじるといった反応・態度は大教室の講義授業では珍しくないようです。理解できないことに出会ったら、それを理解するための一切の努力を放棄し無関心になるという反応・態度は現代の若者がとりがちといえるのかもしれません。

実人生で、自分が理解できないことが生じた時に、知的努力を放棄することは害をひどくすることにつながります。もちろん、そういった出来事に対して人間は無関心ではいられないので、無関心になることはないのでしょうが、それでも無力感におそわれ無気力になるということは十分に考えられます。そうだとすると、生徒・学習者が卒業まで終始このような反応・態度を取り続けていたら、その教育は失敗と言えるのかもしれません。そのような生徒・学習者に対して、手を取り品を変え、課題を極度に細分化して「できたね。よかったね」と褒めるのは、何らかの理由で自尊心や自信を根底的に失ってしまった生徒・学習者相手なら必要かつ有効かもしれませんが、健常な生徒・学習者がいつまでもこのような反応・態度を取ることを許すのは教育的とはいえないと私は考えています(もちろん教師の指導技術が話にならないぐらいにひどい場合は別です。今回の話は、教師の指導技術がまあまあであることを前提としています。また、教師は限りなく指導技術を向上すべきということもその通りでしょう。とはいえ、私は教師は指導技術だけでなく自らの学習を深める責務ももっているとは思いますが)。



(2) 不機嫌になり、理解できないことに対して怒りをぶつける

これは時折、学会でも見られます(苦笑)。ですが、それはまた別の話として(笑)、生徒・学生が、わからないことに接すると途端に不機嫌になり、そのような課題を出した教師を非難し始めるのは珍しくないでしょう(その非難の対象が、あまりにもひどすぎる発表技術しかもっていない場合は別、というのは上にも述べた通りです)。

また最近の学校教育ではしばしば無記名・匿名アンケートが行われますが、その記述の中には、お互いに顔を合わせていたらとても言えないようなことばで自分が理解できなかった怒りを表現する人もたまにいます。先日も、ある長期間の体験プログラムに参加した学生の一人が匿名で、「自分はこのプログラムから何も得ることができなかった」と行間に怒りを表しながら書いていたという報告を私は受けましたが、それを読んだ関係者は、読んだ瞬間に、その学生の学習能力の根本的な欠如に思わず苦笑したそうです。「だってこれだけの経験ができるプログラムの中で何も得ることができなかったとすれば、それは自分が○鹿だと高らかに宣言しているようなものでしょう」というのがその関係者の弁でした。

しかし、考えてみると、理解できないことに対して不機嫌になるのは、子どもが自然と取る態度なのかもしれません。赤ちゃん時代は、自分が不快だという鳴き声を出すだけで、保護者がその意図を汲み取り対処をしてくれます。嫌なことや理解できないことがあれば不機嫌になるというのは、赤ちゃん時代の記憶が強い子どもとしてはとても自然な反応なのでしょう。そうだとすると、その記憶あるいはそれへの郷愁を引きずっている人が、理解できないことに対して怒りはじめるのは驚くべきことではないのでしょう。

しかし教育という営みは、子どもを大人にすることです。大人は、自分が理解できない出来事に対していちいち怒りを爆発させるべきではないでしょう(と言いながらも、私は、コンピュータの理解不能な挙動に毒づいたり、他人の想定外の言動にイライラしたりしていますから、まだ十分には大人ではありません。私にはもっと自己教育が必要です)。

ともあれ、教育が目指している大人とは、理解できないことに直面した時でも、不機嫌にならず、怒りをどこかに転嫁するのでもなく、冷静にその理解できない出来事に直面する人間です。理解できない・しがたい出来事(例えば不況での苦労)に接した時に、怒りを他に転嫁すること(例えば、「○○人が諸悪の根源」などと言い始めること)は、古今東西の歴史の中でしばしば起こっていることですから、理解できない時に、私たちは冷静になることを学ばねばなりません。



(3) 冷静に「どういうこと? (What is that?)」、「なぜ? (Why is that?)」と問いを立てる

自分が理解できないことに出会った時にとるべき反応・態度、学校教育が育むべき反応・態度は、その理解できないことを言う人(あるいはその出来事)に対して、冷静に「それはどういうこと? (What is that?)」とその正体を見極めようとして、忍耐強く「それはなぜ? (Why is that?)」とそれが生じた理由を考え続けることです。

私は幸運なことにそういう反応・態度を常に保っている方々を知っています。武術の世界でしたら例えば甲野善紀先生ですが、言語教育界でしたら例えば大津由紀雄先生です。

関連記事:1/12大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)での発表資料掲載、および大津先生へのメッセージ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/112.html

甲野先生は、理解しがたい身体の知恵や講習会参加者が持ち込んだ異分野の問題に接した時も、極めて冷静で自らの身体を使いながら考え、考え続けられております。大津先生は、上の記事でも書きましたが、例えば若くて尖っていた頃の私の立論に対しても淡々とその理路を正そうとしてくださいました。私は尊敬できるそういった方々を知ることができたことで、なんとか自分を律しようとすることができています。

あるいは私が経験していないので偉そうなことは言えませんが、大災害などが起こった場合、無気力になることもなく、「○○が悪い!」という怒りにかられて現実的対応を放棄してしまうことなく、冷静に状況を分析し、もっとも賢明な対処手段を考え行動し、それがうまくいかなければさらに冷静に分析を続ける人こそは、世の中が求めている人だと思います。

学校教育は、究極的には、理解できない出来事に接した時も、冷静にそれを分析し対応法を創造できる人を育てるべきだと考えます。

もちろん子どもが最初からそのような態度を獲得できるわけはありません。子どもは最初は (2) のような不機嫌な態度をとりがちでしょう。しかし教師は、子どもの知的好奇心に火を着けながら、子どもが忍耐強く問題に取り組む習慣を育てなければなりません。また、子どもはあまりに課題が不出来だったり、自らの知的好奇心がまったく満たされなかったりすると、(1) のような無気力・無関心を習慣化してしまいます(「学習された無力感」 learned helplessness)。それは学校教育がもたらした害ですから、その害が生じないように、教師は「受験に必要だから」とか「とにかくやりなさい」などと子どもが納得できない弁明でごまかすことなく、学校教育が害ではなく益をもたらすよう努力しなければなりません。

ですが、昨今の教育界を見ていると、そういった反応や態度の根気強い育成よりも、目の前の高得点獲得ばかりを目指しているように思えます(あるいはそうならざるを得ないような制度を「教育再生」といったスローガンのもとに完成させられようとしていると言うべきでしょうか)。

教師としては、学校教育の根本的な目的が何であるのかを粘り強く考え続けその見識を実践に活かしていきたいと思います。

一個人としては、これだけ偉そうなことを言いながら、日常生活で自分が (1) や (2) の態度を取らないように自己観察を怠らないようにしないと思います(汗)。


おそまつ



2016年9月13日火曜日

論文の読み方(留学中の学部3年生からの質問)



現在米国に留学中のチューター生(学部3年生)から次のような質問がメールで来ました。知らない人からこんな質問されたら放置しますが(残念ながら忙しい毎日を送っています)、チューター生ですからそれなりにきちんと答えます。

一人に答えるのもブログを通じて不特定多数に対して文章を書くのも手間からするとあまり変わりませんから、長期的な効果を考えて、ここに私なりのごく簡単な考えを書いておきます。

まずは学生さんの質問です。


お世話になっております、教英26の○○です。

現在留学中の○○大学での授業の課題のことでご相談させていただきたいことがあり、連絡いたしました。

今、私が履修している授業で、「約40ページの論文を読み、要約してかつ自分の意見もまとめて、まとめたものを次の授業の際にクラスメイトに伝える」という課題が出されました。専門用語に度々つまずき辞書を引きながら進めていますが、理解できない部分も多々あり、時間もかかってしまい中々思うように進まず、ここ何日もずっと悩んでます。

授業の教授にもメールを送って聞いてみたのですが、お返事をまだいただけていません。お忙しい柳瀬先生にお聞きするのは大変恐縮ですが、先生のご経験から論文の読み方についてコツを教えていただけたらなと思い連絡致しました。

お手数をお掛けして申し訳ございませんが、よろしくお願い致します。



私なりの簡単な回答です。

私でしたら、以下の四つの方針を戦略として立てます。

(1) 細部の理解よりも全体の理解を優先させて読む。

(2) 論文構成要素の機能を理解した上で読む。

(3) それぞれの構成要素の最初と最後に注意して読む。

(4) 自分の見解表明は論文要約を終えてから始める。

一つ一つについて説明します。



(1) 細部の理解よりも全体の理解を優先させて読む。

初学者が一流学術誌に掲載された論文を隅から隅まで理解することは非常に困難です。ですから、細部の理解にこだわるよりも、全体の理解を優先させて読んでください。

しかし「部分(細部)がわからなければ、全体はわからないだろう」という反論もあるでしょう。ですが、それに対して「全体がわからなければ、部分(細部)はわからない」という再反論も可能です(「解釈学的循環」)。

理屈はともかく具体的には、「部分を読みながら全体を予測し、その予測した全体に基いて部分を読み進めて、全体の予測をさらに洗練させながらさらに部分を読み進めて・・・」といったことになるかと思います。

この時に重要なのが、最初にどの部分を読むかということです。もちろん最初に目につくのはタイトルですからタイトルをよく読んでそれが何を明示的・暗示的に意味しうるかを想像してください。しかし、タイトルは短いし、初学者の想像力(の基になる知識)は少ないのでタイトルからの想像は簡単ではありません。

そうなると最初に丁寧に読むのはAbstractです。Abstractは何度も丁寧に読んでください。その際も細部に拘らず、その論文の「主人公」(主張内容)と「敵」(批判対象)は何かといった基本を理解してください。

論文も一つの読み物です。どんな筋立てでこの論文が書かれるのかをまずよく把握してください。

Abstractさえきちんと読めば、その論文の骨子はわかります。しかし、やっかいなのが解釈学的循環で、ここでもAbstractという部分を理解するためには、論文全体、もしくはその論文が含まれている学界での論争史全体を理解をする必要があるという矛盾が生じます。

しかしその理論的な矛盾については、実践的には「部分を読みながら、常にその部分が一部となっている全体とは何かを考える」という読解法でなんとか対処するしかありません。

ともあれ、「論文の全部がわかるわけがない」と開き直って「論文全体で言いたいことをざっくり言うなら何だろう」という問いと共に読み進めていってください。もちろん、読み進める際には、もっと小さな単位で、「このセクション全体で言いたいことは・・・」、「この段落全体で言いたいことは・・・」と問いを細分化する必要があります。しかし、全体とのつながりを失った部分に意味はありません。常に全体と部分の関係を考えながら読んでください。

ちなみに、細部について具体的に「○○の議論はよくわかりませんでした」と言っても怒られることはないと思います。もちろん調べればすぐにわかるようなことまで「よくわかりません」と言うことは許されませんが・・・


(2) 論文構成要素の機能を理解した上で読む。

論文は極めて機能的に作成された特殊な文書です。「必要な情報を伝達し、著者が願う形で読者に思考を展開するように仕向ける」という機能(働き)がもっとも効率的に発揮できるような形で書かれています。

そのため、論文には、Introduction, Method, Result, Discussion, Conclusionといった構成要素が明示されていることが多いです。また、Research QuestionやPurposeといった用語で、その論文の中核が示されていることがほとんどです。

これらの構成要素ですが、それらはそれぞれに論文のWHAT, HOW, WHYを示していると考えることもできます。

論文のWHATとはその論文が「何を重要な問いとし、どんな結論を主張し、何を批判・否定するか」といったところです。これが論文の最重要部分です。まずはこれを理解するためだけにもAbstractとConclusionを読んでください。また、しばしばResearch QuestionやPurposeはIntroductionで書かれていますから、その部分だけ読んでください。

初学者の場合は、HOWすなわち研究の方法論についてはあまり知らなくてもいい場合があります(逆に言うと、研究者にとっては具体的な方法こそが大切な場合がありますが)。HOWはMethodに書かれていますので、課題に応じて効率的に読んでください(場合によっては読み捨てる場合さえあります)。

論文のWHYは、自分の見解を表明したり考えを深めるためにはとても重要な箇所です。WHYはIntroductionとDiscussion(およびConclusion)で書かれていることが多いです。Introductionでは「なぜこの論文の問いや主張が重要なのか」が書かれています。Discussion(およびConclusion)では、この論文の主張を踏まえた上での発展的考察が書かれています。知識の乏しい初学者は後者の発展的考察を理解することは難しいことが多いので、とりあえずはIntroductionで論じられているWHYに集中してください。


(3) それぞれの構成要素の最初と最後に注意して読む。

一般的に人間の注意は最初と最後に向けられます。中間部分というものはどうしても印象が弱くなるものです。この特徴を活かして、論文ではそれぞれの構成要素の最初と最後に重要な情報をもってくることが多いので、最初と最後は丁寧に読んでください(極端な場合、中間部分は読まないという方略さえ初学者のうちは可能です)。

構成要素は、上で述べたIntroductionやMethodといった論文全体の水準でも、段落 (paragraph) といった中間的な水準でも、一文(sentence)といった細かな水準でも考えられます。どの水準でも最初と最後だけは丁寧に読んでください。

ただし、段落の水準では、最初に著者の主張ではなく、著者が批判したい説(「敵」)について書かれていることもしばしばあります。これは物語り (story telling) の構造としてContext-Problem-Solution(全員で前提とする状況の確認 - 困った問題や謎の提示 - 問題や謎の解決)といった筋書きがとてもよく使われるからです。日本の英作文教育ではよく「最初に自分の主張を書きましょう」と教えられますが、英語の論文の場合は必ずしもそうではありませんので注意してください(これに限らず、教師が言うことを鵜呑みにしないようにしてください。もちろんここでいう「教師」にはこの文章を書いている者も含まれます)。


(4) 自分の見解表明は論文要約を終えてから始める。

自分の考えを表明することが求められるといっても、論文を要約しながら、その折々に自分の考え(というより感想)を書くことはやめてください。そんなやり方で意見表明をすると、ニコ動やツイッターレベルの思考しかできなくなります(そもそも要約そのものもおかかしくなります)。

そもそも論文とは、これまでの通説・常識をくつがえすために書かれるものですから、初学者がいきなり読んですぐに(偉そうに)コメントできるようなものではありません。まずは上記の(1)から(3)といった横着をしつつも、頭の中で汗が出るぐらい考えながら要約を書いてください。書きながら、「こう要約することによって論文の主旨を歪めてしまわないだろうか」と自問自答してください。そのように丁寧に書くことによってはじめてまともな読解ができます。

論文要約ができたら、休憩するか、可能なら一晩寝てください。そうして新鮮な頭でその要約を読むと、これまで浮かばなかった考えや疑問が浮かぶかもしれません。それを自分の見解として、論文要約に付け足してください。



留学中の勉強は大変だと思います(というより、日本の大学が甘すぎるのですが・・・)。ですが、自ら選んだ試練ですからたくさん苦労して、そこから強さと優しさを学んでください。

もっとも健康は常に最優先事項です。頭や身体が疲れたら休んだり遊んでください。

それではまた

2016/09/13
柳瀬陽介


2016年4月9日土曜日

広大生でしたらGraded Readersを電子書籍として利用することができます

広島大学のWi-Fi環境でインターネット接続をすれば、学習用英語読み物(いわゆるGraded Readers)を電子書籍の形で読めます。著作権法に則った個人利用の範囲内でしたらファイルを印刷・保存することもできます。

詳しくは以下のマニュアルを読んだ上で、その下にあるサイトにアクセスしてください。





https://elib.maruzen.co.jp/

(広島大学のWi-Fi環境からアクセスしてください) 



追記 (2017/02/07)

外国語教育研究センターの「オンライン多読ライブラリー」からでしたらより簡単にアクセスできます。
(ただし、このサイトも広島大学のWi-Fi環境からアクセスする必要があります)


(広島大学のWi-Fi環境からアクセスしてください)  





関連サイト:広大教英生がお薦めするGraded Readers

http://kyoeigradedreadersselection.blogspot.jp/




2016年3月23日水曜日

卒業式・修了式での挨拶


皆さん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。皆さんと、皆さんを支えたご家族ご友人の皆様にお祝いを申し上げます。

教師としての最後のことばとして「和顔愛語」を皆さんにお送りします。

和顔、すなわち、穏やかな顔つきや静かなほほ笑みは、赤子から老人までもつことができるものです。愛語、すなわち、優しく温かいことばも、およそことばを知る者なら誰でも発することができるものです。

実際、子どもは和顔愛語に満ちあふれています。

しかし子どもが大きくなるにつれ、それに陰りが見え始め、やがては和顔愛語とは真逆の顔つきと言葉遣いの方が多くなってしまうことも多く見られることです。どこか不自然でこわばった顔つきで、嫌味や皮肉や自慢を織り込んだ言い方をすることが得意になってしまいます(今の私がそうでないことを心から祈ります)。

多くの人は、それを仕方ないこととします。

「それが大人というものなのだ」、「生活はキレイ事ではない」、「社会は結局弱肉強食なのだ」と言います。

しかし、大人、生活、社会が大切にしなければならないのはやはり和顔愛語ではないでしょうか。

子どもが和顔愛語であるのは当たり前です。和顔愛語は大人のためのことばです。

大人が、自ら獲得した力で生活を支えながら、制度的に仮託された権力で社会を維持・発展させるのは、すべての人、あるいはできるだけ多くの人が和顔愛語で暮らせるようにするためではないでしょうか。そうであってこそ大人であり、生活であり社会であるのではないでしょうか。

皆さんはこれまでに得た力でもって、これから社会で(あるいは大学院で)いくばくかの権力を行使することになります。それが仕事です。

その際に、自問してください。この仕事、つまりこの権力行使は、人々の和顔愛語をもたらすためのものか。そしてこの仕事をなしている自分自身が和顔愛語の人であるのか、と。

こう言った瞬間、私は自分が和顔愛語とは真逆の態度でふるまっていた多くの時間を思い出し、反省の念にかられます。

しかし、そうやって反省するからこそ、私は少しでも私の仕事である研究を行い、和顔愛語をもたらす英語教育を実現させるための考察と論述をしなければと思います(最近、思うようにできていませんが)。また、自由時間では(これも最近さぼりがちですが)、武術の稽古を下手ながらも少しでも行い、どんな時にでも和顔愛語を保てる力をつけようと思います。

どうぞ皆さんも、人々の和顔愛語のために働き、自ら和顔愛語の人となれるようにと志を立ててくださいませんか?

一人ひとりの力は弱くとも、共に志を立て、その志で自らを、そして互いを律するなら、困難なことも成し遂げることができるのは、これまでの人間の歴史が示していることです。

最先端の科学技術と高度な社会制度のおかげで、人類は、これまででは考えられなかったほどの権力を行使できるようになりました。この権力行使で、人類は、ごく少数の人々の短期的な快楽や驕奢のために、多くの人々を犠牲にし、地球環境を修復不可能なほどにまで破壊することが可能になりました。こんな時代に社会に出る皆さんにはぜひ和顔愛語を大切にしていただきたいと思い、このようなお話をさせていただきました。

  みなさんどうぞ健康に気をつけて、和顔愛語をもって和顔愛語のために働いてください。

  みなさんのご健康とご活躍をお祈りいたします。









2016年3月21日月曜日

「コミュニケーション能力と英語教育」のレポートから



以下は、2015年度の「コミュニケーション能力と英語教育」という授業評価のためにポートフォリオとして提出された学部3年生の作品の一部です。

一部、「制作」(仕事)と「活動」、あるいは"different but equal"と"same but deviant"といった用語は、これらの作品を読むだけではわかりにくいかもしれませんが、そのまま掲載しておきます(もしご興味があれば、前者の用語対については「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」、後者の用語対に関しては『アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析』をご参照ください)


ここに掲載したのは一部の印象的な作品だけですが、下にHSさんが書いているように、この授業を通じて直接対面しながら、あるいはBb9(電子掲示板)越しに、さまざまな対話ができたことは私自身とても勉強になりました。これからも対話を大切にした授業をしてゆこうと思います。


HSさん
 「コミュニケーション能力と英語教育」の授業を通して、上でまとめたもののほかに、教訓として学んだことがあります。それは、多種多様な価値観の存在を認め、それらを丁寧に理解しようとする姿勢を大切にするということです。予習で全員共通の記事を読み、授業において全員が同じ時間・空間の中で一人の先生から講義を受けても、それに対して生まれる考えは人によって多種多様で、様々な視点があることに何度も驚かされました。自分と異なると反射的にその考えを疑ってしまうこともあれば、自分の考えが大勢の人と違うととたんに不安になることもあります。しかし、人は物事を経験に結びつけて理解しているとすれば、みんなそれぞれ違う人生を歩んできたのだから、人によって理解の仕方や考え方が異なるのは当たり前です。偏った思考に陥らないためにも、様々な角度からものごとを見る姿勢を持ち続けようと思います。







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コミュニケーション能力と英語教育ポートフォリオ


広島大学教育学部英語文化系コース EJ

※私はこの授業の自己評価をA-とします。

1.「教室は生き物である」

  このポートフォリオでは本講義を通じて私が考えるようになったことをまとめようと思います。本講義、そして教育実習を受ける前の私は今思えばとても頭でっ かちであったように感じます。私は教壇に立つという経験がないままに大学で理論や技術を学んできました。大学で受ける講義や英語教育に関連する本に載って いる理論や技法、授業案のようなものはとても説得力があるように思え、あたかも「この教え方をすれば絶対に生徒の英語力は伸びる!」ように感じてしまって いました。

しかし、教育実習を経験して今まで学んできたことをそのままやればよいという考えは間違っていたことに気づきま した。実際に教壇に立ってみると、生徒たちの表情や教室の雰囲気というのは簡単なきっかけで、輝きだすし、一瞬にして暗くなることを、身をもって感じまし た。理論や技能を学ぶことは教師として絶対に必要なことなのは間違いありません。しかし、それ以上に大切なことは「教室は生き物だ」ということを常に意識 することだと思います。

大学の講義で習うような理論や技能は確かにたくさんのデータを取って、研究を重ねたうえで成り立っ ているということは確かです。しかし、「データ化する」という過程の中には切り捨てなければならないもの、割り切らなければならないものがたくさんありま す(このことは授業の中でも多くの人が口にしていたことです)。いま自分なりに考えてみると、それらの割り切られてしまったもの、切り捨てられてしまった ものというのが、「人間味(人間らしさ)」なのではないかと強く感じます。偉い学者や大学教授の方が編み出した理論や授業技術というものに出会ってしまう とそれに飛びついてしまいがちになってしまいます。教育実習中の私がそうでした。

しかし、それを実際に授業でやってみても 生徒の反応がイマイチだったことが多くありました。クラスというのは40人の個人が集まって成り立っている集団です。先ほども「教室は生き物である」と書 きましたが、クラスというのは1つ1つ異なる色というものを持っています。クラスによって好みが分かれることなんて当たり前のことだし、同じクラスでも日 によって表情を変えることなんてざらにあることだと思います。このように異なる生物である教室が日本に数えきれないほどあるのに、1つの教え方が全部のク ラスに同じような効果を与えるなんてありえないと思います。

私は実習中、そのことに気づいていなかったために、目先の理論 や指導法に飛びついてしまいました。教育実習生という立場では1つのクラスに単発で授業をすることがほとんどで、クラスの特徴、生徒一人一人の性格などを 考慮に入れることが難しいかもしれません。しかし、今考えてみると、指導教官のアドバイスや大学で得た知識などに頼ってしまうばかりではなく、自分なりに 「生徒たちはどのような教え方をしたら、興味を持ってくれるだろうか。」などといったことを「自分なりに考える」ということすべきであったと深く反省して おります。いい授業を作るために必要なことは、生徒をよく観察し、生徒の一人ひとりを理解することで「生徒が求めている授業」というのを肌で感じることで はないかと思います。「教室は生き物だ」ということを常に頭において、その生き物の変化に敏感でありたいと切に願うばかりです。


2 コミュニケーション能力とは

  英語科においてコミュニケーション活動と呼ばれているものは本当にコミュニケーション能力の育成に役に立っているのかというのは本講義を受ける前から疑問 に思っていました。今の中学校学習指導要領では目標として「聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う」とありま す。高等学校学習指導要領においては「情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う」とあります。4技能を鍛えるこ とは英語を学ぶ上で必要不可欠なことだとは思います。

しかし、コミュニケーションの手段であるこれらの技能をコミュニケー ション能力であるとして目標にしてしまっているのではないかと私は思います。さらに高校の目標を見てみると「情報を伝えられればよい」というように私には 感じられます。今の日本の英語教育は、「コミュニケーション能力とはなんなのか」はっきり定義しないまま、形式的な表現ばかりをつかった表面上の情報のや り取りを「コミュニケーション活動」としているように思えます。

本講義の中で、「物体を使う力」「心を読む力」そして「言 語を使う力」についてのお話がありました。これらの要素を掛け合わせることで私たちのコミュニケーションは成り立っています。これらの要素をコミュニケー ション能力の基盤であると捉え、授業も工夫すべきではないかと思います。私は特に「心を読む力」というのが大切なのではないかと感じます。日々の生活の中 で、「こいつ言葉には出さないけど、絶対なんか怒ってるわ」と感じたりすることは多くあります。それ以外にも皮肉だったり、言葉通りの意味ではなく、裏の 意味を考えないといけない場面は非常に多くあります。今英語の授業で行われているコミュニケーション活動では「心を読む力」が身につくようにはとても思え ません。

講義の中でも話にありましたが、「心を読む力」の育成に文学作品は非常に大きな役割を果たすのではないかと思いま す。中学校くらいの頃からずっと感じていたことではありますが、教科書の中の文学的教材というのは少なすぎるように感じます。あってもせいぜい1つか2つ です。これはなぜなのか考えてみると、やはり文学がコミュニケーションの敵だと捕らえられてしまっていることが原因ではないかと思います。文学作品を用い る授業では教授法として文法訳読式を用いると決めつけて受け取られ、教師からの一方通行な授業になってしまうと考えられてしまっていることも原因ではない かと思います。しかし、文学作品にはコミュニケーション能力育成の大きな可能性が秘められていると思います。文学作品というのは作者と読者のコミュニケー ションであり、そして読者同士のコミュニケーションにもなり得ると私は思います。作者にはいろんな想いがあってそれらを文学の中に吹き込んでいるように思 います。それらを読むことでなにかを感じること、作者は何を考えていたのだろうと考えることは非常に大切なことだと思います。また、文学というのは幅広い 解釈の可能性を与えてくれます。その解釈を巡って読者同士で語り合うことは立派なコミュニケーションであると思います。ウォリック大学に教英のプログラム で留学したさいに、「ジェーン・エアー」に関する解釈についてディスカッションをしたことがありました。そのときに、他の生徒の自分とは異なる解釈を知る ことで、作品の捉え方が変わったりしてとても有意義に感じたことを覚えています。

コミュニケーション能力というものを単な る情報の伝達を円滑にする能力として捉えるのではなく、様々な状況やテクストの中での相手(読者や作者)とかかわる能力だと考えると、文学作品の活用とい うことをもう少し考えてみる必要があると思います。この「文学作品とコミュニケーション能力の関係」については卒業論文のテーマとして研究しようと思って います。英語の学習の中に文学作品を有効的に活用する方法を考えていきたいと思います。


3.身体・対話の大切さ

  本講義では身体、そして対話の大切さについて深く考えさせられました。教師の仕事というのは文字通り生徒に対して何かを教授することです。そのためには教 師の声を生徒に届かせなければなりません。声を届かせる難しさというのは実習を通じて身をもって感じました。生徒に聴いてもらおうと思って声を張り上げて も生徒は知らんぷりだったりすることは珍しくありませんでした。しかしこれは私自身が「どうせ実習生の授業なんてきいてくれないだろうな」と心のどこかで 思っていて、それが生徒に私の体を通じて伝わってしまったからではないかと今となっては思います。

人の話を聞くとき私たち は声だけを聴いているわけではありません。話している人の体の動き、そして表情から私たちは何かを感じ取ろうとしています。どの教師も生徒に何かを伝えた いという思いがあるからこそ、教師という職業を志しているはずです。その意志があれば、何かを生徒に伝えようとするときに自然と身体からあふれ出るものが あるはずですし、無意識に体が動くはずだと思います。声を届かせるために身体を使おう使おうと意識することは難しいことではないかと、個人的な考えですが 私は思っています。

竹内敏晴さんと野口三千三さんが言っているように、身体を動かそうとするよりも自分の中にある重心とい うものに敏感でなりたいと強く思います。自分の中にある重心とは私は意志であったり、信念や想いではないかと思います。重心が体のあっちこっちに行ってし まうようでは自分の言葉の重さが失われてしまうように感じます。言ってることがコロコロ変わるような奴は信用できないのと同じです。自分の重心を常に体の 中心におけるように心掛けることが身体を使うということではないのかなぁと私なりに講義を通じて考えるようになりました。

教 育というのは人と人との温かい営みだと私は思っています。教師は生徒に何かを教授するという立場から、生徒を正しい道に導くという役割がある一方で、生徒 を対象としてみてしまう危険性を秘めているようにも思います。教育というのは教師と生徒という立場の違いはあれど、対等な人間同士の営みであるべきだと思 います。教師が上、生徒が下というような身分上の差の様なものが学校教育の中に色濃く出てしまうと、生徒は本当の自分というものを出せずに成長していって しまうことになる恐れがあります。自分自身の学校生活を振り返ってみても、自分の考えではなく、先生に気に入られるような答えばかりを考えてしまっていた ようにも思えます。生徒の声を聴くためにも対等な立場として生徒と対話する機会が学校の中にもっとあればいいのにと思います。

生 徒と良好な関係を築く第一歩は生徒の声を聴くことだと思います。生徒の本音の聞くためには教師が「言いたいことを言っていいんだよ」と身体を、心を生徒に 対して常に開いておかなければならないと思います。「対話」を通じてお互いのことを深く知ることができるという点を考えるともっと対話というのが重視され てもよいはずではないかとは思いますが、いまの社会では対話は軽んじられているように思えます。会議などではいかに効率よく、解決策までたどり着けるのか という点が重要視されています。企業のような利益をもとめる場ではそれでも良いかもしれません。しかし、教育というのは人を育てることを目指しているわけ であり、お金などの利益を目的としているわけではありません。企業的な考えが教育にも流れ込んでしまうことは危険なことではないかと思います。対話をする ことで生徒のより深いところまで知ることができ、良好な人間関係を築き上げることができるのではないでしょうか。

何回も書 いてしまっていますが、教育とは人と人との温かい営みです。そして基盤となるのは人間関係だと思います。(くさい言葉で書くと「絆」となるかもしれませ ん。)対話というのは時間がかかるものかもしれませんが、私たちは時間を問題視するべきではないと思います。人間関係を築き上げるのに時間がかかるのは当 たり前ですから。

4.最後に

 私は物事をあまり深く考えることが苦手です。楽観的に 生きているように思えますし、深く熟考しないといけない問題なのに、熟考せずに物事を判断してしまい後で後悔するということは少なくありません。しかし、 本講義だけでなく柳瀬先生の講義を通じて自分なりに考えることの大切さがわかりました。特に哲学は自分とは縁のないものだと感じていましたが、英語教育に 哲学が強く結びついているということに気付きました。私は小説はよく読みますが、哲学的な本には手を付けることがありませんでしたが、本講義を機に、いろ いろな哲学関連の書籍を読むようになりました。本をたくさん読んでいると今まで自分の知らなかった世界を知ることができ、自分の生きている世界が少しづつ 広がっていく感覚になります。これからも本をたくさん読み、自分なりに考える習慣を心掛けていきたいと思います。







 
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コミュニケーション能力と英語教育 ポートフォリオ


 MK


1.    はじめに

 本ポートフォリオは、木曜日1コマの授業「コミュニケーションと英語教育」で学んだことを通しての私の自己変容を大きなテーマとして、そこから繋がる3つの柱(①英語教育について ②言語文化について ③哲学について)について、柳瀬先生、一緒に授業を受けている皆さん、そしてこの文章を書いている自分、書いたあとの自分を宛先に記述したものです。予習記事や、私がbb9で書いた記事を見ながら考えていきたいと思います。


2.    英語教育について

2.1    授業観の変容

 昨年9月と10月に教育実習を経験し、実践の場で苦しみ抜いた経験と、それを持って読んだ予習記事は、明らかに私達の英語教育観を激しく揺さぶり、変容させたものだと思います。研究授業を通して生徒理解の重要性に気づいた私は、第一回授業の予習でこのように述べています。
「良好な関係を生徒と作っていくための土台としての生徒理解は、すべての教育活動の礎でもあるように思います。」

『教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ』や、『当事者研究とオープンダイアローグ』などの記事でみたように、教師と生徒の関係性のなかにあまりにも、客観主義的な科学の考え方を適用しすぎることは、学校や授業内での教育活動のあり方を「Aの問題を持った生徒にはA’の対応を取れば解決できる(できなければおかしい)」というものに傾けてしまう恐れがあります。教育実習を終え、授業を受けたうえでの私の授業観の根本は、上記の「生徒理解」から、「教師と生徒の良い関係、つまり信頼関係」(1/7予習記事)へと変容を遂げています。

第一回授業で言い尽くすことができなかったことについて今考えてみると、私が研究授業を行ったクラスで実感として「良い授業が」できたなと思えた原因は、教師と生徒の信頼関係を比較的短い期間でできるだけ形作ることができたことにあると思います。教育実習生は、持っている授業が通常5つほどなので、一つ一つの授業を別々のクラスですることが多く、一回きりの授業が教師にとっても生徒にとっても、最初で最後の授業となります。しかし、私が研究授業を行ったクラスでは、指導教員に授業を増やしていただき研究授業を含めて三回授業をする機会がありました。その中で最も心がけていたのは、「生徒とできるだけ言葉をかわす」ことでした。授業前の十分間や授業後の僅かな時間、そして机間巡視中に、多くの生徒に言葉をかけたり(「おいおい白紙やんけ」「これはテスト的にはバツだけど俺は百点回答だと思う」など)、授業中笑いを誘うような提示の仕方を考えたり、ここでは、それまでに学んだ授業構成や指導の理論ではなく、人と人が好意的に関わりあうためにどうするか、どうコミュニケーションするか、が考えられていたようです。

 その結果、十分ではないとはいえ私と生徒の間には「この先生にならついていける」と思えるような信頼関係が構成され、授業的には失敗の、生徒の取り組みとしては成功の、そんな研究授業ができたのはでないかと思います。

「『良い授業』は緻密な授業計画と教師の豊富な知識だけではなく、生徒との関係、クラスとの関係があってこそ「良い授業だったね」ということができると思います。「良い授業」を構成するものの中で最も重要な要素こそが、教師と生徒の良い関係、つまり信頼関係ではないか」(1/7振り返り)
つまり、私達みんな、人間と人間、主体と主体が関わっていく中でいい加減にしちゃいけないことって、あるよね。1対40人、みたいな数字でばっかり考えるんじゃなくて、「私とあなたとあなたとあなたと・・・・・あなた」が関わっていく空間での一回きりの祝祭的な授業をつくれたら、という気持ちで授業を作っていきたいな、と思うようになりました。


2.2合理主義と非合理主義

 自然科学的手法に則って物事を見ることが教育現場では絶対に悪手である、という極端なことを学んだのだ、というわけには行きません。。五十万人ほどの大学入試志望者を期間内で評価してゆくためには、ある程度割りきって客観的に、時間内で学力を測るための方法を策定しなければなりません。

膨大な物事をとりあえず割り切るための割り切り主義は必ず必要です。ただ、ものごとをテキパキと無思慮に割り切っていくようなことは避けなければなりません。そしてもちろん、割り切れないからといっていつまでも答えを保留するようなおこともあってはなりません。
 ここで難しいのは極端な合理主義、極端な非合理主義どちらに居着いてもよくないのだということです。本質的に割り切れない世界のことをわかっていながら、割り切っていかなければならないことが多いです。私達は、合理主義と非合理主義に引き裂かれつつ生きていくことを学んだのだということができます。



3.    ことばの文化について

3.1    しゃべくるだけがコミュニケーションではない

 「原初体験と表現の喪失」を読んで、ハッとしたのが、そういえばコミュニケーションコミュニケーションと言っているけれど、広い意味で考えたら口で話して意図を伝える、それだけがコミュニケーションではないな、ということです。コミュニケーションの媒体は言語のみにかぎらず、「モノや商品やお金、あるいは突き蹴りや投げ」もあると柳瀬先生は授業用ホームページの冒頭でおっしゃっています。

 「コミュニケーション能力の三次元的理解」で、身体・物体、心、言語の三次元の合成ベクトルでコミュニケーション能力について捉え直しました。これまでの私の理解では、コミュニケーションを四技能で表せるような言語の側面のみで、捉えていたように思います。
 言語文化系コースに在籍している自分としては、広義のコミュニケーションのなかでも言葉を媒介にした「芸術」についての興味が授業を受けながら高まってきました。



3.2    コミュニケーションとしての短歌

 このセメスター中に出会った「短歌」という芸術は、私がコミュニケーションについて考える上で非常に重要な役割を果たしたのではないかとおもっています。教国の友達に穂村弘の歌集『ラインマーカーズ』を貸してもらったことがきっかけだったのですが、そこで現代短歌と歌人・穂村弘の魅力にドハマリして彼のエッセイをどんどん買い漁るようになってしまいました。

 穂村弘は『世界音痴』で、みんなが生きている世界に入っていくことができない、世界からの疎外感を中学生時代から感じてきたと述べます(みんなが衣替えした次の日に衣替えをする、怖くてベッドから起き上がることができない)。そんな中出会った短歌を使うことによって、自分に見える世界が言葉にできたことについて『短歌という爆弾』で述べ…と、ここまで書いて思い出したのですが、この話って『綾屋紗月さんの世界』で綾屋さんが自分を記述する言葉を得ていく話とすごく似ていますね。

彼の詠む短歌は非常に難解なことで知られています。例えば

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

と、とても初見では意味がわからない(というかこれなどまだ分かりやすい方なのかもしれない)歌が歌集にはあふれています。

短歌の定形、五、七、五、七、七に、世界を自分のフィルターと言葉を使ってえがく、言葉にすることで、私達は単に言葉にする以上のものを伝えることができて、受け取った側も、作者が込めた以上のものを一首の短歌から受け取ることができる。そんなコミュニケーションのありかたとしての短歌に出会うことができ、そしてそれについてもっともっと理解を深めようと思うことができたのは、コミュニケーション論の授業でのコミュニケーションというものについての幅広い考察あってのものだと思います。

また、ことばによるコミュニケーション理解の深まりは、一年生の時から言われている「みずみずしい感性」を育てていくうえでも重要になると思います。文学作品、詩を通して、もっと私たちは世界理解を深く強いものにしていくことができると思います。


4.    哲学について
 
4.1    哲学への誘い

この授業では多くの記事を読んできましたが、特に思想家・哲学者に関する記事に惹きつけられる自分を見つけました。野口三千三や竹内敏晴の身体論、理性は身体の主人ではないこと、ハンナ・アレントの「複数性」についての話などがかなり面白く、勉強しなければならないこと、勉強したいことが膨大に増えていったような気持ちです。

 とくに面白いと思っているのが、柳瀬先生の論文『「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」のように、哲学者の思想によって物事を読み論じるような方法で、なるほど、そのようにして哲学を英語教育に活用できるのだ、と感じました。

「ハンナ・アレントの「行動的生活」-労働・制作・活動による田尻実践の理解という、英語の授業から想像もしない場所に橋をかけるような壮大な授業だったなと思い返します。」(1/28振り返り)
 昔に書かれたテクストなのに現代でも十分に使用に耐えること、英語教育の一授業実践を読み解く鍵になりうること、を考えると哲学から得られるものは多そうだし、自分でもそういったやり方ができるのではないか、例えば「思考・判断・表現についてレヴィ・ストロースやアレントのテクストを手がかりに考えてみる」というようなことができそうだな、と考えられたことが、私にとって大きな変容ではないかと思います。

4.2    テクストはテクストを呼ぶ

 アレントについてもっと知りたい!と思ったことが、彼女の著作や解説書を読もうと思ったことのきっかけになりました(『今こそアーレントを読みなおす』は、大変面白く読みました)し、複数性の世界で人間が他者との交流を通して自己を発見する「活動」を学んで、他者論についての興味が生じてレヴィナスの他者論を学びたいと思うようになりました。(目下、内田樹による『レヴィナスと愛の現象学』『他者と死者』を読みなおしています)さらに、レヴィナスがその他者論を発展させていく礎となったフッサール現象学についても興味は増していき、そして現象学をかじっていく中でフッサールが現象学的還元において参考にしたデカルトのコギト命題へ・・・

 テクストがテクストを呼ぶような、欲望が欲望を点火するような、壮大な学びの中に自分が位置づけられようとしている興奮を覚えることができたことに、とても驚いています。柳瀬先生の記事を読む中で、先生が別に教える気もなかったし勉強させる気もなかったことについて学ぶことができる、そしてそれは、今のところは柳瀬先生の記事を読まなければ発動しなかった学びかもしれない。学びのダイナミズムを学ぶことができたのは、非常に大切な経験だったと思います。

 哲学について とは書きましたが、もっと大きく「学びについて」と題したほうが良かったかも知れません。単純に、未知を知ることの愉悦を再確認できたという自己変容なのですが、死ぬまで学び続ける教師像をより具体的にすることができました。毎週HRのたびに、「今こんなことやってるんよ~」と見せびらかせるような先生になれたらと思います。


5.    まとめ

 ここまで3つのテーマについて自己変容を記述してきました。まだまだ書き足りていないこと、言語化できていないことが多くあるのですが、とりあえずはこの3つについて考えたことをもってこのポートフォリオを終わりたいと思います。この授業を通して、だけではないのですが私は少しずつ変わり続けているような気がします。

三年生が始まる前は、世界だけでなく教育界が、矛盾をはらみつつ存在していることに我慢がならず、そんな世界で生きていく事自体に嫌な気持ちがあったのですが、今ではもっとポジティブに考えることができるようになったと思います。様々な物事が複雑に絡み合う世界を、今より少しだけ愉快にできるような私として学びを深め、そんな仕事ができるような生徒をどんどん育てることができれば、結果的にみんな愉快に暮らして行けるようになるよね、と楽観的に考えています。







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コミュニケーション能力と英語教育 期末ポートフォリオ課題


「他分野から考える英語教育
-弓道と物語の領域から」



広島大学教育学部第三類英語文化系コース 3年 MY


0.    はじめに

本ポートフォリオは広島大学教育学部第三類英語文化系コースの講義「コミュニケーション能力と英語教育」の期末課題として提出するものである。はじめにお断りしておきたいが、このポートフォリオは本講義の内容を網羅したものではない。むしろその断片を少しつっついたくらいの程度でしか講義の本筋には触れていない。私は今回あえてこの形式をとったが、それは自分自身の経験を最大限に生かしたポートフォリオの作成を考えたからである。本講義を受講する中で自分自身の体験を見つめ直し、その再分析、また英語教育におけるその応用を考察した結果を主に記述した。第一部「物語を読むこと・書くこと―「活動」としての創作から英語教育へ」では、物語を読んだり書いたりすることを通して私が学んだこと、また英語教育における物語作品に対するアプローチを考察した。次の第二部「弓道と英語教育から考える「こころ」と「からだ」」では、私自身が高校生時代に体験した弓道を通して学んだ心体経験を下敷きに、英語教育における「こころ」と「からだ」について端的に分析した。

あくまで狭い範囲でしか講義の本筋には触れていないが、英語教育をあえて一見遠く離れたように思える分野から考えることにより、常に新しい視点から英語教育について考えていく。こうした考え方がこのポートフォリオ作成の軸となった。英語教育は英語教育だけで自立できるものではない。さまざまな領域の考えや方法が複合的に影響し合って紡ぎ出されるものだ。本講義ではその重要性に改めて気づかされた。この感覚を決して忘れてはならないと思う。英語教育を考えるにあたって躓くことは多々あるだろうが、そんなときに本ポートフォリオで考察したことが補完的に働いてくれることを期待したい。また本ポートフォリオを読んだ人がそうした考えを持つきっかけになることも同じように期待している。このポートフォリオ自体が私自身の「活動」であり、「こころ」と「からだ」の体験であるからである。

なお、本ポートフォリオについては公開を許可することとする。ブログ記事等での公開により、さらに多くの英語教師、またその卵たちと共有できることを期待したい。



1.    物語を読むこと・書くこと―「活動」としての創作から英語教育へ

1.1    物語を読むこと

 私は物語を読むことが好きだ。幼少の頃は日本の昔話を親から絵本で聞き、その後自分で読んだ。小学校のころになると図書館で小説を借りて読むようになった。中学校、高校、大学と長い年月が流れても、物語に対する気持ちは変わらなかった。むしろ、それは徐々に強まっていったし、おそらく今後も変わることはないだろう。物語は人の心を豊かにしてくれる様々な魅力を持った芸術であり、人間生活の文化的側面において重要な役割を持つ、そう考えている。物語は人の心的生活においてどのような役割を果たすのだろうか。ここでは私自身の経験に即して考察していきたい。

 まず、活字になっている物語には基本的に流動的な映像は付されていない。絵本であれば各ページにシーンの情景を示す絵が添えられていたり、小説などでも時折挿絵が挿入されていたりすることがあるが、基本的には読者は物語の流れを頭の中で想像することになる。それは物語の語りとなる文章をもとに行われるが、その内容は読者それぞれに委ねられている。なぜなら、同じ文章に触れたとしても、それぞれの読者によって思い描く情景は変わってくるからである。たとえ10人の人間が「桃太郎」を読んだとしても、彼らが頭に描く桃太郎は10通りの姿をとるだろう。解釈の仕方によっては物語を読むということは作者の意図をくみ取るという考え方もできるが、それ以上に読者それぞれが考え、感じたように読むことを重視して良いだろう。こうした読みによって、読者は想像力を掻き立てられる。その三者三様の解釈を許容する性質は物語、とくに活字体のみで読まれるものの長所である。私自身、読むことが好きだったということに加え、親からそうした物語の大切さというものを時折話されていたことも今まで物語の重要性を考察しているきっかけとなった。自分の知らない世界が、その描写が写実的なものにしろ幻想的なものにしろ、頭の中で非常に強いリアリティーをもって再現される。物語を読むことによって想像される世界を体験するほうが、現実世界で体験するよりもむしろ現実感があると考えるものもいるくらいだから、物語が人の想像に働きかける力の強さには異論はないだろう。ハンナ・アーレントのいう「人間の条件」に即して考察すると、物語を読む際のこの段階は「制作」と呼ぶことができる。なぜなら、これは読者自身の心的充足を満たしてくれる。読むことは創造された作品を受容的に楽しむ行為と考えられるかもしれないが、実は読む行為も創造的である。作者が生み出した作品は読者の認識のフィルターを通して、いかようにもその姿を変える。その際に読者は作品を再創造するのだ。ここに物語のおもしろさがある。

 物語には人の想像力を豊かにし、心的充足感を与えてくれる。物語が持つこの側面は高い評価に値すると考えてよいだろうが、しかしアーレントの人間の条件から考えるとこれだけでは不十分かもしれない。なぜなら、この段階までは人は孤立していても物語を楽しむことができる。手元に本があれば、たとえ独りでも想像の世界に耽溺していられるのである。しかしながら、これだけでは人間的な生活とはいえない。他者と関わってこその人間である。

しかし物語はもう一つ高次の段階へと人を導いてくれる。それは物語を読んだあとに他者と語ることだ。何を語ってもいい。単なる感想でもいいし、分析的なコメントをしても良い。登場人物について語ってもいいし、ストーリ―自体について語ってもいいのだ。とにかく自分がどう読んだかについて語ってみると良い。物語を読むという体験による喜びを誰かと分かちあうことに意味があると考えたい。自分とは違う読み方、自分とは違う感性の持ち主によるコメントはあなたの想像力になんらかの影響を良い形で及ぼすだろう。読み方によってその人の性格が分かるかもしれないし、世界に対する考えがわかるかもしれない。また、そうした他者の感性との差異から、自分自身についての理解も深まるのではないだろうか。こうした側面はハンナ・アーレントの人間の条件、3つ目の項目、「活動」と捉えることが可能だろう。個人的な楽しみ方だけでなく、他者とのコミュニケーションを促進し、さらに心的充足感を深めてくれる。物語を読むということは、想像世界と現実世界を橋渡しすることができるだけでなく、読者と読者のあいだに橋を架けてくれるのである。


2.2 物語を書くこと

 物語を読むという行為には、人間の生活を豊かにしてくれる「活動」としての役割がある。一見受容的に思えるこの行為が人と人とをつなぐことができることについては、世間一般的に役に立たないと言われがちな物語にも高い評価を与える必要があることを示している。では、この読む行為に加え、次に物語を書くという行為を考察したい。私自身の経験の中に物語を書くというものがあった。それは極々短い短編小説を書いてみたという経験だった。物語を読んだ経験は数えきれないほどあったものの、書くという経験はそれまで無かった。もちろん芸術家ではない私の経験なので、これで物語を書くという行為を正確に考察できるかは定かでないが、自分の経験を再分析することも兼ねて考えてみたい。

 私は現在、物語を書こうと思ってもなかなか書けない。以前物語を書いたときは書きたいという衝動に駆られて書いたのである。この行為は物語を読む行為と似ている点がある。それは物語を頭の中で想像することによる心的充足である。物語を読む際にも想像力を掻き立てられるが、書く際にはそれ自体が原動力になる。自分でスト―リ―や登場人物を創造する、つまり物語に息を吹き込むのだ。自分の実体験や空想をもとに物語を作っていくわけであるが、あまり頭で考えすぎても書けないような気がする。凝った文章を書こうとすると、逆に考えすぎて一向にペンが進まない。最初はあくまでも自分で書きたいときに、書きたいように書くのが良い。だが、やはりこれも人間生活における「制作」に留まっている。物語を創造する行為は作者の想像力を最大限に活性化してくれるだろうし、それにより彼の感性はさらに豊かになるだろう。しかし、それは読む行為の場合と同じで、あくまで独りでもできることである。では、この後どうするか。読む行為と同じように「活動」を追求するならば、書いた作品をまず他者に読んでもらうことが必要である。そして読んでもらったあとに感想をもらう。ポジティブなものでもネガティブなものでもいいが、とにかく読んでくれた人からコメントをもらい、その人と作品について語り合うのである。空想を言語化した作品をさらに言語によって説明し直すこと自体さらに感性を豊かにするだろうし、また作者の主観により生まれた作品を、他者の認識のフィルターを通すことで異なった方向から評価することができる。他者との語りの中で自分の作品を再分析することができるのだ。この段階に達することにより、物語を書く行為は「活動」の領域にまで引き上げられる。この物語を自分で創るという行為は、自分自身何度も体験したことがあるわけではない。しかし確実に自分の人間生活の精神面において良い影響を与えてくれていると思う。また、こうした行為が与えてくれる喜びは身体的な体験となる。すべてのプロセスを体で感じることが必要である。その身体経験を他者と共有する。それは物語を読む場合も、そして書く場合にも同じように重要なのである。


2.3 物語とのつきあい―英語教育の中での使用

これまで物語を読む行為と書く行為、またそれらの行為がどのように「活動」となるかについて考察してきた。人間としての生活において、こうした物語との付き合いがいかに重要な役割を果たしてくれるかがご理解いただけるだろう。このように私たちの生活に欠かせない重要な文化である物語であるが、これは何も日常生活だけに限られることではない。ここでは最後に、英語教育の中で物語の良さを引き出すにはどのような点について考えることが必要かについて考察していきたい。

英語教育では英米文学作品をはじめ、各国の文学作品が英語に直されたものを題材に教材が作られていることがある。実際に英語科で使われている教科書を見てみると、たしかに文学作品が採用されていることがある。それは小説や詩など形式は様々であるが、問題はその扱われ方である。たしかに教科書に文学作品が含まれていること自体は少なくない、だいたいどの教科書にも一応含まれているのである。しかし、そのほとんどはオプション、つまり教科書内の単元の流れには直接関係ないことも多い。Further Readingといった、少し発展した教材として扱われていることが多い(実際はほとんど読まれていないのだと思う)。それは教材を扱う英語教師自身がそうした教材の扱い方がわからない、難解である、発問が用意されていない、そもそもいわゆる実践的なコミュニケ―ションにつながらない(と思われている)といった理由が原因である。こうした理由から日本の英語教育では文学作品が以前と比べて急速に姿を消しつつあることは否めない。だからどうした、そんな難解な教材あっても使えないだろうと考えられているのかもしれない。しかしやはり、上述のような物語との接触の中で人が経験する成長は、英語教育においても見過ごされてはならないのではないか。たしかに母語ではない言語で文学作品を読み解くことは教師にとってですら難解な場合がある。しかし現在ではより簡易な英語に直されていたり、映画化されていればそれが補助教材になったりと、いかようにも工夫のしかたはある。場合によっては部分的に原文を用いて、文学作品の原文が持つ言語形式の魅力に断片的に触れることも良いだろう。やはりそうした工夫を通して、学習者に物語を純粋に楽しむ経験を提供していきたい。それは物語を教材とすることを通してのみ味わうことのできる魅力の一つではないだろうか。そしてその体験を他の学習者と共有する機会も合わせて与えるといいだろう。物語を学習者と学習者をつなぐ「活動」の領域にまで引き上げる。文学作品の減少を危惧するものとして訴えていきたい良さがそこにあるのだ。



2.    弓道と英語教育から考える「こころ」と「からだ」

2.1 竹内敏晴の「心体」感覚

 「弓道」とは単なる的中てではない。いや、的に矢を中てること自体は間違いではないが、究極的な目標はそこにはない。弓道とは精神修養の場である。それは弓道部員の一人として弓道に携わっていた高校生のときに、私が心で感じた身体経験そのものだった。

 弓道は的に中ててなんぼ、外したら終わりと思われるかもしれない。たしかに試合では的中数がはっきりと勝敗を分ける。また仮に手元が数ミリ狂っただけで、的に当たるころにはそれが十センチ以上の狂いになるほどの精密な技芸であるため、まさに一瞬の失念ですべてが決まることもしばしばである。だから選手はみな極限まで集中力を高めるために日々鍛錬を積んでいる。しかし、ここで考えたいことは、それは副次的なものに過ぎないこと。矢をつがえ弓を引く動作が的に中てるために存在するのではない。むしろその逆、すべての動作とそれによる精神の変容過程のために的があり、試合がある。つまり、弓道の目的はこの一連の動作の中で「こころと「からだ」が融合することにある。

 「こころ」と「からだ」の融合とはどういうことなのか。それは弓を引く以前からすでに起き始めている。当時、私が高校の弓道場で練習していたころ、練習開始時には部員全員で集りあいさつをしていた。弓道は礼を非常に重要視しているのだが、これも精神統一のためのものである。また、あいさつの直後に毎回1分間の黙想を行う。その当時はこれといって深く考察することはなかったが、今振り返るとこの黙想は「こころ」と「からだ」をつなぐために一度心を無の状態に帰すためにあったものだと気づいた。弓道では邪念は手元を狂わせ、体全体を狂わせる。的に中てようとする意識がかえって矢を的から遠ざけるのだ。的に意識をさらわれてしまえば、それが射形を崩す原因となってしまう。逆を言えば、正しい射形と精神状態で弓を引けば、的が見えなくても的を射抜くことも可能だと言われている。「からだ」に関して深い考察をされている竹内敏晴氏が弓道について述べることは、まさにその正しいあり方を示していると思われる。

私の場合は、弓を引いて、その記録を持っているけれども、的に当てるために弓を引いていたわけじゃないということに、その時に非常にはっきり気がついたんです。(「竹内敏晴ノート」、竹内 2010, 112-113)

竹内氏が上で述べているような感覚を常に持ち続けることは非常に難しいことである。試合ともなれば、中てよう中てようとする意識が高まることは自然なことですらある。しかし、一見矛盾しているような竹内氏のこの記述も、弓道を半ば極めたものであるからこそ述べられた感覚なのではないだろうか。

自分の実感からいうと、左手に弓を握って前へ押し、右手を弦で引っ張るでしょう。すると世界が水平に無限に広がっていくわけです。それで広がり広がって、あるところでビューっと矢が飛んでいく感じだった。水平だけでは駄目で、もちろん垂直にもやるわけだけど、五重十文字といいますが、無限に広がっていってはじめてぶち当たるある存在感みたいなものがあって、それがスポっと開いたとたんにパーンと当たっているということです。(「竹内敏晴ノート」、竹内2010, 112-113)

弓道では体を外へと徐々に開き、矢を引っ張ると同時に弓を押す動作も行われる。「会」と呼ばれるこの動作は、外見上ではほとんど識別できない体の内側の動作である。「世界が水平に広がっていく」という表現は、竹内氏の「からだ」の中で行われていた動きが彼の「こころ」とリンクした状態を表しているのではないだろうか。弓は腕で引くものではなく、こころで引くものと言われるのもこの状態を指した表現である。

 矢を打ち終えたあとも、こころと体の融合は終わらない。打ち終えたあとの動作に残心、または残身というものがある。「心」と書いても「身」と書いても良いが、その際にこの動作がこれら両方の要素を備えているという認識を持っていなければならない。矢を打ち終えた後数秒間そのままの姿勢を保つこの動作は、心身ともに一息置く役割を持っている。この段階を終えて初めて、心体の融合が解かれる。的を射る位置に立ち、矢をつがえ、的を射抜き、最後に心体ともに休息を与える。この一連のプロセスの中でどれだけ集中力を保てるか、またプロセスをいつまで続けられるかが弓道の課題になる。高校生だった当時の私のような素人では到達しえない境地ではあるが、そんな中でも時たまに感じられる、いわゆる「神懸かり」的な状態が無いわけではなく、その場合はしっかりと的を射抜いていることが多い。それをどうやって成すかということについて説明することは非常に難しいし、他人がそのような状態になったことを説明してもらうときも、なかなかうまく表現できないようである。それは心的・身体的な状態を言葉で表すことがそもそも難しいわけであり、その一方でその状態をできるだけわかりやすく叙述している竹内氏については、弓道の腕前はもちろんであるが、ことばの表現力に関しても非常に卓越していると言えるだろう。


2.2 英語教育の「心体」感覚

 弓道における心体感覚を簡単に要約することは難しい。もちろん竹内敏晴氏にとってですら、その詳細を明確に記述することは難しいはずだ。なぜなら心体感覚はそれを実際に体験することが最も明確なアクセスになるのであって、言語化すること自体本来ナンセンスなのかもしれない。しかしながら、それを自分なりに分析して言語化することは、自分自身の中でその状態を再分析し、さらなる心体感覚の体験への橋渡しになりうる。それは何も弓道に限ったことではないだろう。かなり唐突ではあるが、この心体感覚という一見不可解な現象は英語教育の中でも体験することができるものではないだろうか。

 私は自分が中高生の時分に英語科授業の中で心体感覚というものを体験したことがない。そもそもスピーキングの機会が少なかったし、やはり自分が発していることばと自分が考えていることがリンクしていなかった。私たち生徒の口から発せられていたのは、教科書から引用した定型文を必死に覚えたものばかり。自分が伝えたいことを言語化するという感覚は無かった。もちろん、言語材料が少ない初期段階ではある程度機械的な定型文再生も必要であると思う。そこから英語の文法やリズムを学ぶこともできるので、最初の訓練としての段階ではあながち無碍にはできない。しかしそれだけでは教育にはならない。著書『小学校からの英語教育をどうするか』で柳瀬先生が述べられているように、まさに私たちが行っていたのは「引用ゲーム」だったのだ。心と体がリンクしていなので、ことばを発しても実感が無い。本来言語は自分が伝えたいことを伝えるため、意思疎通のために生まれたものであるのに、伝えたくもないことを口から発しなければならない。これでは定型文しか使えないようになるのはもちろん、そもそもの動機づけに欠けてしまっている。これは英語の4技能すべてにあてはまるものである。しかし、もちろん現場で働いている教師の方々がこのことを必ずしも軽視しているわけではないだろう。これには授業の形態、評価のシステム、学校制度など様々な要素が複合的に影響している。簡単に解決できるものでもないだろう。ではどうするか。

 私は現場で働く教師ではない。ただの学生である。したがって、述べることがある程度机上の空論に成り得ることはやむをえない。心体の融合などといっても、しょせんは理論上の考察に過ぎない。しかしながら、そんな私にも確実に訴えられることが一つある。それは自分自身の心体感覚である。英語を使用するにあたって私が体験した、言語使用に伴う喜びとしての心体感覚である。私自身が伝えたいことを英語にできたときの、聞き手または読み手に伝えられたときの感覚においては、心と体は分離していない。本当の言語使用は身体経験を伴うものである。ただ音としての英語を発するわけではない。すべての感覚を総動員してはじめて言語使用は行われるのである。学習者に英語使用の持つ楽しさを生徒に味わってもらうには、まず私自身が持つこの経験を常に忘れないようにしなければならないと考えている。その体験が無ければ、それを生徒に体現してもらうためにはどのような方法が適切かイメージしづらいだろう。しかしイメージだけでも頭の片隅にあれば、それを下敷きに授業を考えることができるかもしれない。

 私は心体感覚についてまず弓道を、次に英語教育を端的に考察した。一見全く異なるこの二つの領域だが、「こころ」と「からだ」という点に関して言えば、実は共通点が挙げられることがおわかりいただけると思う。心と体が乖離しているときは、弓道も英語教育も成功しない。この人間が持つ二つの重要な要素、心体という根源的な要素を軽視してはならない。ただの的あて、ただの引用ゲームは人間の営みとは言えないのである。しかし、かくいう私自身もこの問題に関しての考察においては、そのスタートライン付近でうろついているにすぎない。高校生だった私が体験した弓道の心体感覚の断片を、うまく英語教育に応用していくことを私の今後の課題としたい。







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ポートフォリオ
~第6セメスター「コミュニケーション能力と英語教育」を通して~


教育学部第三類英語文化系コース3年 AS


0.    はじめに

このポートフォリオは第6セメスター開講「コミュニケーション能力と英語教育」(指導教員:柳瀬陽介教授)の講義を受講して私の思考を整理したものです。柳瀬先生はもちろんのこと、他の先生方、この講義の受講生、他の広島大学生、その他の学生にも自信を持って公開できるような、また自分自身(5年後10年後の自分も含む)が何度も読み返したくなるようなポートフォリオを作成することを目指しました。ポートフォリオの作成にあたって、この講義で学んだことの全てを整理しようとすると膨大な量になるであろうことが容易に想像し得るため、特に「何年経過しても考え続けたい」と私が思った議題を抽出して文章を書きました。(Bb9上の予習や振り返りで過去に書いたことの繰り返しは意図的に避けています。)

また、このポートフォリオに対してはA-(エーマイナス)の評価を希望いたします。


1.    英語教師の責務とは何なのか

 英語教師の責務について考察するにあたり、まずは私自身の教育実習における体験を振り返ります。私が教育実習に臨むにあたり意識していたことは「たった数回の授業であっても、いかに生徒たちの英語力を向上させるか」ということでした。教育実習のシステム上、実習校一校につき、与えられる授業回数は5回です。(期間は2週間)加えて、その5回の授業において担当するクラスというのは全て異なっていました。要するに毎回の授業は、私(教育実習生)からすれば「初めて対面する生徒たち」であり、生徒たちからすれば「初めて見る実習生の先生」であったということです。ですが、授業を担当する教師が附属学校の先生であっても教育実習生であっても生徒にとってみれば1回の授業ということに変わりはありません。だからこそ、その1回の授業の中でいかに生徒の英語力(単語・文法の知識や発音など)を向上させるかということに拘っていました。しかし、私には「英語を通して何かを学ぶ」という視点が欠如していたのです。強いて言うなれば、英語を通して英語のみを学ぶことを強制していたことになりますが、私の行った授業でたとえば、今まで自分が学んできた言語である日本語に対する興味が湧いてきたという生徒は皆無だったのではないかと想像します。外国の文化に触れることで自国の文化に立ち返ることがしばしばあると思いますが、言語も同様だと考えます。ですが、教育実習中の私はAll Englishの授業形式も相まって英語を英語として切り離し、独立させていました。ましてや、学ぶこと自体への今興味が湧く(learn to learn)ような授業とは到底言えませんでした。英語教師の責務を考えた時に、英語力をつけさせることは確かに重要なことです。(英語教師ですから・・・)ですが、それだけでは視野が狭いと言えるのかもしれません。英語の授業を通して、生徒に学ぶこと自体に興味を抱いてもらえるようにするのも英語教師の責務ではないかと考えるようになりました。


2.    授業において見られる「計算主義」に関して

 「コミュニケーション能力と英語教育」の講義の中で柳瀬先生による学校教育においては計算主義の傾向が強すぎるというご指摘を受け、改めて計算主義について考察しました。確かに教育実習中では授業の指導案、さらには細案を作成することに膨大な時間を費やしました。それは教育実習のシステム上、教育実習生に要請されることでもありましたし、なにより私自身が指導案や細案を作成しなければ不安だったのです。(中学校や高等学校で教壇に立つという経験の少なさから)しかし、先生もおっしゃるように授業案どおりに綿密に授業をやろうとするとたいてい上手くいかないということを自身の体験から痛感しました。特に細案まで作成すると、そこには「自分がこのような発話をする、生徒はこのような応答をするだろう」という構想が台詞のように全て記載されています。(それらを作成するのにたいそうな苦労を味わったわけですが・・・)そのため、生徒からの想定外の発言に対して反応できないという場面が多々ありました。予想外の出来事に対応していくことで授業が進化していくということを受容することができなければ、自分の自信の無さを細案で誤魔化してしまうような英語教師になってしまう可能性があると考えるようになりました。


3.    専門家のTrapにまつわる警告

 専門家のTrapに関しては、このポートフォリオをおそらく読んでいるであろう1年後・5年後・10年後の私自身に警告をするつもりで考察したいと思います。現在、学部での3年分の勉強を終えようとしている私は英語教育に関して専門家になりつつあると言ってもよいと考えています。1年後であれば学部での勉強をすべて終え2年後以降であれば英語教員として現場に出ているであろうと思いますが(願いますが)、その頃には今よりも高度な専門的知識を有していなければなりません。ですが、英語教育に関しての専門性を高めれば高めるほど、ある意味でその視野は固定されていきます。そして大学在学中に4年間学んだことでもって英語教育の現実を全て知った気になるのも愚の骨頂だと言えるでしょう。だからこそ、「未来の自分、現場に出て自惚れちょったらいけんっちゃ!」とあえてこのポートフォリオには相応しくないであろう口調で未来の自分に警告します。専門的な勉強をするのはもちろん奨励されるべきであり、専門家としては当然のことですが時折、柳瀬先生の「専門家はどれだけ自分の見識が狭いかを理解している謙虚な人」という言葉を思い出すべきでしょう。


4.    ウィトゲンシュタイン的に技能を考えるということ

 昨今の英語教育において、四技能をバランスよくということが叫ばれるようになってきていますが、そのことからも分かるように、まるで「リーディング」「リスニング」「ライティング」「スピーキング」の四つの技能区分しか存在しないかのような論調になっていると感じます。事実、私も受験生であった頃はそのような区分に関して何の疑問視もしていませんでした。しかし、柳瀬先生がおっしゃるように「投げる」「打つ」「走る」という要素を全て足しても「野球」が完成するわけではないのと同様に「リーディング」「リスニング」「ライティング」「スピーキング」四技能全てを足しても「英語」が完成するわけではありません。そのためそれぞれの雑多な概念をよくよく観察しなければならないでしょう。例えば、スピーチはスピーキングの技能だと考えるとそれはあまりに観察不足だと言えるのかもしれません。スピーチに関して言えば、メモを取るといった行為やスピーチの準備段階でマテリアルを読み情報収集するといった行為を無視して単純にスピーキングの技能だとひっくるめることはできないと考えます。スピーチをスピーチとして観察することがこの場合は必要になってくるのです。


5.    「色々な音を拾い上げる」ということ

 内田樹氏のいろんな音を拾い上げることがコミュニケーションであるという理論に関して考察したいと思います。現実世界のやり取りを鑑みるとコミュニケーションには様々な「音」が存在しています。例えばどんなに言葉上では「元気だよ」と言っても普段よりも小さな声でボソボソと、しょんぼりとした低いトーンでその言葉を発したとしたら、実際は言葉と真逆の状態であるかもしれません。要するに同一の言葉でも、本当に元気な「元気だよ」もあればそれを偽った「元気だと」もあるということです。だとすれば、英語におけるスピーキングを流暢さ(Fluency)・正確さ(Accuracy)・複雑さ(Complexity)といった観点のみで測ろうとするのはそのような現実世界に即しておらず、乖離してしまっていることになるのではないでしょうか。同様に現実世界のやり取りはメタメッセージにあふれています。例えばどんなに恐ろしい脅迫めいた言葉を放ったとしても、その表情が笑顔でありリラックスした態度であれば、それは冗談であると判明します。この場合メタメッセージは非常に強力な役割を果たしており、メッセージ(言葉自体)よりも強いことが分かります。しかし、今日の英語教育ではメッセージばかりが取り上げられメタメッセージに焦点が当てられるということは滅多にないと言ってよいでしょう。(I see.という表現を教える際もそのメッセージの側面のみが切り取られています。) このことから英語教育では現実世界と反してメッセージの方がメタメッセージよりも強力であるかのように扱われていることが分かります。この現実世界との反転を是正するために英語教師自身がメタメッセージの重要性を教える必要があるだろうと考えます。


6.    教科書や例文の捉え方に関して

 教科書に対する認識として、教科書で扱うやり取りは実際に現実世界で起こり得るものだと考える英語教師は少ないであろうと思います。現に私は中学生であった頃、実際に起こり得るものだというよりは、教科書という独立した世界の中でのやり取りだとう印象を抱いていました。そのような印象しか抱かなかった原因の一つは現実世界とのリンクを教わらなかったからであると分析します。例文に関しても同様に、文法を教えるためのものであり現実世界とは乖離していました。教科書という独立した世界の中でやり取りが行われ、現実世界とは切り離されて例文が扱われ、それらのものが独立した定期テストという形で出題され、その得点が評価されていました。当時の私にとって現実世界から見た教科書の世界はまるでパラレルワールドであるかのようでした。「教科書のパラレルワールド化現象」を食い止めるにはそれに対する英語教師の認識から改めていかなければならないと考えました。(教師の認識が生徒の認識へと正の方向にも負の方向にも連鎖しやすいと考えるからです。)


7.    英語科における思考力とは何なのか?

 近年の学校教育においては「思考力・判断力・表現力」を育むことが重視されていますが、英語科における思考力とは何かを考えた時に、それを定義することは中々難しいことであると考えます。私自身は「何らかの基準や根拠に基づいて論理的に物事を考え抜く力」であると考えていましたが、「コミュニケーション能力と英語教育」の講義において柳瀬先生のおっしゃった言葉が私の定義を打ち崩すくらいに強烈なものでした。それは、思考力とは(教師さえも予想しない)新しいものを生み出す力であるというものでした。とある研究授業での、鯉のぼりを英語で説明する際に生徒の口から咄嗟に出た”a big fish swimming in the sky”という表現は私の印象に残っていますが、このような表現を生み出す力こそ思考力と言えるのかもしれません。また、柳瀬先生は思考力とは自分の経験と結びつかなければならないともおっしゃいましたが、この発言をした生徒は鯉のぼりに関する自分の経験を思考と結びつけています。英語教師は固定的に定まった知識としてのCompetenceだけをTrainingによって重視するのではなく、思考力としてのCapacityもEducationにより重視する必要があると考えています。確かに上記の独特な表現は教科書にも載っていなければ、文法やマークシートで測ることもできません。しかし、思考力というものをマークシートで測ろうとしたり、点数化しようとしたりしているのが今後の英語教育界隈の動向であるとしたら、思考力の本質を見落としている(もしくは気づいているがあえて目を瞑っている)と言えるのではないかと考えました。


8.    英語力と英語コミュニケーション力に関して

 英語力と英語コミュニケーション力に関して、英語教師の視点で考察することはAll Englishでの授業が求められる現在の英語教育では非常に重要なことであると考えます。似て非なる両者の考え方を履き違えるのは危険でしょう。英語力による文法説明という場面を考えた時に、まるでネイティブスピーカーのようにペラペラと英語で解説できる力がそれに該当するかと思います。このようなスキルは時には必要でしょう。私は教育実習中のとある授業で、Warm-upや導入までを英語で行い、文法説明の段階に移行すると日本語に切り替えました。そのようにした理由は、英語による文法説明は生徒にとって理解するのが困難であろうと考えたと同時に、私自身にとっても英語による説明が困難だという考えが頭をよぎったからです。しかし、今まで私(実習生)の英語を聞き、生徒自らも英語を話すという場が出来上がっていた状況で、日本語が使用言語に切り替わると急に生徒の士気が低下していくのが見て取れました。(英語による流れが日本語により途切れると生徒は英語を使用したいと思うモチベーションが低下するというフィードバックを指導教員の先生から頂きました。) このような状況下では上記の英語力が必要なのかもしれません。しかし、英語力による文法説明は生徒の存在を排除した独りよがりの指導であるのではないでしょうか。英語教師に必要なことは英語コミュニケーション力に支えられた指導ができるとうことだと考えます。英語コミュニケーション力というのは相手の表情や反応を見る力です。「みんなが分かっていなさそうな顔をしているな・・・この表現に言い換えてみよう。」などと試行錯誤することは生徒の存在を重視していると言えます。All Englishの授業が求められている今日だからこそ、英語力と英語コミュニケーション力を混同するべきではないと考えました。自分がいかに英語力を発揮するのかという問題といかに相手の興味・反応によって表現や内容・方法を臨機応変に変えるのかという問題は別問題なのです。


9.    Different but equalの考え方を目指して

 私は「コミュニケーション能力と英語教育」の講義でこの言葉に出会えて良かったと感じています。今の英語教育が目指すべきはこのまさにDifferent but equalの状態ではないでしょうか。そして、おそらくこのポートフォリオを読んでいるであろう1年後・5年後・10年後の私自身に向けて再度警告を発したいと思います。私は中学生の時にバスケットボール部に所属していたため、例えば体育でバスケがあった時やクラスマッチが催された時にはそれなりの活躍ができました。しかし、コートには多くのバスケ未経験者がいて彼らも未経験者ながら精一杯コートを走り回っていました。そこに違いはあっても権力差はありません。そのコート場にいた者がみな同じバスケという競技をプレーしており、それを楽しんでいたというだけなのです。これがサッカーの場合だとどうなるでしょう。私はサッカー経験者ではないため、決して上手とは言えませんがそれなりにピッチを駆け回ります。サッカー経験者はその経験を活かしそれなりに活躍をします。このケースも先ほどと同様だと考えます。つまり、そこに違いはあっても権力差はありません。これを勉強で当てはめてバスケは英語、サッカーは数学とでもしましょう。先ほどのスポーツの例からも言えるように英語においても数学において元来はDifferent but equalであるはずなのです。しかし、現在の英語教育においてはsame but deviantの考えが先行しているように感じます。英語を学習しているという点では同じだが、そこには権力差(偏差)があるというものです。確かに英語ができる生徒とそうではない生徒とで進学先等は変わってきます。それは英語教育においてsame but deviantの考えが蔓延しているからでしょう。だからこそ、このポートフォリオにそぐわないであろう口調で未来の私自身に向けて再度警告を発します。「未来の自分、生徒をsame but deviantに扱いよったらいけんで!」


10.    英語教育における「一人でできること」と「一人ではできないこと」に関して

 「コミュニケーションと英語教育」の講義の中で印象的であった議題の一つです。英語教育において自分を表現したことがあるか?と問われたら高校生までの私だったらまず間違いなく校内順位や偏差値といったワードが出てくることでしょう。「テストで○点取って校内順位において△位だった」「模試の偏差値が□だった」「英検で◎級を取得した」という具合に自分を表現していただろうと想像します。しかし、このように文字に起こしている最中にも気づきますが、上で表現されている自己は私という人間である必要はなく、代替可能な自己なのです。テスト・模試・資格試験の類のための勉強は一人でもできることです。私が中高生であった頃は一人でもできることをクラスの全員でやっていました。要するに教室という空間にクラスメートはいても、やっていることは「一人でもできること」だったのです。だからこそ、田尻実践における”My Treasure”スピーチのように「一人ではできないこと」を実感する場が必要なのだと考えます。クラスメートが自分のことを聴いてくれているという安心感がある中で、自分という自己を表現することは「一人では決してできないこと」です。教師がそのような場を提供し、英語がその橋渡しになるとすれば、学校において英語を学ぶ意義は生徒にとっても理解し得るものになるだろうと確信しています。


11.    おわりに

 これまで「コミュニケーション能力と英語教育」の講義において私が学んできたことの中でも、とりわけ「何年経過しても考え続けたい」と感じた議題を抽出し思考を整理し文章としてアウトプットしてきました。このポートフォリオを締めくくる言葉として、第10回の講義で柳瀬先生がおっしゃった言葉を拝借いたします。「現在の英語教育が全て完璧に上手くいっているとは言えない。全て上手くいってはいないからこそ考え続けなければならない。」先生が訴えかけているように、学部3年生を終えようとしている今も、広島大学を卒業するであろう1年後も、そして英語教員として働き出してからも、自分の頭で(自分の感性で)英語教育の向上について考え続けていかなければならないと私も考えます。このポートフォリオはその際の大きな手助けになるであろうと考えると、「書いてよかったなぁ」と素直に感じています。全13回にわたり刺激的な講義と思考する機会のご提供をありがとうございました。