2017年2月7日火曜日

ハンナ・アレントの講義から学校教育について根源的に考え直す

以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。

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以下は「コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、ハンナ・アレントについて講義した際の学部生の書き込み(予習・振り返り)の一部です。

授業(180分)では、前半でアレントを扱い、後半でその枠組を使って田尻悟郎先生(現在は関西大学)の中学校での実践を見て討議したのですが、後者のトピックについては次の記事で扱うこととして、以下はアレントについて学生さんが考え書いたたことを掲載します。

学生さんはまだ学部生であるということもあり、自分の小中高時代の経験をよく覚えています。その記憶、感性を失わずに、学校教育を改革していってほしいと切に願っています。





*****予習*****


■ 英語科が何を教えるための科目かということについては、英語科学習指導要領に「コミュニケーション能力」とはっきり書いてあるものの、実習の時にはそれが分かってはいても”かりそめの言葉”になってしまっていたように思います。

確かに言語材料がないとコミュニケーションは面白くならないのだけれど、教師があまりにも近視になってしまうといかに言語材料を教えるかのみに終始してしまうという本末転倒になってしまうのです。


■ 英語教育では、ペアやグループ活動を推進しており、多くの教師が、生徒同士が関わりあう活動を取り入れつつある。この事実に私たちは英語教育の改善を見出してしまいそうだが、実際やっていることはただの意味のない、意味交渉のない会話ということになってないだろうか。

習った文法、表現を使うためだけに紡ぎだされる言葉が生徒のからだを通して生み出されたものではない。アレント的にいうなら、活動ではなくただの制作になってしまっていることが多いのではないかと学生の立場ながら考える。自己表現という言葉について、私たちはもっとよく考えなければならない。昨日やったことを言わせたり、ディベートで反論をさせたりして、「はい、自己表現できました」と簡単に考えてはいけない。自己表現というものは、自分自身のからだ、こころとの語り合いによって生じるものあり、自分が伝えたい、聞いてほしいといった思いとともに自然に思いうかぶものではないかと思う。

しかし、なかなか伝えたいというように思うことも少ないし、ましてや正しいか正しくないかだけで測られてしまう制作的空間においては、自分自身を相手にさらけ出すことは不安でもあると思う。そのような状況では、人間がもつ複数性というものが排除され、単一的な人間的ではないヒトが生み出されてしまいかねない。

この予習から教師としてすべきことはまず、前回もでてきたが、生徒のからだが反応してしまう、自然と話したい、伝えたいと思ってしまうような、課題設定を考えることである。生徒がこの感情をもたなければ本当の意味での自己表現は成立しないと思う。

次に、生徒が恐れずに自分をさらけだせるような環境づくりに徹することです。数値で測るようなことを続けていたら、正誤で判断されることを気にするあまり、無難な答え(内容)で済ませてしまう。生徒一人ひとりの複数性を認め、それぞれに良さを見出せるような環境をセッティングしていくことが必要だと考える。それだけでなく、予習記事にもありましたが、やはり英語を扱う能力というものも大切であるので、そこをないがしろにすることはよくないが、上記の2つを重要視していかなければならないなと思う。



*****振り返り*****


■ 私は今回アレントの意味論を学ぶ中で、アメリカの新大統領であるトランプ大統領のことが何回も頭によぎりました。アレントは、人間は一人ではなく、互いに異なり矛盾することもあるかもしれない複数の人間の中で生きている、ということを前提とし、人間についての学問、そして複数の人間がどういぇって共存してゆくかという政治は、あくまでも人間の複数性を前提とした上で考えなければならない、と言っています。この「人間の複数性」というのは、人数のことはもちろん、人種や宗教、個性など様々なことが当てはまると思います。

 しかし、トランプ大統領の発言を聞いていると、その複数性を無視するような言動がたくさん見受けられます。この前テレビでニュースを見ていると、リンカーン記念館の前でトランプ大統領の支持者と反トランプ派の人々が激しく言い争っている光景が映し出されていました。反トランプ派の人々は、女性や移民の人々、また黒人の方やイスラム教徒の方、そして同性愛者の方などいわゆるマイノリティの方が多い印象でした。

インタビューの中で、反トランプ派の人が「トランプ大統領は大統領に就任した翌日にホワイトハウスのHPのLGBT(性的少数者)コミュニティーの権利に関するカテゴリーを消していた」と言っていたのを聞き、アメリカがまたマイノリティに対して厳しい目を向ける国になってしまうかもしれない…と思い、ぞっとしました。Googleで検索してみると、その予想は現実のものとなりつつあるようでした。

トランプ大統領が当選してからというもの、イスラム教徒の女性を襲ってヒジャブと財布を盗むといった増悪な事件が頻発し、学校のトイレには黒人に対する差別用語が大きく書かれるなどの嫌がらせも増えていると言います。しかも、このような差別的な落書きの多くに、「#Trump」と添えられているようです。トランプ氏によって、人々の中に眠っていた差別心や自分と違う人間への恐怖といったマイナスの感情が呼び起こされ、トランプ大統領の名を借りることで、あたかも自分の行動はアメリカのためだと言わんばかりに暴走を正当化しているような印象を受けました。

 この状況は、日本で暮らしている我々からすると想像し難いことなので、今のアメリカの状況を日本に置き換えて、白人を我々日本人だとして考えてみました。

もし日本に様々な民族の人々が入ってきて、私たち日本人の職を奪い、日本語という言葉の存続も危うくなってきたら、少なくとも良い気持ちはしないでしょう。そこで、日本人が一番すごいのだ!日本人のための素晴らしい日本を作ろう!と言われたら、権力にすがって我々は日本人至上主義を唱え始まるかもしれません。

つまり、自分の身を守るため、恐怖から逃れるため、権力や暴力といった力で敵を封じ込めようとする人間の弱さが、一気に溢れ出るのです。双方いろんな理由はあるにしても、暴力や差別行為はいかなるときも正義にはなりえません。

 これまでの授業でも、権力が他者に与える影響の大きさを学びましたが、トランプ大統領は、自分の発言がどれだけ自国民に影響を与えているのかをもっと考え、アレントの言うように「現実はたくさんの観点や視点が存在して成り立つ」ということをもっと重要視すべきだと思います。

また、アレントは「人間が人間として人間らしく生きることに関しては、真理や客観性よりも、意味や現実を重視すべき」と言っていますが、これはアジア人、白人、黒人、といった客観的事実よりも、その人がどのような考え方や個性を持っているのかという現実をみることの大切さにも繋がっていると思います。人種などといった枠組みでしか人間を見なくなると、ドイツ人がユダヤ人に行ったホロコーストのような非人道的行いが生まれます。授業の中で、“We are different, but equal”という言葉がありましたが、ここで言う平等とは、人間の複数性を認め、一人の人間としてお互いを尊重し合うということではないかと思いました。


■ アレントの基本的な考え方である「複数性」というものについてですが、「互いに通分できないかもしれない観点と視点があるからこそ、この世には完璧な秩序は到来せずいつもゴダゴダが絶えません。しかし、だからこそ私たちは暴走せずにすんでいるのではないでしょうか。」というスライドの文章が印象的でした。

人間はみんな等質(same)ではなくdifferentなのであって、何か1つの「真理」を決めてしまうとその真理が絶対になってしまい、その真理とsameであることが理想の状態と捉えられ、それとは異なるものは悪や劣るものとして認識されてしまいます。するとアレントが経験したような戦争、ドイツ軍によるホロコーストのような悲劇が起こってしまうのだと思うと1つの物差しだけですべてを決めてしまう、「複数性」が排除されてしまうことはとても怖いことだと思いました。


■ 真理や客観性ではなく意味や現実が人間らしく生きるためには大切であるということを理解することができました。例えば、教育というのは間違えなく人間らしくあるべきものだと思います。生徒は学校生活を送る中で、異なった視点を持った人たちと語り合いを繰り返し、つまり現実の世界で生き、語ったり読んだりすることでなんとなく言葉にならない意味を見つけ出すことができます。

このように生徒側は人間らしく学校生活を送っているにも関わらず、今の教育では学力はもちろん生活態度までをも数直線上で「客観的」に評価してしまっています。そういう制度だから仕方がないと言われればそれまでだとは思いますが、多面的な視点を身につけている生徒を、凝り固まった視点から観察のみならず評価もしてしまっているのはなんだか皮肉な話だなと思いました。


■ 複数性に関して,ペアでも話したことが2点ありました。1点目は,いくら多くの人間が集団として存在したとしても,それぞれが個性を持つこともせず,自己表現をすることもしなかったら,語り合いはあり得ません。権力の強いものがあるとき,多くの人間は二次観察をすることなしに意味を定義づけてしまいます。新たな意味を明らかにしようとしない,というかできない状況に陥ります。意味の対象物の権力が強すぎる故,それに異議を唱える者はごく少数だと感じました。全国統一テストも,何らかの権力が裏にあるのかなとも思えてきました。

 2つ目は,小学校の国語の授業の話です。よく,詩を扱う授業がありましたが,私は一種のトラウマ的な経験があります。詩の内容は覚えていませんが,先生が,「この文はどんな意味かな?」と聞かれ,自分なりの考えを発表すると,先生の欲しい答えとは違ったのか,「うーん,それもあるかもしれないけど…他にはどうかな?」と言われました。そのときは単純に自分が間違った答えを言ってしまったんだと思いました。

また別の日の国語の授業でも,詩を扱って,「この文の意味は何だろう?」と先生が質問します。以前同じシチュエーションで間違えた経験があったので手を挙げなかったのですが,クラス誰も手を挙げておらず,先生は「間違えてもいいよーはい,だれか。」と加えます。私は手を挙げて意見を発表したのですがこれまた「先生の」答えとは違ったのか,困らせてしまったのです。その後,国語のテストで,授業で扱った詩の解釈の問題が出されます。次の選択肢のうちどれがこの文の意味として正しいでしょうか,といったものです。

今考えてみると,詩というものは特に,読む人によって意味が変わるもので,解釈は十人十色です。それが詩の醍醐味でもあるのに,答えを決めつけて,選択肢のテストをして…。学校は,人間が様々な個性を持っているということ,そしてその人間によって明らかにされる意味も同じく多種多様であるということを学べる場であってほしいと思いました。


■ 授業の前半ではハンナ・アレントの意味論についてのお話でした。人間が人間であるための条件は複数の人間の中に生きているということであり、人間が複数で存在するということは人間が語り合う公共的空間があることを必要とするというのがアレントの主張でした。

ここで私が思い出したのは、小学生の時のクラスです。小学校4年生くらいまでだったでしょうか、どの教科の授業でも、クラスのほとんどの児童は答えが分かったら先生に当ててもらおうと「はーい!」と大きな声で右手を挙げます。「はい!はい!はい!」と何度も叫んで主張する人もいました。そこに、間違えたらどうしようという不安や恐れはありません。しかし中学生になり、高校、大学と進むにつれ、私たちは自ら挙手して発言することはほとんどなくなりました。なぜこのようになってしまったのでしょうか。

 複数の人々が集まって語り合うことの意義は、一つの物事が多数の観点と視点から観察され、それに基づき人々が語りあえることだとアレントはいいます。だからこそいざこざもありますが暴走はないというお話でした。小学生の時は複数の人間が集まる開けた公共的空間が、無意識のうちに作られていたのだと思います。個々が認められるから児童ひとりひとりが伸び伸び発言できる空間でした。そこで小さないさかいはあっても、誰か一人の意見が暴走したり一つの考えに縛られたりすることはありません。

今、そのような空間が失われてしまったのは学校教育に一つ原因があると考えます。知識偏重の学力が良しとされ頭の良い子が褒められる、先生も知識を問うばかり。今思い出すとおかしなことなのですが、高校での国語の授業中に「ここはテストに出る」と先生が言った箇所を暗記し、テストでそれをそのまま書くということを皆していました。しかもそれは、登場人物の心情を記述する問題なのに、です。授業ノートに自分の意見を記述していてもそれを赤線で消し、テストのために先生の答えを書き取ります。今思うともったいないことをしてしまいました。今とは違う、高校生の時の自分の感性を生かし、もっと自分で思考して表現する訓練をしておけばよかったと思います。

話がそれてしまったかもしれませんが、人間が複数で生きている限り、たった一つの視点でしか物事を見られないというのはあまりに人間らしくありません。授業中にペアになった友人が附属校の先生に言われた言葉を教えてくれました。「知識は問うな。アイデアを問え」というものです。英語教育でただ一つの「真理」を問うてしまうと個々の感性を潰してしまいます。答えが複数考えられるアイデアを問えば、教室が真の公共的空間になるのではないかと感じました。


■ ハンナアーレントによると「複数性」というのが人間を人間たらしめるひとつの条件であるとありました。したがって人間の生活する現実では、意味が複数の異なる人々によって語り合われて形成されていくことになります。つまり「これはこういうことである」といったような一元的な定義付けがされるわけではなく、開かれた世界において各人がそれぞれにことなった位置から見たり聞いたりされることになるのです。しかし客観主義にたって物事をとらえようとする現代では、ひとつの数直線を用いて一元的に観察することによって「客観的」であるとするので、現実に必要な多様性や複合性はやがて破綻してしまいます。

学校教育ももっと開かれたに場(真の意味での公教育)にする必要があるように思いますが現在はますます閉じられた空間になっているような気がします。教師も交えながら生徒たちが1つの物事について語り合うことによって考えを深め、彼らが人間らしさを失うことなく成長を促します。しかし実際はテストの存在が大きくなりすぎているせいで、生徒もそこに目を向けざるを得なくなっており、語り合いによって得られる複数性などに何の価値も見出せなくなってしまっています。

自分の学習を振りかえってみても、点数などをほとんど意識してなかった小学校の頃はもっと活き活きした学習ができていたのではないかなと思います。テストが頻繁に行われるようになった中学校時代からテキストと向き合って重要語句を追いかけるばかりの学習が始まってしまったのだと思います。


■ アレントの言う複数性というのは、教育に携わるのであれば知っていなければならないのだと感じました。現実世界は多くの人がいて、決して単一の簡単から解釈することはできないし、しようとしてはいけないのです。僕らが目の前に抱える生徒というのは、もちろん個体の数的ににも単一ではありませんが、その外見、性格、感じ方ですら同じではありません。それを一括りにして、唯一の方法論で全員を扱おうとしてはいけない。

また、意味というのは経験から構成されるというのは、本当にそうだと思います。経験していないことは意味として正しく理解できない。これは当たり前のようで、あまり意識していないことだと思います。また、経験していても、「その文脈のその意味」が分からなければ、理解できません。

これは英単語学習を例にするとわかりやすいと思います。単語帳に書いてある意味をそのまま覚えるだけでは、実際に英文に出てきたときにその英文を正しく理解することは難しいです。単語帳に書いてある訳語は、英文に何度も出てくるその単語を、その単語の意味と正しく照らし合わせて日本語に訳す際に、高い頻度で現れやすいというだけだからです。つまり、単語帳に書いてあるのは「意味」ではなく、高い頻度で現れる「訳語」ということです。


■ 人間が人間的であるためには複数性を前提とすることが必要です。人それぞれ違う観点、考え方を持っており、それを語り合うことで意味になるとアレントは主張しますが、僕も、個人が身体で物事を捉え、ある考えをもてばそれ自体で意味をなすというふうに考えます。それは自分自身との語りあい、つまり自分の身体、心との対話によって生まれるものだからです。そしてその個人でもった意味を他者との語り合いによってより高次的な意味へと作り上げていく。前の授業のことで考えるならば、多元的客観性に似たようなものです。これこそが、人間的な営みであると考えました。

そして、こう考えると、これを行うには様々な条件が必要であると思います。まず、自分自身と対話するための、みずみずしい身体、何かに反応して身体や心がざわめくといった感性が必要です。そしてその沸き起こった情動を頭の中で整理したり、ことばで表現したりするなどの知性、言語力が必要となってきます。その後、他者と語り合うための、社会性や言語力、思考力なども重要です。一言で社会性と表現しましたが、人と良好な関係を築く力や、他者の存在、意見を認める力(環境)などがあります。

考えてみると、この意味や現実を追求する人間的な営みとは普段我々が常にしていることであり、基本です。ただ、例えばみずみずしい感性が欠けていると、自ら意味を作り出すという経験が少なく、それゆえ他者と語り合うことも少なくなります。社会性がない人であったら他者と本心で語り合うことすら許されないかもしれません。それゆえ、これらすべてが関わっている活動であるとさえも考えました。

教育の場に話を移すとすれば、複数性、他者が異なる観点、考え方をもっており、それによって現実は構成されているのだという極めて当たり前かつ忘れがちな性質を前提としている教室で、教師は当たり前のようにテストでいい点をとれるようにという数直線的指標に従って授業を進めており、評価もあらかじめ決められた数直線的指標に従って遂行される。このような環境下では、個々の観点や感じ方はできるだけ排除され、意味がその指標に一元化されてしまう。さらに、それゆえ生徒は、「自分の個人的な意見や考えってどーせ受け入れられんし」と考え、無難な答え、いわゆる誰にとっても‘正解’を探し求めてしまい、個性がなくなり人間的ではない空間が生まれてしまう。このような状況になってしまってないかなと考えました。

田尻先生の実践にもあったように、それぞれの自由のやり方で自分の大切なものについて語っている姿はなかなか実現できるものではないでしょう。それには、教師と生徒、また生徒同士の信頼関係が存在し、それぞれが他者を受け入れるような環境があってこそです。

またこの実践を見て、ことば(非言語的も含む)の力ってすごいなと感じました。このことばは自らの身体や心から湧き出た言葉、表現のことを指すと思っていますが、これによって他者の身体になんらかの変化をもたらし、意味の語り合いが始まる。田尻先生の実践では、3人目のスピーチがそれぞれの人に意味を与えました。ある人には卒業が間近に迫った哀しさ、ある人にはこのクラスでよかったという安堵感という意味になり、涙、感動という形になって表れたのだと思います。

こういった経験は言語教育でしか果たせない宝だと思います。こういった経験を通して人間的成長を遂げ、それこそいろんな意味で味のある人間になっていくのではないかと感じました。


■ 後半の授業での、「良い英語教師に必要なものは常識・愛情・英語力」という柳瀬先生の言葉が個人的に強く印象に残りました。

私たちはプランニングや方法論などの授業で、授業構成や指導方法を学び、どうすれば生徒を引きつける授業ができるのか、どうすれば生徒の理解度を上げることができるのかといった点について考えてきました。しかし、これらの授業で学んだことはどこの学校でも通用するわけではなく、当然ながらそれぞれの学校の校風や学力などを考慮した上で、その場その場でベストな方法を選択しなければなりません。また、英語教育は絶えず変化し続けており、現在当たり前だとされていることが数年後には否定されている可能性も十分にあります。つまり、私たちは授業を通して授業構成や指導方法の数例のモデルを見たに過ぎず、見たものをそのまま応用することは不可能だということです。

そこで重要になるのが、常識・愛情・英語力を持っているかということです。いくら授業構成や指導方法に工夫を凝らそうが、生徒が「この先生についていこう」と思うにはこの3点が必要不可欠であり、1つでも欠けていれば、思わぬところで躓いてしまうかもしれません。逆に言えば、この3点が十分に備わっていれば、授業構成や指導方法に施した工夫が功を奏しやすいともいえます。愛情はともかく、常識や英語力は大学在学中に努力すればある程度身につくものなので、できる限りの努力はすべきだと思います。


■ 私は,普段何かのテーマについて話し合うとき,その課題をみんなで解決する手段を考えたり,何かに対する意味づけをしたりすることが多く,結論が出ないまま話し合いが終わると,自分の無力さを感じてしまったり,話し合いの効率を考えてしまったりすることがあったが,今日の講義を聞いて,「これだ!」という決定的な意味づけを行うことができないのは当然であり,そもそも語り合いの目的は,そこではなく「語り合うこと自体」に意味があるのだと知って,今まで自分が行ってきた話し合い(語り合い)はすべて有意義なものだったのではないかと感じられるようになった。

一元的に「これはこういうものだ。」と決めつけるのではなく,あらゆる可能性・観点・視点から物事を考え続ける,語り続けることこそがとても重要であると思うと,これからももっと様々なことに対して頭を悩ませながら,周囲の人々と語り続けていきたいと思う。


■ 心の動きが意味の創造に大きく関わっているのだとしたら、感動体験がなければ意味も何も感じることができなくなり、共有も難しくなってしまいます。子供が世界に豊かな意味を持てるように感動体験を与えるのも、教師の仕事なのかもしれないと思いました。


■ 真理や客観性よりも意味や現実を見ろと言うアレント。

「それってどういう意味?」

私たちはすぐに言葉を言葉で繕って、分かったつもりになろうとする癖がある。しかしアレントは、そもそも意味を定義できると考えることが間違いではないかと指摘した。じゃあ彼は”意味”についてその意味を定めないでどう捉えているのかといえば、”何って言っていいのか分からないもの”などと言うのだろうか。「意味」という単語は辞書に載っているけれども本当は、意味を定義することなく意味を明らかにして進む物語のように現れては消えていくもの。移りゆく心の動き。…と言いながら今こうして自分がアレントによる意味の意味を定義しようとしているのが何とも面白い。

だが確かに、現実世界は複雑で”何って言っていいのか分からないもの”があっていいし、むしろそういった曖昧さというのは大事にしていかなければならない感覚だと私は思う。そのよく分からない部分に「人間らしさ」がある気がするからだ。そして一人一人が、交わらない固有の立ち位置をもてばもう現実は数えきれないほどの視点や観点で溢れかえる。意味など定義されるわけもない。もし一つの観点しか許されないとしたら、それは一色の世界のようにつまらないものになるだろう。

授業中に発言したことでもあるが「平等」について、それが等質だから平等なのではないということが私の中では非常に印象的だった。学校教育における教師の支援に関して、大学のある授業でされた話を思い出した。たしかこのようなものだった。「背の高い子どもと、背の低い子どもがいる。背の低い子どもは黒板の上の方まで手が届かない。その二人の子どもが前で板書をしようとしているとき、背の低い子どもに踏み台を差し出すことは不平等な支援だろうか。」この話で、背の低い子どもに踏み台を貸すことが特別な支援であるとは思わない。当たり前で、自然なことである。この例が適切かどうかは分からないがとにかく、必要とされる支援をすることこそが教育においては平等であり、支援が等質であることが必ずしも平等でないということだ。平等に、踏み台は貸さないということが本当に平等か?という話である。


最後に田尻先生の実践には本当に、言葉を奪われたような感覚だった。自分が島根県出身ということもあり余計に興味津々。たったあれだけの時間でこんなにも感動してしまう動画があるだろうかというくらいの衝撃だった。あの後、何も知らない友達に対して感動を伝えたくて仕方がなくて必死に話をしたが、動画を見ていない上に私が説明下手なのでうまく伝えられなかった。…

何一つ具体的な感想が言えてないが、田尻先生の授業は英語科の枠組みの中にとどまらない、まさに「教育」だと思った。英語科を超えているようで超えているとは、たぶん言わない。超えていると思うのならばそれはきっと、私自身が英語教育を狭い範囲でしか捉えられていないから。英語教師である前に一人の教師であるということ。その上で、外国語だからできる教育と、外国語だけどできる教育をしていかなければならないという気がした。

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