2009年4月21日火曜日

佐野正之先生への感謝と回答 (アクションリサーチについて)

大修館書店『英語教育』2009年5月号の「英語教育 研究と実践」のコーナー(86-87ページ)で、佐野正之先生(横浜国立大学名誉教授)に拙論(「Exploratory Practiceの特質と『理解』概念に関する理論的考察--アクションリサーチを越えて」(中国地区英語教育学会研究紀要 No. 38, pp. 71-80 以下「EP論文」と略記)に対する書評をしていただきました。拙論を同誌の貴重な紙面で取り上げて下さったことに対して深く感謝すると共に、そこで佐野先生が表明された疑念にここで答えてみたいと思います。なおEP論文は、Scientific Research (SR), Action Research (AR), Exploratory Practice (EP) を類型的に対比したものであり、ここからダウンロードできます

佐野先生はEP論文から表1を再掲し(補注1参照)、長文も引用(補注2参照)引用して下さることで拙稿を最大限フェアに理解しようとなさってくださっています。まずはこのことに私としては感謝せざるをえません。

さらに佐野先生は「柳瀬氏の主張に賛同する点は多々ある」として、SR こそが英語教育研究のあるべき姿だと(やや惰性的に)信じられている点、先入観から自由になることが重要である点、「教師の成長」を尊重すべき点などに共感を示してくださっています。


ですが佐野先生は「反面、奇異に感じられた点」として以下の三点をあげられています。


(1) AR の学問的背景が「教育工学」となっている(補注1の表1を参照)。これは「一般にARの基本概念とされている『社会構成主義』とは全く異なる」のではないか。

(2) 「ARでは生徒を問題と見る」とあるが、「ARでは『問題』は生徒に起因するよりも、これまでの指導(教師との人間関係も含めて)や状況によって生み出されたものだという認識が一般的だと思う」。

(3) 「ARがアクションを優先するあまり、教師の成長につながりにくくなっている」という主張はどのようなデータに基づいているのだろうか。これはこれまで多数の現職教員とARを実践した私の実感とは全く逆である。


これらの疑念の多くは、ARという用語で、実際にどのような研究を意味しているかということを明確に理解することでかなり解決するのではないかと私は考えます。


ER論文で、私は横溝 (2004)を引用し、日本ではARが「仮説検証型AR」と「課題探究型AR」という強調点を異にする二種類のどちらかで理解されることが多く、特に英語教育界では「仮説検証型AR」(=問題解決のために仮説を立てて、その仮説を検証してゆくAR。一部の口の悪い人によるなら「お手軽な実験研究」)がARの典型例として考えられ、日本語教育界では「課題探究型AR」(仮説やアクションよりもリフレクションを重んずるAR)が典型例として考えられていることを述べました。それら二種類のARとSRおよびEPの関係を図示したのが「図1:ARと、SRおよびEPの関係」(72ページ)です。その図で表されている関係を下に少し形を変えて表現します。SR、AR(およびその二つの側面)、EPは以下の連続体で考えられるべきというのが私の主張です。


SR - 仮説検証型AR - AR - 課題探究型AR - EP


さらにこの図1のすぐ下に私は「つまり仮説検証型のARはSRに一部重なり、課題探究型のARはEPに一部重なるということである。」という注記を添えています。

私はこの論文を英語教育の学会誌に投稿したわけですから、ARという用語で主に「仮説検証型AR」を意味しました。実際私が見聞きする英語教育界のARでは、「仮説検証型」の発想から抜けきれないものが多いように思います。しかし書評の文面からしますと、佐野先生が見聞する英語教育界のARは、「課題探究型AR」が多いようです。この認識の違いから上記の疑念の多くは生じているように思えます。

もし英語教育界のARの多くがリフレクションや理解を重視している「課題探究型」だとしたら、私は喜んで私の認識の歪みを認め、英語教育界の健全な成長のために喜びます(そうだったら本当に嬉しい)。ですが、私の正直な懸念はまだまだ従来の実験研究の発想に縛られた「仮説検証型」のARが英語教育界では多いのではないかということです。


ともあれ、ここでは「英語教育界のARは『仮説検証型』が多い」という横溝(2004)の主張および私の実感を基盤にして上記の疑念に答えます。

(1)はARを「教育工学」的と評したことですが、これは「仮説検証型AR」が、「問題解決」を目的とした「準実験デザイン」に基づくことが多いという認識から生じた主張です。「教育工学」という用語で私が意味しているのは、「教育工学」の定義(「教育学研究の一分野。主に工学的な手法を用いて効果的な教育方法を研究・開発するために行う技術学」)、および「工学」の広義の定義(「広義には、ある物を作り出したり、ある事を実現させたりするための方法・システムなどを研究する学問の総称」)(いずれもgoo辞書に掲載されている『大辞林 第二版』からの引用)から理解されるものです。つまり、仮説検証的ARは問題解決のための効果的な方法・システムを研究・開発するものである、という理解を「教育工学」という言葉を使って示したわけです。これ自体は私はそれほど間違った理解だと思っていません。

また、佐野先生は社会構成主義を「一般にARの基本概念とされている」とされていますが、私の理解が正しければ社会構成主義をARと結びつける論考は日本の英語教育界ではあまり見かけたことはありません(索引がないので簡単に目でチェックしただけですが、佐野 (2005)にも「社会構成主義」の用語は見あたりません。Kurt Lewinの考えは確かに社会構成主義に近いものかと思いますが、彼を「社会構成主義」の代名詞として使うことは少々無理があるように思えます)。私個人の考えでは、リフレクションを重んずる課題探究型のARなどは社会構成主義と非常に親和性の高いものだと理解していますが、そういった明示的理解が、日本の英語教育関係者の多くに共有されているとは思えません。(これも私の誤りで、日本の英語教育関係者の多くが社会構成主義に通暁しているなら本当に嬉しい限りです)。

(2)の「ARでは生徒を問題と見る」という佐野先生の引用はEP論文からの直接引用ではありません。EP論文では例えば表1でも、問題という用語を使う場合も、わざわざ(それだけに)カギ括弧をつけて「問題」と表現しています。本文中でも「学習者は、教師の思い通りの学習をすることができない「問題」として認識される。」(74ページ)とカギ括弧をつけて表現しています。カギ括弧をつけることで「敢えていうなら」といった含意を示しているのは日本語の慣用法にならった表現です。これも英語教育界のARを「仮説検証型」と認識することから生じた見解です。繰り返しになりますが、仮説検証型のARでの仮説はあくまでも「問題解決」のためであり、リフレクションが軽視されているからです。

(3)のARがアクションを優先するあまり、教師の成長につながりにくくなっている」という主張は、EP論文では(佐野, 2005, p. 13)という文献情報を添えてなされたものです。佐野 (2005, p. 13)では、「アクション・リサーチの進め方Q&A」のQ1として「授業の何が問題かわからない。発見の仕方を教えてください」があげられています。これは私もしばしば聞く教師の質問であります。

私(および私の知る研究者の何名か)は、このようなQが出ることは、日頃のリフレクションがほとんど根付いていないことを示し、そのような状況でARをやらなくてはならないと教師が感じてしまうことは、ARがまだまだ上から押しつけられるような形になっており、教師の成長と乖離しているのではないかと考えています補注3)。

もっとも佐野(2005)のこの箇所だけを取り上げて、佐野先生の考えるARあるいは日本のARの全てが教師の成長に資していないと主張するのは公正な主張とはいえませんし、私もそういうつもりはありません(ですから補注3に見られるように、私は数カ所で間接的な表現を使い、主張の直接性を意図的に弱めています)。実際、佐野先生は佐野(2005, p. 30)でARの物語性を雄弁に語っていますから、佐野先生が念頭におかれているARはやはり(横溝の二分法を使うなら)「課題探究型」なのでしょう。


以上述べましたように、佐野先生の疑念は、佐野先生のAR認識と私のAR認識が異なっていることから生じていると考えられます。佐野先生が佐野(2005, p. 30)のような認識を持っているのでしたら、佐野先生が関わっておられるARは問題解決的な仮説検証型ARではなく、課題探究型のものであり、それゆえに私のAR批判の多くはirrelevantであるように思えることは当然でしょう。

ですが、私の認識は前にも述べましたように、まだまだ日本の英語教育界では惰性的に「(量的)実験研究」の枠組みを範型とする考えが強く、ARもリフレクション中心の課題探究型ではなく、仮説検証型であることが多いというものです。これも繰り返しになりますが、もし私のこの認識が誤ったものでしたら、私は自らの誤りを喜んで認めます。しかし2009年3月号の『英語教育』が「英語教師として自分を見つめ直す方法」の特集を組み、玉井健先生の論考を載せ、5月号の「読者論断」にその論考への熱烈なエールが寄せられているといった現象は、まだまだ日本にはリフレクションを重んずる文化が根付いていないということを示しているのではないかと懸念します。



疑問に答えようとするなかで、私が誤解を重ねてしまったかもしれないことを私は怖れます。私は佐野先生ともどなたとも、微細な点についての長々とした「論争」をするつもりはありません。誤解は指摘して下さればすぐに正します。

また私はExploratory Practiceという用語をしばしば使いますが、この用語の「輸入代理店」のようになって、この用語を振り回して、妙な権威を生み出すつもりなどはまったくないことも申し添えております。上記の玉井健先生などは「リフレクティブ・プラクティス」という用語を使っておりますが、私は(私が理解している限りでは)この用語でもまったく問題ないと思っております。

ただExploratory PracticeもReflective PracticeもあくまでもPractice (実践)であり、字義的にはResearch (研究)の一種として考えられるAction Researchとはやはり力点を異にしていると私は思っています。実践者にとって最も重要なことは(同語反復的ですが)実践であり、研究ではないと考えます。ただ実践も、ただ毎日行なうだけではなく、それは探究的か、リフレクティブであるべきだというわけです。

ですが、ARも課題探究型として考えるならEPとの共通項を多く有し、過剰に対比的に考えることは不必要です(その点、EP論文のサブタイトル「アクションリサーチを越えて」は表現がきつすぎたのかもしれません)。ですから私は佐野先生の書評の最後の部分、「ARなのか、それともEPなのか。教師が問題意識に合わせて選択できることが望ましく、また、それが可能なように援助することが教員養成に関わる者の責務だと思う。そのための共同戦線こそ、今、求められているのではないだろうか」には全面的に賛成します。私がEP論文で言いたかったことをその点から言い換えますと、これ以上ARを自然科学的な仮説検証に引きつけて考えるのは止めようということです(補注4)。そうしてリフレクションあるいは理解を重んずる文化を学問的にも制度的にももっと教育界に根付かせようということでしたら私はどなたでも「共同戦線」をはります。




補注1 表1:SRとARとEPの特徴の対比 (EP論文71ページ)

 

Scientific Research

Action Research

Exploratory Practice

隆盛時期

1980年代

1990年代

2000年代

目的

一般法則定立

問題解決

理解の深化

方法

実験計画法

準実験デザイン

定めない

重視すること

厳密性

説明責任

Quality of Life

結果

規範提示(prescription

記述(description)

相互の成長

世界観

一般的因果性

個別的因果性

個別的複雑性

学問的背景

個人心理学

教育工学

生態学的言語習得論

学習観

認知行動

仕事

Life

研究期間

横断的に短期

縦断的に中期

持続可能で恒常的

学習者

データ提供者

「問題」

協働実践者

研究者

三人称の中立的存在

一人称の単数

一人称の複数

研究者と実践者の関係

研究者が実践者を指導

実践者が研究者

になる

実践者が探究的になる

研究の

主な公表対象

学会誌

利害関係者

当事者および当事者に共感する者

欠点

教育への介入が

過剰になる

アクションの自己目的化・過剰負担化

自己満足に

終わりかねない



補注2 EP論文75ページからの引用は以下の通りです。


実践者が最初にそして恒常的に行うべきなのはEPであり、その後に可能ならばAR、さらには適切かつ必要ならばSRが来るべきである。その理由は、事態の深い理解こそが「問題」の特定や解決、ひいては状況を考慮しない一般法則の定立に先行しなければならないからである。私たちはしばしば自らの先入観でもって、限られた理解の中でしか、事態を捉えようとしない。その狭い理解の中で「問題」を見つけたと考え、その解決手段を計画したとしても、その「問題」の認識が誤っていたり、歪んでいたりしたら、その「解決」は、良くて骨折り、悪くて事態の悪化になりうる。私たちは、問題解決の計画を立てて実行する前に、多面的に振り返り、気づきを深める必要がある。場合によっては、事態を改善するためには、結果の白黒を出さなければならない時限的な介入(AR)ではなく、長期的な教師の自己変革の方が必要な場合もある。アクションを起こす前に、教師と学習者が相互に理解を深めることの方が必要である場合もある。【ここからの箇所を佐野先生は「中略」としています: 生徒とのコミュニケーションで、自らを振り返り、生徒を見直し、関係が深まり、授業も自然と良くなっていった経験をもつ教師も多いだろう。ましてや一般的なSRは、固有の状況にある授業の直接的改善につながるとは限らない。ARやSRは必ずしも事態の改善のためには必要ではない。
したがってEPからARへ、ARからSRへと移っていくことは、「必要」でもなく「進歩」でもないと考えるべきであろう。その変化は、むしろ「変異化」もしくは「特異化」として捉えられるべきではなかろうか。:「中略」部分はここまで】SRの一般法則定立は、しばしば私たち教師の実践感覚の喪失を意味する(科学的なアプローチしかとらない研究者に指導を受ける現職教員の大学院生は、大学院では実践的なことは忘れて、科学的方法論で解答できるリサーチ・クエスチョンのことだけを考えてくれとしばしば要求される)。また、ARの問題解決は、時に、私たち教師が人間に関わるというよりは、「仕事遂行」中心の見方をする存在へと変容してしまうことを意味しかねない。EPがEPの深まりと広がりに留まり、ARやSRに「変異化」しないことは、とがめられるべきことではない。


補注3
EP論文の正確な表現は、「また、期待されたようにARが教師の成長に貢献しているかどうかについては疑問が残らないわけではない。実際問題としては、アクションが強調されるあまり、問題を特に見出していない状況においても問題を見出して(佐野, 2005, p. 13)、それを「問題解決」しようとあせるあまり、ARが実践感覚と離れはじめ、教師は徒にARの実行で疲れるばかりで、教師の成長へとつながりにくくなっていることも仄聞される。」(71ページ)です。

補注4
ただし私は「英語教育」という言葉でカバーされる広汎な現象のどの部分も自然科学の対象となりえないといったことを主張したいのではありません。この点、私は「女教師ブログ」の2009年4月12日記事の「科学的英語教育研究」に共感します。ただ私は、私なりに自然科学について(およばずながら)理解を深めれば深めるほど、英語教育研究は厳密な意味での自然科学ではありえないと思ってしまいます。とはいえもし「科学」を「社会科学」「人文科学」「科学研究費」といった用法にみられるように広義の意味で使うのならば、私はそれほどその用法には反対しません。まあ実際私は「科学研究費」をもらっているわけですし(笑)。



参考文献

佐野正之(2005) 『はじめてのアクション・リサーチ』 大修館書店

横溝紳一郎(2004) アクション・リサーチの類型に関する一考察:仮説-検証型ARと課題探究.  『JALT日本語教育論集』 8, 1-10.





2009年4月13日月曜日

金谷憲(編集代表) 『英語授業ハンドブック <中学校編> DVD付』 大修館書店

英語授業の現実にとまどう新任の先生、授業がマンネリ化しなんとか打開したいと考えている中堅の先生、後進を指導する立場になり、場面ごとの指導はできるが体系的・計画的な指導がなかなかできないベテランの先生--英語授業を改善したいと願っているすべての方に通読・参照していただきたいハンドブックが刊行されました。

実は私は編集委員の一名としてこの本の企画にかかわりました。金谷憲先生を編集代表とし、青野保先生、太田洋先生、馬場哲生先生らと何度も長時間の編集会議を重ねました。「授業に関する現場のニーズとは何か」、「ニーズに応えるためにはどのようなデザインの本が必要か」、「現場教師が部分的に参照するだけでもわかりやすいフォーマットとは何か」、「分厚くなりすぎず、かつ必要なことは落とさないためにはどのように項目を精選すればよいか」、「どの現場教師がそのニーズに応えられる優れた文章を執筆できるか」、「一人一人の執筆者にこの本の企画をきちんと伝えるにはどのようにすればいいのか」などを徹底的にブレーンストーミングし、討議し、案にまとめてゆきました。私にとってこの企画会議は本当に面白いものでした。

その結果の一端は、狭義の「英語」指導には含まれないかもしれないけれど授業を展開するためには必須の「クラスルーム・マネジメント」(第七章)を含めたり、授業外かもしれないけれど生徒が英語の力をつけるにはこれまた必須の「自律的学習者に育てるための工夫」を加えたことなどにも表れています。

それ以上の特徴といえるのがこの本には授業実践の実際を伝えるDVD(収録時間約2時間)がついていることです。ある種の実践のニュアンスは残念ながら活字では十分には伝えられません。この本では本文と直接に関連したDVD映像をつけることで、読者の皆さんに十分な理解をしていただこうと努力しています。

14名の執筆者についても本当に実力と文章力を兼ね備えた方々にお願いしたという自負はあります(同等あるいはそれ以上の力をもちながらも様々な事情で執筆をお願いできなかった先生方には本当に申し訳なく思っております)。

この本は大修館書店の創業90年記念出版でもありますが、それにふさわしい良心的な仕事をしようと私たちは励みました。もちろんその結果は読者一人一人が判断すべきでしょうが、私個人としては、いい仕事をさせていただいたという満足感と共に、この本が多くの英語教師にとっての文字通りの「ハンドブック」、常に手元において参照する本になることを願っています。




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考える・調べる・尋ねる

社会人になりたての若者はしばしば「職場では誰も何も教えてくれない」と言います。もちろんこれは誤解であり、職場は通常、その職場で必要とされる最小限の事柄を新人にはきちんと教えます。ですが、それ以上の事柄については自力で学ぶことを求めます。

考えてみればこれは当たり前のことです。学校という空間では、国民の税金および保護者の授業料などで若者にわかりやすい教育を行なう専門家(注1)が雇われています。ですから若者はちょっとでもわからなければ「わかりません。どうすればいいか教えてください」というように甘えることがある程度は許されています(注2)。

ですが職場は若者がお金を給料の形でもらう空間です。若者は授業料といった形で職場にお金を一銭も払わないどころか、学校の授業料の数倍のお金を職場から給料という形でもらいます。それなのに手取り足取り仕事のやり方を教えてくれという理屈は通らないでしょう。職場での仕事のやり方は、基本的に自ら学ぶべきだと私は考えています

しかし、教師(というよりケアテーカー)がいない状況での自己学習が極めて不得手な若者が多いことも事実です。これは学校が、若者を甘やかし、spoon-feedのように授業をしたからかもしれません。解くべき問題を指定し、その解法を示し、それに答えを「出していただいて」は賞賛の嵐を送るようなことばかりしてるかもしれないということです(強い表現をお許しください)。結果、若者は自ら問題を見つけ出すこと、解法を探り当てること、唯一正解のない中で自らの解答の妥当性を判断することなどができなくなっています。要は、自律的な学力がついていないのです。

社会に出たばかりの若者が職場で「折れて」しまうことは、多くの場合社会的損失となると考えられますから、学校教育者は若者に自律的な学力がつくように注意深く教育を行なう必要があります。

そのためには、考えること、調べること、尋ねることの三つを教育の中で重視すべきだと私は考えます。

考えることとは、状況を観察し、何が当面の「問題」であるかを探りあて、その解法を何とか見つけることです。探り当てるには分析が必要です。つまりは状況を構成していると考えられる主要要因を特定し、それらの構造・システム的関係を推定することが必要です(これは「見えないものを見る」ことでもあります)。そうやって問題を構造的・システム的に理解したら、その理解に基づいて問題の解法を何とか見いだします。これは、若者に問題・解法・正解をセットにして次々に与えて、問題を「解いていただく」ことだけでは決してつかない力です。

考えたら、しばしば調べる必要が生じます。考えて大枠の理解をしたら、今度は細部を詰める必要があるからです。必要な情報を調べ上げなければなりません。調べることの重要性は、グーグルの誕生以降非常に高くなっています。もちろん調べる対象はネットだけではなく現実世界にもたくさんあります(いや依然として現実世界にこそ調べる対象はあると言うべきでしょう)。調べる際のノウハウというものは、それこそ「身につけ」なければ現場では役立ちません。「身につける」ためには、自ら試行錯誤をして経験を深めなければなりません。「最短の時間と労力で試験に合格するための知識伝達」といった発想では試行錯誤は嫌われますから、ここでも私たちは注意深く若者に調べる力をつける必要があります。

しかし考えて調べてもどうしてもわからないことは多々生じるでしょう。学校の試験ならその個人の得点が低くなるだけで済みますが、職場では仕事をきちんと終えなければなりません。職場では個人の成績でなく、組織全体の成績の方が大切です。そのためには周りの先輩に、謙虚かつ具体的に尋ねることが必要です。しかしお客様扱いばかりされて育った若者はプライドばかり高くなり、人に物を尋ねることが怖ろしく下手だったりします。また学校で問いに答えることばかりに慣れて、自ら問いを作り上げて発することができなかったりします。ここでも教育関係者が短期的視点でなく長期的視点に立って教育を行なう必要があるといえるでしょう。

自ら考え、調べ、尋ねることができる若者は社会の宝です。学校教育関係者は、もっと若者に考え、調べ、尋ねさせるように教育計画を立てる必要があるでしょう。同時に若者も考え、調べ、尋ねることの重要性を認識するべきでしょう。


「そんな学校教育を受けていないボクはどうしたらいいんですか? 社会に出てしまったボクは被害者だ」などと言うバカは放っておきましょう。


(注1)教育の専門家である学校教師ですが、現状は加速度的に増える書類仕事と昔ながらの部活指導で授業準備もままならないことが多いありさまです。

書類仕事は特に最近増えているようにも思えます。多くの書類仕事は、ビジネス界の慣行をそのまま無思考的に教育界に当てはめて事足れりと考える「お偉い方々」と「マネジメント産業」によって不必要にもたらされているのではないかと私は考えています。書類仕事を導入するのなら、それが学校全体の本来あるべきパフォーマンスを最大化するように最適化されたものとなっているのかを、その現場で具体的に考えた上で書類仕事を導入することが「お偉い方々」と「マネジメント産業」の職業的責任だと私は考えています。

部活指導で教師の土日祝日がつぶれてしまうことは一種の「サービス残業」として長年慣行化されていますが、これは教師の創造性どころか家庭生活・社会生活・心身の健康を破壊しかねない悪習慣だと私は考えています。ひょっとしたらこれはどこかで誰かが労働基準法に基づいて裁判を起こして仕事のあり方を変えなければならないのかもしれません(マクドナルドの店長が起こした裁判は私は社会全体のためにもなるものだったと考えています)。部活のケアなどは、市民のボランティアあるいはパートタイムを活用できないでしょうか。

いずれにせよ、教師には教育の専門家としてできるだけ授業に専念できるような体制を作る責任を教育行政は担っているはずですし、教育行政の不足部分は教師自身が一般市民の理解を得ながら勝ち取ってゆく必要があるといえるかもしれません。


(注2) 教育を一種のサービス業とみなすことにはよい面もあるかと思いますが、近年はあまりにも教育界が学習者をお客様扱いして甘やかしてしまい、自律的な市民を育てるといった教育本来の機能を果たし損ねているのではないかと、若者が社会に巣立ってゆく学校現場で私は懸念しています。ビジネス的思考(市場的思考)を無制限に教育界に適用することは危険だと私は考えます。





2009年4月3日金曜日

大学・大学院で身につけるべき教養とは

新年度が始まるにあたって、改めて私が学部生・大学院生にどのようなことを学んで欲しいと思っているのかと考えてみたら、次のようにまとめられるのではないかと思えましたので、ここで書きつけておきます。いつものように批判を乞います。


*****


大学・大学院では、極めて狭い専門的な知識だけでなく、広く深い教養を身につけてください。

大学・大学院で身につけるべき教養とは、次のようにまとめられます。


「ある項目の共時的なつながりと通時的つながりをできるだけ学び、そういった項目が複数存在し相互に関係しているシステムの複合的なふるまいを理解して、自らの人生を豊かにすること」


もう少し詳しく解説します。大学・大学院では、高校までで学んだ(0)レベルの知識


(0)ある項目を、その限定された範囲で理解し、操作することができる。


に加えて、(1)から(4)のレベルの知識を身につけることによって(5)の知恵に到達することが大切だと私は考えます。


(1)ある項目が、実はその時点で限って(=共時的に)も、他の多くの項目と関連していることを理解し、(0)で学んだことも、少し詳しいレベルでいえば、共時的関係を考慮に入れないと現実世界ではうまく使えないことを学ぶ。

(2)ある項目が、実は共時的なだけでなく通時的に(=過去にも未来にもつながって)関係していることを理解し、(1)で学んだことも、もう少し詳しいレベルでいえば、通時的関係を考慮に入れないと現実世界ではうまく使えないことを学ぶ。

(3)ある項目が、共時的にも通時的にも複合的なシステムの中で動いていることを理解し、いかなる知識も現実世界の全体性の中で慎重に使われるべきことを学ぶ。(0)レベルの知識だけで考える危険性はもとより、(0)、(1)、(2)レベルの知識を切り離してしまって考えることの危うさを理解する。

(4)自分がある複合的なシステム理解をしたとしても、その理解が必ずしも他人に共有されるわけでなく、他人は別様の合理的なシステム理解をしているかもしれないことを理解する。どのシステム理解もある意味、「どれも正しく」(=それなりの合理性をもっている)、「どれも誤っている」(=それぞれの限定的な理解でしかない)可能性を踏まえた上で、異なる理解が共存できるだけでなく、相互を補完、活性化する社会づくりを目指せる。

(5)人間の知識の妥当性と限界性について的確な判断ができるようになり、物事の全体性やバランスを失わない調和の取れた思考と行動ができる。



残念ながら、現在は大学・大学院でさえ、(0)の限定的な学習ばかりを強調しているように時に思えます。もちろんこの(0)レベルの学習は、後の高次レベルの学習のためには必要なのですが、このレベルだけの学習しかしないなら、その狭い範囲の視野から得られた知識を振り回し、複合的な世界の中では逆効果を生み出してしまうことがたくさんあります。

ですが世間では「○○さえすれば、××になる!」といった扇情的なキャッチフレーズが横行しており、またそのような傾向に迎合する知識人もいないわけではありませんから、大学・大学院ではぜひともこれよりも高次のレベルの学びをして、「知識あるバカ」「学歴の高いバカ」にならないようにしましょう(自らの無知を棚に上げた偉そうな言い方をお許しください)。

(1)のレベルの学び[=共時的関係性の理解]で、自らが関心をもっている項目が、いかに他の項目と関連しているかを少しずつ学んでいってください。ですから「どうやったら最短時間で単位が取れるか・論文が書けるか」といった発想ばかりにとらわれずに、学問的な「回り道」「遊び」の中でよく考える習慣をつけてください。

(2)のレベル[=通時的関係性の理解]では、物事を現時点だけで考えるのではなく、10年前、半世紀前、一世紀前、数世紀前はどうだったのかということを理解し、現時点での常識に縛られないようになってください。またその歴史的な過程で、どんな合理的な進展があったのか、どんな不合理的な展開があったのかを学んでください。さらに、もし自分がその時点での人間だったらどう考えただろうかと仮説的に想像力を行使する訓練をしてください。そうして歴史的な洞察を得ることにより、私たちは私たち人間にとっては不可知な未来に対するある程度の見通しを得ることができるのかもしれません。未来も5年後、10年後、半世紀後・・・と様々なスパンで考えるべきことは言うまでもありません。

(3)のレベル[=共時的関係性と通時的関係性の統合]は、知識から知恵に移るレベルといえるかもしれません。これまで学んだ、(0)、(1)、(2)それぞれのレベルでの分析を、それぞれの限界をわきまえた上で正しく行ない、それらが相互作用をした場合にどのような結果が生じうるのかという可能性について、複数のシナリオを理性的に考察できるように目指すべきかと思います。

(4)のレベル[=異なる複数の理解の社会的共存繁栄]は、さらに他者との差異を肯定的に活用できることを目指します。人間は誰も全知であり得ず、それぞれが限定的な知を出し合い、何とかこの世界で幸福な世の中を作り上げようとしているにすぎないことを理解した上で、知識を社会的に活用することを学びます。

(5)のレベル[=知識を経た知恵]は、(0)から(4)の学びを身につけ、この世の中で豊かに生きることができるようになった状態です。実は机について勉強したことがほとんどなかったりした方の中にも、深い人生経験と円満な人格からこのレベルの知恵を身につけていらっしゃる方はたくさんいらっしゃいます。大学・大学院での学びによってこの(5)のレベルの知恵をつけようとする者と、実人生だけで知恵をつけられた方の違いは、前者が(0)から(4)の学びを自覚的に、そして反省的に行ない、必要に応じて(0)、(1)、(2)、(3)、(4)のどのレベルの学びでも新たに行なうことができるようになっているから、おそらくは新しい状況での対応力が少しは優れているかもしれないということです(それでもやはり「知識」(特に(0)レベルの知識)は暴走しかねませんから、細心の注意が必要です)。

要は、「ニーバーの祈り」として知られる次の願いを、大学・大学院では信仰によってではなく、知識獲得によって達成しようとしているとも表現できるのかもしれません。


God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, courage to change the things that should be changed, and the wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。






あるいは私が忘れられない漫画の台詞で言うなら、突然の洪水で一家全員で命を奪われた父親の幽霊が、その洪水との不思議な縁で結びついて、自らの貧困と運命を呪詛する少年(昇平)に言った言葉を、大学・大学院では行なおうとしているとも表現できるかもしれません。

「でも、昇平くん、生きてよく観察し、そして深く考えなさい」

(山本おさむ、「ランドセル」(『オーロラの街 2 』所収)より)



いずれにせよ、大学・大学院で勉強できるということは、本当に貴重なことです。お互いに啓発して学び合いましょう。






専門用語を調べるために便利なweblio

私は今日初めて知ったのですが、日本のweblioという無料オンラインサイトは、通常の辞書だけでなく、多くの専門用語辞典(日本語、英和、和英)を一気に検索し、その結果を一度に表示してくれる非常に便利なサイトです。

weblio



私はブックマークに入れました。皆さんも、もしご存じなかったら試してみてください。




2009年4月1日水曜日

東広島大学 格差解消へ前進

東広島大学が論文・レポート代筆の公式管理運営によって学生と大学の両者が益する合理的システムを始めていることは、前に伝えた通りだが、東広島大学の自己改革は止まらない。

学生にも教員にも歓迎された代筆制度ではあったが、唯一のネックは学生による代筆料金の負担であった。「せっかく心を入れ替えて真面目に単位を取ろうと思ったのに、お金がないから単位が取れなかったり、低い評価しかもらえなかったりするのは悔しい」とは東広島大学の金出学君(19)。東広島大学狂務部長の柳瀬妖介殉教授(45)はそんな声も見逃さなかった。

「保護者の財力によって学生さんの単位認定、ひいては未来が決められてしまう格差社会は是正されなくてはなりません」。そこで同氏が導入を決定したのが、特別奨学金制度だ。

この特別奨学金では、東広島大学が管理運営する論文・レポート代筆料金、および勉学継続のために必要な飲食費、娯楽費、ギャンブル出費、株式投資などに関しては無制限に貸与される。返済は在学中は免除され、学生は卒業と同時に特別奨学金の返済を始めればいいだけであるから、お金に困る学生でも、東広島大学では安心して単位取得と卒業ができることになる。

特別奨学金を管理運営するのは、東広島大学がアウトソーシング契約をした外資系の「トラスト&フェイル」社。同社の最高経営責任者、シャーク・ローン氏(53)は次のように説明する。「学生さんが大学で勉強する時にお金の心配をしてほしくはない。だから在学中は返済免除です。ですがこの猶予は弊社にとってもかなりのリスクになります。ですから免除期間も利息はつけさせていただきます。日本国の貸金業法43条の限度までの利息はつけますが、その後返済が始まってもこの利息がさらに上がることはありません。だから計画的な返済プランが立ちます。学生さんにはよく学び、よく遊んで欲しい。そうしてこそ資本主義社会は発展するのではないでしょうか」。

卒業後に万が一返済が滞った場合も、卒業生は「トラスト&フェイル」社と提携関係にある「ヒューマン・トラフィック」社(会長、キドニー・バイヤー (67))にパスポート原本さえ提出すれば、同社が卒業生を海外に派遣してくれる。派遣先で卒業生は長期間にわたって語学を学びながら仕事に励み、特別奨学金の返済ができるという。「大学生活を充実させて、卒業後も海外で語学研修ができるこの制度は最高です!」と金出君も今では意欲満々だ。

この合理的システムの導入により、少なくとも東広島大学では保護者の財力格差が、学生の単位取得に影響を与えることはなくなった。日本の未来を切り拓く東広島大学の挑戦は続く。



『英語狂育通信 2009年4月1日号(夕刊)』





大学が論文とレポートの代筆・代行を公式化

大学生が友人や先輩に論文やレポートの代筆・代行を頼むのは昔からあったことだが、昨今はインターネットにより代筆・代行が組織化されかつてないほどに広範囲で利用されていることは、「卒論 レポート 代筆」などをキーワードにしてグーグル検索すればすぐにわかることだ。代筆・代行を行なうサイトも、露骨に代筆・代行業を名乗るものから「知識取引所」と銘打つものまで多々あり、学生がこれらのサイトへアクセスすることを禁ずる手段はもはやない。

こういった事態を重く見た東広島大学は、論文とレポートの代筆・代行を野放しにするのではなく、大学自身が公式に管理運営化する方向を打ち出した。同大学で狂務部長を担当する柳瀬妖介殉教授(英語狂育学博士)は次のように語る。

「今の学生は授業に出ません。出ても寝ます。寝なければ携帯かゲームをします。こういった状況で学生の実質的な学習機会は単位を取るためにレポートを作成することなのです」と同氏は学生事情を説明。「ところがそのレポートでさえ代筆・代行業者に任せてしまうと、学生にとって唯一の学習であるインターネットからのコピー・アンド・ペーストの機会さえも失われてしまいます。おまけにそのレポートの内容も信頼のおけないものだとしたら、仮に真面目で勤勉な学生が提出の時にレポートをちらりと見てくれたとしても学習成果は期待できません」と狂育学者でもある同氏は苦悩を語る。

「ですから東広島大学では論文とレポートの代筆・代行を大学自身が行なうことにしました。授業を担当する大学教員自身が論文やレポートを代筆・代行します。それに成績別に価格をつけて大学のホームページで販売するわけです。教員自身によるものですから内容の正確さは(たぶん)保証済みです。学生も払った値段によって自分の成績が確実にわかるので、評価の透明性からも好ましいのです」と同氏は語る。

同氏によれば、この大学の試みは、新自由主義的市場原理主義へのアンチテーゼでもあるという。「市場に任せていれば、粗悪なサイトに学生の貴重な学習機会を奪われてしまうだけです。その点、大学が論文とレポートの代筆・代行に公式に取り組めば、その競争的優位性により価格も廉価に設定できますので、おそらく数年以内に論文やレポートの代筆・代行業者は根絶するでしょう。そうやって独占状態を作り上げれば、学生の不満が出ない程度に徐々に代筆・代行料金を値上げできます。これは少子化に伴う授業料減で苦しむ大学にとって貴重な収入となります。さらに、単位や卒業認定にかかわるこれまでのアカハラも、透明で公正な代筆制度導入により減少するでしょう。大学の問題は市場でなく、大学自身が解決するのです。学生と大学の両者が益するwin-win的なソリューションです」と同氏は誇る。

東広島大学のこの論文とレポートの公式代筆・代行制度は、情報化と説明責任の時代における大学の合理的な生き残り手段として日本中の大学関係者の注目を浴びているという。

日本の再生は、大学の自己改革から始まるのかもしれない。

がんばれ日本! がんばれ大学!!


『英語狂育通信 2009年4月1日号』



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