社会人になりたての若者はしばしば「職場では誰も何も教えてくれない」と言います。もちろんこれは誤解であり、職場は通常、その職場で必要とされる最小限の事柄を新人にはきちんと教えます。ですが、それ以上の事柄については自力で学ぶことを求めます。
考えてみればこれは当たり前のことです。学校という空間では、国民の税金および保護者の授業料などで若者にわかりやすい教育を行なう専門家(注1)が雇われています。ですから若者はちょっとでもわからなければ「わかりません。どうすればいいか教えてください」というように甘えることがある程度は許されています(注2)。
ですが職場は若者がお金を給料の形でもらう空間です。若者は授業料といった形で職場にお金を一銭も払わないどころか、学校の授業料の数倍のお金を職場から給料という形でもらいます。それなのに手取り足取り仕事のやり方を教えてくれという理屈は通らないでしょう。職場での仕事のやり方は、基本的に自ら学ぶべきだと私は考えています
しかし、教師(というよりケアテーカー)がいない状況での自己学習が極めて不得手な若者が多いことも事実です。これは学校が、若者を甘やかし、spoon-feedのように授業をしたからかもしれません。解くべき問題を指定し、その解法を示し、それに答えを「出していただいて」は賞賛の嵐を送るようなことばかりしてるかもしれないということです(強い表現をお許しください)。結果、若者は自ら問題を見つけ出すこと、解法を探り当てること、唯一正解のない中で自らの解答の妥当性を判断することなどができなくなっています。要は、自律的な学力がついていないのです。
社会に出たばかりの若者が職場で「折れて」しまうことは、多くの場合社会的損失となると考えられますから、学校教育者は若者に自律的な学力がつくように注意深く教育を行なう必要があります。
そのためには、考えること、調べること、尋ねることの三つを教育の中で重視すべきだと私は考えます。
考えることとは、状況を観察し、何が当面の「問題」であるかを探りあて、その解法を何とか見つけることです。探り当てるには分析が必要です。つまりは状況を構成していると考えられる主要要因を特定し、それらの構造・システム的関係を推定することが必要です(これは「見えないものを見る」ことでもあります)。そうやって問題を構造的・システム的に理解したら、その理解に基づいて問題の解法を何とか見いだします。これは、若者に問題・解法・正解をセットにして次々に与えて、問題を「解いていただく」ことだけでは決してつかない力です。
考えたら、しばしば調べる必要が生じます。考えて大枠の理解をしたら、今度は細部を詰める必要があるからです。必要な情報を調べ上げなければなりません。調べることの重要性は、グーグルの誕生以降非常に高くなっています。もちろん調べる対象はネットだけではなく現実世界にもたくさんあります(いや依然として現実世界にこそ調べる対象はあると言うべきでしょう)。調べる際のノウハウというものは、それこそ「身につけ」なければ現場では役立ちません。「身につける」ためには、自ら試行錯誤をして経験を深めなければなりません。「最短の時間と労力で試験に合格するための知識伝達」といった発想では試行錯誤は嫌われますから、ここでも私たちは注意深く若者に調べる力をつける必要があります。
しかし考えて調べてもどうしてもわからないことは多々生じるでしょう。学校の試験ならその個人の得点が低くなるだけで済みますが、職場では仕事をきちんと終えなければなりません。職場では個人の成績でなく、組織全体の成績の方が大切です。そのためには周りの先輩に、謙虚かつ具体的に尋ねることが必要です。しかしお客様扱いばかりされて育った若者はプライドばかり高くなり、人に物を尋ねることが怖ろしく下手だったりします。また学校で問いに答えることばかりに慣れて、自ら問いを作り上げて発することができなかったりします。ここでも教育関係者が短期的視点でなく長期的視点に立って教育を行なう必要があるといえるでしょう。
自ら考え、調べ、尋ねることができる若者は社会の宝です。学校教育関係者は、もっと若者に考え、調べ、尋ねさせるように教育計画を立てる必要があるでしょう。同時に若者も考え、調べ、尋ねることの重要性を認識するべきでしょう。
「そんな学校教育を受けていないボクはどうしたらいいんですか? 社会に出てしまったボクは被害者だ」などと言うバカは放っておきましょう。
(注1)教育の専門家である学校教師ですが、現状は加速度的に増える書類仕事と昔ながらの部活指導で授業準備もままならないことが多いありさまです。
書類仕事は特に最近増えているようにも思えます。多くの書類仕事は、ビジネス界の慣行をそのまま無思考的に教育界に当てはめて事足れりと考える「お偉い方々」と「マネジメント産業」によって不必要にもたらされているのではないかと私は考えています。書類仕事を導入するのなら、それが学校全体の本来あるべきパフォーマンスを最大化するように最適化されたものとなっているのかを、その現場で具体的に考えた上で書類仕事を導入することが「お偉い方々」と「マネジメント産業」の職業的責任だと私は考えています。
部活指導で教師の土日祝日がつぶれてしまうことは一種の「サービス残業」として長年慣行化されていますが、これは教師の創造性どころか家庭生活・社会生活・心身の健康を破壊しかねない悪習慣だと私は考えています。ひょっとしたらこれはどこかで誰かが労働基準法に基づいて裁判を起こして仕事のあり方を変えなければならないのかもしれません(マクドナルドの店長が起こした裁判は私は社会全体のためにもなるものだったと考えています)。部活のケアなどは、市民のボランティアあるいはパートタイムを活用できないでしょうか。
いずれにせよ、教師には教育の専門家としてできるだけ授業に専念できるような体制を作る責任を教育行政は担っているはずですし、教育行政の不足部分は教師自身が一般市民の理解を得ながら勝ち取ってゆく必要があるといえるかもしれません。
(注2) 教育を一種のサービス業とみなすことにはよい面もあるかと思いますが、近年はあまりにも教育界が学習者をお客様扱いして甘やかしてしまい、自律的な市民を育てるといった教育本来の機能を果たし損ねているのではないかと、若者が社会に巣立ってゆく学校現場で私は懸念しています。ビジネス的思考(市場的思考)を無制限に教育界に適用することは危険だと私は考えます。
2009年4月13日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿