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2017年2月7日火曜日

田尻悟郎先生のスピーチ実践 (6-Way Street) を見た学生さんの声

以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。

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この記事は、前の記事(ハンナ・アレントの講義から学校教育について根源的に考え直す)の続きです。


この授業(後半)では、


アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析


などを参考記事としながら、6-Way StreetのDVD (上巻その2)の田尻先生のセクションを視聴して皆で考え語り合いました。


DVD: 6-Way Street


私自身の考えを忌憚なく言うと、よい英語教師になるために重要なのは、常識、愛情、英語力の三つです。それらを一つにまとめるなら感性です。

感性の働きとは関係のない豆知識ではなく、人々が共有するあらゆる種類の感覚 (common sense) が私のいう「常識」です。教条的な善意に基づく一方向の働きかけではなく、社会的動物としての人間が本能的にもつ温かな心(あるいは「惻隠の情」)が私のいう「愛情」です。限られた知識・技能だけを測定する資格試験の高得点ではなく、その人とその場に即した形で発露されるのが私のいう「英語力」です。

若い世代が、下で語られる田尻悟郎先生のように、自らの感性を信じて学校教育の新しい形を開拓してくれることを期待しながら私は大学で授業をしています。


「こんな先生に出会いたかった! ~豊かな人生を送るために子どもたちに伝えること~」




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■ 田尻先生の実践されたスピーチの授業のビデオはとても印象的でした。あのビデオを見て一番に感じたことは「自分が本当に何かを伝えたい時、自然に顔は上がり相手の目を見るし声に力が入り抑揚が出る。だから、声の大きさとかアイコンタクトとか評価する必要がない。」ということです。

この授業でも行われていたように、評価ではなく感想にすることで、自分の言いたいことがどう相手に伝わったのか、感想を書く側も自分の気持ちをスピーチした人に伝えることができ、お互いの気持ちを共有できると思います。スピーチだけど、そこには聴く人がいて対話が生まれるのだと思いました。


■ 授業の後半では、田尻先生の実践をハンナ・アレントの枠組みで考えようとしました。

スピーチをしているのを見た時に、初めて見た私にも彼らの人格が分かるような気がして、それは彼らが借り物の言葉ではなく、自身の気持ちを伝えるために英語を使っているからそう思えるのだと思いました。なんと言葉にしてよいかよくわからないのですが、楽しそうでした、スピーチをする方は聞いてほしいと思っているし、クラスは彼らのスピーチを聞きたいと思っている。たとえ音声を消したとしても、表情が、からだがもうしゃべっている、というような印象でした。

このスピーチが生まれてくるまでの田尻先生のバックアップはどんなものだったのだろうと気になるます。彼らが自分の気持を話したいと思うのはトピック設定や進行過程がふさわしいだけではないのは当然のことです。普段から、少しずつ自分を安心して開示できる場をつくっていき、語りによって自己開示できるようになっていったのだと思います。

スピーチを終わるときの彼らの嬉しそうな顔がまだ忘れられません。言語だけに囚われず、コミュニケーションを取る力をつけられるように、というのを肝に銘じておきたいと思います。


■ 授業内でも様々な視点からの田尻先生の授業への感想がありましたが、いままで見てきた授業との違いが一番大きかったのが、先生がどのように生徒と関わってきたのかが授業を見ただけでわかることができたという点です。

たった十数分のビデオだったのに、先生がいかに生徒のことを思っているか、生徒同士の関わりが充実していたか、ということが伝わってきました。これも田尻先生が生徒をテストで点をとらせるように育てるのではなく、人間として成長させようとした結果だったのではないかと思います。

これはスピーチにおいて3人目の生徒に「思い」を伝えさせるように内容を変更させた点からも見受けられます。多くの教育現場でこの授業を真似して失敗してしまった例があったといいますが、この実践方法のみが重要のではなくて田尻先生の生徒を思う気持ちが本当に大事だったから、そのような接し方ができていなかったらうまくいかなかったのだと思います。先生と生徒が、または生徒同士が人間として関われるような場を作れる授業があのような場面を生むことができたのだと思います。


■ 田尻悟郎先生の授業動画を視聴して感じたことが大きく2つあります。

まず一つ目に私が中学生の時に受けたスピーチの指導では、ナンバリングや、声の大きさ、発音、スピード、姿勢等に関することでしたが、本当に伝えたいことを伝えている人と、それを一生懸命聞いてくれる人がいれば、そんなことは本当にちっぽけなものにすぎないのだと感じました。しかし実際には多くの学校で、スピーチを聞いた後にチェックリストを用いて友だちの発表を評価しています。

今回の映像の中で2番目に登場した男の子のパフォーマンス?はそういったジェスチャーやポスチャーを遥かに超えたところにあったと思いますし、3番目の男の子も滑らかさや発音などで評価されてしまっては、あまり良い評価にはならないでしょうが、多くの人の心を動かす素晴らしいものでした。この授業は「からだ」から出た「ことば」をみんなが「からだ」で感じ、それをまた「ことば」にして感想を書くという言語の力を話しても聞き手も感じられるものだったと思います。

2つ目に感じたことは、授業でも発表させていただきましたが、スピーチも一種のやりとりと捉えることができるのではないかということです。今までスピーチというと基本的には個人で、または団体で行う一方通行的な発表だと感じていましたが、スピーチは聴いてくれる仲間がいるからこそ成り立つのであり、今回の映像の中で言うと、練習の段階から先生のサポートがあり、先生だけに限らずクラスメイトの協力・演出があり、決して一人で成し遂げられるものではなかったと思います。聞き手が目を合わせてくれる、頷いてくれる、自分の発表を聞いて涙を流してくれる、これらすべてを含めて彼のスピーチが成り立っているように感じました。

この授業を見て、教育実習などでライティング活動をする際に今回はこういう場面設定で、みんなはこういう役ということにしよう、と現実味のない架空の設定を生徒に押し付けていたのではないかと反省しました。今まで私は英語を使わないといけない場面、状況はどんなときだろう?とばかり考えていましたが、そうではなくてもっと英語という言語、教科だからこそ生徒たちができることを考えていかなければならないと思いました。


■ 授業の後半は前回の授業、そして前半のアレントの意味論を踏まえ、田尻悟郎先生の実践をみました。三人の生徒が自分の宝物について英語でスピーチをする映像を見たのですが、これは本当に圧巻でした。それぞれの発表時間はおよそ三分弱ほどだったと思うのですが、その時間で十分彼らの性格を理解、ないしは想像することができました。これは本当に驚くべきことで、他の普通の中学校で、英語で自分の宝物を紹介してもらっても恐らく、「全員同じ」に映るのではないかと思います。生徒がみな自分の身体感覚にぴったり来る言葉を選んで使っているからこそ実現していることだと思います。

田尻先生は「コミュニケーションの仕方を教えるのが英語の授業」というふうにおっしゃっていました。これは多くの先生がわかっていることだと思います。しかし、実際に行動に移す人はすごく少ないのではないかと思います。田尻先生はこの考えを実践しています。田尻先生の実践では、「英語でスピーチをする」ということが最終目標となっておらず、「自分/他人を知る」ということが最終目標になっているように感じました。英語のスピーチはそのための「手段」といして機能していたのではないかと思います。加えて、どの生徒も自身を持って自分の宝物を発表していました。これは学級内に信頼関係がないとできないことだと思います。教員がまずすべきことは「学級という生徒の居場所」を作ってあげることだと思いますが、田尻先生の素晴らしいこと、これを「英語教育」をつかって実現させたことだと思います。

   
■ 後半では田尻先生のスピーチの授業を見ました。あの風景を見て考えたことは、教室空間の中で「人間の複数性」と「独自性」を持つことが許されており、それを生徒が説明できなくてもしっかり感じ取れているからこそ、自分と相手の個性を尊重し「聞く」といった姿勢が作られているんだなということです。

本来英語で自己表現することは、日常生活で必要ないことにもかかわらず泣く生徒が現れるほど、そのスピーチの「意味」は語られており、教室がある意味人間らしい意味世界の縮図になっているからこそ成り立つ活動だと思います。

また、一つのものがもたらす意味はそれぞれの人が持つ経験によって変わるものだと生徒が学ぶことができる授業だとも思いました。さらに、実習において私たちはやはり教科指導を主軸においていましたが、現職の先生方はこのようにしてい学級経営も同時にこなしているのだと勉強になりました。言語という強みを生かして、生徒が安心できる居場所づくりに少しでも貢献できるようになりたいです。


■ 今回の授業で、学校で授業をすることの意味をふまえて英語の授業について考えることができた。学校は複数性が当たり前の社会である。一人で考えることや知識を得ることは学校でなくてもできる。しかし、教室で学ぶからこそコミュニケーションで使えることを実践しながら習得できる。複数性があるからコミュニケーションの必要性も自然と感じるだろう。田尻先生のスピーチの実践でも相手に向かって話すことを意識において話し方はもちろん内容も工夫がされていた。スピーチというといやがる生徒も多くいると思うが、それを授業実践として成功されている先生は本当に生徒からの信頼も厚いのだろうということが伝わってきた。

教科の指導と生徒指導を一体化するのは自分も受けたことがなく教科のことだけ専念してしまいそうだ。だが、結局は生徒指導がうまくできている先生の授業が学ぶことの多い授業になると思う。今は方法論を学ぶことも大切だが、しっかり考えることや最低限の英語力をまずは身につけるように努力したい。


■ 今回の授業では田尻実践を見てみたが、あの素晴らしい実践の裏には、生徒が「英語を使う意義」を感じていることと、「日ごろからの信頼関係の積み重ね」の二つが大きな要因としてあると感じた。

まず、「英語を使う意義」について、生徒は「英語科の時間に英語を使うことでクラスメイトに何かしらのメッセージを伝えられる」という意識が生徒の中にあると感じた。つまり、英語を使うことを目的として、表面的に英語を話しているのではなく、何かしらのメッセージを伝える手段として英語を活用していると言える。そのためにも、日ごろからauthenticで、生徒に話したいと思わせるような言語活動を行っていると考える。このような活動を続ければ、生徒のうちには「しっかりとメッセージを伝えたい。」という話者としての意識や、「相手はメッセージを伝えようとするのだからしっかり受け止めないと。」という聞き手としての意識を身に着け、教室が徐々に心地よくコミュニケーションをとることのできる場所へとなっていくのだと考えた。

2つ目の「日ごろからの信頼関係の積み重ね」は、生徒間と、生徒と教師間の2つについてである。生徒間については、先述の通りで、しっかりとメッセージを聞き取ってくれる相手としての信頼感があるからこそコミュニケーションに積極的になれると考える。生徒と教師間の信頼関係については、まさに3人目の生徒とのやり取りが示す通りで、普段から生徒を観察し、また、生徒も「この先生になら心のうちを話せる」という信頼関係がなければ、あのような発表を強いることは大きなリスクを伴うはずである。

英語教育について学び、教育実習などの実践を通して「英語力」「コミュニケーション能力」といった「能力」を育てるためにどうすればいいかばかり考えてしまいがちだったが、それ以前に「人を育てる」ということがあるはずである。コミュニケーションツールである英語と「人間関係」や「信頼づくり」は切っても切り離せないものなのだから、そこに今一度意識を戻すことで自然と英語教育に適した雰囲気や環境は作れるのではないかと考えた。


■ 田尻先生の授業では「英語科」というものが英語を教えるだけの教科学習になっておらず、学級経営、学校経営のようなものの手段の一つとして英語を使っているという感じがして、この実践での一番の成果は生徒と生徒の心がつながったことであり、その生徒同士のコミュニケーションの媒介として英語が使われているというだけで、生徒からしたらとても自然な形で英語が身についているなと感じました。

聞き手からしたら英語のスピーチとなると日本語によるスピーチと比べてより一層聞き流してしまいそうなものだが、ここでは「伝えたい」「受け取りたい」という本当のコミュニケーションの姿がみられて聞き手の生徒からも意欲的に対話しようという姿勢が見られました。スピーチにおける「1対多」という物理的な形式を感じさせない「1対1×多」を感じられるような場面でした。

教科学習を超えたこの授業において一人一人の生徒を評価しようだなんてことは確実に不可能だなと感じました。

田尻先生の実践の真似が横行したということについて、例えば教育実習で1か月程度だけあるクラスに放り込まれた時に実習生が田尻先生の授業を模倣してもそれこそ単なる猿真似に終わってしまうと感じました。というのも映像で見たような場面に至るには先生と生徒、そして生徒と生徒間の深い人間関係を築くための長い期間とかかわりが必要だからです。あの実践の心臓は先生と生徒、生徒と生徒の開かれた人間関係にあると思います。ここからも教科学習を超えた実践であったということが言えると感じました。



■ 前回の授業ではハンナ・アーレントの複数性という考えを学んだ。我々は物事を評価する時にその価値をひとつの視点からのみ考えがちだが、アーレントは複数の、様々な視点を持つことが必要だと主張していた。これはまさしく教育の場においても言えることであると思う。前々回の授業とも被ってくるが、数直線的な見方しかできていないようでは、そもそも英語力の評価そのものがナンセンスなものになる。一見当たり前のように思えるが、それがしばしばまかり通ってしまうのが今日の英語教育の現状である。

僕が中学生の頃の英語のテストは教科書の本文を暗記するだけで点が取れた。それさえしていれば成績は5段階で5がついた。この数値だけを見れば、この生徒は英語が良くできる、とみなされるのだろうが、実際はそうはいかないのは明らかである。その時の5を取った生徒の中で流暢に英語を話せる生徒は何人いたか、他人の心を動かすようなスピーチができる生徒が何人いたか、と考えると、その数は限りなくゼロに近かったと思う。仮にいたとしても正当に評価されることなく、テスト至上主義に埋もれてしまっていただろう。生徒の英語力を測る物差し(視点)はテストの点数しかなかったのである。そして、そのテストの実態は、教科書の本文をただ暗記するだけである。

このような実例は全国探せばいくらでもあるだろう。テストの点や資格試験が、その人の英語力を評価する唯一の存在になってしまっている。そもそも評価する必要があるのか、という意見もあるがそれはとりあえず置いておいて、英語のレベルに関わらず誰もがそれぞれ個々に評価を受けるにはどうすれば良いのかを考えた。そうずれば貨幣化した点数や資格試験に縛られることなく、学習者が伸び伸びと英語を勉強できるからである。その答えに対するヒントのようなものを得たのが、田尻先生の授業からであった。

田尻先生の授業では、それぞれが自分の特性を活かし、心の底から自分の言いたいことを発表していた。英語のできる子はきれいな英語で話し、ユーモアの好きな子はそのユーモアを活かし、最後に登場した、一見朴訥な印象を受ける子からは、自分が本当に伝えたいことを話しているのが見て取れ、涙を流す生徒も出てくるほど彼のメッセージは心を揺さぶるものだった。なかなか実践例のない授業だろうが、生徒の技能評価に囚われない授業を目指し、自分自身も勉強しないといけないなと感じた授業だった。


■田尻先生の授業から僕らが勘違いしてはいけないことは、「田尻先生は生徒の心だけを大切にしていて、現代の英語教育で取り沙汰される正確な英語の運用能力を完全に無視している」わけではないということです。映像は1年間365日のうちのほんの一瞬でしかありません。その見えない時間に、先生がどんな指導をされているのかわかりません。ですが、少なくとも言えるのは、田尻先生と生徒の間には、確かな尊敬と信頼があるのだということです。

きっと教員になって最も悩むのはこれです。もちろ授業が当たり前のように上手くできるだなんて思っていませんが、その大変さの中には関係性づくりも含まれていて、これこそが大部分を占めるのだと思います。一人一人別々の感情を抱えた生徒を30人と、暴力以外の方法で関係を作っていくのは、想像もできないほど難しいことです。僕は塾講師をしていますが、塾にも多種多様な生徒たちが通ってきてくれます。そんな生徒たちと、学校のように30人を同時に相手にすることはありませんが、それでも一人一人と正面から仲良くなるのはいつも難しいです。しかしそれぞれの個性を考えてんか良くなっていくのは楽しいです。どうやったら笑うのか、何が嫌いなのか、考えた上で毎回接するようにしています。


■ 今回の講義では前半にハンナ・アレントの意味論について考え、後半に田尻先生の授業実践を観て考察をした。

前回は客観性、今回は意味論を考えていったのだが、まず最初に思ったのが前回の講義で学んだ多元的客観性というのが今回の意味論と似ているように思った。様々な観点からある対象を見て、多面的に考えていくことによって客観性を構築していくのが多元的客観性であるのに対し、今回の意味論では、複数性を前提として、複数の視点・観点から出てくる意味を擦り合わせていく、という点が類似しているように感じた。両者共から、「複数性/複数の視点から物事を考える」というキーワードが伺えた。publicという一つの単語からその複数性が伺えたように、ある単語一つ一つや、ある方法や意味を一つに決めつけてしまうことは恐ろしいことで、現実性、意味を見出すために複数性が必ず介在しなければならないことを学んだ。

では実際の英語教育でその「意味」というところを子どもたちは考えることができているだろうか。教師は考えさせることができているだろうか、と考えてみると、成る程イエスとは答えられないであろう。子どもたちは「意味」を考えることもなくI’m fine thank you and you.という決まり文句を言い、普段の会話では考えられないつながりの教科書の英文に気づくことなく音読をしている。何を問われても皆と同じような答えをしなければならないと感じ、それができないために英語に不快感を感じてしまう、苦手意識を感じてしまう、と思ってしまう子どもたちも多いのではなかろうか。英語教育はもっと生徒一人ひとりの複数性を重んじ、一つの型にすべての生徒を当てはめようとすることをやめなければならない。「複数性を認めてあげる環境づくり」を教育者はしていかなければ、「個性」「社会性」を育てることはできないのではないかと思う。現実的に複数性を重んじることは、非常に大変なことだというのは想像できるが、それをやってのけたのが田尻先生であった。

田尻先生のスピーチ活動の動画を観たが、スピーチをする生徒一人ひとりの個性が垣間見れた授業であった。クラスの雰囲気は非常によく、クラスの生徒それぞれが他の生徒のことを理解しているようにも感じた。ではなぜそのような複数性がいい方向に作用するクラスになったのかと考えたところ、田尻先生は「複数性を重んじる環境づくり」という課題をその人と為りをもって解決していったのではないかと私は考える。生徒一人ひとりをしっかり観察し、たくさんコミュニケーションを取り、生徒のために汗水たらして働くことを惜しまない。そういった先生の人と為り、人間性が生徒の心・信頼を掴んだのではないかと思った。田尻先生の授業は生徒発信で、生徒さんたちは英語を学んでいるのというよりも、英語で色んなことを学んでいる姿が見受けられた。

実際の英語教育ではこの視点がずれているのではないかと思う。この文法を教えたいから、この語句を使わせたいからその方向に仕向ける。そのような教えたい知識からの始動ではこのように自分らしさ表現したり、興味を持ったりすることも難しいのではなかろうか。進んで学ぼうとする時というのは、何かを伝えたいけど伝えられない、こんなことを表現したいなどと思った時に初めて出てくるものではないかと思う。田尻先生のように、生徒の人間らしさ、人間的な成長を促す一手段として英語教育を捉えていくことが、これからの英語教育にとって重要ではないかと考える。

これだけ現在の英語教育について批判していながらも、自分が田尻先生のような、生徒の個性を育てながら英語の能力も付けさせることができるかと問われたら99%できないとは思うのだけれど、田尻先生のような効率の良い英語の教授法のモデルを知れたことは、今後の自分にとって明らかにプラスになったと確信している。


■ わずか中学3年生にして,ましてや使い慣れていない第二言語の英語で,あれだけのスピーチができることに驚きを隠せません。A君が,涙をこらえてスピーチをしていましたが,口から出ているのは英語で,でも,心でその英語を噛みしめて,その意味を感じているのだと,まさにこころとからだで英語を使用していました。生徒の伝えたい,という気持ちを引き出すような内容を選ばせる先生もすごいですが,別に伝えたくない内容だったらスピーチをする意味がありません。Speakerと聴衆の,目に見えるコミュニケーション(聴衆のリアクション)であったり,見えないコミュニケーション(聴衆のこころに何か影響を与えること)であったりがあるからこそのスピーチだと実感しました。

田尻先生の実践をまとめた,『生徒の心に火をつける』という本を以前購入し,読んだことがあります。今日の授業で扱ったスピーチ実践についてもたしかこの本に書かれていたなと思い出し,本棚から取り出してみました。印象的だった部分を引用させていただきます。


「スピーチの評価に関しては,内容,態度,発音,声の大きさなどでは評価しない。それは練習段階で教師が指導するものであり,教師と生徒,あるいは生徒同士が苦労し,協力して準備したものであるので,減点法で評価することは私も生徒も好まないからである。また,リハーサルの段階で,英文をすらすら言えるだけでなく,意味を分かったうえで聴衆に語りかける口調でできなければさらに練習を課すので,本番を迎えたときはかなりのレベルに達している。したがって,本番を迎えた時点で満点を与えるようにしている。」


もし,評価論の授業で今日見た3人の生徒の評価をしてくださいと言われたら,1番目の女子生徒は英語も端正で,聴衆にアイコンタクトもとっているし,非常に堂々としているからA評価,2番目の子は,英語を使っている時間よりも体を使ってパフォーマンスをしている時間のほうが長いからB評価かな,とかそういうふうに考えてしまいます。非常に恥ずかしくなりました。

本番で満点を与えるためには,練習段階ですでに満点の状態にしなければなりませんが,本によると,まず原稿をALTや先生に読んでもらって添削してもらい,それを発音してもらい,先生はそれをMDに録音して渡したそうです。生徒はそれを何度もシャドーイングしたのち,100回自分で音読,read and look upで暗記できたら放課後に先生にリハーサルを見てもらい,ここで及第点に到達すればあとは本番のみですが,改善点のある生徒にはさらに課題を出して,何度も何度もリハーサルに付き合います。先生もなかなか合格は与えません。先に合格した生徒は先生役に回って,なかなか合格できない生徒を一生懸命支えます。

これは生徒同士,先生と生徒のコミュニケーションであり,英語教育を使って生徒指導をしていると言えるでしょう。英語教師に必要な3要素として,常識・愛情・英語力がありましたが,この愛情の部分が,生徒の「伝えたい」を本気で支える,先生の献身的な姿勢に現れていました。









ハンナ・アレントの講義から学校教育について根源的に考え直す

以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。

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以下は「コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、ハンナ・アレントについて講義した際の学部生の書き込み(予習・振り返り)の一部です。

授業(180分)では、前半でアレントを扱い、後半でその枠組を使って田尻悟郎先生(現在は関西大学)の中学校での実践を見て討議したのですが、後者のトピックについては次の記事で扱うこととして、以下はアレントについて学生さんが考え書いたたことを掲載します。

学生さんはまだ学部生であるということもあり、自分の小中高時代の経験をよく覚えています。その記憶、感性を失わずに、学校教育を改革していってほしいと切に願っています。





*****予習*****


■ 英語科が何を教えるための科目かということについては、英語科学習指導要領に「コミュニケーション能力」とはっきり書いてあるものの、実習の時にはそれが分かってはいても”かりそめの言葉”になってしまっていたように思います。

確かに言語材料がないとコミュニケーションは面白くならないのだけれど、教師があまりにも近視になってしまうといかに言語材料を教えるかのみに終始してしまうという本末転倒になってしまうのです。


■ 英語教育では、ペアやグループ活動を推進しており、多くの教師が、生徒同士が関わりあう活動を取り入れつつある。この事実に私たちは英語教育の改善を見出してしまいそうだが、実際やっていることはただの意味のない、意味交渉のない会話ということになってないだろうか。

習った文法、表現を使うためだけに紡ぎだされる言葉が生徒のからだを通して生み出されたものではない。アレント的にいうなら、活動ではなくただの制作になってしまっていることが多いのではないかと学生の立場ながら考える。自己表現という言葉について、私たちはもっとよく考えなければならない。昨日やったことを言わせたり、ディベートで反論をさせたりして、「はい、自己表現できました」と簡単に考えてはいけない。自己表現というものは、自分自身のからだ、こころとの語り合いによって生じるものあり、自分が伝えたい、聞いてほしいといった思いとともに自然に思いうかぶものではないかと思う。

しかし、なかなか伝えたいというように思うことも少ないし、ましてや正しいか正しくないかだけで測られてしまう制作的空間においては、自分自身を相手にさらけ出すことは不安でもあると思う。そのような状況では、人間がもつ複数性というものが排除され、単一的な人間的ではないヒトが生み出されてしまいかねない。

この予習から教師としてすべきことはまず、前回もでてきたが、生徒のからだが反応してしまう、自然と話したい、伝えたいと思ってしまうような、課題設定を考えることである。生徒がこの感情をもたなければ本当の意味での自己表現は成立しないと思う。

次に、生徒が恐れずに自分をさらけだせるような環境づくりに徹することです。数値で測るようなことを続けていたら、正誤で判断されることを気にするあまり、無難な答え(内容)で済ませてしまう。生徒一人ひとりの複数性を認め、それぞれに良さを見出せるような環境をセッティングしていくことが必要だと考える。それだけでなく、予習記事にもありましたが、やはり英語を扱う能力というものも大切であるので、そこをないがしろにすることはよくないが、上記の2つを重要視していかなければならないなと思う。



*****振り返り*****


■ 私は今回アレントの意味論を学ぶ中で、アメリカの新大統領であるトランプ大統領のことが何回も頭によぎりました。アレントは、人間は一人ではなく、互いに異なり矛盾することもあるかもしれない複数の人間の中で生きている、ということを前提とし、人間についての学問、そして複数の人間がどういぇって共存してゆくかという政治は、あくまでも人間の複数性を前提とした上で考えなければならない、と言っています。この「人間の複数性」というのは、人数のことはもちろん、人種や宗教、個性など様々なことが当てはまると思います。

 しかし、トランプ大統領の発言を聞いていると、その複数性を無視するような言動がたくさん見受けられます。この前テレビでニュースを見ていると、リンカーン記念館の前でトランプ大統領の支持者と反トランプ派の人々が激しく言い争っている光景が映し出されていました。反トランプ派の人々は、女性や移民の人々、また黒人の方やイスラム教徒の方、そして同性愛者の方などいわゆるマイノリティの方が多い印象でした。

インタビューの中で、反トランプ派の人が「トランプ大統領は大統領に就任した翌日にホワイトハウスのHPのLGBT(性的少数者)コミュニティーの権利に関するカテゴリーを消していた」と言っていたのを聞き、アメリカがまたマイノリティに対して厳しい目を向ける国になってしまうかもしれない…と思い、ぞっとしました。Googleで検索してみると、その予想は現実のものとなりつつあるようでした。

トランプ大統領が当選してからというもの、イスラム教徒の女性を襲ってヒジャブと財布を盗むといった増悪な事件が頻発し、学校のトイレには黒人に対する差別用語が大きく書かれるなどの嫌がらせも増えていると言います。しかも、このような差別的な落書きの多くに、「#Trump」と添えられているようです。トランプ氏によって、人々の中に眠っていた差別心や自分と違う人間への恐怖といったマイナスの感情が呼び起こされ、トランプ大統領の名を借りることで、あたかも自分の行動はアメリカのためだと言わんばかりに暴走を正当化しているような印象を受けました。

 この状況は、日本で暮らしている我々からすると想像し難いことなので、今のアメリカの状況を日本に置き換えて、白人を我々日本人だとして考えてみました。

もし日本に様々な民族の人々が入ってきて、私たち日本人の職を奪い、日本語という言葉の存続も危うくなってきたら、少なくとも良い気持ちはしないでしょう。そこで、日本人が一番すごいのだ!日本人のための素晴らしい日本を作ろう!と言われたら、権力にすがって我々は日本人至上主義を唱え始まるかもしれません。

つまり、自分の身を守るため、恐怖から逃れるため、権力や暴力といった力で敵を封じ込めようとする人間の弱さが、一気に溢れ出るのです。双方いろんな理由はあるにしても、暴力や差別行為はいかなるときも正義にはなりえません。

 これまでの授業でも、権力が他者に与える影響の大きさを学びましたが、トランプ大統領は、自分の発言がどれだけ自国民に影響を与えているのかをもっと考え、アレントの言うように「現実はたくさんの観点や視点が存在して成り立つ」ということをもっと重要視すべきだと思います。

また、アレントは「人間が人間として人間らしく生きることに関しては、真理や客観性よりも、意味や現実を重視すべき」と言っていますが、これはアジア人、白人、黒人、といった客観的事実よりも、その人がどのような考え方や個性を持っているのかという現実をみることの大切さにも繋がっていると思います。人種などといった枠組みでしか人間を見なくなると、ドイツ人がユダヤ人に行ったホロコーストのような非人道的行いが生まれます。授業の中で、“We are different, but equal”という言葉がありましたが、ここで言う平等とは、人間の複数性を認め、一人の人間としてお互いを尊重し合うということではないかと思いました。


■ アレントの基本的な考え方である「複数性」というものについてですが、「互いに通分できないかもしれない観点と視点があるからこそ、この世には完璧な秩序は到来せずいつもゴダゴダが絶えません。しかし、だからこそ私たちは暴走せずにすんでいるのではないでしょうか。」というスライドの文章が印象的でした。

人間はみんな等質(same)ではなくdifferentなのであって、何か1つの「真理」を決めてしまうとその真理が絶対になってしまい、その真理とsameであることが理想の状態と捉えられ、それとは異なるものは悪や劣るものとして認識されてしまいます。するとアレントが経験したような戦争、ドイツ軍によるホロコーストのような悲劇が起こってしまうのだと思うと1つの物差しだけですべてを決めてしまう、「複数性」が排除されてしまうことはとても怖いことだと思いました。


■ 真理や客観性ではなく意味や現実が人間らしく生きるためには大切であるということを理解することができました。例えば、教育というのは間違えなく人間らしくあるべきものだと思います。生徒は学校生活を送る中で、異なった視点を持った人たちと語り合いを繰り返し、つまり現実の世界で生き、語ったり読んだりすることでなんとなく言葉にならない意味を見つけ出すことができます。

このように生徒側は人間らしく学校生活を送っているにも関わらず、今の教育では学力はもちろん生活態度までをも数直線上で「客観的」に評価してしまっています。そういう制度だから仕方がないと言われればそれまでだとは思いますが、多面的な視点を身につけている生徒を、凝り固まった視点から観察のみならず評価もしてしまっているのはなんだか皮肉な話だなと思いました。


■ 複数性に関して,ペアでも話したことが2点ありました。1点目は,いくら多くの人間が集団として存在したとしても,それぞれが個性を持つこともせず,自己表現をすることもしなかったら,語り合いはあり得ません。権力の強いものがあるとき,多くの人間は二次観察をすることなしに意味を定義づけてしまいます。新たな意味を明らかにしようとしない,というかできない状況に陥ります。意味の対象物の権力が強すぎる故,それに異議を唱える者はごく少数だと感じました。全国統一テストも,何らかの権力が裏にあるのかなとも思えてきました。

 2つ目は,小学校の国語の授業の話です。よく,詩を扱う授業がありましたが,私は一種のトラウマ的な経験があります。詩の内容は覚えていませんが,先生が,「この文はどんな意味かな?」と聞かれ,自分なりの考えを発表すると,先生の欲しい答えとは違ったのか,「うーん,それもあるかもしれないけど…他にはどうかな?」と言われました。そのときは単純に自分が間違った答えを言ってしまったんだと思いました。

また別の日の国語の授業でも,詩を扱って,「この文の意味は何だろう?」と先生が質問します。以前同じシチュエーションで間違えた経験があったので手を挙げなかったのですが,クラス誰も手を挙げておらず,先生は「間違えてもいいよーはい,だれか。」と加えます。私は手を挙げて意見を発表したのですがこれまた「先生の」答えとは違ったのか,困らせてしまったのです。その後,国語のテストで,授業で扱った詩の解釈の問題が出されます。次の選択肢のうちどれがこの文の意味として正しいでしょうか,といったものです。

今考えてみると,詩というものは特に,読む人によって意味が変わるもので,解釈は十人十色です。それが詩の醍醐味でもあるのに,答えを決めつけて,選択肢のテストをして…。学校は,人間が様々な個性を持っているということ,そしてその人間によって明らかにされる意味も同じく多種多様であるということを学べる場であってほしいと思いました。


■ 授業の前半ではハンナ・アレントの意味論についてのお話でした。人間が人間であるための条件は複数の人間の中に生きているということであり、人間が複数で存在するということは人間が語り合う公共的空間があることを必要とするというのがアレントの主張でした。

ここで私が思い出したのは、小学生の時のクラスです。小学校4年生くらいまでだったでしょうか、どの教科の授業でも、クラスのほとんどの児童は答えが分かったら先生に当ててもらおうと「はーい!」と大きな声で右手を挙げます。「はい!はい!はい!」と何度も叫んで主張する人もいました。そこに、間違えたらどうしようという不安や恐れはありません。しかし中学生になり、高校、大学と進むにつれ、私たちは自ら挙手して発言することはほとんどなくなりました。なぜこのようになってしまったのでしょうか。

 複数の人々が集まって語り合うことの意義は、一つの物事が多数の観点と視点から観察され、それに基づき人々が語りあえることだとアレントはいいます。だからこそいざこざもありますが暴走はないというお話でした。小学生の時は複数の人間が集まる開けた公共的空間が、無意識のうちに作られていたのだと思います。個々が認められるから児童ひとりひとりが伸び伸び発言できる空間でした。そこで小さないさかいはあっても、誰か一人の意見が暴走したり一つの考えに縛られたりすることはありません。

今、そのような空間が失われてしまったのは学校教育に一つ原因があると考えます。知識偏重の学力が良しとされ頭の良い子が褒められる、先生も知識を問うばかり。今思い出すとおかしなことなのですが、高校での国語の授業中に「ここはテストに出る」と先生が言った箇所を暗記し、テストでそれをそのまま書くということを皆していました。しかもそれは、登場人物の心情を記述する問題なのに、です。授業ノートに自分の意見を記述していてもそれを赤線で消し、テストのために先生の答えを書き取ります。今思うともったいないことをしてしまいました。今とは違う、高校生の時の自分の感性を生かし、もっと自分で思考して表現する訓練をしておけばよかったと思います。

話がそれてしまったかもしれませんが、人間が複数で生きている限り、たった一つの視点でしか物事を見られないというのはあまりに人間らしくありません。授業中にペアになった友人が附属校の先生に言われた言葉を教えてくれました。「知識は問うな。アイデアを問え」というものです。英語教育でただ一つの「真理」を問うてしまうと個々の感性を潰してしまいます。答えが複数考えられるアイデアを問えば、教室が真の公共的空間になるのではないかと感じました。


■ ハンナアーレントによると「複数性」というのが人間を人間たらしめるひとつの条件であるとありました。したがって人間の生活する現実では、意味が複数の異なる人々によって語り合われて形成されていくことになります。つまり「これはこういうことである」といったような一元的な定義付けがされるわけではなく、開かれた世界において各人がそれぞれにことなった位置から見たり聞いたりされることになるのです。しかし客観主義にたって物事をとらえようとする現代では、ひとつの数直線を用いて一元的に観察することによって「客観的」であるとするので、現実に必要な多様性や複合性はやがて破綻してしまいます。

学校教育ももっと開かれたに場(真の意味での公教育)にする必要があるように思いますが現在はますます閉じられた空間になっているような気がします。教師も交えながら生徒たちが1つの物事について語り合うことによって考えを深め、彼らが人間らしさを失うことなく成長を促します。しかし実際はテストの存在が大きくなりすぎているせいで、生徒もそこに目を向けざるを得なくなっており、語り合いによって得られる複数性などに何の価値も見出せなくなってしまっています。

自分の学習を振りかえってみても、点数などをほとんど意識してなかった小学校の頃はもっと活き活きした学習ができていたのではないかなと思います。テストが頻繁に行われるようになった中学校時代からテキストと向き合って重要語句を追いかけるばかりの学習が始まってしまったのだと思います。


■ アレントの言う複数性というのは、教育に携わるのであれば知っていなければならないのだと感じました。現実世界は多くの人がいて、決して単一の簡単から解釈することはできないし、しようとしてはいけないのです。僕らが目の前に抱える生徒というのは、もちろん個体の数的ににも単一ではありませんが、その外見、性格、感じ方ですら同じではありません。それを一括りにして、唯一の方法論で全員を扱おうとしてはいけない。

また、意味というのは経験から構成されるというのは、本当にそうだと思います。経験していないことは意味として正しく理解できない。これは当たり前のようで、あまり意識していないことだと思います。また、経験していても、「その文脈のその意味」が分からなければ、理解できません。

これは英単語学習を例にするとわかりやすいと思います。単語帳に書いてある意味をそのまま覚えるだけでは、実際に英文に出てきたときにその英文を正しく理解することは難しいです。単語帳に書いてある訳語は、英文に何度も出てくるその単語を、その単語の意味と正しく照らし合わせて日本語に訳す際に、高い頻度で現れやすいというだけだからです。つまり、単語帳に書いてあるのは「意味」ではなく、高い頻度で現れる「訳語」ということです。


■ 人間が人間的であるためには複数性を前提とすることが必要です。人それぞれ違う観点、考え方を持っており、それを語り合うことで意味になるとアレントは主張しますが、僕も、個人が身体で物事を捉え、ある考えをもてばそれ自体で意味をなすというふうに考えます。それは自分自身との語りあい、つまり自分の身体、心との対話によって生まれるものだからです。そしてその個人でもった意味を他者との語り合いによってより高次的な意味へと作り上げていく。前の授業のことで考えるならば、多元的客観性に似たようなものです。これこそが、人間的な営みであると考えました。

そして、こう考えると、これを行うには様々な条件が必要であると思います。まず、自分自身と対話するための、みずみずしい身体、何かに反応して身体や心がざわめくといった感性が必要です。そしてその沸き起こった情動を頭の中で整理したり、ことばで表現したりするなどの知性、言語力が必要となってきます。その後、他者と語り合うための、社会性や言語力、思考力なども重要です。一言で社会性と表現しましたが、人と良好な関係を築く力や、他者の存在、意見を認める力(環境)などがあります。

考えてみると、この意味や現実を追求する人間的な営みとは普段我々が常にしていることであり、基本です。ただ、例えばみずみずしい感性が欠けていると、自ら意味を作り出すという経験が少なく、それゆえ他者と語り合うことも少なくなります。社会性がない人であったら他者と本心で語り合うことすら許されないかもしれません。それゆえ、これらすべてが関わっている活動であるとさえも考えました。

教育の場に話を移すとすれば、複数性、他者が異なる観点、考え方をもっており、それによって現実は構成されているのだという極めて当たり前かつ忘れがちな性質を前提としている教室で、教師は当たり前のようにテストでいい点をとれるようにという数直線的指標に従って授業を進めており、評価もあらかじめ決められた数直線的指標に従って遂行される。このような環境下では、個々の観点や感じ方はできるだけ排除され、意味がその指標に一元化されてしまう。さらに、それゆえ生徒は、「自分の個人的な意見や考えってどーせ受け入れられんし」と考え、無難な答え、いわゆる誰にとっても‘正解’を探し求めてしまい、個性がなくなり人間的ではない空間が生まれてしまう。このような状況になってしまってないかなと考えました。

田尻先生の実践にもあったように、それぞれの自由のやり方で自分の大切なものについて語っている姿はなかなか実現できるものではないでしょう。それには、教師と生徒、また生徒同士の信頼関係が存在し、それぞれが他者を受け入れるような環境があってこそです。

またこの実践を見て、ことば(非言語的も含む)の力ってすごいなと感じました。このことばは自らの身体や心から湧き出た言葉、表現のことを指すと思っていますが、これによって他者の身体になんらかの変化をもたらし、意味の語り合いが始まる。田尻先生の実践では、3人目のスピーチがそれぞれの人に意味を与えました。ある人には卒業が間近に迫った哀しさ、ある人にはこのクラスでよかったという安堵感という意味になり、涙、感動という形になって表れたのだと思います。

こういった経験は言語教育でしか果たせない宝だと思います。こういった経験を通して人間的成長を遂げ、それこそいろんな意味で味のある人間になっていくのではないかと感じました。


■ 後半の授業での、「良い英語教師に必要なものは常識・愛情・英語力」という柳瀬先生の言葉が個人的に強く印象に残りました。

私たちはプランニングや方法論などの授業で、授業構成や指導方法を学び、どうすれば生徒を引きつける授業ができるのか、どうすれば生徒の理解度を上げることができるのかといった点について考えてきました。しかし、これらの授業で学んだことはどこの学校でも通用するわけではなく、当然ながらそれぞれの学校の校風や学力などを考慮した上で、その場その場でベストな方法を選択しなければなりません。また、英語教育は絶えず変化し続けており、現在当たり前だとされていることが数年後には否定されている可能性も十分にあります。つまり、私たちは授業を通して授業構成や指導方法の数例のモデルを見たに過ぎず、見たものをそのまま応用することは不可能だということです。

そこで重要になるのが、常識・愛情・英語力を持っているかということです。いくら授業構成や指導方法に工夫を凝らそうが、生徒が「この先生についていこう」と思うにはこの3点が必要不可欠であり、1つでも欠けていれば、思わぬところで躓いてしまうかもしれません。逆に言えば、この3点が十分に備わっていれば、授業構成や指導方法に施した工夫が功を奏しやすいともいえます。愛情はともかく、常識や英語力は大学在学中に努力すればある程度身につくものなので、できる限りの努力はすべきだと思います。


■ 私は,普段何かのテーマについて話し合うとき,その課題をみんなで解決する手段を考えたり,何かに対する意味づけをしたりすることが多く,結論が出ないまま話し合いが終わると,自分の無力さを感じてしまったり,話し合いの効率を考えてしまったりすることがあったが,今日の講義を聞いて,「これだ!」という決定的な意味づけを行うことができないのは当然であり,そもそも語り合いの目的は,そこではなく「語り合うこと自体」に意味があるのだと知って,今まで自分が行ってきた話し合い(語り合い)はすべて有意義なものだったのではないかと感じられるようになった。

一元的に「これはこういうものだ。」と決めつけるのではなく,あらゆる可能性・観点・視点から物事を考え続ける,語り続けることこそがとても重要であると思うと,これからももっと様々なことに対して頭を悩ませながら,周囲の人々と語り続けていきたいと思う。


■ 心の動きが意味の創造に大きく関わっているのだとしたら、感動体験がなければ意味も何も感じることができなくなり、共有も難しくなってしまいます。子供が世界に豊かな意味を持てるように感動体験を与えるのも、教師の仕事なのかもしれないと思いました。


■ 真理や客観性よりも意味や現実を見ろと言うアレント。

「それってどういう意味?」

私たちはすぐに言葉を言葉で繕って、分かったつもりになろうとする癖がある。しかしアレントは、そもそも意味を定義できると考えることが間違いではないかと指摘した。じゃあ彼は”意味”についてその意味を定めないでどう捉えているのかといえば、”何って言っていいのか分からないもの”などと言うのだろうか。「意味」という単語は辞書に載っているけれども本当は、意味を定義することなく意味を明らかにして進む物語のように現れては消えていくもの。移りゆく心の動き。…と言いながら今こうして自分がアレントによる意味の意味を定義しようとしているのが何とも面白い。

だが確かに、現実世界は複雑で”何って言っていいのか分からないもの”があっていいし、むしろそういった曖昧さというのは大事にしていかなければならない感覚だと私は思う。そのよく分からない部分に「人間らしさ」がある気がするからだ。そして一人一人が、交わらない固有の立ち位置をもてばもう現実は数えきれないほどの視点や観点で溢れかえる。意味など定義されるわけもない。もし一つの観点しか許されないとしたら、それは一色の世界のようにつまらないものになるだろう。

授業中に発言したことでもあるが「平等」について、それが等質だから平等なのではないということが私の中では非常に印象的だった。学校教育における教師の支援に関して、大学のある授業でされた話を思い出した。たしかこのようなものだった。「背の高い子どもと、背の低い子どもがいる。背の低い子どもは黒板の上の方まで手が届かない。その二人の子どもが前で板書をしようとしているとき、背の低い子どもに踏み台を差し出すことは不平等な支援だろうか。」この話で、背の低い子どもに踏み台を貸すことが特別な支援であるとは思わない。当たり前で、自然なことである。この例が適切かどうかは分からないがとにかく、必要とされる支援をすることこそが教育においては平等であり、支援が等質であることが必ずしも平等でないということだ。平等に、踏み台は貸さないということが本当に平等か?という話である。


最後に田尻先生の実践には本当に、言葉を奪われたような感覚だった。自分が島根県出身ということもあり余計に興味津々。たったあれだけの時間でこんなにも感動してしまう動画があるだろうかというくらいの衝撃だった。あの後、何も知らない友達に対して感動を伝えたくて仕方がなくて必死に話をしたが、動画を見ていない上に私が説明下手なのでうまく伝えられなかった。…

何一つ具体的な感想が言えてないが、田尻先生の授業は英語科の枠組みの中にとどまらない、まさに「教育」だと思った。英語科を超えているようで超えているとは、たぶん言わない。超えていると思うのならばそれはきっと、私自身が英語教育を狭い範囲でしか捉えられていないから。英語教師である前に一人の教師であるということ。その上で、外国語だからできる教育と、外国語だけどできる教育をしていかなければならないという気がした。

2016年10月25日火曜日

アレントの言語論に通じるル=グヴィンの言語論

※ 2016/10/26に内容の一部を変更しました。

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 現在、「行為」 (Handeln) に関するアレントの見解をまとめたノートを作成中なのですが、ドイツ語を解釈し翻訳しなくてはならないので作業が遅々として進みません。そんな中、私のツイッターリスト (essentials) で流れてきたル=グヴィン(私も大好きな『ゲド戦記』の作家として有名です)の言語論が、アレントの言語論と驚くほど似ていたので、ここに簡単にまとめておくことにしました(英語ですと解釈も翻訳も楽です)。

このページに引用されているル=グヴィンのことばは、以下のサイトから転載したものです。


Telling Is Listening:
Ursula K. Le Guin
on the Magic of Real Human Conversation



以下、見出し(■印)に続いて、「原文」「拙訳」「解釈」「訳注」の四項目でル=グヴィンの言語論をまとめますが、その前に私がなぜこのような言語論に興味をもつのかを、簡単な二つの日常事例で説明しておきます。

一つは、「この件はメールではどうかと思いますので電話でお話します」、「いや電話ではなくぜひ直接お会いしてお話しましょう」といった私たちの日常事例です。これだけメディアが発達した現在でも私たちは、文字列を読むだけよりは相手の肉声を聞くことを好んだり、ただ肉声を聞くだけではなく面と向かって表情を見たい(また自分の肉声と表情も示したい)と思ったりすることは多々あります。もし要件が結論を得ることだけでしたら、電話や直接面談は一件無駄のように思えます。また、どんな媒体で伝えられた言語も、とりあえず同じ言語のサンプルとして考える言語学の標準的作法ではこの違いを説明できません。

もう一つは、相談にのってもらった人などが「話を聴いてもらって力が湧きました」などと言う日常事例です。聴き手はなんら助言をせずに、頷いたり簡単な相槌をうったりしただけの場合でもこのような述懐はしばしば聞かれます。もし聴き手の役割が単に受動的な受信者であるのなら、話し手はなぜ聴き手の有無によって(あるいは聴き手や聴き方の違いによって)力を得たり得なかったりするのでしょうか。また、聴いてもらって得られたとする「力」とはどんな力なのでしょうか。原則として話し手や聴き手といった人間ではなく、そこで使われた言語という抽象化され理念化された記号体系を研究対象とする言語学の標準的作法では、この事例も説明しがたいままです。


しかし、アレントやル=グヴィンの言語論、あるいはボームやオープンダイアローグや当事者研究の対話論に依拠してこういった事例を考えると、すっきりと理解できるように思えます(もちろん、それは言語学が目指す科学的説明とはかけ離れた説明による理解ですが)。

私としては言語学の方法論あるいは自然科学の方法論への忠誠より、教育やその他の現場の困惑に対処することの方を重んじていますので、こういった非-言語学的な方法を躊躇なく採択しています。

こういった問題意識については、11月26日(土)に明海大学で行われる「第19回応用言語セミナー」での一時間の発表でも語る予定です。


第19回応用言語セミナー
応用言語学を考える
2016年11月26日(土) 13:00-17:30
明海大学浦安キャンパス
講義棟1階2102教室


ここではその発表のための準備も兼ねて、以下にル=グヴィンの言語論を簡単にまとめておく次第です。



■ 相互主観性とは、参加者が共に主体としてお互いに働きかけると同時に働きかけられ、そのことによって共に変化を続けることによって参加者それぞれに経験される主観性である。

・原文
Live, face-to-face human communication is intersubjective. Intersubjectivity involves a great deal more than the machine-mediated type of stimulus-response currently called “interactive.” It is not stimulus-response at all, not a mechanical alternation of precoded sending and receiving. Intersubjectivity is mutual. It is a continuous interchange between two consciousnesses. Instead of an alternation of roles between box A and box B, between active subject and passive object, it is a continuous intersubjectivity that goes both ways all the time.

・拙訳
顔と顔を合わせての生のコミュニケーションは、相互主観的なものだ。相互主観性は、現在「インタラクティブ」と呼ばれている機械を通じての刺激と反応のやりとりをはるかに超えている。相互主観性は、そもそも刺激-反応の関係ではない。予め符号化されている送信と受信を機械的に交代させることではない。相互主観性とはお互いに生じるものである。二つの意識の間で相互変化が生じ続けることである。Aの箱とBの箱の間の役割、能動的な主体と受動的な客体の間の役割が交代するのではなく、常に連続して双方から働きかけるのが相互主観性である。

・解釈
 相互主観性とは、特定の参加者だけに帰することのできない、参加者全員に関わる特性である。参加者が自分たちの間に成立していると感じる主観性であり、それは参加者それぞれが他の参加者に対して働きかけまた同時に働きかけられることにより成立する。
 こう書くと、相互主観性とは摩訶不思議なもののように思えてくるかもしれないが、相互主観性は私たちがしばしば経験しているものである。精神医学・臨床哲学の木村敏氏がよくあげる例が弦楽四重奏の演奏であるが、四人の演奏者はそれぞれの演奏を(自分を含めた)すべての演奏者に向けて行うが、その演奏は同時に(自分を含めた)すべての演奏者の演奏を受けての演奏である。弦楽四重奏においては、特定の誰か(例えば第一バイオリン)が演奏全体を導くことはできても、演奏全体を支配してしまうことはできない。弦楽四重奏全体はお互いに影響を与え続け与えられ続けている四人の演奏者の連動によって作られるものである(ジャズグループの即興演奏なら、この連動性はもっと強いだろう)。それぞれの演奏者は、それぞれに自分だけの主観性(あるいは後述するように主体性)を超えた、この集団によって構成されている主観性・主体性を自覚するだろうが、それを相互主観性と呼べると私は考える。
 日常会話でも、どちらか一方ではなく両方が作り出す会話の喜びはある。それぞれが思いもよらなかった展開が生じ、相手のことだけでなく自分のことにも新たな発見がありそれぞれが上気する。「私たち、馬が合うね」(注)という「私たち」の意識も芽生える。これも相互主観性の一例ではないだろうか。
 このように考えると相互主観性は日常生活で私たちが経験している「現実」 (Wirklichkeit) の一部といえるだろう。

関連記事:真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より

(注)
慣用表現の「馬が合う」とは、乗馬において騎手と馬の息が合うことの重要性に由来する表現のようですが、武術家の甲野善紀先生とホースクリニシャンの宮田朋典氏の出会いには奥の深いものがあります。ご興味のある方はお読みください。





・訳注
“Subjectivity”と “objectivity”は、「主観性」と「客観性」と訳すこともできるが、そもそも “object”は「対象」あるいは「客体」と訳すことの方が多く、 “subject”も「主体」と訳すことができることからすれば、“Subjectivity”と “objectivity” を「主体性」と「客体性」と訳すことは正当であろう(注)。そうなると “intersubjectivity”を「相互主観性」ではなく「相互主体性」と訳すことも可能であるが、ここではより多く使われている「相互主観性」という訳語を採択した。

(注)
一歩進んで「自象性」と「対象性」と訳すことも極めて可能である。前者は「自(みずから)ら象(かたち)をなすこと」と読めばそれほど奇異な造語とも思えない。



■ 人間はお互いに自分を相手に同調あるいは同期させることがある。

・原文
Like the two pendulums, though through more complex processes, two people together can mutually phase-lock. Successful human relationship involves entrainment — getting in sync. If it doesn’t, the relationship is either uncomfortable or disastrous.

・拙訳
二つの振り子のように、しかし振り子よりもはるかに複合的な過程を経て、二人の人間は同時にお互いに位相を合わせるにいたる。うまくいっている人間関係には同調、つまりは同期化がある。同調や同期化のない人間関係は不快か悲惨なものである。

・解釈
 “Entrainment” (「同調」「引き込み」「エントレインメント」)は、生物学や物理学や工学や気象学などでも見られる現象(注)であることからすれば、たとえ比喩的にであれ、この概念を人間の言語使用について使うことは有益なのかもしれない。
(注) Wikipedia: Entrainment
 ちなみにオープンダイアローグの「情動共鳴」 (emotional attunement) やボーム対話論の 「一つの身体・一つの心」 (one body, one mind) の考え方もこの「同調」の考え方(あるいは比喩)と似ているといえるでしょう。
オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
感受性、真理、決めつけないこと – ボームの対話論から
 ジェスチャー研究を専門になさっている方々はこういった領域についての研究成果を多くご存知でしょうが、私は残念ながら不勉強でここでそのような知見を紹介することができません。

・訳注
 特になし。



■ 聴くことと話すことは不可分で表裏一体の行為である。聴き手と話し手は会話という相互的で協働的な行為でつながっている。

・原文
Listening is not a reaction, it is a connection. Listening to a conversation or a story, we don’t so much respond as join in — become part of the action.

・拙訳
聴くことは反応ではない。聴くことはつながることである。会話や物語を聴くとき、私たちは反応しているというより参加している。行為の一部になるのだ。

・解釈
 聴くことは、話し手の発信という刺激を受信してそれに反応することではない。聴きながら私たちは話し手とつながり、話し手に影響を与えると共に話し手から影響を受けている。そういった相互性を込めた意味で言うなら、誰かの話を聴くことは誰かに話をすることと同時に成立する(そして同時にしか成立しない)「行為」である。顔と顔を合わせての会話では、一人がまず話をして、その後にもう一人が聴くということはなく、二人は話し-聴くという相互的で協働的な行為に参加する。話し手と聴き手は常につながっている。

・訳注
 ここでは “action”がアレントの英訳と同じように、参加者の相互性や協働性、あるいはもっと一般的に言うなら人間の複数性を基盤とした語として使われていることに注意したい。詳しくは後日のアレントに関する記事で述べるが、「行為」と訳されることが多いアレントのドイツ語 “Handeln” は「商売する」や「交渉する」といった意味で使われることも多い動詞である “handeln”を名詞化した表現であり、「行為」は一人では完結できない行いとして解釈されるべきである。だが、英語の“action” にも日本語の「行為」にも、必ずしもそのような複数性を前提とする含意はないので注意が必要。
この点、“reaction”や訳しにくいことばであった。 上述の「行為」の含意はここにはないと考えて、「刺激-反応」の “response”と同じように「反応」と訳した。



■ 参加者の心身の同調・同期で共同体の絆が強くなる。心身の同調・同期をもたらす語りこそが共同体を形成する権力である。

・原文
When you can and do entrain, you are synchronising with the people you’re talking with, physically getting in time and tune with them. No wonder speech is so strong a bond, so powerful in forming community.

・拙訳
あなたが実際に同調するとき、あなたは話をしている人たちと同期し、時と動きを身体的に同じくする。だからこそ語り合いが強い絆となり、共同体を形成する権力となる。

・解釈
  話し合いによって共同体の絆は強まり深まるが、これは話し合われた結論の命題がもつ力だけでなく、おそらくそれ以上に、話し合いの過程で、参加者が身体の動きで同調・同期し、それに応じて心の動きでも相分に同調・同期したからであろう。
 参加者それぞれの個性を保ったままに、参加者の心身の同調・同期をもたらす話し合い・語り合いこそが共同体を形成する権力 --共同体を形成する権利をもつ正当な力-- である。権力は、共同体一般、ということは小集団から国家といった大規模共同体までも含むさまざまな共同体を形成する正当な力である。「権力」ということばは、一般には「国家が専有し国民に対して行使する強制力」といった意味合いで使われることが多いが、アレントはそういった権力観に真っ向から反対した。ル=グヴィンもそのアレントとほぼ同じ意味で “power”およびその派生語を使用しているように思える。

・訳注
 上で述べたことと少し重なるが、“powerful” の “power” をここでは敢えて愚直に「権力」と訳した。日本語での「権力」には、「為政者が専有する強制力」や「制度的な圧力」といった否定的な含意があるので、そういった含意から離れるため私は “power, Macht” をこれまで「活力」や「語り合う力」などと訳してきた。

アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
1/9 (土) 小学校英語教育シンポジウム(広島大学)での投影スライドと印刷配布資料

しかし、アレントの狙いは、“power, Macht” は人間の複数性を否定する独裁者や独裁的な統治を好む人々が有することができないもので、「異なるが対等」な複数の人間の共存を積極的に肯定し活用しようとする民主主義的な人間が有するものだということを訴えることだと考えると、上記のような伝統的な含意に挑戦し続けて、「権力」ということばをアレント的に(あるいは民主主義的に)使い続けるべきかとも思えてきたので、今回は「権力」という訳語を使った(とはいえ、今後も文脈に応じて「語り合う力」という訳語は使うかもしれないが)。



■ 聴き手がいてこそ話し手は存在する。語りは出来事を共有する相互主観的でお互いに作り上げる行為である。

・原文
When you speak a word to a listener, the speaking is an act. And it is a mutual act: the listener’s listening enables the speaker’s speaking. It is a shared event, intersubjective: the listener and speaker entrain with each other.

・拙訳
あなたがあることばをある聴き手に語りかけるとき、その語りは行為となる。それはお互いが作り上げる行為である。語り手が語ることができるのは聴き手が聴くからこそである。語りは出来事の共有であり、相互主観的である。聴き手と語り手は互いを同調させる。

・解釈
 ル=グヴィンとアレントの言語観の類似性がもっともよく表れている箇所の一つといえるだろう。
 また「出来事」 (event) という概念にも注目しておきたい。「出来事」とは一瞬一瞬に移りゆく過程であり、固定して保存することができないものである(注)。だから、あるすばらしい語り合いを録音してそれを文字起こししたとしても、その文字がその語り合いそのものであると主張することはできない。ここでいう「語り合い」とは、参加者が相互に協働的に同期・同調する(あるいはし損ねる)経験の過程である。語り合いで使われたことばの総記録も語り合いで得られた結論も「語り合い」の本質を表現していない。
(注)
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ

・訳注
 特になし。



■ 人々を同調・同期させる声が、時空の中に親密な領域を作り上げる。

・原文
The voice creates a sphere around it, which includes all its hearers: an intimate sphere or area, limited in both space and time.

・拙訳
声はその周りに領域を作り上げる。すべての聴き手はその領域に含まれる。それは時空を限って形成される親密な領域もしくは場所である。

・解釈
声は、言語の音声的表現ではあるが、物理的・身体的な振動でもあり、心の同調・同期をもたらす媒体でもある。声を言語伝達手段としてだけではなく、参加者の心身を連動させる身体的であると同時に心的でもある現象として考えることがこれからますます重要になってゆくだろう。

・訳注
 “Spehre”は、 “a solid geometric figure generated by the revolution of a semicircle about its diameter” という幾何学的意味(http://www.dictionary.com/browse/sphere)で理解するとよくわかった気がした。



■ 語り手は聴き手によってよりいっそうの権力を得る。語りとは権力を充たす行為である。

・原文
Sound is dynamic. Speech is dynamic — it is action. To act is to take power, to have power, to be powerful. Mutual communication between speakers and listeners is a powerful act. The power of each speaker is amplified, augmented, by the entrainment of the listeners. The strength of a community is amplified, augmented by its mutual entrainment in speech.

・拙訳
音は動きに充ちている。語りも動きに充ちている。語りは行為である。行為によって権力が獲得され所有される。行為は権力に充ちている。語り手と聴き手がお互いにコミュニケーションをすることは権力を充たす行為である。聴き手によって同調されることによって、それぞれの語り手の権力が増幅され拡張される。語りにおけるお互いの同調によって共同体の強度も増幅され拡張される。

・解釈
 語り手は自分なりに語る権利をもっているが、聴き手が頷きや表情の変化で自分と同調・同期してくれることによって「自分はこう語ってもいいんだ。間違っていなかったんだ」と、話し手の権力をより強く感じることができる。「だよね。僕もそう思っていたんだ」という共同体内での同調や同期によって、共同体も強くなり、またその共同体での語りの権力もいっそう大きなものになる。語りという行為は、権力を充たす行為である。

・訳注
 ここでも “power” を愚直に「権力」と訳し続けたので、奇異な訳に見えるかもしれないが、これがアレント的解釈による私の翻訳です(乞うご批判)。



■ ことばには本来、権力が秘められている。

・原文
This is why utterance is magic. Words do have power. Names have power. Words are events, they do things, change things. They transform both speaker and hearer; they feed energy back and forth and amplify it. They feed understanding or emotion back and forth and amplify it.

・拙訳
だからこそ発話は魔法なのだ。ことばには権力が秘められている。名前には権力が秘められている。ことばは出来事であり、物事を行い、物事を変える。ことばは語り手と聴き手を変容させる。ことばは語り手と聴き手の間にエネルギーのやり取りを生じさせさらにそれを増幅する。語り手と聴き手の間に理解や情動のやり取りを生じさせさらにそれを増幅する。

・解釈
 ことばはおそらく複数の人間の間でのコミュニケーションから発生してきた(異論もあるだろうが、ここではそう仮定しておく)。そのことばはやがて辞書に配列され、人間のコミュニケーションの文脈から引き離された独自の体系的記号として研究されるようにもなったが、ことばの生息地は人々の間である。だから、たとえ辞書の中にあることばでも、それが生息地で息づけばそれは、それが本来有している力(権力)を取り戻す。ことばは辞書の中ではおとなしく陳列されるがままになっているが、本来それは人々の間で出来事を引き起こし、物事を変え、語り手と聴き手のそれぞれを同時に変えるものである。ことばには権力が秘められており、それがエネルギーとなり人々の理解や情動を増幅する。

・訳注
 ここでも敢えて「権力」という訳語を使い続けた。