2007年12月29日土曜日

『オキナワを歩く/元白梅学徒隊員沖縄戦を語る 学生は何を見何を感じたか沖縄戦跡巡礼の3日間』

沖縄のいわゆる「集団自決」(以前の言い方なら「玉砕」。ある人々の主張では「強制集団死」)に関しては、今年、教科書検定での教科調査官による記述削除の検定意見、それに抗議しての沖縄での県民大会、その大会参加人数に関する論争、検定意見の再修正、それに関する論争などと激しい動きがありました。私の邪推に過ぎませんが、この揺れ動きの背後には、参議院選挙での自民党の敗退、安倍首相の急失速的退陣などの要因があったのかもしれません。

しかしこれらの動きや論争で、どのような立場をとろうと、どのような意見を持とうと、戦争によって、無実の人がむごたらしい生き地獄に落とされ、多くの人が命を失い、生き残った人々も深い傷を身体と心に負い続けなければならないことに反対することでは一致するはずです。

我々が生身の人間である限り、戦争というのがどれほど言語に絶する悲劇をもたらすのかということは、戦争の事実を知る限り否定のしようがありません。

戦争は起こしてはいけない。一度起こしてしまった戦争を止めることは、恐ろしく困難であることは、ベトナム戦争時の国務長官であったロバート・マクナマラもドキュメンタリー映画 “Fog of War”で証言している通りです。


歴史の事実に学ぶ限り、戦争がいかに人間を蹂躙するか、そして戦争は一度起こるとどれほど止めがたいかということは、イデオロギーや考えの違いを超えて、私たちは共通に合意できることではないでしょうか。

しかし、私たちは(私も含めて)おそろしく歴史の事実を知らない。というより知ろうとしない。目の前の仕事あるいは快楽に自分を埋没させてしまう。しかし長期的に考えれば、私たちが戦争をできうる限り引き起こさないこと、一度起きてしまった戦争はできうる限り速やかに集結させ、外交的・政治的手段での解決にもってゆくことを学ぶことほど大切なこともないのかもしれません。

このDVD付きの小冊子は、広島経済大学の岡本貞雄先生のゼミ生が沖縄戦跡を三日間歩き通し、戦争の悲劇を少しずつ学び、そして元白梅学徒退院の中山きくさんの証言を得るまでを記録したものです。メインはDVD映像と言えるかもしれません。ぜひ中山きくさんの事実だけを語る、凛とした証言と、ゼミ生の静かな変化の様子を見てください。


多くの中高生が修学旅行で沖縄を訪れます。その中で、沖縄の史実に学び、戦争と平和といった大きなレベルだけでなく、日常生活のいじめを防ぐなどの身近なレベルでも成長する中高生もいれば、戦跡の前でにやけたピースサインで「イェー」と言いながら写真に写る中高生もいます。沖縄に修学旅行に生徒を連れて行く先生方は、ぜひこの1000円あまりの小冊子つきDVDを買ってご覧ください。

もちろん教師だけでなく、私たちが沖縄を含む日本国に住む限り、いや、私たちが同じ生身の身体を持ち、むごたらしく殺されることを拒む人間である限り、ぜひぜひ機会を見つけてこのような歴史の事実に学びましょう。

私自身歴史を知らない人間として、このような小文を書く次第です。

→オンライン購入は、たとえばこちらで。

2007年12月21日金曜日

松井孝志先生のブログ 大学入試、および「教育学博士」について

敬愛する松井孝志先生のブログ「英語教育の明日はどっちだ!」を私は愛読していますが、2007/12/20の記事Anniversaryは特によかったと思いますので、このブログでも紹介させていただきます。
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20071220

(進学校での)高校教育の最終目的を大学入試問題への対策とするのではなく、

もっと得体の知れない、出口がどこにあるのか、そもそもゴールを目指しているのかも怪しいような足取りの中で藻掻き苦しむ間に入試というハードルを既にクリアーしている


ことするように取り組む、というのは至言だと思います。



また「教育学博士」について、スタイナーを引用した上で、

私の師匠は「大学で学ぶことは須く机上の空論で良い」と喝破した。「その論が何故、現場で窒息するのかを身をもって体験する」ことを私(たち弟子)に求めていたのだと思う。では、「教育学博士」は教室に何をもたらしてくれるだろうか?紋切り型ではないとはいえ「答え」を求めている時点で、すでに泥沼に嵌っているのかもしれない。問い続けることにこそ意味があるのだろう。


と述べておられます。「実践」と「学問」の安直な同一化を図って両者を駄目にしてしまうのではなく、両者の矛盾と緊張関係を我が身に引き受けながら、「実践」を行い、「学問」を行い、両者をそれぞれに進化させることが必要ということを、松井先生は師匠の(反語)表現に読み取っている、と私は解釈しました(間違っていたらごめんなさい)。

もちろん「(英語)教育学」といった分野では、この「実践」と「学問」の間の矛盾と緊張を忘れたままに、ひたすら片方だけに安住することは目指すことではないといえるでしょう。分断化でもなく、同一化でもなく、他方の存在を痛みとして感じながら一方に従事し、また次の時にはその役割を交換して、両者の間を往復し続けることが必要なのかもしれません。

上記ブログ、ぜひお読みください。

2007年12月18日火曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想(その7)

 田尻科研シンポにさらに寄せられた感想をご紹介します。田尻科研メールアドレスのチェックを怠り、掲載が遅くなったことをお詫びします。もしまだご感想をお寄せになりたい方がありましたら、yosuke@hiroshima-u.ac.jp にお送りくだされば幸いです。
 あ、それからF先生、満月の印象ありがとうございました。また、U先生、その通りです。私たちは「めちゃくちゃ,楽しかった」です。

*****

H県のF先生のご感想

 遅くなりましたが、感想は絶対書こうと思っていたので今書いている次第です。
すでに柳瀬先生のHPで感想を数点見ているのですが、私なりの感想を脈絡なく挙げてみます。

 個人的に、田尻先生の講演はこれで3年連続になります。時期も同じ11月です。最初の2回は広島国際大学人間環境学部主催のものでした。無料でしたので、交通費だけで受講できました。

 2回目は1回目よりも時間が随分長くなっていましたが、それでもまだ聞きたかったです。

 今回の田尻先生のレジュメの最後に、"The Long and Winding Road"がありましたが、時間切れでカットとなりました。1回目か2回目だったかよく覚えていませんが、"Happy Xmas (War Is Over)"がありました。このときも時間切れでしたが、質疑応答のときに思い切って「田尻先生ならこれを使ってどう授業するんですか」と聞いたところ、わざわざ時間を割いてやってくださいました。私も授業で英語の歌を鑑賞するのですが(自分の持っているCDからなのでどうしてもハード・ロック中心ですが)、たまたま前年にこの曲を扱ったので特に興味がありました。「王様」のCDまではできそうでしたが(今年もやっています)、その後のNew Yorkの"Yes. I Want It."の映像にはたまげました。今回も聞きたかったなあ。

 ライフヒストリーでよくわかったのですが、ポプコンか何かのコンテストでグランプリを受賞するほどまで音楽を極めているのならば、あんな授業ができて当たり前です。私などは、ごく個人的にエレキギターを弾いてハード・ロックしているにすぎないので、恐れ入りましたという瞬間でした。電子ドラムも買ったので、田尻先生のごとく練習に励もうと思っています。

 大津先生の小学校英語シリーズはもちろん、『英語学習7つの誤解』をちょうど読み終えた頃だったので、直接お会いできて、お話が聞けてよかったです。MITでChomskyじきじきにPh.Dを取得された話、変形生成文法を大学院でかじった私にとっては、まさにヒーローとなりました。

 柳瀬先生は英語教員ブラッシュアップ研修の初年度に講義を受けて以来のファンです。達人セミナー、H県英語部会などことあるごとにお目にかかっています。達セミではペアワークの相手もさせていただきました。先生の集中入出力訓練は5年前から授業改革の中心になっています。今回のルーマンの理論を用いて田尻先生を切る手法、いかにも柳瀬先生らしかったです。HPで原稿をゆっくり読むつもりです。

 田尻先生がものすごいのはよくわかるのですが、私はいろんな先生の話や実践がミックスして、自分なりの解釈を加えて試行錯誤している感じです。情熱という意味では、どの先生もすばらしいので、講演を聴くたびに気合が入ります。「教育は愛だ」なんて昔はこれぽっちも思いませんでしたが、今はまさに愛だと思います。

 最後に、すばらしい教師は生徒の「心に火をつける」はドアーズですよね。昨日プロコル・ハルムの「青い影」の特集を見ていて(やっと)気づきました。

 最後まで行こうかどうしようか迷ったのですが、行ってよかったです。こんなに全国から集まっていたことを知ると貴重な一日だったんだと改めて思います。帰りに見上げた空の満月が印象的でした。



*****



H県のU先生のご感想

柳瀬先生はじめ,科研シンポジウムに関わった皆々様

まず,広島という場所で,あのようにすてきなシンポジウムを開いてくださったこと本当に感謝します。ありがとうございました。

 科研シンポジウムからはや3週間が経ちました。シンポジウム当日は,とにかく「楽しかった~」。いろんな話が聞けたことはもちろんですが,あの場にいただけでパワーをもらえたように思います。それは,発表された先生方が本当に楽しそうだったことも関係があるんだろうなあと思います。めちゃくちゃ,楽しそうでした。

 その後3週間,折に触れてあのときの話,実践を思い出し,最近は自分の現場にあわせてどう参考にできるか,具体的に考えているように思います。私は日本語を教えていますが,田尻先生の実践で紹介してくださったことの根底にあるものは,言語や教科を超えていると思います。田尻先生の話を思い出すたび,「学習者」ではなく教師(自分)・学校・教える内容などに起因する様々な問題点が浮かび上がり,反省しまくっております。

 が,そこはシンポジウムを聞いた者ですから,田尻先生になろうとはしていません。どこまでいっても,要は「自分」。できない猿真似をしても仕方がない。自分なりに,今の状況や今の自分の力(ちっぽけです)で何ができるか考え,その中で最大の努力をする。それしか方法はないんだろうなと思います。(「しか」と書きましたが,それ「すら」大変なことです)誰でも初めからできる人はいないし,誰でも初めから優れた教師であったわけではない。その言葉を胸に,少しずつ前に進めたらいいなあと思います。

 語学でも,教科でも,なんでもいいから,それに触れた人が少しでも「楽しい」「幸せ」と思えるような時間を作れるといいなあと思いました。田尻先生の実践をみても,シンポジウムを見ても。

 またいつかどこかで,あのような楽しい時間が持てますように。来年6月の沖縄でも田尻先生のセミナーがあるとか。行きたいです。本当にありがとうございました。

2007年12月13日木曜日

ジョークと芸術:ピーター・バラカン的作法

音楽愛好家・ブロードキャスターとして私が敬愛してやまないピーター・バラカンさんが、教会で暴行を受けたというニュースは、私をひどく憤慨させたことは私の音楽ブログ「音感」に記した通りですが、 “Every cloud has a silver lining”です。少なくとも二つのことは私に喜びを与えてくれました。



一つは上のブログでも書いたバラカンさんのジョーク。私もあのような状況でこんなジョークが言えるようになりたい。

二つ目は、ドキュメンタリー映画《Peace Bed アメリカ Vs ジョン・レノン》のことを知ることができたこと。


この事件がなければ、私は多忙な毎日の中でこの映画の存在を知ることもなかったでしょう。

まあ、これも何かの縁でしょう。私は少々無理してもこの映画を見に行きます(ハイ、こうなりゃ、意地でも見に行きます)。全国各地で(広島なら例えばサロンシネマで)上映されます。皆さんも、ぜひ見に行きましょう。


反知性的な暴力には、ジョークで、芸術で対抗しましょう。

皆さん、よいクリスマスを

2007年12月6日木曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想(その6)

I県O先生のご感想

柳瀬陽介様

先日田尻先生のシンポジウムにI県から参加させていただいたOと申します。とても濃密で、濃い時間をすごさせていただき、ありがとうございまし た。

一番胸に残ったのは、田尻先生の「プロとしてのすごみ」とでも言うべ き厳しさです。

人を愛して、子どもを愛するからこそ、出会った子どもたちとの時間を 少しでも無駄にすまいというようなお気持ちが伝わって参りました。

それを自己犠牲的に破壊的に突き進めるのではなく、(本当の事は見え ないのですが)田尻先生ご自身が自然体で子どもたちに安心感を与える存在でありつづ けている、という事も、大きな魅力なのだと気づかされました。

私事ではありますが、以前企業で努めておりましたとき、体を壊す程無理をして要求に応えようとしていた際に、「君の働き方は趣味的だ。自己犠牲は言い訳だ。無理の無いように、楽しみながら、先を見て、頭を使ってこなして当たり前。大変だ、という事を見せびらかして、他人に心配させるのは、プロでは ない」と上司にきつく釘を刺された事を思い出しました。

「会社のためと思ってやっているのに」、と当時は反発しましたが、結果を出している人はみな自然体である事の不思議にも思いあたりまし た。

つねに努力は必要ですが、柳瀬先生のお言葉にあったように「自己同一 性が壊れない程度の部分変動」をしていく事で、プロとして安定したクオリティの教育を保証しうるの だと考えさせられました。

しかしこのような自己犠牲的でない、体育会系(しごき的な盲目の努 力)でない努力のあり方を、私たちはモデルとして見せてもらった事があるでしょうか。

田尻先生がおっしゃった、「大人の生き様を見せる」というお言葉は、「子どもたちが将来仕事をしていく時のモデルを見せる」という事でも あり、やはり、悲壮感を漂わせて仕事をしてはいけないのだと痛感いたしまし た。

現在非常勤講師として英語を教えておりますので、1つ1つのお話が、「自分には何ができるだろう」という問いとなって 残りました。

これから少しずつ、目の前の子どもたちを見ながら、答えを探していき たいと思います。小悟郎ではなく、子どもたちにとってのベストの自分自身の姿を目指し て(笑)


今回私は、「良い教師とはどのように生まれ得るのか」という問いも抱 いてこの会に参加しました。

私は現在、広島大学大学院の難波博孝先生の「国語科解体/再構築」という活動を手伝わせていただいています。

以前未熟ながら通訳兼アシスタントとしてカナダの小学校視察に同行し、そこで衝撃を受け、
転職し教師になりました。その後もカナダに行き、「良い教師が生まれ る教員養成」について考え、その追求はずっとつづいております。

「目の前の子どもを見て、必要な事を考え、すべき事をカリキュラム、 教科書内外から必要に応じて再構築できる」

「教科を通じて、人とつながる、人生を考える、人と生きる事を体験さ せる」

良い教師とは、どの教科であってもこのような視点と実践力をお持ちな のではと感じています。

教育改革は、上から与えられるものではなく、一人一人の教師が、子ど もたちと作り上げていくものではと、改めて考えさせられました。

教科の枠を超えて、目の前の子どもに必要な学びを充実させるにはどう したらいいのかを、
今後も考え続けていきたいと思っております。

長くなってしまいましたが、すばらしい時間を下さったみなさんに、お 礼申し上げます。
またこのような機会がありましたら、ぜひ参加させていただきたいと思 います。
ありがとうございました。

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HP 
国語科解体/再構築
http://kokugoka.com/
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田尻科研シンポに寄せられた感想(その5)

K県S先生のご感想

柳瀬先生

先日はシンポジウムお疲れ様でした。

本当にシンポジウムに参加してよかったです。
このような機会を与えてくれた多くの関係者の方に感謝しています。また,このような試みを全国のより多くの方が知って,日本の英語教育がもっとよいものになっていくことを心から願っています。300人だけの記憶として残すのはもったいので,シンポジウムの記録をなんらかの形で残し,発信していただければ幸いです。大変だとは思いますが・・・

自分なりの感想を書いてみました。
添付ファイルにて送ります。長いので・・・。

***以下、添付ファイル***

たまたま柳瀬先生のHPで田尻科研のシンポジウムが開催されることを知った。
参加者を見ると,大津先生,柳瀬先生,田尻先生と夢のような組み合わせ。驚いた。実は,3人の先生方には,大学4年生のときに大きな影響を受けたのだ。

田尻先生の授業を知って本気で教職を目指し,大津先生の本を参考文献に小学校英語についての卒業論文を書き,卒論のコミュニケーションの定義の部分で柳瀬先生の本を参考に・・・と思ったが,コミュニケーション論だけで,別の論文が書けそうだったので,断念。すみません,柳瀬先生。そんな出会いから1年余り,3人の名前を見たときは,勝手に運命的なものを感じてしまった。

しかし場所は広島。遠い。同じ日には地元で別の勉強会も開かれる予定。行こうかどうか悩む。メールを見て,1週間,2週間・・・悩む。このチャンスを無駄にすると一生後悔してしまう気がして,参加を決意。返事が来たのはシンポジウム前日の夕方だった。間に合ってよかった。

当日,前から3番目に座った。周りは,京都,新潟,山形,鹿児島と全国から熱心な先生方が集まっていた。熊本⇒広島間で遠いなぁ・・・と思っていた自分が恥ずかしくなる。全国から先生方が集まっていると知っただけでも,いい刺激になり,参加した意義があった。

では,このシンポジウムの参加を「あぁ~,よかった。やっぱり先生方はすごかった。」という感想だけで終わらせないためにも,自分なりにシンポジウムで得たことをまとめてみたい。


大津先生・柳瀬先生・横溝先生の発表

内容に関して
どの先生方も田尻先生の表面的な凄さではなく,田尻先生の芯の部分を捉えようとさせていると感じた。さすが。大津先生は,「田尻技を表面的に真似すると失敗する,心を読み取ろう」と言われた。まさにその通りだ。学生時代にも大学の先生から,田尻先生の技を真似するのではなく,心を真似しなさいといわれたのを思い出した。やはり教師として自分の信念に基づいて,生徒と向き合い,授業をしていかなければ意味がない。自分が「どんな生徒になってほしいのか」「どんな力をつけさせたいのか」をはっきり持っていなければ,どんなすばらしい先輩教師の技を真似しても失敗する。学生の頃は,その言葉の意味を頭では理解していたつもりだが,実際教壇に立って,授業をするようになって改めて実感している。もっと田尻実践の奥に隠された心を読み取りたい!自分はまだteacher’s beliefが確立していない。

これを書いていて…以前『ゆかいな仲間たちからの贈りもの』を読んだときに,菅先生,中嶋先生,田尻先生がアプローチは違うけれど,みんな根っこは同じと書かれていたことを思い出した。


3人の先生方に共通していたこと

人を惹きつける力をもっている。明快な論理展開(わかりやすい!)と合間に入る心地の良い「笑い」。なんて話すのがうまいんだ!と思った。勉強になることが多かった。


田尻先生の授業

やっぱり田尻先生は宇宙人かもしれない。どうして体験授業があの内容だったのかと考えてみると・・・中学生向けの授業を,うまく対先生用にアレンジできると考えられたからではないか。まさに体験させて気付かされた!という感じ。教師に必要な力,教師としての心構えのようなものを,楽しく体験させながら,伝えていたように思う。

以下教師に必要な力,教師として大切なことをまとめてみる(自分が気付いたもの)

○ 知っている知識と結びつける(学びの磁界)ことが必要。
→知っていたことに戻る→仕掛けが必要⇒廊下で予習するな!
後の春原先生との対談にも関連する話が出てた。(この活動と○月の活動を入れ替えよう)
その場その場の授業ではなく,しっかりと1年間,そして3年間,あるいはその先の目標と計画を持っていなければならない。自分はそのような長いスパンで授業ができているのか?NO!

○ comfortableな環境を。生徒同士が自然に話したくなる環境。
生徒を指名するときも一工夫。これも体験させられた。しかも自然な形で。自分の身をもって体験しないと普段の生徒のプレッシャーはわからない。生徒の立場になって考えなければ。

○ 言語感覚
誰かが(菅先生?)訳読は薬毒だと言っていた。田尻先生も日本語に訳したらもったいないとおっしゃっていた。実は,自分はなぜ日本語に訳したらだめなのかはっきりわかっていなかったのではないか。今日その意味が少しわかった気がする。いままでは,日本語に訳さなければいいと思っていた。ただ日本語に訳することを避けて満足していたのかもしれない。そんな問題ではない。問題は言葉の感覚。

○ 教師の英語力。
参加者はほとんどが英語の先生(とてもきれいな発音の先生もいた)のはずなのに,うまく桃太郎の絵を英語で表現できない。田尻先生の生徒の解答をきくと,中学生の英語の方が上だなと感じた。教師がどれだけシンプルかつわかりやすい英語を使うか。その点で田尻先生の英語はシンプルでわかりやすい。実は自分も中学レベルの英語を使いこなせていないと思った。教師としてトレーニングが必要。自分もできないのに生徒に求められるはずがない。
3文字カルタ文章版でも,前半で生徒がguessできるようにヒントを出してやることが教師の力だとおっしゃっていた。簡単なようだが,やってみるとなかなか難しかった。田尻先生の例を聞いて,驚いた。When you are walking in a forest, you have to be careful not to walk on …は挑戦したくなるような説明だった。
教師に必要な英語力と海外でばりばりに活躍するのに必要な英語力は違うのかもしれない。

○ 深い知識。
本当は自分が生徒に「おーっ」「そうだったのかー」という声を上げさせる存在でなければならないのに,田尻先生に「おーっ」と言わせられてたのでは,同じ教師として恥ずかしい。まだまだ勉強不足。「あぁ、あれね!」と思えるくらいまでもっていかなきゃ。授業の技術は追いつかなくても,知識は勉強すれば増える。

○ テンポ
授業のテンポが抜群。時間が経つのを忘れてしまう。ときどき入る心地よい笑いが,メリハリを与えていた。

○ レディネス
生徒が学びたい!と思ったときに,すっとわかりやすい説明で頭に入れてやる。
思わず知りたいと思ってしまう環境をつくられていた。これは学びの磁界,レディネスとも繋がるかもしれない。
自分でもそれを感じたことがある。一方的に教えるより,生徒からの質問があったときに教えた方が生徒の集中力,くいつきがいい。

○ 脱線を意図的に。
自分で脱線ネタをいくつかスットックしておいて,「ここだ!」と思ったときに話しているとおっしゃっていた。
自分の脱線はどうだろう?本物の脱線だ。話しているうちに本筋から離れていくこともしばしば。以前,上手く脱線が+αの知識に繋がったときは生徒も楽しそうだったのを思い出した。

○なにより先生が楽しそう。
生徒を楽しくするためにはまず自分から!

自分の未熟さを実感させられた一日だった。自分が教壇に立つのに耐えうる人物なのかわからなくなるときがある。しかし,少しずつ,日々の授業で自分を高めて生徒と共に成長していきたいと強く思った。

最後に・・・
このような機会を与えてくれた多くの関係者の方に感謝しています。会場の設営から,参加者へのメール大変な苦労があったと思います。本当にありがとうございました。

2007年12月4日火曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想(その4)

H県のIさんのご感想

11月24日の科研シンポジウム、参加できて本当によかったです。
登壇の先生方、運営ボランティアの学生の皆様、ありがとうございました。

私の専門は日本語教育なのですが、以前に、横溝先生からのお誘いで田尻先生のご講演を拝聴したことがあったので、田尻先生の魅力はもちろんですが、私にとって、今回は、田尻先生と4人の登壇の先生方との化学反応がみどころでした。

その化学反応は、私の(勝手な)予想をはるかに超える、とんでもないものでした。

田尻先生の授業の裏・奥にある「おもい」が、登壇の先生がバトンタッチをするたび、さまざまに形を変えてオーディエンスの前に現れ、私たち自身の授業はどうなのか、と、自身を振り返るための揺さぶりとなって津波のように押し寄せてきた様子は、今も鮮明に思い出されます。

また、春原憲一郎先生との対談は、教師哲学を見つめ直す素晴らしいチャンスになりました。
学習者が「世界」に羽ばたくための羽根を創り、そして、「世界」に足をつけるための根を育てる。

言語(日本語も英語も)教育の可能性がビシビシと伝わってきて、鳥肌が立ちました。

田尻先生ご自身が大事になさっているとおっしゃっていた、「学習者の可能性を信じる」ということ。

私たちが成長し続ける教師であるためには、私たち自身も、教育を学ぶ学習者として、自分自身の可能性を信じて、成長を続けられように努力していこう!と思い、「ふぅ~」っと気合が入りました。

「素晴らしい教師は生徒の心に火をつける」

私も、火をつけられた一人です。笑

情熱は、引火していくのですね。
自分が立っている「今、ここ」から、また頑張ろうと思いました。

本当に、すごく大きなエネルギーの交換が行われたシンポジウムだったと思います。
あの場にいれたことを、本当に嬉しく思います。
本当にありがとうございました!!!

2007年12月3日月曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想(その3)

S大学のN先生のご感想

柳瀬先生、

シンポジウムお疲れさまでした。さきほど広島より東京に戻りました。田尻先生のパフォーマンスだけでなく、企画自体もすばらしく非常に有意義な時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。

○○をはじめいくつかの高校と共同研究をしていますが、現場の知見を可視化し、共有化するためのノウハウの蓄積が必要とのメッセージには非常に共感しました。言語教育文化人類学的な研究がもっと増え、田尻実践に留まらず多くのすばらしい実践が単にすばらしいだけに終わらないとよいと常に感じており、今回のシンポジウムは非常に啓発的でした。

田尻実践における教師論としてのコミュニケーションの特異性とルーマン的解釈は謎解きを見ているようでとても爽快でした。創造的刺激を与え、常に学習者自らの気づきを起こさせることを志向するだけに留まらない、具体的な仕掛け作りのうまさはまさに内省的アプローチによって常に洗練し続けられてきたのだということが実感できました。

私が関わっているCAN-DO研究も作った結果だけに意味があるのではなく、作る過程で教師が自分の内的シラバスを外に出し、スキル観を見直し、毎回の自己の授業に内省的に取り組めるようになることが重要だと考えています。そしてそれにより授業の縦糸と横糸がつながっていくことでしょうか。

田尻実践のすごさはずば抜けたコミュニケーション感覚や共感力の高さにプラスして、クラスのmixed abilityをうまく利用して、他者に教えることによる関係性欲求の充足を実現しているところにもあるように感じています。

私自身が動機づけ研究でずっとテーマとして興味を持っているのが、自律性を支える関係性であり、この科研で何かそこに光が当たる結果が得られたようでしたら、ぜひいつかの機会にお伺いできるとよいなと思っています。

あともう一つ関心があるのは、田尻実践における言語発達観であり、対談で紹介されたエピソードにあったような数ヶ月先を見通して、その時のまさに目の前の
生徒に合わせて活動を自在に組み替えることを可能とする透徹した視点です。ドリルを捨てることによって創造的な授業を作り上げているのではなく、スキル的
積み重ねを1年の最初の段階から行っており、それを可能とする言語観の一部なりともが、この科研を通して解明されるとよいなと思っています。

田尻先生の『お助けブック』も内容的に付加えられたものが、別の形で出されると聞きましたが、以前に生徒の作品を見せていただいたときに、文と文とのつなぎのうまさに驚嘆した覚えがあります。まさにこれこそが文科のめざす「ことばの力」であり、こういった言語に対する高い感受性をどのように生徒に育ませているのかの一端なりがわかるとよいなと思っています。

個人的には最近論理的思考力とともに物語る力に興味を持っており、このあたりは先生がコミュニケーション力の柱として考えられているmindreading abilityと関連してくるのかなと漠然と考えているところです。

ついついシンポジウムに刺激を受けて長文を書き散らしてしまい、失礼をいたしました。これも先生に宛てたメールを介した自己との対話ですね。

何らかの形で今回の科研の成果が出版され、目を通させていただく機会があることを楽しみにしています。

感謝と御礼まで。

2007年11月30日金曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想(その2)

N県F先生のご感想

 シンポジウムお疲れさまでした。そして、心温まる素敵な時間、本当にありがとうございました。

  N県のFと申します。当日は、勤務先のN県から、実家のあるY県に戻り、参加させていただきました。日本語教育に携わるようになってからまだ3ヶ月ですが、あぁ、教育の現場にいることができて本当に良かった!と思わせていただいたシンポジウムでした。私のような、新米教師がもののみごとにはまっていたネガティブスパイラルから、一気に引き上げていただいた気分です。教科書や、進度にとらわれるのではなく、きちんと自分の前にいてくれる学生を見るという、当たり前のようで、忘れかけていたことに気づかせていただきました。

 今後の教師生活がますます楽しくなりそうです。3年半のブランクを経て復帰できた日本語教育の現場で、切磋琢磨しながら、学生と共に進んでいける自分でありたいと思います。

 先生方の今後ますますのご活躍を心からお祈りしております。日本全国に活力を与えてくれる今回のようなシンポジウム、どんどん開催してください。よろしくお願いいたします!!!




H県K先生のご感想

田尻科研シンポジウム関係者の皆様


 H県のKと申します。
 11月24日(土)の「田尻科研シンポジウム」では大変お世話になりました。メールでの申し込みから、当日までの温かいアドバイス、そして、当日の会場での動き、お茶等の準備、ありがとうございました。参加者には見えにくい部分ですが、大変だったここと思います。おかげさまで全国からの参加者が充実した思いで帰ることができました。

 簡単ではありますが、私なりに講座をまとめてみました。
 以下、様子をシンプルでありましが、ご報告いたします。


【大津由紀雄先生】
 「田尻実践における文法の扱い方を斬る!」

(1) 講座開始時菅先生の写真登場。「うるさいですから落としましょう」(笑いでつかむ)
(2) 文は、本来3次元構造。これを1次元構造(語順)として提示している。
(3) 田尻実践は、誰にでもできるものではない。表面的な模倣ではなく、次のことを磨きましょう。
 ◆言語感覚 ◆分析力 ◆創造力/想像力 
 ◆好奇心とサービス精神(つまり、「子どもの心」)
(4) 母語の仕組みと働きに関する知識を豊富に持とう。(日本語との対比)




【柳瀬陽介先生】
 「何がよい英語教師をつくるのか」

(5) 学ぼうと思ったとき、自分に関係するものしか取り込めない。(予備知識の必要)
(6) 田尻先生は、多彩な声:方言、直接話法、シームレスな日英、ジェスチャー
(7) 田尻先生の反応:正誤だけでなく、ようやった、どうした?わかる、オモロイ。
(8) 田尻先生の英語力アップは、シャドウイングと英作文の添削による。
(9) 自分を崩壊させず、コミュニケーションを継続させ、自己改革をしよう。



【横溝紳一郎先生】
 「田尻実践に出会ってしまった私たちはどうすればいいの?」「ライフヒストリー」 

(10) 田尻先生が育てたい生徒
  ◆自分の言動に責任を持つ 
  ◆地域や社会に建設的な働きかけができる 
  ◆心が豊か)
   →そのために、「コミュニケーション能力」と「社会性」を身に付けさせるのが、教育。
(11) 田尻先生の生後から、現在までを写真や動画で紹介。80時間もかけて作成された。



【田尻悟郎先生】
 「田尻の授業をちょっと体験してみます?」

(12) 楽しめば勉強が勉強でなくなる。学問を楽しむことをおそれてはいけない。
(13) 教師を育てることでより多くの生徒を救いたいという思い。
(14) 今まで知っていたことに戻ることが大切。「今まで知っていたけど、あぁ、そういうことなんだ」と思うと楽しい。講座開始時も、文法に関する「へぇ~」で聴衆を引き付けた。(volley:バレーとボレー、hook:フックとホック、ヘボンとHepburn等)
(15) できそうでできないが、もうちょっとがんばればできそうだというものに燃える。
(16) ちょっとした脱線・小ネタでおもしろいと思わせる。10~15分に1回入れていた。
(17) プレッシャーを下げる配慮。「言いたい人・言える人は言って。そうじゃない人はマイクを渡して」「はい、ドラえもん。(耳横に指先を置き、選択肢の番号を示す)
(17) 授業は生徒主体。生徒の気持ちに合わせて内容も変える。(数ヶ月先の授業とも)
(18) 困らない人生などない。できないことだらけ。だから一つずつできるようになることを楽しもう。笑えるっていい。気にしないことも大切。
(19) 今日の学びをリストだけで終えない。原理・一般性を見つければ広がる(大津由紀雄先生)
(20) 「教育ってこんなに可能性があるんだ」(春原憲一郎先生)


 以上、内容全般でなく、特に印象に残った内容、言葉、プレゼン方法を報告しました。おそらく先生方が言われた事と正確ではないことがあるかもしれません。自分の頭の中で整理できたことをお伝えしました。しかし、本当に、ワクワクしながら目からウロコの講座でした。ありがとうございました。

2007年11月29日木曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想

田尻科研シンポに寄せられた感想のうち、ご本人から掲載許可をいただいたものをここに匿名化して掲載させていただきます。

学んだことを自分で言葉にしてみることは、他人のためだけでなく、何より自分のためになるかとも思います。もしよろしかったら田尻科研のコメントを

tajiri071124@hotmail.co.jp

までお寄せいただけたら幸いです。

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N県K先生のご感想

 田尻先生、N県のKです。本日のシンポジウムでの講演ありがとうございました。初めて先生の講演を聞かせていただきましたが、感動や興奮するというより、癒やされた気分になりました。本当に生徒と向き合うということがどんなことなのかが垣間見られた気がしました。 理屈や理論抜きの真っ向から勝負する先生の姿に私の求めていた英語教育と出会えた気がします。 私も今回のシンポジウムで学んだことを少しずつでも授業で実践していけるよう頑張りたいと思います。ありがとうございました。
付け加えですが、わくわく授業の校外学習のポエム作りは音楽も合わせ涙が出そうなくらい感動しました。ありがとうございました。



M県Eさんのご感想

 シンポジウムでは楽しみながらも、いろいろなことを知り、考える機会になったと思います。田尻先生の授業も楽しかったですが、その前の先生方の、田尻先生に負けないそれぞれの魅力にも圧倒されました。本当に楽しくて、あっという間の4時間半でした。 
 私は日本語教育を学んでいますが、田尻先生の授業は英語なので、かえって余計なことを考えず、授業自体を楽しめたし、英語の知識や教え方といったことより、話し方やフィードバック、指示の仕方、先生の人間性に集中することができたので、よかったと思います。
 その時に学ぶだけではなく、その後に自分で考えることが多い授業というのは、なかなか出会えるものではなく、貴重な体験となりました。
 終わった後、その内容について自分がどう感じたか、何を学んだかを話したくなるシンポジウムでした。学習者がどう学ぶかを考えているからこそ、こんなことができるんでしょうね。自分もいつかはそんな授業ができるようになりたいと思います。
 日本語学校で働いていた時も、今も、自分の周りにいる人たち以外の日本語教育に携わっている人たちに会う機会が少なかったので、とても刺激になりました。有名な先生方ともお会いすることができて、本当に緊張しましたが、魅力的な方ばかりで、お話しできてよかったです。
とても有意義な1日になりました。広島に来てよかったです。ありがとうございました。


F県H先生のご感想

 科研シンポジウム メールご担当梅宮様、柳瀬先生、スタッフの皆様、昨日は本当にありがとうございました。田尻先生の授業を様々な角度から取り上げ、その名人芸を分析した、本当にためになるセミナーでした。
 どうしても、大学入試を言い訳に、文章解読と語彙の強制暗記、情報収集のみに重点を置いたリスニング指導を細々とくり返している自分の授業をふり返り、明日からできるものは何だろうと、考えさせられました。
 田尻先生の授業への工夫と情熱。あちこちにちりばめられた「しかけ」、と計画された脱線。様々な声色、イントネーション、身振り、表情。でも、なにより「生徒の成長への真摯な思い」がびんびん伝わってきて、まず、この原点から、真似しようと思いました。
 前から5列目で、田尻先生を拝見し、生の声を聴き、本当に得難い経験をさせていただきました。 柳瀬先生の言葉通り、この素晴らしい「環境」から、自己崩壊しない程度に少しづつ、統合することから始めようと決心した次第です。 スタッフの皆さん、昨日は早くからありがとうございました。帰りのバスの時刻から、JRの時刻、順路まで至れり尽くせりの準備に、頭が下がる思いでした。 取り急ぎ、お礼まで 



追記
こちらにも感想がありましたので、勝手ながらリンクをはらせていただきました。ありがとうございます。

2007年11月26日月曜日

田尻大悟郎と田尻小悟郎

「田尻科研」シンポが終わって16時間寝たら少しは元気が回復しました(笑)。実はシンポ前に疲労で風邪をこじらせてしまっていたのですが、シンポの興奮とその後の睡眠で少しはよくなりました。

よくあることですが、語り終えると、「そうか、このように語ればよかったのか」と自己観察というか反省して、新たに語りたくなることがあります。今回のシンポで語り終えて、新たに語りたくなったことを以下に短く書きます(田尻先生のことを呼び捨てで書く失礼はお許しください)。


田尻悟郎をつくったのは田尻悟郎である。

ゆえに、以下の話は嘘である。


***嘘の始まり、始まり~!***

田尻悟郎をつくったのは田尻大悟郎である。田尻大悟郎というのは、島根県の山奥の洞穴に住む謎の人物である。彼こそが、田尻悟郎に授業の技、およびその技の組み合わせ方のすべてを教えた。田尻悟郎はその田尻大悟郎の教えをすべて忠実に覚えたから現在のような授業の達人になった。

田尻悟郎は田尻大悟郎に教えてもらった授業の秘術( “the dark side of the class”と呼ばれる)をすべて忠実に再現できる弟子、田尻小悟郎をつくりだそうと全国を駆け回っている。田尻悟郎の秘術をすべて覚えた時、田尻悟郎はあなたに厳かに “From now on, you shall be called Tajiri Kogoro!”と告げるだろう。その時あなたは「スス」とも呼ばれる。これは出雲弁で「シス(Sith)」を意味する言葉である。

***以上で嘘は終わりで~す。パチパチ***


はい、わかりにくい上に、面白くなかったですね(泣)。スターウォーズ・エピソードIIIネタはマニアックすぎますね(涙)。


でも私が言いたいのは、「あなたは田尻小悟郎になろうとしていませんか?」ということです。

私が田尻科研シンポで言いたかったことは、「田尻悟郎をつくりあげたのは、田尻悟郎のコミュニケーションである」ということです。「田尻大悟郎ではない」ということです。また「田尻悟郎は田尻小悟郎をつくりだそうとはしていない」ということです(注)。

もう少し詳しく言います。

田尻悟郎は自分以外のもの(者・物)とのコミュニケーションを継続することによって田尻悟郎になった。田尻悟郎は時に、自分が壊れてしまう寸前まで、自らと異なるものの影響を受け、新たな要素を自分の内につくりだし、自分を再編成してきた。コミュニケーションを継続することにより自己変革を重ねてきた。このコミュニケーションの継続以上に田尻悟郎をつくりだした要因はない(と私は考える)。

現在の田尻悟郎は、昔の田尻悟郎と比べ物にならないほど新しい要素を自らのシステムの中に持ち合わせている。さらにこれらの要素は自己としてシステムの中に完全に組み込まれているので、新たな状況に応じて臨機応変に組み合わされる。ゆえに現在の田尻悟郎は、自分の授業がどのようになるかを自分でも完全には予想できない。この意味で、田尻悟郎は高度に複合的なシステムである。田尻悟郎というシステムは、新たな《環境》に対応するにつれ、どんどんと田尻悟郎を更新し、ますます複合性を高め、《環境》への対応力を増している。

これに対して「田尻大悟郎、田尻小悟郎」のたとえは、ある教師の技量がすべて情報として、他の教師に伝達・移転・移植できるといった(私に言わせれば誤った)前提に基づいたものである。しかし多くの教師は、田尻悟郎の技をそのままコピーして、自分を田尻小悟郎にしようとしている。

無論「技を盗む」という古来の知恵はある。だがそれは、他人の技を最終的には完全に「咀嚼」「消化」してしまって、「自家薬籠中のもの」、「受肉化」、つまりは「自分のもの」にすることである。表面だけの真似に終始することではない。表面的な真似では「技」はあなたの一部にはならない。

田尻実践の「技」を情報とだけして捉えて、その表面的な理解だけでその技を使っても、それは「田尻小悟郎」になろうとしているだけである。あなたという人間は、田尻悟郎という人間と異なるので、その異なり具合に応じて、「田尻小悟郎」になろうとする試みは失敗する。田尻悟郎をつくれるのは田尻悟郎だけである。あなたをつくれるのはあなただけである。

あなたという人間を優れた英語教師にするのは、英語の授業を核としたあなたの生活のすべての局面でのコミュニケーションである。そのコミュニケーションにおける自己変革があなたをあなたにする。


うーん、ごめんなさい。まだ田尻科研シンポの興奮が自分でもさめやらないのでしょう。だからこのような駄文を書かずにはいられず、また書いた後できっと後悔するのでしょう。しかし私はどうやらこのようなコミュニケーションの試みにより他人や自分自身から反応を得て、自己観察しない限り、自己改革ができないようですから、この恥ずかしい文章も公開します(自己準拠というか自己言及って癖になりそう←ルーマンの皮相な理解)。お粗末。


(注)田尻先生の東出雲中学の生徒の中で、ある課題をこなして「リーダー」に任命された生徒のうちの何人かは、自然と田尻先生の言動を模倣してしまっていたので、生徒は冗談で彼らを「小悟郎」と呼んでいました。しかしこれは微笑むべきエピソードであって、田尻先生が自分のコピー(「田尻小悟郎」)をつくりだそうということは全く意味していません。


追記:
「田尻科研シンポ」の詳しい報告がここにも掲載されていました。ありがとうございます。

追追記:
兵庫教育大学の今井さんのホームページのResearch Note (J)にも感想が掲載されています。感謝します。

2007年11月25日日曜日

田尻科研シンポ ありがとうございました。

おかげさまで昨日の「田尻科研シンポ」が成功裡に終わりました。

参加者の皆さん、お忙しい中、また遠いところからご参加いただき、ありがとうございました。300名を超す皆さんの温かい視線に登壇者も元気をもらいました。

スタッフの皆さん、およびボランティアで手伝ってくださった皆さん、丁寧な仕事をありがとうございました。いろいろ機転を効かせてくださり、感謝しています。

春原先生、田尻先生との対談という難しい課題に見事にお応えくださってありがとうございました。春原先生と田尻先生の化学反応が楽しかったです。お忙しいところを本当にありがとうございました。

また何よりも田尻先生、昨日、科研の三年間、お付き合いさせていただいての十年間、そして先生の教師生活二十数年に心から感謝します。まさに田尻先生は私たちの心に「火をつけて」います。これからの田尻先生のご健康とご多幸、そしてご研究の発展を心よりお祈りしております。


今後の参考にしたくも思いますので、もし今回のシンポに対してご感想・ご意見・ご批判などがございましたら

tajiri071124@hotmail.co.jp

にまでコメントをお寄せいただければ大変嬉しく思います(上記アドレスは本日から柳瀬が管理し、12月末まで継続し、その後廃止します)。

「田尻科研」研究チームを代表して皆様に感謝申し上げます。

                柳瀬陽介・大津由紀雄・横溝紳一郎



追伸
ある参加者の方による田尻シンポの感想がここにあります。

2007年11月23日金曜日

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み1/8

明日(2007/11/24)の「田尻科研シンポ」の柳瀬口頭発表のための参考資料です。当日、柳瀬はパワーポイントプレゼンテーションで説明するだけですので、以下の資料は、そのプレゼンテーションを補うものです。

ルーマンのシステム理論を援用しましたので、一言。ルーマンについては10年以上前に少し読んだだけですが、自らの身につくことはありませんでした。しかしその後、私は、コミュニケーションについて考え、関連性理論を通じてその考えを洗練させ、ルーマンの影響を受けているハートとネグリの<帝国>概念に親しんだりしていました。さらに田尻先生の実践をどうまとめようと悩んでいた時ふと読んだ西垣通先生の本がルーマン的考えに基づいていたので、「そうか、ルーマンの理論でまとめられるかもしれない!」と直感的に思い、ルーマンを読み始めました。

ルーマン 社会システム理論 』や『ルーマンの社会理論』はわかりやすい入門書でしたし、ルーマン自身による『システム理論入門 (ニクラス・ルーマン講義録 1)』や『ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集』や『社会の教育システム』も比較的わかりやすい本でした(もちろん「比較的」です!)。しかし何と言っても勉強になったのは『ルーマン/社会の理論の革命』の詳細な説明です。この本はあと何度か読み返して、ルーマンの全体像を私なりにもう少しきちんと理解したいです。これらの本(特に『ルーマン/社会の理論の革命』)があったからこそ、ルーマンの主著の一つである『社会システム理論(上)』、『社会システム理論(下)』を何とか読みこなすことができました。

今回の私の発表は、その『社会システム理論(上)(下)』の(浅薄な)理解に基づくものです。ですから後年ルーマンがあまり使わなくなったような用語も私の論の中では使われています。また私はこの本を日本語訳で読んだだけで、ドイツ語の原文は読んでいません(第一私のドイツ語力は、翻訳書と辞書と文法書を横にならべて、部分的に解読するのが精一杯の拙いものです)。英訳された本もまだ読んでいません。このような理由で、私は自分がルーマンを学術的レベルできちんと理解しているとは残念ながらとても主張できません。私が試みたことは、私が私なりにルーマンに創造的刺激を得た限りにおいて、ルーマンの理論(と私が信じる)枠組みを使って、英語教育について、何か新しいこと、少しだけ深いことを言おうとしたことだけです。

翻訳の話がでましたのでついでながら一つだけ書いておきますと、俗説の「英語が読めれば世界中の情報を手に入れることができる」というのは間違いであるということを今回も強く感じました。私が見た限りでは、ルーマンの受容は英語圏より日本語圏の方がはるかに進んでいるようです(同じことはハイデガーでも言えると思います)。日本のルーマン研究者も何人か「後書き」などで、若い研究者が外国語として英語しか使わない・学ばないことを憂いていましたが、私もその憂いを共有します。私のドイツ語は上述のように、はなはだ中途半端なものですが、それでも多少は学んだわけですから、少なくともドイツ語原典を読もうとすることだけはできます。でもフランス語はまったく勉強しなかったので(これは後悔しています)、フランス語で書かれた文献を日本語訳で読んで、興味をそそられても(例えばメルロ=ポンティ、レヴィナス、ラカンなど)、翻訳を通じてだけの理解ですから、自分の研究にきちんと取り込むことができません。お若い人文・社会系の研究者の卵の方々は、どうぞ英語以外の外国語もきちんと勉強された方がいいと私は思います。

閑話休題。

以下は、田尻先生の実践を、私が関連性理論とルーマンの理論を通じて、どのように読み説いたかについての草稿です。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』よろしく、桁番号システムをとって、より多い桁数の番号で、それより少ない桁数の命題をより詳しく説明しようとしていますが、それも表面だけの真似に終わっただけかもしれません。

ご興味があれば、以下、お読みください。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み2/8

2007年11月24日(土曜日)
広島大学総合科学部L102教室
科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践解明」
口頭発表「田尻実践におけるコミュニケーション」のための草稿
(これは第一次草稿であり、この稿は後日おそらく部分的に、あるいは大幅に書き換えられる予定である)

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何がよい英語教師をつくるのか
―田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み—


広島大学 柳瀬陽介
http://yanaseyosuke.blogspot.com/
http://yosukeyanase.blogspot.com/

0 この論の構成
0.1 序論
0.2 コミュニケーションとは何か
0.3 ルーマンのシステム理論(個人主義的アプローチによる)
0.4 田尻悟郎のコミュニケーション
0.5私たち英語教師は田尻悟郎とどのようにコミュニケーションを取ればよいのか
0.6 結論

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み3/8

1 序論

1.1 背景(なぜ田尻悟郎氏の実践を研究しなければならないのか)

1.1.1 田尻悟郎という英語教師の実践は、その豊かさと深さから各方面での注目を浴びた。

1.1.2 彼の実践を「天才の技」「カリスマの芸」と称して、そこで彼の実践の解明をストップさせるのはあまりにも安易である。

1.1.3英語教育研究は彼のような教師の実践を解明し、できうる限りの洞察を得る必要がある。さもなければ英語教育研究は「現場軽視の、研究者の自己満足」といった謗りを免れないだろう。

1.2「田尻科研」以前の試み

1.2.1 発表者は1990年代後半から、できうる限り田尻悟郎を観察し、その観察に促された分析をホームページ(「英語教育の哲学的探究」http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/)に掲載してきた。

1.2.2「田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察」(『中等教育における教科内容指導研究』平成16年度広島大学教育学研究科リサーチオフィス研究報告書 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#050306)にでは田尻実践が「到達目標型」「スパイラル型」「生徒実態対応型」「複数リソース型」であることを示した。

1.2.3「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 (2005), Number 30, pp.167-176 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418)は、田尻実践が、英語教育によって、教室を殺伐とした空間から公共的で各人が自らを発見する空間に変えた様子を、ハンナ・アレント (Hannah Arendt) の哲学的枠組みを使って分析的に記述したものである。なおこの分析は、より広いオーディエンスを求めて、国際学会Asia TEFL 2006 International Conference (Seinan Gakuin University, Fukuoka, Japan) on August 19th, 2006 で口頭発表された。(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#060816

1.2.4 「ヤフケ実践と田尻実践を見て:芸術としての英語教育」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050603)は、田尻実践が、生徒を英語処理ができるメカニズム以上の、言語を豊かな意味合いで使える人間として育てているものであり、その人間的な英語教育は、アレントの言う「芸術」性を持つことによって可能になっているという解釈を示した。

1.2.5 「ヤフケ・田尻シンポジウムのまとめに代えて:「個性記述主義」あるいは"English as an alternative language"などについて」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050626)においては、思春期にある子どもたちには、事があまりにも深く今までのしがらみと絡まっているため、日本語で語ろうとすると、かえってその言葉の重みゆえに語れず、文法的に不如意で、語彙も貧困かもしれないけれど、第二言語である英語で表現した方がむしろ語れる事柄があるかもしれないという可能性を提示した。

1.3 「田尻科研」での試み

1.3.0.1 2005年度からは、通称「田尻科研」(「言語学・コミュニケーション・ライフヒストリー的観点からの中学英語教師の研究」平成17-19年度科学研究費萌芽研究 課題番号17652064)をスタートし、言語学的観点(大津由紀雄)、ライフヒストリー的観点(横溝紳一郎)と共に発表者はコミュニケーション的観点から田尻実践を観察しインタビューを重ね、田尻実践に関する思考と分析を進めた。

1.3.1 多くのインタビューから、発表者は言語を通じて技能の解明を行うインタビューについての問題点を「インタビュー研究における技能と言語の関係について」(中国地区英語教育学会紀要 2007年 Number 37, pp. 111-120 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517)にまとめた。

1.3.2 「ある中学英語教師の多声性について」(『中等教育における教科内容指導研究』平成17年度広島大学教育学研究科リサーチオオフィス研究報告書 未公表)は、田尻実践におけるコミュニケーションの豊かさを分析したものである。なおこの分析は、国際セミナー(The 1st English Education Seminar, KOBE, JAPAN, 14-17 MARCH 2007)のポスターセッションで発表された(http://yosukeyanase.blogspot.com/2007/03/multi-voices-in-tajiri-goros-classes.html)。

1.3.3 「田尻科研」を通じてコミュニケーションを考える中で、発表者は、旧来の言語コミュニケーション力論(『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』溪水社 平成17年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)による出版)の限界に気づくようになり、言語コミュニケーション力論の新たな枠組みを、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」 (2007年10月28日日本言語テスト学会 口頭発表 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html)で示した。

1.3.4 しかし田尻実践が示すコミュニケーションの豊かさと深さは、「三次元的理解」も含めた従来の個人を対象とした論考ではとらえきれないことを発表者は直感していた。

1.3.5 そんな中、発表者は、10年以上前に興味を持ちながらも、研究にまでは結実しなかったルーマンの理論に偶然に再会し、読みすすめたところ、これがコミュニケーション理論として優れているだけでなく、「何がよい英語教師をつくるのか」という大きな問題の解明にも優れた理論的解明をすることを確信した。まだまだ発表者のルーマン理解には地道な読解が必要であるが、シンポジウムのこの機会を利用し、現時点での発表者の考察を公開し、批判を仰ぐこととする。

1.4 目的

1.4.1 この小論の目的は「何がよい英語教師をつくるのか」という普遍的問いについて、説得力のある普遍的・理論的解答を提示することである。

1.5 方法

1.5.1 この小論は、「何が田尻悟郎をつくったのか」についての観察を経て得た漠然とした仮説を、関連性理論 (Relevance Theory) とニクラス・ルーマン (Niklas Luhmann) のシステム理論により定式化することにより、上記の「何がよい英語教師をつくるのか」に対する答えを出すことを試みる。

1.5.1.1 つまりこの論は、個性記述的研究を経た上での、普遍理論的な仮説的解答の導出の試みである。

1.5.1.2 ルーマンの理論は、この導入が、もっとも上記の問いに的確な答えを出しうるだろうという発表者の直観に支えられている。つまりルーマンの導入は、演繹(deduction)、帰納(induction)によるものではなく、アブダクション(abduction)によるものである。この直観的アブダクションは、発表者のこれまでのデイヴィドソン(Donald Davidson)哲学および関連性理論によるコミュニケーション理解に基づいたものである。(デイヴィドソンに基づいた論考としては「コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学」日本教科教育学会誌 2002年 第25巻 第2号 pp.1-10  http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/DComComp.html)、「デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第47巻第一部pp.55-60. http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/GlobalError.html)を参照されたい。

1.6 仮説

1.6.1 第一次仮説提示:よい英語教師をつくるのは「コミュニケーション」である。

1.6.1.1 だがこの「コミュニケーション」は後述するような通俗的なコミュニケーション観(コードモデル (Code Model) ・「移転」 (Übertragung; transmission) メタファーで理解されるコミュニケーションではない。

1.6.1.2 「コミュニケーション」はより洗練された理論によって理解されなければならない。ルーマンの理論はその最有力候補である。

1.6.2 第二次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる英語教師のコミュニケーションである」

1.6.2.1実際の「コミュニケーション」は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などに下位区分される。これらすべてのコミュニケーションにおいて日本語と英語は場合に応じて使い分けられる。

1.6.3 第三次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」

1.6.3.1 採択しない二つの仮説

1.6.3.1.1 「よい英語教師をつくるには、本からの理論研究の広範な学習が不可欠である」。

1.6.3.1.2 「よい英語教師をつくるには、長期間の海外留学が不可欠である」。

1.6.3.2これらの事実は田尻氏には観察されなかった。それよりも田尻実践の観察から痛感されるのは彼のコミュニケーションの豊かさと深さである。

1.6.3.3よって「理論研究の広範な学習」および「長期間の海外留学」は、よい英語教師をつくるための、厳密な意味での必要条件とは言えない。

1.6.3.4 だが、このことは理論研究および海外留学の重要性を否定するものでは決してない。実際田尻氏も理論研究および海外体験の重要性を主張している。

1.6.3.5 したがって、本論考での主張は、英語教師の毎日のコミュニケーションは、おそらく理論研究や海外留学以上に重要であること、少なくとも毎日のコミュニケーションが豊かで深くあれば、広範囲な理論研究や長期の海外留学がなくともよい英語教師が誕生することは可能である、ということである。

1.6.4 第四次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」

1.6.5 最終仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである。よい英語教師は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などでつくられる」

1.6.6以上の仮説の妥当性を示すべく、以下の論考では「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」を明らかにする

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み4/8

2 コミュニケーションとは何か

2.1 これまでのコミュニケーション観は特定のメタファーで捉えられている。

2.1.1 「コミュニケーション」とは、通俗的には「コードモデル」 (Code Model) によって、情報が「移転」 (Übertragung; transmission) するというメタファーでとらえられている。それゆえ「コミュニケーション」はしばしば「情報伝達」と言い換えられる。

2.1.1.1 移転メタファーの同類に導管メタファー (conduit metaphor) がある。

2.2これまでのコミュニケーション観は、シャノンとウィーバーによる情報理論に基づいている。

2.2.1 シャノンとウィーバーはAからBに情報を正確に効率よく伝達(あるいは移転)することについて考察した。伝達には、情報の符号化(encoding)と復号化(decoding)が用いられる。この符号の伝達においてノイズがひどく、正確な伝達が行われないならば、伝達の誤りが訂正される。情報の符号化・復号化・誤り訂正が正確に効率よくなされれば、情報伝達は成功する。この考え方は情報技術を急速に発展させた。

2.3 しかし多くの人は、この情報理論を人間のコミュニケーションにも転用し、この情報理論を人間のコミュニケーション理論として考えた。

2.3.1 このコードモデル的コミュニケーション観によるならば、人間のコミュニケーションは以下のように説明される。Aという人間がXという思考内容を持ち、それをYという符号に符号化する。Bという人間はそのYという符号を正確に授受し(あるいはノイズによって乱された符号を訂正してYを復元的に授受し)、そのYから元々はAの思考内容であったXを復号化し、Bの頭の中にXという思考内容を移転することに成功する。つまりAからBへのXの移転がコミュニケーションの成功である。

2.4 だが関連性理論 (Relevance Theory) は、このコードモデル的コミュニケーション観が、人間のコミュニケーションを説明するには不十分であることを明らかにした。

2.4.1 人間は思考内容のすべてをある符号に符号化しつくせることはない。符号化は莫大な前提(presupposition)に基づいて初めて可能である。莫大な前提をすべて符号化することは、人間の情報処理能力を超える。

2.4.2 したがって人間は通常、ある符号化により、その符号の「明意」 (explicature) (あるいは「文字通りの意味」 (literal meaning) )と、その文字通りの意味に基づいて、相手が推論すると思われる「暗意」 (implicature) (あるいは「話者の意味」 (speaker meaning) )を、相手が理解することを期待して、自分なりの符号化を行うだけである。

2.4.3 逆に、人間は、相手の思考内容のすべてをある符号から完全に復号化することはできない。人間ができることは、相手が発した符号の明意を把握(comprehend)し、相手が、自分が推論することを期待していると思われる暗意を自分なりに解釈(interpret)して相手の符号化を理解(understand)するだけである。相手の思考内容のすべてを自分に移転させることは人間にはできない。

2.4.4 語用論の議論では暗意は、比較的同定が容易なものとして扱われることが多い(例えば “It’s cold here.”の暗意として)。しかし実際のコミュニケーションではそのように明らかな「強い暗意」はむしろ例外的であり、たいていの暗意は「弱い」ものである(例えばピクニックでの “Look at the blue sky”の暗意を正確に同定あるいは枚挙することはほぼ不可能である)。

2.4.5 暗意に明確な境界線が引けないとするなら、伝達される「情報」には明確な境界線を持たないことになる。このようにあやふやで曖昧なものを「伝達」あるいは「移転」すると考えるメタファーはそもそも適切ではないと考えられる。

2.4.5.1 また改めて考えて直してみるならば「明意」(「文字通りの意味」)の概念もそれほど明瞭なものでない。少なくとも発表者はこの概念を、トートロジーを用いずに説明することはできない。

2.5 したがって人間のコミュニケーションは、単なる情報伝達ではない。

2.6 人間ができることは、ある発話によって、相手の思考をある一定の方向に変えようと期待できるだけである(そしてその期待はしばしば裏切られる)。

2.7 人間のコミュニケーションを、コードモデル的にとらえることは、人間のコミュニケーションを誤解することにつながる。

2.8コミュニケーションのコードモデル的誤解に基づく行動は、「私は相手に自分の思いのすべてを伝えられるはずだ」という誤った期待を生み出す。

2.8.1 したがって、教師は学習者に、自分が伝達したいと願う教授内容をすべて伝達できることを期待する。また学習者が、教師が伝達したいと願っている教授内容をすべて自分のものにすることを期待する。

2.8.2また、教師は学習者に、自分が伝達したいと願う学習への意欲をすべて伝達できることを期待する。また、学習者が、教師が伝達したいと願っている学習への意欲をすべて自分のものにすることを期待する。

2.8.3これらの期待はたいていの場合裏切られる。裏切られたという感情はしばしば、自分あるいは相手、またはその両方が罰せられるべきだという考えにいたる。

2.9 人間は、他人の頭の中へ直接介入したり、他人の頭の中を直接操作したりすることはできない。コード的コミュニケーション観は、あたかも人間が、他人の頭の中に直接、情報を移植したり、他人の頭の中の思考内容や意欲などを操作したりできるかのような誤った期待をもたせる。

2.10 私たちは人間のコミュニケーションにおいては、コード的コミュニケーション観から決別しなければならない。

2.11 「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」ということが新たなコミュニケーション理論の前提とならなければならない。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み5/8

3 ルーマンのシステム理論(個人主義的アプローチによる理解)

3.0.1 ルーマンは「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」という前提をもつシステム理論を発展させた。以下、彼のシステム理論に基づく彼のコミュニケーションについての考えを簡単に述べる。ルーマン独自の用語には《 》をつけて表記する。

3.0.1.1ただしここでのルーマン解釈は、発表者が『社会システム理論』の翻訳を理解できた限りにおいてのものである。1984年の『社会システム理論』はルーマンの主著であるが、彼の理論はその後も発展しており、この発表ではその発展を捉えていない。したがって後年のルーマンが頻繁に使用しなくなった用語もこの論には含まれている。『社会システム理論』においても、発表者は解釈に彼なりの全力を尽くしたが、この解釈の正統性を確証するまでの研究は残念ながらできていない。ここでのルーマン解釈はせいぜい初歩的なものにすぎない。

3.0.1.2さらにここの解釈は、コミュニケーションをもっぱら個人の意識の観点からとらえている。これはコミュニケーションを《社会システム》としてとらえるルーマンの理論構成からすれば、全く裏側のアプローチである。だが発表者は、個人心理学に基づく言語学および応用言語学を基本的な考え方とする英語教育関係者には、この裏側からのアプローチの方が理解容易だと考え、《社会システム》からのコミュニケーションの論考は、今回は断念する。

3.1 私という意識は、一つの《心理システム》 (psychic system) である。

3.1.1 《心理システム》は「オートポイエーシスシステム」 (autopoiesis system) である。

3.1.1.1 「オートポイエーシスシステム」とは、「自己準拠」 (Selbstreferenz; self-reference) および「自己組織性」 (Selbstorganisation; self-organization) に基づくシステムである。

3.1.2 私の意識という《心理システム》は、オートポイエーシスシステムとして、自ら(=私の意識)に依拠し、自らを要素として、自己構成を自ら継続的に再生産している。つまり、私の意識は、今までの私の意識と接続している限りにおいてしか新たにならない。この意味で、私の意識という《心理システム》は自己再生産の継続という作動において《閉鎖的》である。

3.1.2.1 しかし、《心理システム》が作動的に《閉鎖的》であるということは、《心理システム》が、それ以外のものとまったく無関係に単独で存在することは意味しない。

3.1.2.2 私の意識という《心理システム》にとって、それ以外のものすべては《環境》 (Umwelt; environment) と呼ばれる。他人の意識というもう一つの《心理システム》も、私の意識という《心理システム》にとっては《環境》にすぎない。しかし《環境》は、《心理システム》に外からの影響を与えうる。

3.1.2.3ある《心理システム》と他の《心理システム》とが互いに他方の《環境》となっている場合に、ある《心理システム》が、他方の《心理システム》が新たに編成(自己準拠的に自己組織化)されるために、その《心理システム》の複合性 (Komplexität; complexity) を、《環境》の側から提供する場合、それは《浸透》 (Penetration; penetration) と呼ばれる。《浸透》において、ある《心理システム》は、それ自身以外の《環境》と《結合》(Bindung; binding)する。

3.1.2.3.1 この本来は互いに《環境》であるはずの二つの《心理システム》が、他方の複合性を契機に、それぞれに自己準拠的に自己組織化することを、本論ではコミュニケーションと定義する。誤解を怖れず単純に言いなおすなら、コミュニケーションとは、発話を外的な契機として、お互いがそれぞれに変容することである。聴者が、話者の発話によって、聴者なりに変容することはもとより、話者も、自分が発した発話を観察することにより、話者自身も変容を示す。

3.1.2.3.2 聴者という《心理システム》は、発話という自分以外の《環境》と、聴者なりに《結合》し、その《結合》により聴者という《心理システム》は自己を再生産する。だが、その際に話者という《心理システム》が発話による《結合》を通じて、全面的に聴者という《心理システム》に入り込んだわけではない。聴者という《心理システム》にとって、話者という《心理システム》は《環境》の一部であり、自己以外のものである。《心理システム》は《環境》の一部を、あくまでも外的な契機として影響を受けるだけであって、自らが自らなりに変化するだけである。

3.1.3 この《環境》との《結合》において、《心理システム》は、オートポイエーシスシステムとして作動的に《閉鎖的》であると同時に、《環境に対する開放性》を持っているといえる。

3.1.3.1 オートポイエーシスシステムの自己準拠とは、いかなる場合にでも自己を拠り所とするように指示すると同時に、自己以外のものを参照するように指示する自己準拠である。オートポイエーシスシステムは、自己の参照と自己以外の参照の差異を用いてシステムの自己再生産を可能にしている。

3.1.3.2 しかしこの《環境に対する開放性》は、《心理システム》が自らに、自らの要素として接続可能であると選択したものに限られている。《心理システム》が《環境》に対して自らを開くとき、《心理システム》は自己を観察し、新たな自己の要素を選定しそれを今までの自己要素と連動させ組織化する。《心理システム》の自己準拠は、この意味で自己観察であり、自己観察に基づく自己組織化である。

3.2《心理システム》は《環境》に対して無限に開放されているわけではない。もしそのように無限に開放されたら、《心理システム》に莫大な複合性が生じ、その《心理システム》は自己準拠も自己組織化もできず、崩壊してしまうであろう。

3.2.1 こうなると「学習」とは、《環境》からの情報が、ある《心理システム》において部分的な構造変動を促し、しかもその《心理システム》の自己同一化が壊されないことを言う。逆に言うなら、自らの自己同一化を破壊してしまうような学習を《心理システム》は通常はしない。

3.2.1.1 意識のオートポイエーシスが破壊されそうな時、《心理システム》はしばしば身体において強烈な感情を経験する。この点で感情は、《心理システム》の免疫システムになぞらえることができる。感情は、《心理システム》が《環境》との多大な《結合》によって崩壊の危機にあることを知らせる警告サインである。この意味で、感情は《心理システム》の自己同一性に関する自己解釈であると言える。

3.2.2 学習は《心理システム》というオートポイエーシスシステムの内での出来事である以上、オートポイエーシスシステムの中には、その学習を可能にするような何らかの知識が前提的に存在しておかなければならない。

3.2.2.1 言語は《心理システム》と《環境》の《結合》において決定的に重要な役割を果たす。学習の前提となる知識においても言語は重要な役割を果たす。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み6/8

4 田尻悟郎のコミュニケーション

4.1 田尻はコミュニケーションにおいて、自分の知識や心情を伝達しようとする以上に、相手に創造的刺激を与える (inspire) ことを試みている。田尻はコードモデル的コミュニケーション観ではなく、「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」という前提をもつコミュニケーション観を持っているように思える。

4.1.1 田尻は教室を、一人の教師から一塊の生徒全員への知識伝達の場としてはとらえない。彼はそのような教育観が有効でないことを経験とその経験からの反省によって学んだ。

4.1.2 田尻は教室を、一人一人の生徒が、それぞれに自分なりの刺激を受け、自分なりに変わり、その新たな自分を表現し、一人一人の生徒がお互いに相互作用を起こす場として考えている。田尻の教室において生徒は自律し、新たな自分と他人を見出す。

4.1.2.1田尻は教室で、教え込むのではなく、気づかせることを目指す。

4.1.2.1.1 田尻の生徒は、しばしば自ら気づき、「あっ、そうか!」と叫び、「わかった、わかった、もう先生説明するな!」と教師の介入を拒む。このような生徒の行動を田尻は授業の成功を測る指標の一つとしている。

4.1.2.2 田尻は、テストや自学ノート、放課後自主勉強会といった形で個人指導を徹底していた。

4.1.2.2.1 大学の授業でも田尻はできるだけ個人指導を導入しようとしている。

4.1.2.3 田尻はクラスの初期では、ファーストラーナーの指導を優先し、彼/彼女らがある課題ができるようになったら彼/彼女らを「リーダー」として任命し(生徒はそれを「子田尻」と呼んだ)、彼/彼女らに、彼/彼女らに続く生徒を指導させ、田尻はスローラーナーの指導に取り組んだ。

4.1.2.4 田尻は自分だけが知識の供給源となることを拒み、英語教室の壁面一杯に文型表やフォニックス一覧を貼ったり、「お助けブック」を刊行したりして、生徒に常に複数のレファレンスを持たせ、生徒が様々な形で気づくことを支援した。

4.1.3 この田尻の個人に創造的刺激を与えるスタイルは、クラスに一斉に「教え込もう」とするコードモデル的コミュニケーション観での授業スタイル(知識伝達型)と好対照である。

4.1.3.1 教師が、生徒の頭の中に直接知識や意欲を移転させようとする授業スタイルは、せいぜいうまくいったとして、教師の知識が生徒にそのまま複製されるだけである。だがそれは複製である限り、劣化したものである。また、複製もそのまま複製されただけなら、生徒の中に取り込まれず、「丸暗記」されたものとして、やがて消えてゆく。現実的には情報伝達型の授業は、教師、生徒の多くが共に自己嫌悪と相互嫌悪を持つこと、あるいは共に怠惰な諦念を持つことに終わりかねない。

4.2 田尻は自分にとっての《環境》である生徒との接点を持つために、内容と方法において多彩なコミュニケーションを生徒に対して試みる。彼は「正解と不正解の区別」という狭義の教師のコミュニケーションスタイルをはるかに超え、多彩な発話の使い分けによって、互いに《環境》であるお互いの接点を増やし、コミュニケーションを絶えず継続しようとしている。

4.2.1 コミュニケーションの継続こそが、教師ができる限界であり、最良のことである。教師は生徒の頭の中に直接介入操作して知識や意欲を移植することはできない。教師ができる最善は、生徒が教師の外からの働きかけを通じて内から変わることを促進することである。

4.2.1.1 田尻のスタイルは、生徒指導と英語指導を融合させたものとも解釈できる。

4.2.1.1.1田尻は、「自転車の鍵をなくした生徒への対応一つで、それからの授業が変わる」とも、「授業で人間関係ができた子には生徒指導もしやすい」とも述べる。

4.2.1.1.2田尻は、しばしば英語指導の際に「社会ではそういうのは通用しない」というスタイルの説得をする。田尻は、彼が、生徒が社会に出た時のことを見通して指導していることを生徒に伝える。

4.2.2 発表者が、中学一年生対象の田尻の三つのクラスを連続して観察した時に、授業内容とフォーマットはほとんど同じであるにもかかわらず、田尻のクラスはそれぞれの個性を持ち、見ていて飽きるということが一切なかった。これは田尻が自分のスタイルをただただ押し付けるのではなく、それぞれのクラスという田尻の《環境》にうまく接点を見つけて、田尻の授業を田尻の方針に基づきながらも細部を即興でつくりあげていったからであろう。

4.2.2.1 田尻のクラスは「田尻流」ではあるが、この「田尻流」は、田尻が、田尻の予想を超える生徒の反応にぶつかりながらも田尻らしさを失わずに対応し続けていることにより生じている。「田尻流」は田尻によるものであるが、田尻だけによってできたものではない。

4.2.3田尻は授業で様々な声を使い分ける(授業での多声性)

4.2.3.1 田尻の授業での日本語は多彩である。

4.2.3.1.1田尻の授業での日本語は、大きく分けるなら、教育内容に言及する時は明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者との相互関係を活性化させる時には親和性に富む関西弁を使い、学習者との心理的な距離を縮めようとする時には親密性に富む出雲弁を使うという使い分けがなされている(これは田尻が島根県の公立中学校に勤務していた時の話である)。

4.2.3.1.2 田尻の授業での日本語は地域方言の使い分けがあるだけでなく、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいても多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.2田尻の授業での英語は、非常に正確かつ流暢であるだけでなく(発表者は、中学生でもわかるレベルの英語でこれだけ深く適確な英語表現ができる日本人を他には知らない)、日本語使用と同様に、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいて多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.3田尻の授業での英語から日本語へ、日本語から英語への変化はスムーズで、一瞬どちらの言語で田尻がしゃべっているかわからないと観察者でさえ思えるぐらいに、田尻のコミュニケーションは聞き手を引き込んでいる(田尻は「生徒は私が英語をしゃべっている時に、それが英語だと自覚していないことも多いと思います」と述懐したことがある)。

4.2.3.4田尻の身体言語も豊富である。特に生徒が失敗をした時の満面の笑み(!)、個人的にしゃべる時に決して切らないアイコンタクト(田尻は、自分はアイコンタクトが下手だからじっと見つめていると自己解説する)、言葉がなくても言いたいことがわかるのではないかといえるほどの明確で大きなジェスチャー、生徒の間違いを言語的には指摘しないまま、口の動きだけで生徒に文法などを訂正させる顔と口の動き、机間巡視のさりげない肩たたき、生徒の冗談に席から飛び上がらんばかりに笑う闊達さ、「毛づくろい」とも言えるような生徒の身体的コミュニケーションを受け入れる態度など、田尻は非言語的にも多彩な手段で生徒とコミュニケーションを取っている。

4.2.4田尻には教師の典型的な基準である「正・誤」だけでなく、「よくやった・どうしたんだ?」「理解できる・受け入れられない」「社会的に認められる・社会では通用しない」「個性的である・お前らしくない」「笑える・面白くない」などの多様な基準を持ち、それらの基準を使い分けることによって、できるだけ生徒に肯定的な反応を返して、コミュニケーションを切断しないようにしている。

4.2.4.1職員室での同僚とのコミュニケーション、特に生徒を話題にしたコミュニケーションを田尻は積極的に促進し、教員間・生徒間にできるだけ多くの接点をつくろうとしている。

4.2.4.1.1田尻の同僚である若い女性教師は、田尻が職員室では出雲弁で自分の失敗談や家族の話をよくするので、職員室の雰囲気が和むとも証言した。

4.2.5この田尻の多彩なコミュニケーションスタイルは、いわゆる「教師」としてのステレオタイプ的な役割期待を教師自身と生徒そして同僚に対して堅持し、その役割期待から外れる発言や行動は一切しようとしない教師のスタイルと好対照である。そのような教師は、教師の役割期待を共有する「よい生徒」とは、正解・不正解の区別という限られた情報伝達は行いうるが、そのような役割期待を持たない生徒とは、お互いに理解不可能な《環境》として、教室という空間に物理的には共存するが、コミュニケーションという関係は結び得ない。同僚とも、職務遂行上最低限の情報交換をするだけであり、いわゆる「同僚性」を育てることはしない。

4.3 田尻はコミュニケーションの結果から自己観察し、自己省察し、新たな要素を自己に取り込む自己組織化・自己再生産を継続して行っている。そのプロセスが長期にわたるときには田尻はまさによく「考える」教師だと言える。

4.3.1田尻の「自分は何も考えず直感的に行動しているだけです」という台詞は、謙遜あるいは自嘲の言葉であり、田尻に関する正しい記述ではない。

4.3.1.1田尻は「24時間考えていないと何も新しいアイデアは浮かばない」というエピソード(NHKテレビ『プロフェッショナル』における自動改札システム開発秘話)を好んで語る。

4.3.1.2田尻は東急ハンズなどの様々な刺激を得る場所に行くと、時間が許す限りそこに滞在し、何が英語授業に使えるだろうかと考える。彼は積極的にこれまでの自分の英語教育の発想を超えた《環境》との接点を求め、自らの英語教育の発想を更新しようとしている。

4.3.2田尻の口癖の一つは「反省、改善、進歩」である。ビジネスでは"Plan-Do-See-Action"というが、田尻の場合『愛する、行動する、見る、考える、気づく』で授業を改善している。

4.3.2.1 いずれにせよ、田尻は自らを超えた《環境》(生徒という《心理システム》は田尻にとっても《環境》である)に積極的に働きかけ(=愛する、行動する)、その働きかけの結果を観察し(=反省する、見る、考える、気づく)、自らの行動を自らを超えていた《環境》に促されながらも、自らができうる範囲で、ということは、単なる旧来の方式の繰り返しでもなく、逆に全く自分とは異質の方式の移入でもないやり方で自己を改革する(=改善、進歩)。

4.3.2.1.1 田尻はしばしば真面目な話を真剣にした後に、わざと「オチ」を入れて人を笑わせるが、これは田尻が自らのコミュニケーションを自己観察し、そのコミュニケーションとそれ以外ののギャップ(差異)を取り込み、「オチ」という形で自分のコミュニケーションを自己再生産していると解釈できる。(自己観察はユーモアに不可欠である)。

4.3.3 田尻は自身の英語力をつけたのは、毎日のシャドウイング訓練と、生徒の英作文添削であると述懐する。田尻は生徒の英作文の的確性の判断に誠実に取り組み、その度に自らの英語知識を再観察し、辞書を引きなおし、ALTに助けを求め、自らの英語知識を充実させていった。

4.3.3.1 田尻の英語知識はこのように絶え間ない自己観察・自己省察によって自己再生産され続けているものであるので、自己整合性が高く、彼の英語の説明は他に例を見ないユニークで、論理的一貫性の高いものである。

4.3.3.1.1 田尻の英語知識は、どこかの本の知識を丸暗記して田尻の頭の中に移転させたものではない。そのような移転による知識では、生徒に対しての当意即妙かつ整合的な説明は不可能である。

4.3.4 この田尻の自己観察的・自己省察的スタイルは、自己観察・自己省察を欠いた「やりっぱなし」の授業スタイルとは好対照である。教師が自己観察・自己省察を欠く時、教師は自らの檻の中に閉じ込められたまま、《環境》に適応することができない。また教師が他人からまったく新しいやり方を学んで、そのやり方を自分の授業に移植しようとしても、自己観察・自己省察を欠くなら、そのやり方は、教師自身の中に取り込まれず、ましてや生徒にも受け入れられず、授業改善にはつながらない。自己観察・自己省察を欠いたまま新しいやり方を求め続ける教師は、失敗を重ね、やがて授業改善の試みを諦める。

4.4 まとめるなら、田尻のコミュニケーションとは、創造的刺激で生徒を内から変えようとするものであり(情報伝達型ではない)、生徒と多様な接点でつながろうとし(教師という役割期待だけに拘泥しない)、コミュニケーションする自分を絶えず自己観察し、そのことによって自己変革を持続的に継続している(「言いっぱなし」ではない)。この田尻のコミュニケーションを、この論文は「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」の一例として考える。

4.4.1 田尻悟郎をつくったのは、この田尻悟郎のコミュニケーションである。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み7/8

5 私たち英語教師は田尻悟郎とどのようにコミュニケーションを取ればよいのか

5.1 田尻悟郎は、私の意識という《心理システム》にとっての《環境》である。

5.1.1しかもこの田尻という《環境》は、英語教師としての総合的力量の複合性において、英語教師としての私の自己同一性を破壊しかねない《環境》である。

5.1.1.1多くの英語教師は田尻実践を見た後、嘆息をついて「自分は駄目だ」と言ったり、感情を高ぶらせ「田尻先生は特別だから」などと田尻と自分の関係を切断しようとしたりする。これは英語教師の自己防衛反応であり、英語教師が、田尻実践という現在の自分が処理できない複合性に一気に接したために生じる、自己崩壊を防ぐための自衛手段である。

5.1.2 であるが同時に、この田尻実践という《環境》は英語教師としての私を、かつての私が予想できなかったように変容することを促す潜在的可能性をもった《環境》でもある。

5.2このような《環境》に接しながら、自己改革を遂行するにはそれなりの知恵がいる。

5.2.1通俗的に私たちは「この人から多くを学んでください」というが、田尻といった対象にこういった通俗的な助言を適用してはいけない。

5.2.2田尻に対しては「この人からは少しだけしか学ばないでください。あなたが自己を崩壊させないで、自己改革を続けることができる範囲だけを学んでください。大切なことはこのような実践とあなたとのコミュニケーションを切断しないことです」といった助言の方が有効である。

5.2.2.1発表者は約10年前田尻に初めて接した時に、日頃の習慣であったノートを取ることを数分で断念し、その日は田尻の雰囲気に身を浸すことだけに留めようと直感的に判断した。それから10年かけて、発表者は少しずつ田尻から学び続けている。自画自賛的になることを怖れずに言えば、これは悪い選択ではなかった。

5.2.3 田尻実践といった高い複合性をもった《環境》に接する場合、《心理システム》と《環境》の《結合》において重要な役割を果たす言語を《心理システム》は前提知識として用意しておかなければならない。すぐれた実践を観察する前に、私たちは授業について語る言語をある程度用意しておかなければならない。

5.2.3.1 発表者の経験でも、田尻実践をいきなり学部生などに見せた場合、返ってくるのは極めて表面的な感想だけであった。

5.2.3.2 上記の失敗から、発表者は、まず授業、および言語コミュニケーションについて語る言語を、理論を教えることを通じて学部生らの身につけさせたところ、教職経験を持たない学部生でもだんだんと本質的なコメントができるようになった。

5.3 私たちは田尻悟郎に田尻悟郎の知恵と技能を私たちの中に移植してもらおうと期待してはならない。

5.3.1 田尻悟郎から私たちへのコミュニケーションは、田尻悟郎から私たちへの創造的刺激であり、その創造的刺激を活かすも殺すも私たち次第である。

5.3.2 田尻悟郎のような優れた英語教師になるには、必ずしも田尻悟郎は必要ではない。必要なのは自分以外の《環境》であり、その《環境》とのコミュニケーションを決して断念しないことである。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み8/8

6 結論

6.1 よい英語教師をつくる基本は、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションであることを田尻実践は示している。

6.1.1 よい英語教師は、日本語と英語の多彩な使い分けによって、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などの様々な場面において、自らを超える《環境》と、自己観察と自己省察を通じて接点を見い出し、新たな自分の可能性を実現している。よい英語教師は、生徒を内から変えようとし、自らの立場を柔軟に変容させ、自らの言動を常に観察している

6.1.2 よい英語教師は、それが英語指導の場面だろうと生徒指導の場面だろうと、教育内容についてだろうとそれ以外のことであろうと、日本語を使用する場合だろうと英語を使用する場合だろうと、生徒とのコミュニケーションを継続し発展させるということを最優先している。

6.1.2.1 そのコミュニケーションの持続こそが、教師と生徒をそれぞれ自分なりに変化させ成長させる。

6.2 機械通信に適用すべき情報理論であるコードモデルを、人間のコミュニケーションに適用してはならない。

6.3 私たちのコミュニケーション理解は、関連性理論、およびルーマンのシステム理論などによって、より洗練されなければならない。

6.3.1 教師は、自分は決して生徒の頭の中に直接介入・操作ができないことを自覚しなければならない。

6.3.2 教師は、自らの最善とは、生徒とのコミュニケーションを切断せずに、創造的刺激を与え続け、生徒が自律的に内から変わることを促進することであるを自覚しなければならない。

6.4 田尻実践といった優れた実践に接しても、私たちはそれを特異なものだとして、その実践とのコミュニケーションを絶ってしまうのではなく、個性的な実践の中に普遍性を見い出そうと試みなければならない。

6.4.1 田尻実践という個性的実践が「優れた英語教育実践」と普遍的に概念化された時に、田尻悟郎という特定の個人は、英語教育にとっての「救世主」であるという考えから解放される。(英語教育界は田尻悟郎に頼り過ぎてはいけない)。

6.4.2 英語教育が変わるのは、英語教育の内側からである。英語教育の改革は、それぞれの英語教師が、それぞれの《環境》と可能な限りのコミュニケーションを継続し、自らをより複合的に自己組織化することから始まる。

6.4.2.1 自己組織化を継続する英語教師が、互いにコミュニケーションを始め、英語教師の《社会システム》を密にする時、英語教育界は他の《社会システム》という《環境》とも適合的に対応できるようになる。

6.5 自らの処理能力を超えるような高い複合性をもった《環境》に出会った場合、私たちは自らの《心理システム》の崩壊を防ぐことを優先し、それがかなう限りの範囲でその《環境》と少しずつ接点を見出し、コミュニケーションを絶やすことなく、少しずつ自己をつくり変えてゆかなければならない。ここでもコミュニケーションの継続がなしうる最善のことである。

6.6 「何がよい英語教師をつくるのか」という本論の問いに、私たちは以下の普遍的な回答を与える。

6.6.1 必要なのは英語教師である自分とその《環境》、およびそれらの間の絶えざるコミュニケーションだけである。

6.6.1.1 絶えざるコミュニケーションにより自分はますます複合化し、《環境》のより大きな複合性にも対応できるようになる。

6.6.2 コミュニケーションを契機に複合化された自分は、複合的な《環境》に対しても、必ずしも自分でも予想していなかった対応ができるようになる。

6.6.2.1 この対応力は、一方的に誰かがあなたに「教え込む」ことができるものではない。

6.6.3 あなたは、あなた自身を崩壊させない限りにおいて《環境》とコミュニケーションを続けることによってしか変わらない。

6.6.3.1 コミュニケーションの継続により、あなたはあなたが知らなかったあなたに成る。それが「あなたらしさ」である。「あなたらしさ」とは潜在的可能性を秘めた顕在的現実、つまり自己同一性を失わないままに変わりうるものである。

7 本論は発表者の現時点での能力の範囲で、田尻実践といった優れた実践から学ぼうとしたものに過ぎず、数々の不備を備えている。しかし、重要なのは完璧な理論を求めてそれがかなえられず失望することでなく、どんな理論的試みからも、何らかのコミュニケーションを継続しようと試みることである。この点で、発表者は、ここまでこの論を読んだ読者の忍耐に感謝し、さらなる寛容を希いながら、全面否定も含めた読者からの何らかの反応を望むばかりである。反応というコミュニケーションこそが私たちを育てる。


主要参考文献

Sperber, D. and Wilson, D. (1995). Relevance: communication and cognition. Blackwell.
柳瀬陽介 (2006). 『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』.溪水社
ルーマン、二クラス著、佐藤勉監訳. (1993). 『社会システム理論(上)』. 恒星社厚生閣
ルーマン、二クラス著、佐藤勉監訳. (1995). 『社会システム理論(下)』. 恒星社厚生閣

2007年11月22日木曜日

Sociocultural theory and second language learning

J. P. Lantolf教授によるSociocultural theory and second language learning: Select bibliographyです。
友人が見つけてブログで紹介していましたので、私のブログにも転載します。

http://language.la.psu.edu/aplng597f/VL2BIB.html

田尻科研シンポ満員御礼

田尻科研シンポは満員となりました。

2007年11月22日17:15を持って受付を終了します。

ご参加予定者の方、当日をお楽しみに。

柳瀬陽介

2007年11月15日木曜日

言語コミュニケーション力の三次元的理解

2007年10月28日の日本言語テスト学会で口頭発表した「言語コミュニケーション力の三次元的理解」の草稿を旧ホームページにアップしましたのでお知らせします。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html

それにしても久しぶりにホームページをいじくったらめんどくさかった(泣)。
ホームページを管理していた頃は「別にブログなんて」と思っていたけど、一旦ブログに慣れると、ホームページの管理は面倒です。
サクサク仕事が進まないとイライラしてしまう(笑)。
昔はよくこんなの頻繁にやっていたなぁ。

2007年11月11日日曜日

梅田望夫『ウェブ時代をゆく』ちくま新書

「ウェブ時代」の到来とは、新しい感性、感覚、価値観、思考法、つまりは新しいスタイルが、誰もその帰結について予想をつけることもできない、途方もない強力な乱流を地球上にもたらしつつあるということなのでしょう。この新しいスタイルは例えば、

グーグルのセルゲイ・ブリンラリー・ページエリック・シュミット、リナックスのリーナス・トーバルズ、ウィキペディアのジミー・ウェールズ、Emacsのリチャード・ストールマン、あるいは日本ではまつもとゆきひろ石黒邦宏らに代表されるものです。

この本の著者の梅田望夫さんは、いわば「確信犯的オプティミスト」になることで、このスタイルを日本語文化圏にも導きいれようとしています。ここでの「確信犯的オプティミスト」とは、単純な楽天家を意味する言葉ではありません。それは、物事の光と影の両方を見つめた上で、影を引き受けつつ光の部分を増やしてゆこうとする現実主義的でタフな行動者を意味する言葉です。その中で訴えることは、

新時代の情報リテラシーとは、「無限の情報」と「自らの有限の志向性」を直観的にマッピングする感覚で、つまり膨大な情報を遮断せず大切な情報を探し続ける能力である。(109ページ)


や、ネット空間を
パブリックな意識

でドライブすること(172ページ)であったりします。

ウェブ進化論』と共に本書『ウェブ時代をゆく』こそは、現代日本における必須の教養書だと私は考えます。日本には、情報を咀嚼・消化して自らの血肉とすることの重要性の認識、およびパブリックな空間を作り上げようとする熱意がまだまだ足りないと私は考えているからです。


⇒アマゾンへ

追記

梅田望夫氏の講演「リアルの世界に生きる人は、ウェブ時代をどう生きたらいいのか」がネットで読めます。一読をお薦めします。


追追記
英語圏のネットは日本語圏の10倍
および
英語が下手と人に言うのはやめよう
もぜひお読みください(期間限定記事かもしれませんのでデッドリンクになったばあいはお許しを)。

2007年11月5日月曜日

11/24(土)田尻悟郎先生の科研シンポジウムまだ空席あります!

以下の、科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践解明」ですが、大きな会場を確保していますので、まだお申込みはできます。ぜひお誘いあわせの上、お申し込みください。

その際の注意事項を申しあげます。

(1) 携帯メールではなくPCメールをお使いください。携帯メールだと返信にトラブルが生じることがあります。なお技術的なトラブルのため、メールが届かない場合は、その旨を明記した上で、yosuke@hiroshima-u.ac.jpにメールをお送りください。いずれにせよ、事務局では必ず確認のメールを出すようにしています。

(2) 当日、会場には暖房が入りません(ごめんなさい、国立大学は融通がきかなくて・・・)。当日は暖かい格好でお越しください。ご不便をお詫びします。

それでは下記をご覧の上、ぜひシンポジウムにご参加を!
2007/11/5
柳瀬陽介

******

☆☆この文書は各種媒体に転載自由です。広くお知らせいただければ幸いです☆☆

下記のシンポジウムの受付を、10/1(木)より、専用メールアドレスで受け付けます。

tajiri071124@hotmail.co.jp

お名前(ふりがな)・ご所属を書いて、上の専用メールアドレスにお申し込みください。会場の都合で、満員になりましたら締め切らせていただきます。上記のメールアドレスから、受付番号付きの確認メールが来て、受付は完了します。


*****以下、シンポジウムの案内*****


科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践の解明」のお知らせ


趣 旨:「プロフェッショナル」「わくわく授業」「ブロードキャスター」等のテレビ番組でも取り上げられた、田尻悟郎氏の英語教育実践は、これまでの英語教育 の理論や制度をはるかに超えた優れた実践です。しかし、この田尻氏による「現場の知」を、単なる「名人芸」や「天才の技」といった安易な言葉で片付けてし まえば、私たちが田尻実践から学べることは大きく限定されてしまいます。その成り立ちやメカニズムにメスを入れ解体し、詳しく分析することで、田尻実践を 日本の言語教育の改善そして教師の支援へとつなげることを、本シンポジウムはめざします。

日時:2007年11月24日(土曜日)[三連休の中日です]

場所:広島大学(東広島キャンパス)総合科学部 L102教室(教育学部ではありません!)


対象:現役英語教師、指導主事などの英語教育関係者、英語教師を目指す学生、英語教育研究者、日本語教育関係者、その他。

参加費:無料(ただし事前登録が必要)

スケジュール(予定)
第一部
13:00-13:10 開会の辞:シンポジウムの趣旨説明(柳瀬陽介:広島大学大学院)
13:10-13:30 田尻実践を教員研修にどう活かすのか?(横溝紳一郎:佐賀大学)
13:30-13:50 田尻実践における文法の扱い方を斬る!(大津由紀雄:慶應義塾大学)
13:50-14:10 田尻実践における「コミュニケーション」(柳瀬陽介)
(休憩 20分)
第二部
14:30-14:50 英語教師田尻悟郎のライフヒストリー(横溝紳一郎)
14:50-15:50 田尻実践を体験してみよう!(田尻悟郎)
(休憩 20分)
第三部
16:10-17:00 対談:田尻実践とは何なのか(田尻悟郎・春原憲一郎:海外技術者研修協会)
17:00-17:20 質疑応答(田尻悟郎)
17:20-17:30 閉会の辞(横溝・大津・春原・田尻・柳瀬)

申込方法
10/1(木)より、tajiri071124@hotmail.co.jp に名前(ふりがな)・所属を書いたメールを送り、受付番号のついた確認メールをもらう(会場の都合により人数制限あり)

この件に関するお問合せ先:柳瀬陽介 082-424-6794  tajiri071124@hotmail.co.jp

2007年10月24日水曜日

Plagiarismについて

学部生と話をしていると、彼/彼女らがほとんどplagiarismについて理解していないのでちょっと驚いてしまいました。ひょっとして情報(の価値)に関する感性が、私たち古い世代と異なっているのだろうか。

学部生の皆さん、下のようなサイトをみてplagiarismについて勉強してね。

Plagiarism.org

Purdue University + this

(The Purdue OWL (Online Writing Lab)はブックマークして時折参照する価値あり!!)

Georgetown University

Wikipedia

慶応義塾大学

2007年10月19日金曜日

Safari 3が生み出すアフォーダンス

Questiaはやはりいいです。検索エンジンは必ずしもそれほど賢くないかもしれませんが、有名な本でしたら、HomeのBrowse the Libraryから入れば大抵ヒットするのではないでしょうか。

「ウェブがプラットフォーム」というのはWeb.2.0の特徴の一つですが、だんだん私もその感覚がわかるようになってきました。と言いますのも、これまではネットでよい論文などを見つけたら、とにかく自分のPCのハードディスクにダウンロードしていました。しかし、このQuestiaにしても、この夏のPCクラッシュに懲りて使い始めたGmailにしても、使い始めたら、自分のデータはウェブの仮想空間に置いておき、検索でいつでも自由に取り出すという発想と行動に私は促されてゆきました。

道具や環境に促されて行動が生じるというのが(少なくとも通俗的な)アフォーダンスの考えでしょうが、コンピュータも独自のアフォーダンスを我々に提供し、我々の思考と行動、ひいては教育や学習のあり方も変えるというのは、Klaus Schwienhorst先生の主張でもあります。


私もQuestiaからの英語をあれこれ読んでいるうちに、英語を読むことに対する欲求が高まってきたことに気がつきました。そこで思い出したのが、先日、マック・ユーザーの友人に勧められたブラウザーのSafari 3(英語版)です。

英語のフォントが非常にきれいで読みやすいのですが、総合的な使い勝手でしたらFirefox 2 + Google Toolbarの方がよいので、私はダウンロードしたSafari 3を使わないままにしていました。ですが、Safari 3を英語閲覧専用ブラウザーとして使うことを思いつきました(Firefox 2 + Google Toolbarが常用ブラウザーで、各種申込などをする時には必要に迫られてInternet Explorerを使用するという使い分けです)。

Safari 3でQuestiaが一層読みやすくなり、そのアフォーダンスで、英語を読むことのモチベーションがさらに高まりました。私は(おそらく他の多くの人と同じように)仕事に疲れたら、有益なサイトにアクセスして、休憩時間を過ごすことが多いですが、これまではどちらかというと日本語のサイトばかりにアクセスしていました。そこをSafari 3は英語閲覧専用と決めてしまうと、Safari 3をさらに自分用にカスタマイズしようという気持ちになり、Safari 3の常設ブックマークバーに次のサイトを登録しました。


Edge

National Public Radio


To the Best of our Knowledge


Wired

CNET

London Review of Books

New York Review of Books

New York Times (Books)

OPAC海外ジャーナル(広島大学図書館の契約で各種学術誌がダウンロード可)

Wikipedia

Stanford Encyclopedia of Philosophy

Google Scholar

Google Book Search

Amazon.com

Questia

The Purdue OWL (Online Writing Lab)

およびSafari 3に元からついている各種英文ニュースサイト


私はQuestiaを除くこれらのサイトを以前から知っていまし、ブラウザーにも私の旧ホームページにも登録されていましたが、あまり読もうという気になれませんでした。しかし、このようにカスタマイズしたSafari 3の快楽は強烈です。クリック一つでサクサクと、質の高い英文が、視覚的にも美しく読めます。Safari 3で、私は新しいおもちゃを手にした子どものようにはしゃいでいるだけなのかもしれません。でもこのアフォーダンスは、私の思考や行動を変えるような気がします。

2007年10月18日木曜日

Questia 英語の学術書がウェブで読み放題!

私のウェブ生活で最大の衝撃で最大の喜びかもしれません。
Questiaはどんなに少なく見積もっても、私にとっては、アマゾンやグーグルの登場に匹敵すると思います。

人文社会系の、67,000冊以上の英語の学術書、155,000本以上の英語論文、185,000本以上の英語雑誌記事、110万本以上の新聞記事が、年間99.95ドルで、ウェブで読み放題、デジタル加工し放題です。特に学術書がありがたい。(先ほど加入したら、なんと生涯で399.95ドルというコースも出てきました。次の更新の時にはこれにしようと思います。ほとんどタダ同然ではないですか!)

ウェブにアクセスできる場所が、どこでも24時間営業の自分専用の英語の図書館に変身する以上の便益が得られるというのが誇張ではありません。ヴァーチャルに自分の本棚ができて、しかもその本にアンダーラインがいくらでもひける!本の中での語句検索も一発だし、ノートもとれるし、何より、引用がコピー・アンド・ペーストだけですぐにできる!

このサイトは、この夏のPCクラッシュ以来、アクセスするのを忘れていた「揮発性メモ」で知りました。そこで紹介されていた「尼克拉斯魯曼全百科」がこのQuestiaの簡単な解説をしています。日本語の解説としてはこういうサイトもあります。

私はグーグルの「図書館デジタル化プロジェクト」に驚いておりましたが、一足先にこの夢は実現されました。

このように革命的なことをやってのけるアメリカのダイナミズムはすごいと思います。またこういった動きによって、英語での学術活動は、人文社会分野でも他の言語での活動とは比較できないぐらいの優位性を持つことなるのかもしれません。

2007年10月16日火曜日

西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』岩波新書

「情報化」という言葉は1980年代から使われてきた言葉で、少々古ささえ感じられますが、その意味するところは変遷してきているように思います。とても乱暴な区分けをしますと、80年代はマシンの時代で、ワープロを卒業して、NECの98マシンを買うかIBMコンパチのマシンを買うかマックを買うかというのが大問題でした。マシンがプラットフォームでした。90年度はパッケージ・ソフトの時代だったとは言えなかったでしょうか。Windows95が発売され、Wordを使うか、WordPerfectを使うか、一太郎を使うか、(あるいはやっぱりマックにするか)で私たちは迷ったりしていました。といいますのもパッケージ・ソフトがプラットフォームだったからです。そして2000年代、プラットフォームはウェブに移りつつあるようです。もはやウェブにアクセスさえできればかなりのことができてしまうからです(代表例は、もちろんグーグルが無料提供する各種サービスです)。

 このように情報化の中心が、マシン→パッケージ・ソフト→ウェブと変遷するにつれて、要求される知性は、テクニカルなものから一般的なものへと移行しているように思いえます。今やマシンを持って、パッケージ・ソフトを操れるだけではあまり意味がありません。ウェブを駆使してさまざまな仕事や活動を遂行できる人間的な知性が現在は求められているのではないでしょうか。(この「情報化」によるマシンの「人間化」を通じて、人間も「マシン化」し、今や人間とマシンは混交体になっているとも言えるでしょうが、それはまた別の話として)。
このように人間的で一般的な知性が、現在のウェブ社会では必要とされているという認識は、案外に共有されていないのかもしれません。西垣先生はこの点を情報論の立場から説明します。

情報はAさんからBさんへ小包のように移動して伝達されるものという通俗的なコミュニケーションを批判して、西垣先生は、「人間の心は、情報という実体を「入力」されるのではなく、刺激をうけて「変容」するだけなのです」(14ページ)と述べます。この考えの背後にはルーマンの哲学などがありますし、私は関連性理論で考えてもわかりやすいと思いますが、とりあえず西垣先生の論を追ってゆきましょう。

西垣先生は、情報とは、ある種の「パターン」(形相)であり、質量もエネルギーもないものであり、さらに注意すべきは、パターンとは「客観的存在ではなく、観察者とワンセットになった主観的存在」(17ページ)であると定義します。つまり、「情報とは生物が世界と関係することで出現するものであり、具体的には生物が生きる上で「意味のある(識別できる)パターン」(18ページ)というわけです。これを西垣先生は、もっとも「広義の情報」である「生命情報」(life information)と呼びます。

ところが世間で「情報」といいますと、デジタル信号のような「機械情報」(mechanical information)(最狭義の情報)や、人間の社会で通用している定められた形の「社会情報」(social information)(狭義の情報)ばかりを意味しています。こういった意味での「知識社会」や「高度情報通信社会」には「情報を、生物が環境とむすぶダイナミックな関係ととらえる視点がないのです」(33ページ)

ここでの大きな主張は、コンピュータは人間の知性にとって代わらないということです。露骨な言い方をしますと、最新のパソコンをウェブにつないだだけであなたが賢くなることはないということです。むしろあなたは多くの「社会情報」に振り回されて、自ら考えることが困難になってしまうかもしれません。

真のアイデアを練るには情報は少ない方がいい、という逆説さえ成り立つのです。
生物でないコンピュータには、情報の重要性を判断することなどできません。研究を進めていけばやがて情報の “意味”を直接理解できるようになる、といったことも期待できません。むしろコンピュータには、われわれ人間が身体的に多様な情報にふれ、想像力を活性化できうるような “場” を準備させるほうがよいでしょう。そこでは、文字テキストのみならず、画像・音声・動画映像などを自在に処理するマルチメディア技術が活躍するはずです。



なるほど、コンピュータを、人間にとって代わる人工知能として考えるのではなく、人間に様々なアフォーダンスを与え、思考や判断などを促すメディアとして考えるということでしょうか。
 「情報化」の時代にこそ、振り回されず、じっくり柔軟に考えることが大切なのかもしれません。

⇒アマゾンへ

2007年10月10日水曜日

「英語科における論理的思考力」とは何か

仕事の上で敬愛する指導主事の先生から、以下のような問いかけをいただきました。

中学校で英語科授業に対して助言を求められるとき、「英語科における論理的思考力」とは何か、という質問をよく受けます。
私たちはこの問題について、どのように考えていけばよいですか。
このことは、私たちのよく使う表現である「思考力、判断力、表現力」とも関わってくる部分だと思います。
簡単なことばで御教授ください。よろしくお願いいたします。


このような根源的な問いかけは、やはり重要なことだと思います。私が決定的な回答をできるとは全く思いませんが、私なりの考えをここに仮説的に提示し、皆さんのお考えを促す一助とさせてください。

私の回答は以下の通りのものです。


「英語科における論理的思考力」とは、相手の発話を、自分の先入観に惑わされずに、第三者にも納得してもらえるような理解ができるように聞き取り・読み取ること、および、相手の考えを読んだ上で、相手も第三者も納得するように話し・書くことであるとここでは定義します。決して、自分勝手に相手を曲解して聞き・読むことでも、自分が思うがままに話し・書くことではありません。相手の心を読み取った上で、相手が納得するような談話(discourse)ができることが、「英語科における論理的思考力」だと考えます。

この際のキーワードの一つは「納得」です。納得とはコミュニケーションの当事者だけでなく、コミュニケーションを横で見守る(かもしれない)第三者(他者)にも共有されるものでなくてはなりません。そのように共有される納得とはどのようなものかを知るためには、現代社会の人々は英語でのコミュニケーションを通じて、どのように納得しようとしているかという言語使用の実際を知り、その知を自らの言語使用においても創造的に使いこなせることが必要になってきます。「英語科における論理的思考力」を指導するために、英語教師は自己研修として、現実世界の英語を通じての相互理解の実態を観察し、可能な限り、その相互理解のためのコミュニケーションに参画するべきでしょう。教師のその実践知を背景にしながら、英語の文法・語彙・ディスコース・社会文化的知識・語用論的知識などを生徒に統合させ、相互の納得を目指した英語使用を促進してゆくことが英語科での「思考力、判断力、表現力」を育てることであり、「英語科における論理的思考力」を指導することではないでしょうか。

この「納得」とは、第三者も含んだ相互理解、客観的な相互理解、あるいは共同主観的な相互理解、コミュニケーション実践の共同体で認められる理解、などとも言い換えられるかと思います。いずれにせよ大切なことは、独りよがりの理解でもなく、密室状態での当事者間だけでの理解でもなく、開かれて共有されうる理解であるということです。「納得」してもらえる英語使用をするためには、英語コミュニケーションの実践共同体を想像し、その想定から反省的に思考し、判断して、表現を決めることが必要となります。ちなみにこのような「納得」は、従来のaccuracyとfluencyといった評価の枠組みでは適切に扱われていません。ただ文法的に正しく、饒舌にペラペラと自分の言いたいことだけを言いたいように話すだけでは、英語コミュニケーションの実践共同体での認知と尊敬は得られません。もっと地球規模までに広がる英語コミュニケーションの実践共同体の実態を踏まえた「英語科における論理的思考力」を構想することが重要だと私は考えます。


できるだけ「簡単なことば」で書こうとしたつもりですが、これまた単なる自己満足の作文になっているのかもしれません。まあ、ですが、とりあえず文章をアップロードする次第です。

2007年9月30日日曜日

ピーター・ゴールズベリ先生謝恩会のお知らせ

ゴールズベリ先生にお世話になった皆様へ

皆様お元気でいらっしゃいますでしょうか。昭和57年に広島大学教育学部(英語教育)に入学しました柳瀬陽介と申します。

さて広島大学総合科学部に長年勤務なさっていますピーター・ゴールズベリ(Peter Goldsbury)先生が、今年度(2008年3月)で定年退職となります。ゴールズベリ先生は、学生と真正面に向き合ってくださり、先生からたくさんのことを学んだ方も多いと思います。その学恩に報いるため、有志一同で、プライベートな謝恩会を下記の要領で行いたいと思います。皆様お忙しい毎日をお過ごしのことと思いますが、懐かしいゴールズベリ先生、そして学友に会えるまたとないチャンスです。ぜひご参加くださるようお願い申し上げます。

なお日程などこちらで勝手に決めてしまったことをお許しください。当日来られないが、謝意を表したい方は、幹事の柳瀬までご相談ください。メッセージを読み上げるなり、プレゼントをお渡ししたりすることができると思います。

またこのお知らせは、お知り合いの方などにどんどん転送していただければ幸いです。幹事はゴールズベリ先生に学んだ卒業生のメールアドレスを持っておりませんので、皆さんがネズミ算式に知り合いに(重複を恐れず)このお知らせを転送していただければ旧交も温められるかと思います。ゴールズベリ先生に個人的な親しみを感じている人であればどなたにお知らせくださってもかまいません。


日時:2007年12月1日(土曜) 18:00 – 20:00 (予定)
場所:広島市内のレストラン(参加人数が確定してからお知らせします)
費用:8000円程度(プレゼント代も含む)
申込:幹事(柳瀬)にメールで知らせる(yosuke@hiroshima-u.ac.jp)。
申込締切:10月31日(水曜)

この件に関する問い合わせ先
柳瀬陽介
739-8524東広島市鏡山1-1-1広島大学教育学研究科
電話 082-424-6794
メール yosuke@hiroshima-u.ac.jp

以上です。

2007年9月29日土曜日

質的研究のあり方に関する報告1/10

以下は、私が一年半ぐらい前に某所に提出した報告書です。凡庸なレポートにすぎませんが、ひょっとして少しでもどなたかのお役にたてばと思い、ここに公開する次第です。


******

質的研究のあり方に関する報告

柳瀬陽介 (広島大学)


1 はじめに

 この報告の目的は、英語教育研究においての質的研究のあり方についての関係者の理解を深めることにある。英語教育研究においては、従前のエッセイ的な論証が恣意に流れかねないとの反省から、1980年代頃より量的研究が盛んになり、2000年代では高度な統計手法を駆使した研究も珍しくなくなった。しかしその研究の量的厳密性は、現場教師の問題意識と乖離しがちであり、英語教育研究が「研究者のための研究」と一部では評される状態を招いた。私たちは量的研究の成果を踏まえつつも、英語教育研究をより実践的(かつ客観的なもの)にする努力を行なわなければならない。

 一方、1990年代の関連分野においては、英語教育研究に先んじて、深刻な方法論的反省が行なわれていた。平山(1997: I-V)も述べるように、1990年代中頃に、日本教育方法学会、日本教育工学会、教育心理学会などは方法論上の論争が激しく行なわれ、以来、質的研究は、量的研究とならんで、教育研究の一つの柱となった。

 このような現状を鑑み、私たちは英語教育研究にも質的研究の適切な導入が必要と考える。以下、質的研究方法論の大まかな特徴を述べ(2 方法論の決定とは、3 質的研究の位置づけ、4 質的研究の特徴)、続き質的研究方法の代表例に関して簡単にまとめ(5 ケース研究について、6 インタビュー研究について、7 ライフストーリー研究について、8 フォーカス・グループ研究について)、最後に質的研究における分析と記述について概括する(9 質的研究における分析、10 質的研究の記述と報告)こととする。従来の量的研究法に加えて、質的研究法が新たに英語教育関係者に普及し、英語教育研究がより実り豊かなものになることが私たちの願いである。

質的研究のあり方に関する報告2/10

2 方法論の決定とは

 「質的研究の導入」といえば、ついつい「量的研究か、質的研究か」という二律背反の図式で語りがちになるが、言うまでもなく、それは不毛な論争に過ぎない。教育研究に長年関わりあった研究者として佐伯は次のように語る(秋田他、2005:13)。

初学者から「メソドロジー」に関する質問を受けることは多いし、かなり経験を積んだ自立した研究者からも「メソドロジー」の妥当性に関する質問を投げかけられることは少なくない。この問いに答えるのは至難である。なぜなら、これらの問いを発する人のほとんどは、研究主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンとは無関係にフィールドワークやアクション・リサーチの「メソドロジー」が存在するものと想定している。これらの人びとの質問は、その方向を転換する必要がある。この問いを発する人びとは自らの研究の意図や主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンの曖昧さを問い直すべきなのである。フィールドワークもアクション・リサーチも方法論は多様であり複雑である。研究テーマにより研究対象により研究方法は千編自在に変化し、ひとつの研究を行うごとに最も説得力のある方法を研究者自身が自ら創造しなければならない。その創意のなかに研究の価値が内包されているというのが、私の25年間の経験から導きだされる結論である。


本報告は質的研究の導入を目指すものであるが、「質的研究しか認めない」というのも「量的研究しか認めない」というのと同様、不毛な見解であろう。私たちにとって最も重要なのは英語教育という研究対象であり、方法論においては適切な限りにおいて量的方法と質的方法の両方を臨機応変に使い分けることが必要である。そのためにも現時点での私たちは質的研究に関して過小評価も過剰評価もすることなく適切に理解しなければならない。

 だが質的研究というのは、それを選択することを決定したとしても、量的研究ほどには整備されたものではない。量的研究の場合においては、実験計画法や統計分析について予め学んでおけば、あとはその研究方法を適用すればよいという傾向が強いが、質的研究においては、研究の対象と内容によって、その都度研究方法を考え・編み出し・改善してゆくといった傾向さえ見られる。このあたりをウィリグ(2005: 2)は次のようにまとめる。

 研究のプロセスを一種の冒険と考えてみよう。大学生だった頃、私は「研究方法」を料理のレシピのように思っていた。研究は、正しい材料(代表的なサンプル、標準化された測定道具、正しい統計的検定)を選んで、これを正しい順序で調理すること(「手続」)だった。結果を出すために全力を尽くすたびに、固唾を飲んで、実験が「うまくいく」ことを願った。まるで、完璧に焼けた料理がオーブンから出てくるのを待って、台所をうろうろするように。
 今、私は研究をもっと違う目で見ている。「研究方法」は、問いに答えるための方法になった。研究方法は、答えが正しいかどうかを判断する方法でもある(これは、研究方法と認識論の接点でもある。これは後で述べる)。どちらにしても、研究というものは、私にとって、機械的なもの(適切な技法を問題に適用する方法)から創造的なもの(どうやったらわかるようになるのか?)へと変化したのだ。研究のプロセスの中で、研究方法はレシピだというメタファーを、研究プロセスは冒険だという見方に置き換えたのである。


この「冒険」のメタファーは読者によっては詩的過ぎるように聞こえるかもしれないが、ウィリグのポイントは、既成の方法論に依拠することだけを研究のあり方とするのではなく、方法論を必要な場合には新たに作り出し、そのたびごとに研究の信頼性と妥当性を問い直しながら、研究を進めてゆくことである。これは実は量的研究の最先端でも行なわれていることであり、研究のあり方としては、実は、非常にまっとうなことを述べていると考えられる。上のメタファーが奇抜に感じられるとしたら、私たちが関連研究領域の「お下がり」の量的研究法を無批判的に正しいものと前提し、それに沿うことを学問性のあり方だと混同しているからである。私たちは量的研究法と質的研究法の両方をそれぞれに的確に理解して、それらを使い分けなければならない。量的研究(実験心理学)から研究者生活を始め、次第に質的研究に移行したやまだは次のように述べる(秋田他、2005: 61-62)。

 実際にやってみると、実験心理学はその範囲ではおもしろかった。問題の焦点をきりきりと焦点づけてクリアーにし、論理的につめていく探究のしかたはすっきり気持ちがよかった。実験的な方法では、純粋な条件に統制した実験室で少数の要因に仮説をしぼりこんで、仮説演繹的に実験を積み重ねて、結果を数量化し、できるだけ単純にクリアーにだしていく。これは、現在の私が行っているフィールド研究や質的方法とは対極にある方法である。
 しかし、いまから思えば、「純粋な少数要因にしぼりこむ」実験法を学び、それを対極として常に意識せざるをえなかったことで、逆に「複雑なフィールドの多要因の相互連関」を大事にするフィールド研究の重要性がわかるようになった。また、現象をただ記述するだけではなく数量化してはじめて見えてくるものがあり、その逆に、現象を質的に意味づけてとらえなければ見えてこないものがあることも実感できた。現象を、量としてとらえる、そして質としてとらえる、その両方のアプローチがあり、両者は相互補完的であるが、ただ折衷的に両方やればよいというものではなく、両者の長所を最大限に生かした組み合わせを考える必要があることも、しだいに鮮明になってきた。すっきりと論理を組み立てる実験のおもしろさもわかるので、「いろいろあれもこれもと欲ばって、でも最終的に何がわかったかはっきりしない」というゴチャゴチャ・タイプのフィールド研究に出会うたびに、その弱点もよく自覚できるようになったと思う。(やまだようこ:61-62ページ)


量的研究法は英語教育界において一定の理解が達成されていると考えられる以上、この報告書では以下、質的研究の理解を試みることとする。

質的研究のあり方に関する報告3/10

3 質的研究の位置づけ

 これまで質的研究は量的研究と対比して語られてきた。だが、この位置づけはやや単純すぎるかもしれない。メリアム(2004: 5-6)は、おそらくハーバマス(2000)に従って、研究を実証主義的(positivist)、解釈的(interpretive)、批判的(critical)の三種類に分ける。研究の実証主義的方法においては、科学的で実験主義的な調査をとおして、定量的な知識を得ることを目的とする。この観点からの教育の「日常世界(リアリティ)」は、静的で、観察・測定可能なものである。次に、解釈的方法においては、教育はひとつのプロセスとみなされ、学校は生きられた経験の場となる。こうしたプロセスや経験の意味の理解が、演繹的というよりは帰納的で、仮説または理論の検証ではなく生成を目指すモードによって研究が進む。多元的な日常世界が、人びとによって社会的に構成されることを前提とし、「唯一の真理」の決定は求めない。第三の方向性である批判的方法においては、教育は、社会的・文化的な再生産・変革のためのひとつの社会制度だとみなされ、教育実践の領域における権力や特権、抑圧へのイデオロギー的批判を目指す。

 質的研究は、このうち、二番目の解釈的な方向性を強く持つものである。フィールドワークにより、実践者の生きる世界をできるだけ再構成するような記述を第一に目指し、既存の理論との整合性よりも、現実との整合性を重要視するのが質的研究といえよう。質的研究はそのため、新たな記述法や研究方法の開発も厭わないのである。

 一方、量的研究は上のまとめならば、実証主義的なものである。自然科学を範とする実証主義は人類の知的遺産であり、英語教育研究においてもその精神が有効である場合においては実証主義的研究方法を採択すべきことは言うまでもない。

 他方、質的研究と量的研究の二元的対比からこぼれおちがちなのが、上のまとめの三番目の批判的研究である。もとよりイデオロギー批判の形を借りた、それ自身がイデオロギー的な言説を生成することは、私たちは研究者として断じて許してはならないが、教育が社会的制度であり、社会的制度は価値に基づいたものである以上、教育を語る際には、その価値についても語らざるを得ない場合がある。古今東西、どんな時代・場所においても、現存の制度(そして価値)が完璧だった例はない。そのことからすると英語教育研究も場合によっては、現存の英語教育制度の依拠する価値について語らなければならない場合も生じるかもしれない。その語りは、価値に関する語りであるがゆえ、必ずしも実証に寄らない、「批判的」な語りにならざるを得ないかもしれない。それを禁ずることは、教育研究としては不適切であろう。以下、私たちは、批判的研究を積極的には目指さないものの、質的・解釈的研究の探究が進むにつれ、批判的言説が必要となれば、それを無闇に否定はしないものとする。

質的研究のあり方に関する報告4/10

4 質的研究の特徴

 このように解釈的(そして場合によっては批判的)な色彩を帯びた質的研究をさらに具体的に特徴付けるとしたら、以下の波平・道信(2005: 2-3)のまとめが有益であろう。彼女らはA:研究方法の複数性、B:研究方法の選択性、C:研究対象の日常性、D:研究対象の文脈性を「質的研究についての多様な定義」の「共通点」として捉える。

A:人間の生き方は多様である。したがって、人間の生き方の具体性と多様性を明らかにするための研究方法は、多様にならざるをえない。

B:質的研究は既存の理論や方法論の有効性を確認したり検証することを目的としない。あくまでも研究対象とすることを目的とする。したがって、研究対象の特性に応じて研究方法が選択される。

C:質的研究においては何よりもまず、対象となる人びとが自らを取り巻く世界を、また自分たちの生活をどのように見ているのかに注目する。すなわち、研究対象者(研究される人々)の視点を明らかにすることにつとめる。そして、研究対象になる人々が多様な立場にあること、その多様な立場から日常生活を見ていることを、研究調査の前提とする。

D:質的研究の特徴は、研究対象となる事象を、できるだけそれが生じている社会的、文化的、歴史的文脈においてとらえ、理解しようとすることである。(2-3ページ)


したがって私たちが質的な英語教育研究を行なう際も、A:その研究対象事象に対しての一つの解明を行なっているのであって、決して唯一絶対の解明を行なっているのではないこと、B:(海外からの輸入された)既存理論を証明するために研究を行なっているわけではないこと、C:現場の教師や学習者の日常的な物の見方・考え方を解明すること、D:英語教育現象が生じる社会的、文化的、歴史的背景を重視することを心がけなければならない。

 また平山(1997: 27)は、エスノグラフィー(エスノ法)を質的研究の典型例とした上で、上述のまとめよりもさらに詳しく、研究者と研究対象者の関係について、量的・行動科学的研究との対比の中でまとめている。

データ収集の対象者への扱いが異なる:量的研究法は対象者を仮説検証という見地に立って被験者に接し、彼らに研究者の意図を知らせないようにする。一方、エスノ法は対象者が情報提供者であるので、研究者の意図や重要と思っている内容を彼らに知らせるようにする。

インタビューでも両者の扱いは違ってくる:量的方法は、被験者を回答者としてみなし、質問紙やインタビューで扱う内容と表現を標準化して客観的なデータを採集しようとする。一方、エスノ法は、情報提供者が普段仲間内で使う日常語あるいは符丁を重視し、それらを使いながら、彼らの本音をとらえようとする。

観察場面と対象に対する見方も違ってくる
:量的・行動科学的方法は統制された場面で事象を変数としてとらえ、それを量的データに変換して相関、因果関係を説明する。したがって、ある現実を代表するサンプルサイズ、説明変数あるいは基準変数による事象の割当て、その変数間の関係を表現するための統計的処理方法の選択とその解釈が重要な意味をもってくる。

一方、エスノ法は、自然生態的見方あるいは質的現象的見方を重視する。自然生態的あるいは質的現象的見方とは、自然の場が人間行動に影響を与えるという立場から、社会組織の一部をなす伝統、価値観、役割、規範が人間の観念にどのように規定するかを解釈することをさしている。(29ページ)


こうしてみると質的研究では、研究者は量的研究とかなり違うことなる態度を取らなければならないことがわかる。研究対象者は「被験者」(subject=支配下に置かれている者)ではなく、相互協力者であり、彼/彼女らの日常言語は専門用語によって徒に否定されてはならず、自然な状況での観察と理解を重視しなければならない。このことは、質的研究を行なう場合は、量的研究を行なう場合以上に、研究倫理を重視することを意味する。ウィリグ(2003: 26)は質的研究の倫理について以下のように述べる。

まとめると、研究参加者を損害や喪失から守らなければならない。また、研究参加者の心理的な満足や尊厳をいつでも維持するよう目指すべきである。多くの質的研究者は、これらの基本的な倫理的ガイドライン以上に気を使っている。単に研究参加者を損害や喪失から守るだけではなく、研究参加者に肯定的な利益をもたらすことも目指す。たとえばアクションリサーチは、よりよい方向にプロセスやシステムを変化させることによって、そのプロセスやシステムに関する知識を生み出すようにデザインされている。ここではどのような行為も「研究に参加した人々にとって最大の利益になること」でなければならない。同様に、批判的な言説分析は社会的な不平等、偏見や力関係に挑戦することを目的としている。


要は質的研究においては、研究者は、量的研究以上に、研究対象者(英語教育研究でいえば、教師や学習者)の立場に立つことを鮮明にし、その努力を惜しまないということである。英語教育研究という実践性の高い研究においては、質的研究の重要性は強調されるべきであろう。

 それではこのような質的研究にはどのようなパターンがあるのだろうか。質的研究は上にも示唆されていたように多彩であり、簡単な要約はここでは困難であるので、その包括的な説明は他書に任せ、以下では、私たちの計画するモティベーション研究に関連するケース研究、インタビュー研究、ライフストーリー研究、フォーカス・グループ研究について概括しよう。

質的研究のあり方に関する報告5/10

5 ケース研究について

 ウィリグ(2003)のまとめによるなら、ケース研究(Case Studies)は、定義的な特徴として、次の五つを持つ。

(1)個性記述的視点:研究者は、一般的なことより特定の具体的なことに関心がある。その目的は、個別のケースを、その特殊性から理解することである。これは、法則定立アプローチとは対比的である。

(2)文脈的データへの注目:全体論的アプローチをとり、ケースを文脈の中で考える。

(3)トライアンギュレーション:さまざまな情報源からの情報を統合する。

(4)時間的要素:時間経過にともなうプロセスに関心をはらう。

(5)理論への関心:理論の生成を促す。

 
 だが、ケース研究はさらに下位区分される。引き続きウィリグ(2003)のまとめを借りるなら、ケース研究は次のような観点で区分される。

(1)固有 対 道具的ケース研究:固有ケース研究(intrinsic case study)が扱うのは、そのケース以外の何者でもない。反対に、道具的ケース研究(intrumental case study)では、ケースはより一般的な現象の例である。

(2)単一 対 多元的ケース研究:単一ケース研究(single-case study)は単一のケースを詳細に探求し、研究者個人の関心事がわかったり、既存の理論を現実のデータへ適用する可能性を検証したりすることができる。反対に、多元的ケース研究(multiple-case study)デザインは、新しい理論を作り出す機会となる。このデザインでは、ケースを比較分析することで、理論を発展させ、修正する。

(3)記述的 対 説明的ケース研究:記述的ケース研究(descriptive case study)は、その文脈の中での現象の詳細な記述を目的とする。反対に、説明的ケース研究(explanatory case study)は、関心下の出来事を説明することが目的である。

 

質的研究のあり方に関する報告6/10

6 インタビュー研究について

 インタビューの手法は、メリアム(2004)によるなら、「高度に構造化/標準化」されたもの、「半構造化」されたもの、「非構造化/インフォーマル」なものに大別することができる。私たちは、「学習者の予想外のモティベーション変動」を共通の出発点とし、それから語りを発展させることを狙うので、半構造化インタビューを行なうものとなる。

 しかし語りを発展させるといっても、それはもちろん単に面白く話を続けるというわけではない。インタビューとは「目的をもった会話」である。メリアム(2004: 105)は次のように言う。

われわれがインタビューをするのは、直接観察できないことがらを相手から引き出すためである。・・・感情、思考、意図といったものは、観察することができない。過去の行動も観察できない。観察者が立ち入ることができない状況も観察できない。人びとがまわりの世界をどのように体系化し、そこで起こっていることにどのような意味づけを行っているかも観察できない。そのようなことがらについて知るためには、我々は、人びとに質問しなければならないのである。それゆえ、インタビューの目的は、他者のものの見方のなかに分け入っていくこととなる。


私たちは、こういったインタビューの原則を徹底し、話の表面的な面白さではなく、話の中に垣間見える本質的なポイントの解明を目指さなければならない。その際の、質問の方法としては、引き続きメリアム(2004)のまとめによるなら、「もし・・・だったら」といった仮説的(hypothetical)な質問、「あえて反論しますが・・・」といった故意の反対の立場からの質問(devil's advocate)、「理想的にはどうしたいですか・・・」といった理想的(ideal)な質問、「・・・についてはどうお考えですか」といった解釈的(interpretive)質問などの、「良い質問のタイプ」を重視する。他方、同時に複数のことを尋ねる多重質問(multiple questions)、誘導質問(leading questions)、対話が深まりにくいYes-No questionsなどを避けるべき質問のタイプと基本的に考える。また、いずれにせよ、質問の答えが返ってきたら、それにさらにさぐりを入れ(probe)て、対話を深めることが大切である。

質的研究のあり方に関する報告7/10

7 ライフストーリー研究について

 私たちが計画するインタビューにおいては、教師は、予想外だった学習者のモティベーション変動について語るわけであるが、その語りは一種の「物語」であるといえよう。「物語」に関してやまだ(2000: 20)はBruner (1986)の「論理実証モード」と「物語モード」の区別から、物語を規定する。

論理実証モードは、心理学者が用いてきた科学的パラダイムです。「ある出来事についての陳述が、真か偽か?」と問い、そこから、真か偽を明らかにする条件設定がなされ、実証によってどちらかの答えがみちびかれます。物語モードでは、「二つ以上の出来事が、どのように関係づけられて陳述されるか?」が問われ、出来事がどのような意味関連でむすびつけられるかが問われます。どれが正しいかを決定することが問題ではないので、物語論では、複数の答えが両立しえます。(20ページ)


やまだのいう「ライフストーリー研究」とは、インタビュイーが語る「物語」を解明する研究である。(ちなみに「ライフストーリー」に、研究者が近現代の社会史と照合し位置づけ、注記を沿えて構成したものが「ライフヒストリー」と呼ばれる(やまだ 2000: 15))。やまだ(2000: 1-2)のまとめるライフストーリー研究の意義を報告者なりに敷衍すると次のようになる。
(1)人生の経験を「物語」としてとらえることができる。「物語」とは「二つ以上の出来事を結びつけて筋立てる行為」であり、ライフストーリー(人生の物語)とは、「その人が生きている経験を有機的に組織し、意味づける行為」であり、「たえざる生成・変化のプロセス」である。「物語」として語ることにより、自然科学では捉えられない生活者・実践者の意味関連が解明される
(2)物語の語り手と聞き手によって共同生成されるダイナミックなプロセスとして物語を語り直すことによって人生に新しい意味を生成することができる。経験されてもあまり語られることのなかった過去の体験が、「物語」として、聞き手との協働解明の中で新たに語られる・語られ直すことにより、語り手も新たな気づきを得ることができる。
(3)人生の物語を語ることが、個人の物語を超えて、現世代から、次の世代や未来世代へのコミュニケーションとして、世代と世代、時代と時代をつなぐ働きを担う。「物語モード」は私たちが生活者・実践者として慣れ親しんでいるモードであり、このモードでの語りによって、他者の経験はより深く聞き手・読み手に伝えることが可能になる。

質的研究のあり方に関する報告8/10

8 フォーカス・グループ研究について

 さてそういったインタビュー研究においては、話の深まりが重要である。したがってあるインタビュイーに複数回話を聞き、インタビュアーはその度ごとに分析や解釈を試みながら、語りをより信頼性があり、妥当性のあるものにしてゆく方が、一回だけのインタビューで終わるよりも好ましい。しかし他方で、特定単独のインタビュイーだけを選定し単一ケース研究を行なう特別の理由もない以上、私たちはより妥当性のある洞察を得るために、複数のインタビュイーに対してインタビューを行なうべきだとも考えられる。そうなると複数のインタビュイーに対して、複数回のインタビューを行なうこととなる。だがそうなれば、例えば6人のインタビュイーにそれぞれ5回の単独インタビューを行なうとなると、合計30回ものインタビューが必要となる。これは明らかに非現実的である。またインタビュアーの恣意的すぎる分析・解釈を防ぐためには複数のインタビュアーがいるべきだとも考えられるが、一人のインタビュイーに対して複数のインタビュアーがいれば、インタビュイーによっては非常に圧迫感を感じてしまう怖れがある。

 こういった諸問題を解決するのがフォーカス・グループによるインタビューである。ウィリグ(2003)のまとめによると、フォーカス・グループという形式では、研究者はグループのメンバーをお互いに紹介し、グループのフォーカス(例:質問、広告・写真などの刺激)を紹介し、ディスカッションを静かに進める議長の役割を果たす。このように進めることでグループの本来のフォーカスを定期的に呼び戻し、グループのメンバーが生み出す論点にお互いに回答するように促す。本研究でも、研究担当者の一名を「議長」とし、その他の研究担当者をインタビュアーとして、複数のインタビュイーに同時に、一種の座談会形式でインタビューを行なうことを複数回繰り返すこととする。だがフォーカス・グループ・インタビューが単なる「座談会」にならないようにするためには、私たちは引き続きフォーカス・グループ・インタビューの方法論に関して学ぶ必要はあるであろう。

質的研究のあり方に関する報告9/10

9 質的研究における分析

 さて、今まで述べてきたような学界背景、質的研究法の位置づけ、各種質的研究方法の特徴の考察から、私たちはフォーカス・グループ・インタビューを行なうことを決定したのだが、インタビューの形式以上に重要かもしれないのが、研究の分析である。この分析に関しても、質的研究においては、量的研究と異なった配慮、というより認識論が必要なので、この節では鯨岡(2005)を基にしながら、質的研究における分析についてまとめておきたい。

 質的インタビューにおいては、インタビュイーが「感じたこと」、その語りを聞いてインタビュアーが「感じたこと」、あるいは両者で共感的に理解することを重視する。だが、このような感性重視の方法は、従来の量的研究の思考法からすれば、なんとも主観的で情緒的すぎるもののように思えるかもしれない。鯨岡(2005: 17)は次のように述べる。

関わり手に感じられる相手の「思い」やそのような「生き生き感」や「息遣い」は、関わる相手の生のありように結びつき、その人の存在のありようを告げるものです。ところが、これまでの行動科学の枠組みではそれを捉えることができません。そればかりか、むしろそれを排除しなければならないと考えてきました。なぜなら、それらは客観主義の立場では観察可能なものではなく(目に見えるものではなく)、常に描き出す「私」の主観を潜り抜ける中でしか捉えられないもの(「私」の身体が感じられるとしかいいようのないもの)だからです。そのことは、観察する人(記述する人)が無関与的な透明な存在であることを前提とする従来の客観主義の枠組みとは確かに相容れません。


たしかに従来の量的研究(行動科学)の枠組みでは、主観的(あるいは参加者が共に感じるという意味の哲学用語である「間主観的」)である「感じ」あるいは「思い」、「生き生き感」、「息遣い」などは捉えることができないだけでなく、むしろ積極的に排斥するべきものである。だが、現実世界に生きる人間にとってはそのような主観性および間主観性を否定することはできない。そういった量的研究から抜け落ちてしまう事象を取り扱うのが、質的研究であり、質的研究の分析は、そういった事象の扱いにひとしお注意を払わなければならない。

 それにしても上の引用で「客観主義」という言葉が批判されたので、驚いた読者もいるかもしれない。客観性こそは学問の要諦だからである。しかしここで鯨岡が「客観主義」として批判するのは「実証主義」のことであり、実証主義(だけ)を客観的態度と考えるのは、偏った考えであると鯨岡は彼の現象学の素養を背景に主張しているわけである。「事象の客観的側面(あるがまま)に忠実であることと、事象を客観主義的=実証主義的に捉えることとは別のことである」(山岡 2005: 20)として、彼は次のように述べる(山岡 2005: 23)。

生の実相のあるがままに迫るためには、その生の実相を関わり手である自分をも含めて客観的に見る見方と、その生の実相に伴われる「人の思い」や「生き生き感」など関わり手の身体に間主観的に感じられてくるものを捉える見方が同時に必要になります。後者を重視することが、あたかも客観的な見方が必要でないと主張しているかのように誤解されたり(自分の中に生まれた考えや観念をただ述べればよいと誤解されたり)、客観的な見方も必要であると主張することが、あたかも客観主義=実証主義を肯定したかのように誤解されたり、といったことが生じるのは、おそらく、この「客観主義の立場」と「客観的な見方」との混同に起因しているように思われます。


 私たち英語教育関係者もこの高次の意味での「客観的な見方」を理解するべきであろう。すなわち観察・記述とは、対象の問題だけではなく、観察・記述者の問題でもあるということを自覚するわけである。対象と観察・記述者の両者を、観察・記述者は、自分を対象化するという困難にも挑みながら、「客観的に」捉えることを試み、かつ、その場で経験される間主観的な感じも大切にすること、これが高次の意味での「客観的な見方」といえるだろう。観察・記述者の存在を無化し、見えるものだけを取り上げ感じられるものを無視することは、低次の「客観主義」にすぎないともいえるだろう(もちろんその逆に自らの主観性ばかりに耽溺するのは学問ではないが)。しかし観察・記述者の問題や間主観性に関して言及したり考察したりする事例研究などは、「これまでの学問動向の中ではその内容よりもその手続きのところで門前払いしてしまう動きがあったこと」(山岡 2005: 40)は、英語教育研究においても事実であろう。こういった問題は克服されなければならない。

 しかし、質的研究のエピソード記述には、しばしば「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」といった批判が浴びせられることがある。しかし鯨岡はこの批判は、「すでに行動科学の土俵の上での議論だといわねばなりません」(山岡 2005: 45)と述べる。彼の反論の根拠は、人間は一般・普遍からだけでなく、特殊・個別からも学ぶことができることにある。人間は想像力を持ち判断をすることができる存在である。鯨岡(2005: 45)は次のように述べる。

一つのエピソードを一つの事実として提示するとき、前項でみたように、もしもそれが読み手に自分の身にも起こりうることとして理解されるなら、つまり過去に同じような経験をもったかどうかに必ずしもこだわることなく、それはありうることとして理解されるなら、それはエピソード記述に固有の事実の提示の仕方として認められるべきだということです。これは、私たち一人ひとりが自分の経験世界に閉じられていないこと、他者の経験世界に可能的に拓かれていることに拠っています。つまり、身体的には類的同型性をもち、それゆえ感受する世界はかなりの程度同型的であることを基礎に、幾多の類似した経験をもつ私たち人間は、絶対の個であると同時に類の一員であり、それゆえ大勢の他の中の一人でもあります。しかも、豊かな表象能力を付与されている人間は、その想像力によって、他者に起こったことはそのようなかたちで我が身にも起こる可能性があると理解することができるのです。(45ページ)。


このことは人間存在が想像力と判断力を持つことの再確認だけにとどまらない。「いかにして私たちは真を知るか」という学問の基礎である認識論の拡充を求めるものでもある。量的研究は実証主義的な認識論だけを採用していたが、質的研究におけるエピソードの記述は、実証主義を超えて想像力と判断力による認識論を提示しているとさえもいえるかもしれない。次は山岡(2005: 47)の言葉である。

ともあれ、いま議論しておきたいのは、私たちが可能的に他者の世界に開かれていること、それゆえ、他者の一つの体験の提示が、我が身にも起こり得る可能的真実であると受け止めることができること、逆に、エピソード記述はその読み手の開かれた可能性に訴えかけるものであることを認めることです。これによって、従来の再現可能性や検証可能性、あるいは信頼性といった、行動科学の枠組み内の認識論とは違う、エピソード記述の方法論に固有の認識論を構えることができます。(47ページ)


この鯨岡の見解を私なりに敷衍したい。従来の量的な英語教育研究は、実践者(教師)をあたかも機械のようにしか捉えていないのではないだろうか。「教師には、誰でも当てはまる一般的なルールを教える。そうすれば実践は良くなるはずだ」というわけである。なるほど、それはその通りであろう。しかし「誰でも当てはまる一般的ルール」は、たいていの場合、とても常識的なことにすぎない。だが、教師は一般的ルールが当てはまらない特殊・個別な状況にも対応しなければならない。多くの教師はこの対応を、自らの経験から学ぶだけでなく、他人の経験(つまりは他人が語るエピソード)からも学ぶ。それは教師には、全ての人間がそうであるように、想像力というものがあり、その働きにより、様々な判断力が養われ、新しい場合にも、その判断力を活かして対応ができるからである。そもそも私たちはそうやって歴史や小説を読み「教養」をつけているのではないだろうか?極言をすれば、想像力・判断力・教養といった存在を、量的研究は、はなから当てにしていないことを存在基盤としているようにも思える。量的研究の専横は現代の浅薄さの表れといえば話が大きくなりすぎだろうか。だがいずれにせよ、量的研究が扱いきれないところを、質的研究が異なる認識論的前提に基づきながら細心の注意を持って遂行されることにより、英語教育研究もさらに現実的に、そして客観的になるということは言えるのではあるまいか。

質的研究のあり方に関する報告10/10

10 質的研究の記述と報告

 こうして分析を進めれば後は記述と報告となる。記述に関しては、鯨岡(2005)は(エピソード)記述の基本構造を、(1)背景の提示、(2)エピソードの本体の提示、(3)(第一次・第二次)メタ観察の提示、としている。

 (1)の背景の提示に関して、質的研究は、量的研究以上に、研究対象者の背景の記述を厚くしなければならない。背景文脈の重視こそが質的研究の条件だからである。(2)のエピソードの提示に関しては、エスノ(グラフィー)に重なるところが多い。志水は次のように述べる(秋田他 2005: 143)

エスノの基本的性格については、佐藤郁哉の「文学と科学にまたがる性格をもつ文章」(佐藤、1992: 45)という知られた定式化がある。これは私自身の実感に近い。エスノの作成には、みたものを的確に、かつ印象的に読者に伝えるための文学的センスがやはり不可欠である。しかしながら、他方、私たちは論文としてエスノを作成するかぎりにおいて、各種の科学的な基準や体裁と無縁ではありえない。いきおい私たちが書くエスノは、文学と科学の性質をあわせもつハイブリッドな書きものとならざるをえない。(志水宏吉:143ページ)


私たちも文学の細心性と科学の明晰性の両方を忘れない記述を目指さなければならない。

 (3)のメタ観察とは、エピソードの記述が終わってから、再度それを読んでの研究者の考察である。こここそは研究の「考える」部分であり、「深い洞察」が期待されるならここの思考こそが十全でなければならない。思考の結果は第一次メタ観察として他の研究者との討議にかかり、そうして私たちは第二次メタ観察へと至り、研究報告書の執筆へと至ることとなる。

 研究報告書執筆のプロセスは、(メリアム2004)のまとめによるなら、(1)読み手・聴衆の想起、(2)報告書の焦点を絞ること、(3)報告書のアウトラインを先に作ること、(4)実際の執筆を開始すること、である。私たちは、この研究報告により最も益するであろう英語教師(および英語教師をサポートする英語教育研究者)を常に想像しながら(1)、漫然とした報告にならないように記述の要点を明確にし(2)、予め十分に計画を立ててから(3)、十分な時間をとって執筆を行なう必要があるといえよう(4)。
 

参考文献

秋田喜代美、恒吉遼子、佐藤学(編)(2005)『教育研究のメソドロジー----学校参加型マインドへのいざない』 東京大学出版会
ウィリグ, C.著、上淵寿・大家まゆみ・小松孝至 共訳(2003)『心理学のための質的研究法入門』 培風館
鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門  実践と質的研究のために』 東京大学出版会
ハーバマス, J (1968/2000)『イデオロギーとしての技術と科学』 平凡社ライブラリー
佐藤郁哉フィールド(1992)『フィールドワーク―書を持って街へ出よう』 新曜社
波平恵美子・道信良子(2005)『質的研究 Step by Step』 医学書院 
平山満義(編著)(1997)『質的研究法による授業研究 教育学・教育工学・心理学からのアプローチ』 北大路書房  
メリアム, S.B.著、堀薫夫、久保真人、成島美弥訳(2004)『質的調査法入門―教育における調査法とケース・スタディ』 ミネルヴァ書房
やまだようこ編著(2000)『人生を物語る --生成のライフストーリー』 ミネルヴァ書房
Bruner, J.S. (1986) Actual minds, possible worlds. Harvard University Press. 田中一郎(訳)(1998) 『可能世界の心理』 みすず書房

2007年9月25日火曜日

10/1より「田尻科研」シンポの受付開始!

☆☆この文書は各種媒体に転載自由です。広くお知らせいただければ幸いです☆☆

下記のシンポジウムの受付を、10/1(木)より、専用メールアドレスで受け付けます。
tajiri071124@hotmail.co.jp
お名前(ふりがな)・ご所属を書いて、上の専用メールアドレスにお申し込みください。会場の都合で、満員になりましたら締め切らせていただきます。上記のメールアドレスから、受付番号付きの確認メールが来て、受付は完了します。


*****以下、シンポジウムの案内*****


科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践の解明」のお知らせ


趣旨:「プロフェッショナル」「わくわく授業」「ブロードキャスター」等のテレビ番組でも取り上げられた、田尻悟郎氏の英語教育実践は、これまでの英語教育の理論や制度をはるかに超えた優れた実践です。しかし、この田尻氏による「現場の知」を、単なる「名人芸」や「天才の技」といった安易な言葉で片付けてしまえば、私たちが田尻実践から学べることは大きく限定されてしまいます。その成り立ちやメカニズムにメスを入れ解体し、詳しく分析することで、田尻実践を日本の言語教育の改善そして教師の支援へとつなげることを、本シンポジウムはめざします。

日時:2007年11月24日(土曜日)[三連休の中日です]

場所:広島大学(東広島キャンパス)総合科学部 L102教室(教育学部ではありません!)
http://www.hiroshima-u.ac.jp/category_view.php?folder_name=access&lang=ja

対象:現役英語教師、指導主事などの英語教育関係者、英語教師を目指す学生、英語教育研究者、日本語教育関係者、その他。

参加費:無料(ただし事前登録が必要

スケジュール(予定)
第一部
13:00-13:10 開会の辞:シンポジウムの趣旨説明(柳瀬陽介:広島大学大学院)
13:10-13:30 田尻実践を教員研修にどう活かすのか?(横溝紳一郎:佐賀大学)
13:30-13:50 田尻実践における文法の扱い方を斬る!(大津由紀雄:慶應義塾大学)
13:50-14:10 田尻実践における「コミュニケーション」(柳瀬陽介)
(休憩 20分)
第二部
14:30-14:50 英語教師田尻悟郎のライフヒストリー(横溝紳一郎)
14:50-15:50 田尻実践を体験してみよう!(田尻悟郎)
(休憩 20分)
第三部
16:10-17:00 対談:田尻実践とは何なのか(田尻悟郎・春原憲一郎:海外技術者研修協会)
17:00-17:20 質疑応答(田尻悟郎)
17:20-17:30 閉会の辞(横溝・大津・春原・田尻・柳瀬)

申込方法
10/1(木)より、tajiri071124@hotmail.co.jp に名前(ふりがな)・所属を書いたメールを送り、受付番号のついた確認メールをもらう(会場の都合により人数制限あり)

この件に関するお問合せ先:柳瀬陽介 082-424-6794  tajiri071124@hotmail.co.jp

安藤進『ちょっと検索! 翻訳に役立つ Google表現検索テクニック』丸善株式会社

もはやGoogleを抜きにした知的生活など、少なくとも私には想像しがたいものになっています。全世界のウェブページを、コンマ数秒で検索できるというこの技術は、未だに信じられないほどの偉業だと思います。

この検索エンジン(および英語のWikipedia)を使いこなすことで、私たち英語非母語話者が、英語を書く際に大いに助けられることはもはや周知のことですが、http://www.googleguide.com/に整理されているような検索テクニックを私たちは案外知らなかったりします。

そのような検索テクニックをわかりやすく日本語で解説し、またGoogleの検索結果をうのみにしないようにするための解説をしたのがこの本です。著者の翻訳家としての経験が、この本の記述を具体的で平明なものにしています。英語を書く機会が多い人はきっとこの本の情報を重宝すると思います。

この本、あるいは『Google活用最強の裏ワザ・隠しワザ―こんな頭のいい使い方があったのか!』といった本の購入は、知的投資としては非常に価値の高いものではないでしょうか。(少なくとも私自身、知ったつもりで知らなかったことがたくさんありました)。




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2007年9月21日金曜日

英語教育図書--今年の収穫・厳選12冊

大修館書店『英語教育増刊号』に今年も「英語教育図書--今年の収穫・厳選12冊」という長めの書評記事を書かせていただきました。選んだのは以下の書です。どのような興味を持つ読者が、どのように読めば面白いかを私なりに考えて記事は書いたつもりです。

この書評だけでなく増刊号は、毎年「総括と展望」として「英語教育日誌」、「2007年度入試の特徴とその対策」、「英語教育関係刊行図書一覧」、「英語教育関係学会・研究会案内」などを掲載しており、資料価値が高いものになっています。

また今年の特集「声に出して読みたい英語」は、英語の名文とその解説で、ぜひ手元に置いておきたいものです。どうぞ皆様、お買い上げのうえお楽しみください。

*****

田邉祐司・松畑熙一・服部孝彦・坂本万里・Charles Browne編著『がんばろう!イングリッシュ・ティーチャーズ!』三省堂

杉本義美『中学校英語授業指導と評価の実際』大修館書店

樋口忠彦・緑川日出子・高橋一幸編著『すぐれた英語授業実践』大修館書店

門田修平・池村大一郎編著『英語語彙指導ハンドブック』大修館書店

阿原成光『お祭り英語楽習入門—いじめは授業でなくす』三友社

瀧口優『「特区」に見る小学校英語』三友社

松川禮子・大下邦幸編著『小学校英語と中学校英語を結ぶ』高陵社書店

田中慎也『国家戦略としての「大学英語」教育』三修社

江利川春雄『近代日本の英語科教育史』東信堂

金谷憲・英語診断テスト開発グループ著『英語診断テスト開発への道』英語運用能力評価協会

廣森友人『外国語学習者の動機づけを高める理論と実践』多賀出版

ゾルタン・ドルニェイ著、八島智子/竹内理監訳『外国語教育学のための質問紙調査入門』松柏社

2007年9月17日月曜日

英語教育研究のメジャーリーグ化?

「ポストモダン」という言葉は、日本語の文脈ではどこか空疎に聞こえます。80年代の流行語に過ぎないようです。「グローバル」という言葉も、日本の英語教育界では掛け声だけのようにも聞こえます。これまた80年代の「国際化」と同じような語られ方をしているに過ぎないことが多いからです。

しかし私が今回参加したSymposium on Second Language Writing(名古屋学院大学)のような国際会議に出ると、"postmodern", "global"という言葉はまさに現実を表現する言葉であることを実感します。"Modern"の枠組みで作られてきた世界が、全地球化しようとし、その結果、西洋発祥の"modern"を超えた世界のあり方が、逆流するように(元)西洋に、乱流するように(元)東洋に浸透している現実が"global"に現れつつあるということです。

もちろん「グローバル化」とは「アメリカ化」に過ぎないという意見もあります。しかしそのアメリカ自体が異種混交化をさらに加速しているとすればどうでしょうか。今回の学会の基調講演者のLourdes Ortegaさん(University of Hawai'i)、Jun Liuさん(University of Arizona)、Miyuki Sasakiさん(名古屋学院大学)、あるいは実行委員長のPaul K. Matsudaさん(Arizona State University)にしても、少なくとも大学教育まではそれぞれ祖国で祖国の言葉で過ごした人たちです(Matsudaさんは高校まで)。その後、彼女/彼らは、アメリカに知的活動の拠点を置き、 TESOL(Teachers of English to Speakers of Other Languages)を代表する人物として活躍しています。関係者の話によると、このシンポジウムは、アメリカで行われていたTESOL関係の学会が、アメリカ以外に進出したものとして評価されているそうです。そしてこのシンポジウムで聞かれた発表は、日本以上にESLではなくEFL、つまり英語が「外国語」としてしか使われていないアジア諸国の社会文化状況を捉えようとしたものでした。もはやこのような学会は、20年前に私が感じていたようにアメリカのESLだけに関する学会でなく、グローバルにESLとEFLを語る学会になっているといえるのかもしれません。ほとんど日本にしかいない私が、アメリカ発の学会での環太平洋圏各国の研究者からの発表に、日本の英語教育学会の日本人による発表以上のリアリティを感じたのは不思議な感覚でした。英語での言説は、グローバル化し、世界のさまざまな社会文化を取り込みうる懐の深いものになりつつあるのかもしれません。

なんだかメジャーリーグを思い起こすような話です。以前は白人だけだったメジャーリーグも、最初はアメリカ国内の黒人を取り込み、そして現在、急速に世界各国からのプレーヤーを取り込んでいます。取り込むだけではなく、メジャーリーグも積極的にアメリカ国外に出ようとしています。好むと好まざるにかかわらず、日本の野球ももはやメジャーリーグを無視しては語れません。「助っ人」としてメジャーリーガーに頼るだけではなく、優秀な日本人選手はメジャーリーグでプレーすることを選び、その何人かはもはや「日本人選手」としてというよりは「メジャーリーガー」として認知され尊敬を受けています。日本のテレビも時に日本のプロ野球以上にメジャーリーグを特集したりします。メジャーリーグはグローバル化しようとし、アメリカ発のメジャーリーグが、世界各地のプレーヤーとファンを取り込み、そして同時に彼らに取り込まれています。昔の枠組みなら「異種」に過ぎなかったものが混交し、それが新しい現実を作り上げているようです。その新しい現実は、これまでの枠組みでの「現実」よりも、より私たちの日常感覚に近づき始めているとは言えませんでしょうか。

私はこれまで日本の英語教育の現実を捉えるためには、日本語で書かれた英語教育の文献を読んでいたほうがいいと思っていました。「輸入学問」で、日本の現実を無理やり外国の枠組みで捉えることに強い警戒感をもっていました。しかし、もはや日本の英語教育を考えるためにも、英語での文献をこれまで以上に読むべきなのかもしれません。これまで以上に、自分も英語での言説に参加し、「異種混交」のプロセスに身をおく必要があるのかもしれません。「メジャーリーグと日本野球」、「英米の英語教育研究と日本の英語教育研究」などというこれまでの二項対立を、相互排他ではなく、相互浸透の関係で捉えることが必要なのでしょう。

2007年9月11日火曜日

大津由紀雄『英語学習7つの誤解』NHK出版(生活人新書)

英語学習は、ダイエットと似ています。どちらもブームで、多くの人が無関心ではいられません。ともに魅惑的な宣伝文句が並びます。「○○するだけでよい!」「△△は必要ない!」「悪いのは□□だった!」。これまで成功しなかった私たちを慰め、夢を与えてくれるような文句が好まれます。

しかし英語学習もダイエットもそんな単純なものではありません。専門家の役割は、そんな一般人のコンプレックスにつけこんだような商売に便乗することではなく、英語学習やダイエットの原理をわかりやすく解説することでしょう。そこでは厳密な科学者の目と、健全な常識人の感覚の両方が必要です。そしてその両者を兼ね備えた人はなかなかいません。

ですが、英語学習においてはこの良書があります。認知科学者でありながら、なみの英語教育の専門家とは比べ物にならないほど大きく、英語教育(特に小学校英語教育)に対して啓発的な活動を行っている大津由紀雄さん(慶應義塾大学)です。

この読みやすくコンパクトな新書は「しっかりとした英語を身につけたいと思っている方々、そして、将来のためにお子さんに英語を身につけさせたいと考えている方々を念頭において」(4ページ)書かれたものです。話の流れは、英語学習について、ダイエットと同じようにはびこっている誤解を、丁寧に解き明かすというものです。

その誤解とは

(1) 英語学習に英文法は不要である
(2) 英語学習は早く始めるほどよい
(3) 留学すれば英語は確実に身につく
(4) 英語学習は母語を身につけるのと同じ手順で進めるのが効果的である
(5) 英語はネイティブから習うのが効果的である
(6) 英語は外国語の中でもとくに習得しやすい言語である
(7) 英語学習には理想的な、万人に通用する科学的方法がある


の7つです。どれもどこかで聞いたことのあるような見解ではないでしょうか。それらを大津さんは、認知科学の知見を引用したり、健全な常識を働かせたりして、これらの誤解に挑みます。

 といってもこれは英語学習に関する知的探究だけに終わっている本ではありません。付録2では英語辞書と英文法書の親切なガイドがあります。付録1は、英語学習の根底にあることばの深さをわかりやすく語った名エッセイです。

「英語ってどうやったら身につくの?」この単純な疑問を持つ方、あるいはこの疑問をぶつけられる方はぜひ本書をお読みください。

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2007年8月27日月曜日

第一回 地球市民を育てる英語教師のための研修講座

地球市民を育てる英語教師のための研修講座」の第一回が開催されました。中嶋洋一先生は開催にあたって次のように述べます。

私たちが求めるのは、枝葉のような表面的な手法や実践ではなく、自分の根幹(太い幹)となるような考え方です。


やり方としては、三人(一人の学生と二人の現役教師)がそれぞれ30分の発表(プレゼンテーション、授業報告、模擬授業)をし、それに基づいて7-8人の小グループで30分討議し、最後に全体討議で、自分たちの理解を他人と共有するという形を取りました。

 このブログ記事では私が全体討議の司会をした教師の報告について、私が最後の10分でまとめたことを補筆再構成してみます。そのX先生は公立中学校で教えていますが、今回は選択授業での取り組みについて報告しました。

***以下、柳瀬のまとめ***

X先生の授業報告を、皆さんは「生徒が達成感を実感できる授業」、「生徒が自律して学ぶ授業」、「生徒が自分と他者を認める授業」「sharing, community, responsibilityと発展してゆく授業」、「生徒が所属感を覚える授業」などと表現しました。いずれにしましてもこのような表現は、日頃英語教育に対して使われる「入試に何人合格したか?」、「英検の取得率は?」、「規準・基準でいうとどうなるのか?」とはずいぶん違ったものですね。私は入試や英検などを軽視するつもりはありませんが、それらだけを英語教育の枠組みと捉えて、皆さんが今日感じたような授業の理解を抑圧してしまうことを強く恐れています。ですから、本日私は、皆さんが感じた理解をできるだけ私なりに言語化してゆきたいと思います。キーワード、《関わり》、《存在》、《実存》です。哲学用語ですからちょっと違和感を覚えるかもしれませんが、できるだけわかりやすく説明するつもりなので、どうぞしばらくお付き合いください。

X先生の授業はたくさんの《関わり》をもつものでした。教師自身がティームティーチングをしながら、ALTと協働的に授業の理解を進めているのはもとより、生徒も、「国際理解教育」の一環として、他教科や教科以外の世界の出来事との《関わり》を、この選択英語の授業を通じて育てました。またグループ学習やポスタープレゼンテーションでは、他の生徒との《関わり》がこの授業を通じていっそう豊かになりました。さらには生徒が書いた手紙を実際にZ国に出し、そこからさらにフィードバックを得ることによって、生徒は遠いZ国の人たちとの《関わり》を新たに得ました。本当に素晴らしい実践でしたから、30分でなく、せめて3時間、できれば丸一日かけてゆっくり聞きたいものでした。

ここでさまざまな《関わり》が英語の授業を通じて生まれ、育まれ、豊かになっていることに注目したいと思います。といいますのもさまざまな《関わり》を持つことが私たちの《存在》の基盤だからです。

《存在》なんてちょっと大げさな言葉に聞こえますが、私たちがこうしていること、あるいは生きていること、のことです。「いること」「生きていること」といっても、人間の場合、それは単なる物理的事象を越えています。ちょっと安っぽい言い方をしますが、例えばあなたが物理的にはなんの問題も無く、食料も水も与えられているが、何の《関わり》も持てないような白い壁に囲まれた独房に入れられたら、あなたも耐えられないことでしょう。食料と水によって生物的欲求は充たされているはずなのにもかかわらずです。そこまで極端な条件でなくとも、ある少年がいて、彼が周りの人々とも関係を持たず、自らが愛する物も持たず、自らに対しても何の夢も希望も持てずに、かといって特段の過去の思い出もなかったら、彼の人生はとても人間らしいものとは言えないということは、皆さんも同意してくださることかと思います。

私たちは様々な人そして物と、幾重にも《関わり》あっています。それが、私たちが「この世に生きる」(《世界内存在》)ということです。その《関わり》が実感(《理解》)できないことは、人間にとって大きな欠損状態です。しかしながら、現代日本では、《関わり》が段々と薄く表面化し、また少なくもなり、その結果、物質的には豊かなはずなのに人生の充実感を覚えることが難しくなっているように思えます。私たちの《存在》の基盤はさまざまの《関わり》にあります。このX先生の授業は英語を通じて、生徒の《存在》の基盤を充実させたと言えないでしょうか。

《存在》には《関わり》といった空間的な次元だけでなく、時間的な次元もあります。私たちは、空間的にも時間的にもつながった《存在》なのです。ここでは時間的な次元を《被投》と《企投》という用語で説明したいと思います。といっても何の難しいことでもありません。《被投》とは、私たちは、気がついたらこういう状況に「投げ込まれていた」存在であるということです。私たちは第一に、過去において、このような人生に「投げ込まれた」受身的な存在なのです。しかし人間は受身的なだけの存在ではありません。このように「投げ込まれた」中でも、「自分はかくあろう」と自分自身を未来へと「投げ込む」ことを企図する能動的な存在でもあります。受動的な中で能動的であり、過去を引き受けながら未来の可能性を信じるのが人間かと思います。こうして自分自身を受け入れつつも、自分自身の可能性に対してある態度を積極的に持ちうることを《実存》と言います。

話が抽象的になったので、X先生の報告に戻ります。X先生は「緘黙症」とも考えられるある男子生徒(α君)の英語朗読のビデオ映像を見せましたね。私は心の専門家ではないので、「緘黙症」についても専門的知識は持っていませんが、どの中学校にも、一人や二人は、極度に対人コミュニケーションが取れない生徒はいるのではないでしょうか。そのような生徒は、「コミュニケーション」を標榜する英語教育では扱いにくい存在です。そのような生徒は英語では「例外扱い」する先生もいらっしゃるかもしれません。しかし、X先生はそのα君を、生育歴も含めてよく理解し、考えた末に朗読テストに参加させることにしました。これはX先生にとっても賭けでした。朗読テストで指名されても、彼が立ち上がることさえしないことは十分に考えられたからです。しかしX先生はα君との交流の中で、朗読テストへの参加を促し、またα君もそれを受け入れました。ビデオで見たとおり、α君の朗読は声も小さく、聞き手とのアイコンタクトのないものでした。標準的な英語テストでしたら点数化できないものだとさえいえるかと思います。

しかし点数化できないということは、意味がないということでしょうか。そうではありません。α君が「緘黙症」のようになったのは、α君が受け入れなければならなかった彼の人生の様々な要因によるものです。いわばα君はこれまでそのような人生に投げ込まれてきたのです。それに対してX先生はα君に寄り添い、現在のα君を受け入れながらも、新たなα君の可能性に賭けてみる決意をしました。α君もその決意を自らのものとしました。大げさな言い方にしか聞こえないかもしれませんが、この朗読テストはα君の《実存》の機会となったのです。

α君の人生がこのテストで劇的に変わるのかどうかわかりません(また心の問題には細心のケアは必要でしょう)。さらに標準的な英語テスティングの考え方からすれば、このα君のテストでのパフォーマンスは零点に近いものだったということもその通りです。しかし、それではこの授業実践は意味のないものだったのでしょうか?私は、英語教師の心が、妙に頭の悪いpsychometricianや小権力をふりかざす官僚の用語に乗っ取られてしまい、このような実践を心の外に締め出してしまうことを怖れます。実際X先生も、「発表の後、『α君の評価はどうされたのですか?』と聞かれることが怖くて、この発表を控えようかと何度も思ったそうです。しかし義務教育の中で、教師が授業を通じてできるだけ生徒に寄り添うことを考えれば、X先生のような実践というのは出てくるものではないでしょうか。

誤解のないように述べておきますが、私は「すべての緘黙児に英語授業で朗読をさせるべきだ」などといった乱暴なことを主張するつもりなど毛頭ありません。私たちがまずやらなければならないことは、私たちが教師として、生徒と彼/彼女を取り巻く環境、そして教師としての自分自身などを深く《理解》することです。生徒、環境、教師自身、そしてそれらの《関わり》を《理解》し、いかなる教育的行為がここでは適切かを慎重に、時には同僚の力も借りながら、判断することです。その《理解》の末の判断は、現在の自分の教師としての力量では、何もすべきではないというものかもしれません。逆に、生徒の環境の変化からすれば今こそ何かアクションを起こさなければならないことかもしれません。いずれにせよ教師が深く《理解》することが必要です。《理解》抜きに、「緘黙児をいかに喋らせるか」といった問題解決型のアクション・リサーチを、ともかくに行おうとすることなどは避けなければならないと思います。なぜならそのような「問題解決」は善意の暴力ともなりかねないからです。

我々はどのような《関わり》を持っている《存在》なのか。我々はどのように《被投》され、どのように《企投》しようとする《実存》的な《存在》なのか。こういった《存在理解》こそが英語教育、いや教育の根幹にあるべきではないでしょうか。

このような言い方をしますと、よく「結局、英語習得は目的でなくて手段に過ぎず、生徒の《実存》とやらが目的なのですね」といった反論をされる方がいます。そのような反論に対する私の反応は、YesでありNoです。Yesというのは、特に義務教育である場合、教育の究極の目的は人間教育であり、特定の知識・技能獲得が絶対視されること(英語で言うなら「英語バカ」を作り出すこと)は避けられなければならないからです。

しかし私はNoと言いたい気持ちも持っています。といいますのも、上の言い方ですと、英語習得は特に成果をあげなくていいものだ、といった誤解を招きかねないからです。英語教育において英語習得は目指されるものではないのでしょうか。そうではありません。X先生の実践でも明らかなように、生徒は、自分たちの人生の充実を英語授業によって感じていますが、その人生の充実に応じて英語の学びも深まっているのです。この意味では、X先生のような授業では、英語習得と人生の充実は、不即不離の、二つで一つ、一つで二つの教育目標になっているからです。英語の習得で生徒の人生が充実し、その充実で英語の習得がますます深まる。英語の学びで、生徒は自分の《関わり》と《実存》をより《理解》し、その《存在理解》で英語の学びがますます深まる。こういった状態こそが私たちの英語授業が目指すべき姿ではないでしょうか。

本日の私のこのまとめは、お気づきになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、Exploratory Practiceハイデガー哲学の考えに基づくものです(ブログではハイデガー用語を《 》で挟んで表記しています)。私は私がこれらの考え方を歪めていないことを願っています。ですから、このまとめもウェブで公開し、広い範囲の皆さんからの批判を招いて、誤りや歪みや偏りはできるだけ正してゆきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。改めてX先生に大きな拍手をお送りください。