2016年4月17日日曜日

広島大学での教員免許状更新講習受付が始まりました(柳瀬は8/23(火)の講習を担当します)

教員の方々が定期的に受けなければならない「教員免許状更新講習」は、広島大学でも開催されますが、その受付が本日4/17(日)より始まりました。締切は5/22(日)です。

広島大学の卒業・修了生の先生方、または広島大学にご興味をお持ちの先生方、ぜひ広島大学での教員免許状更新講習を受講ください。

まずは、下の「シラバス・講習一覧」でご興味のある講習をお探しください。



シラバス・講習一覧




ちなみに私は、以下の講習を行います。


日時: 8/23(火) 9時から17時まで
会場: 広島大学東広島キャンパス(教育学研究科)
講習: 英語とコミュニケーションを再び考える



ゆっくり時間をかけて私が『小学校からの英語教育をどうするか』で述べたかったことを説明し、皆さんと対話を重ねたいと思っております。ご興味のある方は上記サイトからお申し込みをお願いします。







2016年4月15日金曜日

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念





オープンダイアローグに対する興味から、理論物理学者であり哲学的な論考も多く行っているDavid Bohm デイヴィッド・ボーム による ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)についての本 (On Dialogue 『ダイアローグ』) を読みました。

原著は現在、Routledge Classicsのシリーズの一冊として刊行されていますし、丁寧な前書きが経営学の泰斗 Peter Sengeピーター・センゲ)によって書かれていることからも、この本が現在も重要な著作として扱われていることがうかがわれます。









この本は非常に興味深く、私がこれまでコミュニケーションや意味などについて学んできたこととの整合性も高かったので、ここにいつものような「お勉強ノート」を作っておきます(今回のノートは、第一章の On Communication と第二章の On Dialogueに基づくものです)。日本語の訳本は大変参考にさせていただきましたが (訳本の翻訳は非常にこなれたすばらしいものです)、以下の訳文は私が翻訳・抄訳したものです。私は自分なりに何とか翻訳することで原文を理解することを好んでいるので拙訳を試みた次第です。



「対話」とは?

ボームの言う ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ) は、必ずしも通俗的に使われている dialogue と同じ意味は有していません。定義部分なので、原文と翻訳を示しておきます。

In such a dialogue, when one person says something, the other person does not in general respond with exactly the same meaning as that seen by the first person. Rather, the meanings are only similar and not identical. Thus, when the second person replies, the first person sees a difference between what he meant to say and what the other person understood. On considering this difference, he may then be able to see something new, which is relevant both to his own views and to those of the other person. And so it can go back and forth, with the continual emergence of a new content that is common to both participants. Thus, in a dialogue, each person does not attempt to make common certain ideas or items of information that are already known to him. Rather, it may be said that the two people are making something in common, i.e., creating something new together. (p.3)

そのような対話においては、話し手が何かを言っても、聞き手は通常、話し手が思っていたのとまったく同じ意味での反応をするわけではありません。むしろ意味は、ただ類似しているだけであり、同一のものではないのです。ですから、聞き手が反応をした時、話し手は自分が言おうとしたことと、聞き手が理解したことの間に差異を見出します。この差異について考えることによって、話し手には何か新しいことがわかってきます。それは自分の見解と聞き手の見解の両方にとって関連のあることです。これは相互に繰り返され、双方にとって共通な新たな内容が次々に現れます。ですから対話における人々は、自分にとって既知の思考や情報を共通のものにすることが試みられているのではありません。そうではなく、二人は共に何かを作っている、つまり何か新しいものを一緒に創造しているのです。

この対話概念は、明らかに情報伝達的なコミュニケーション観とは異なります。意味の同一性を前提とせず、意味の差異から生まれるものを大切にするというこの対話概念は、従来のコードモデル的な情報伝達的コミュニケーション観とはまったく違います。

深読みをするなら、話し手と聞き手という二つの主体のそれぞれによる想定を越えた意味の差異が新たな意味を生み出すという点で、このボームの見解は、話し手か聞き手のどちらかが対話生み出すものではなく、対話が対話を生み出す、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出すと考えるコミュニケーション観と解釈できるのかもしれません。

いや下手に「コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションであり、人間ではない」というルーマン的な考え方に引きずられずに、ここは理解の不一致が、自分だけでなくお互いにとって大切な点を明らかにしてくれることをボームの見解が強調していることを指摘すればいいだけなのかもしれません。

私を含めた凡人にとって、理解の不一致はしばしば不愉快なものですが、実はそれこそが「お互い」という新しい次元 話し手と聞き手それぞれの自我を越えた新たな次元 を示してくれるものだと肯定的にとらえることは、対話を豊かなものにする知恵なのかもしれません。

もちろん、こういった対話は、相手を言い負かしてやろうといった態度では成立しないものです。上の引用に続いてボームは次のように言います。

But of course such communication can lead to the creation of something new only if people are able freely to listen to each other, without prejudice, and without trying to influence each other. Each has to be interested primarily in truth and coherence, so that he is ready to drop his old ideas and intentions, and be ready to go on to something different, when this is called for. If, however, two people merely want to convey certain ideas or points of view to each other, as if these were items of information, then they must inevitably fail to meet. For each will hear the other thorough the screen of his own thoughts, which he tends to maintain and defend, regardless of whether or not they are true or coherent. (p.3)

もちろんそのようなコミュニケーションが何か新しいものを創造できるのは、参加者がお互いに、自由に、偏見なしに、他人に影響を与えようなどとせずに傾聴することができる限りにおいてのことです。どんな参加者にとっても第一の関心事は真理と連動性でなくてはなりません。そして、自分の古い思考や意図を放棄し、必要に応じてそれらとは異なるものへ進むことができなくてはなりません。しかし、もしお互いが思考や観点を、まるで細切れの情報のように相手に単に伝達することしか望んでいないのならば、それらの人々に出会いは生じません。なぜならそれぞれが相手の言うことを、自分の思考というスクリーンを通じて聞いており、それぞれがその自分の思考を、真理であろうとなかろうと連動性を有したものであろうとなかろうと、お構いなしに擁護し守ろうとするからです。

‘Truth’ ‘coherence’ は、ここではとりあえず「真理」と「連動性」と訳しましたが、これらはボームの論においての重要概念ですので、後日改めてこれらについては言及するかもしれません。現在、私は、「真理」を「誰の思考によってもとらえきれない全体」、「連動性」を「すべてがつながっていること」ぐらいに理解していますが、もちろんこれらの理解は今後深めてゆかねばなりません。

特に ‘coherence’ は訳すのが難しい語で、訳本では「一貫性のあること」や「コヒーレンス」と訳されています。私としては「つながり」か「まとまり」、あるいは「連続性」などと訳そうかとも思いながら、今なお迷っているところです。ちなみにボームは、通常の光とレーザー光線の違いを引き合いに出して、 ‘Ordinary light is called “incoherent”, which means that it is going in all sorts of directions, and the light waves are not in phase with each other so they don’t build up. But a laser produces a very intense beam which is coherent.’ (p.15) と、 ‘coherent’ ‘incoherent’の違いを説明していることも付記しておきます。

こういった対話・ダイアローグを可能にするにはいくつかの具体的な工夫も大切です。座るときは円座となり、指導者 (leader) や議題 (agenda) は定めない方がいいでしょう。もちろん、世話人 (facilitator) がいて、対話で何が起こっているかを時折説明する方がいい場合もありますが、その際も世話人のやるべきことは、世話人という役割が不要になるように対話を育ててゆくことだと心得るべきです (p.17)

さまざまな状況における実際の対話にはいろいろな条件や制約があり、妥協や折衷案も生じてくるでしょうが、理想的には対話は、あらゆる可能性に開かれた自由なものであるべきであり、結論を出さなければならない、発言しなくてはならない(あるいは逆に、ひたすら聞いていなければならない)、といった私たちの思い込みからも自由でなければなりません。

In the dialogue group we are not going to decide what to do about anything. This is crucial. Otherwise we are not free. We must have an empty space where we are not obliged to do anything, nor to come to any conclusions, nor to say anything or not say anything. (p.19)

対話を行うグループの中で、私たちは何をするべきであるといった決定は何事についても行いません。これは決定的に重要なことです。そうでなければ、私たちは自由ではありません。私たちは、何かをするとか、結論を出すとか、何かを言わなければならない(あるいは言ってはならない)とかいう義務から解放された何もない空間をもたねばならないのです。

結論を出すことより早急な結論を控えることを重視することはオープンダイアローグでも強調されており、多声性 (polyphony) の原則では、「私たちが目指しているのは、お互いが相補いながら理解することであり、全員一致の合意を得ることではありません」 ( “The goal is to generate joint understanding, rather than striving for consensus.” ) と明確に述べられていました。これらの主張からすると、私たちは自分たちの「対話」の概念を一度根底的に問いなおした方がいいのかもしれません。


また、語源的に言うなら “dia-” “two” でなく “through” を意味するのであり、対話とは二人で行われるものだけを指すのではなく、何人の間の話し合いでも対話でありえ、時には自分自身との対話も可能であるというボームの主張 (pp.6-7) も覚えておくべきでしょう。




「意味」とは?

私は統合情報理論を通じて意味の概念について再考をしているところなので、ボームの意味論についてもここでまとめておきたいと思います。


ボームは対話を、物事をバラバラに分析した上で人々が勝ち負けを争う議論 (discussion) とは異なるものとして考えます。議論とは異なり、対話では勝ち負けはないとボームは言います。

In a dialogue, however, nobody is trying to win. Everybody wins if anybody wins. There is a different sort of spirit to it. In a dialogue, there is no attempt to gain points, or to make your particular view prevail. Rather, whenever any mistake is discovered on the part of anybody, everybody gains. It’s a situation called win-win, whereas the other game is win-lose – if I win, you lose. But a dialogue is something more of a common participation, in which we are not playing a game against each other, but with each other. In a dialogue, everyone wins. (p.7)

しかし対話では誰も勝とうとはしません。もし対話で誰かが勝つ人がいるとしたら、それは全員です。対話には [議論とは]異なる種類の精神があるのです。対話では、誰も得点を稼ごうとしませんし、自分の特定の見解を広げようともしません。誰かの間違いが発覚した時にはむしろ、それは全員が何かを得ることにつながります。これはウィン-ウィン(両得)と呼ばれる状況で、私が勝てばあなたは負けるという勝ち負けのゲームとは異なります。対話は、共に参加するものであり、私たちは敵対しながらではなく、共にゲームをします。対話では全員が何かを得るのです。

ボームは、 “dialogue” “dia-” (through) の意味から生じていることから、対話における意味の流れ、あるいは意味の動きを重視し、意味とは人々をつなげるものだと述べます。

The picture or image that this derivation suggests is of a stream of meaning flowing among and through us and between us. This will make possible a flow of meaning in the whole group, out of which may emerge some new understanding. It’s something new, which may not have been in the starting point at all. It’s something creative. And this shared meaning is the “glue” or “cement” that holds people and societies together. (p.7)

この語源から浮かび上がってくる映像・イメージは、私たちの間を動いて流れてゆく意味の流れです。この意味の流れによってグループ全体で意味が動き始め、そこから何か新たな理解が創発してきます。この理解は初めて現れたもので、対話が始まった時点では存在すらしなかったものかもしれません。この共有された意味は、人々と社会をつなげる「接着剤」であり「セメント」です。

意味が静的・固定的なものでなく、動的・推移的なものだということは、統合情報理論でも示唆されていたことですが、ボームはさらに続けて社会や文化について言及します。

I am saying society is based on shared meanings, which constitute the culture. If we don’t share coherent meaning, we do not make much of a society. And at present, the society at large has a very incoherent set of meanings. In fact, this set of “shared meanings” is so incoherent that it is hard to say that they have any real meaning at all. There is a certain amount of significance, but it is very limited. The culture in general is incoherent. And we will thus bring with us into the group – or microcosm or microculture – a corresponding incoherence.  (p.32)

私の論点は、社会は共有された意味に基づき、共有された意味が[社会の]文化を構成しているということです。もし私たちが連動した意味を共有しないなら、社会らしいものを作り出すことはできません。しかし現在、概して社会には互いにほとんど非連動的な意味が共存しているだけです。実際、これを「共有された意味」とするにせよ、これはあまりにも非連動的なので、本当の意味とは呼びがたいものになっています。もちろんこのような状況にも一定の意義はありますが、しかしそれは極めて限られたものです。現代の文化は一般的に非連動的です。かくして私たちは自分たちのグループ 小宇宙や小文化とも呼んでもいいでしょうにも非連動性を持ち込んでしまいます。

このあたりのボームの批判は、断片化 (fragmentation) や科学 (science) の論点とも重なりますが、ここではボームの論の引用を続けます。ボームは、そのように断片化する社会に、つながりやまとまりを取り戻そうとします。

If all the meanings can come in together, however, we may be able to work toward coherence. As a result of this process, we may naturally and easily drop a lot of our meanings. But we don’t have to begin by accepting or rejecting them. The important thing is that we will never come to truth unless the overall meaning is coherent. All the meanings of the past and the present are together. We first have to apprehend them, and just let them be; and this will bring about a certain order. (pp.32-33)

しかし、もし [互いに非連動的な現代社会の] すべての意味が一堂に会するなら、私たちは連動性へ向けての努力を行うことができるかもしれません。その中で、私たちは自分の意味の多くを自然に苦もなく手放すようになるかもしれません。しかし私たちはこの努力を、自分の意味の取捨選択から始める必要はありません。大切なことは、意味が全体的に連動的でないでないかぎり、真理には到達できないということです。過去と現在のすべての意味はつながっています。最初、私たちは意味のつながりを理解しなければなりません。意味のつながりをそのままにしておきましょう。そうすれば何らかの秩序がきっと生じるはずです。

しかしこういった努力はもちろん容易なことではありません (真理の徒であるはずの学者先生が、自分のものとは少しでも異なる流儀を取る研究者との対話ができないことからも、それは明白です ボームは、アインシュタインとボーアの間に起こった悲劇も紹介しています)。しかし、対話によって、私たちは思考とコミュニケーションを連動させることができるのではないかとボームは述べます。

Now, you could say that our ordinary thought in society is incoherent – it is going in all sorts of direction, with thoughts conflicting and canceling each other out. But if people were to think together in a coherent way, it would have tremendous power. That’s the suggestion. If we have a dialogue situation – a group which has sustained dialogue for quite a while in which people get to know each other, and so on – then we might have such a coherent movement of thought, a coherent movement of communication. It would be coherent not only at the level we recognize, but at the tacit level, at the level for which we have only a vague feeling. That would be more important. (p.16)

もちろん、社会における私たちの通常の思考は非連動的だと言えます。私たちの思考はあらゆる方向に向かい、異なる思考が衝突し、互いを潰し合っています。しかしもし人々が共に連動的に思考することができるなら、それはとてつもない力となるでしょう。このことを私は言いたいのです。もし私たちが対話の状況を創り出すなら 長い間対話を続け、人々がお互いを知るようになったりするなら 私たちも、思考の連動的な運動、コミュニケーションの連動的な運動をもつことができるかもしれません。これは私たちが認識できる水準だけでなく、私たちがぼんやりとしか意識できない暗黙の水準においても連動的なものです。これはより重要な点と言えるでしょう。

ここで重要な概念として「暗黙の」 (tacit) という用語が出てきましたが、この側面が、思考と意味においてきわめて重要であるとボームは述べます。

“Tacit” means that which is unspoken, which cannot be described – like the knowledge required to ride a bicycle. It is the actual knowledge, and it may be coherent or not. I am proposing that thought is actually a subtle tacit process. The concrete process of thinking is very tacit. The meaning is basically tacit. And what we can say explicitly is only a very small part of it. I think we all realize that we do almost everything by this sort of tacit knowledge. Thought is emerging from the tacit ground, and any fundamental change in thought will come from the tacit ground. So if we are communicating at the tacit level, then may be thought is changing. (p.16)

「暗黙の」ということばが意味することは、語られないということ、記述できないということです。自転車に乗る時に必要な知識を思い起こしてもらえればいいでしょう。これは現実の知識ですが、連動的なものもあれば非連動的なものもあります。私はここで、思考とは実際には精妙で暗黙的な過程であると述べているわけです。思考することの具体的な過程はとても暗黙的なものです。意味も基本的には暗黙的なものです。私たちが明言できることは、意味のほんの一部にすぎません。私たちがなすことのほとんどすべては、この種の暗黙的知識によってなされていることを皆さんもお分かりだと思います。思考は暗黙の基盤から創発するものであり、思考の根本的な変革も暗黙の基盤から到来するものなのです。ですからもし私たちが暗黙の水準でコミュニケーションを行っているなら、おそらく思考も変革しているのです。

「暗黙の水準でのコミュニケーション」、すなわち明確なことばが饒舌に述べられているわけではないのだけれど、参加者の意識がどこか連動し、それぞれの中で、あるいは参加者の間で、何かがうごめいているような感覚を得られるコミュニケーションが行われていたら、実はそれは根源的な水準で参加者の思考が変容しているのだというこのボームの見解は、私たちのコミュニケーションの実際を思い起こすなら的を射ているようにも思えるのですが、皆さんはどうお考えでしょう。

Dialogue is really aimed at going into the whole thought process and changing the way the thought process occurs collectively. (p.10)

対話とは、実のところすべての思考過程へと入ってゆくことを目指すものなのです。対話集団的な思考過程のあり方を変革します

このように「対話」や「意味」に関するボームの論は、「思考」とも深く関わっていますが、「思考」についてはまた後日まとめたいと思います。


要約

以下に、これまでのボームの論を、私なりにまとめてみることにします。私のまとめですから、私なりの解釈や誤解(あるいは「意味の差異」!)が入っているかもしれませんが、これも対話を始めるためと思い、私なりの要約を書きます。要約に添えられたページ番号は、その要約の基になった原著ページです。

(1) 対話では、意味の完全な一致は前提とされない。 (p.3)
(2) 対話では、参加者の間での意味の差異から何か新しいものが生まれてくるが、それは参加者全員にとって関連のあるものである。 (p.3)
(3) 対話は、伝達による情報共有ではなく、参加者が一緒に何かを創造するものである。 (p.3)
(4) 対話が成立するためには、参加者が他人に影響を与えようなどとすることなく、偏見なしに耳を傾けることができなくてはならない。 (p.3)
(5) 対話では、真理と連動性が最重要視されなければならない。 (p.3)
(6) 対話では、必要ならば、自分のそれまでの考えを擁護したり守ろうとすることなく、捨て去らなければならない。 (p.3)
(7) 対話は、何をどう言うべき(言うべきでない)といったことや、必ず結論を出さなければならないといった義務感から解放されて行われなければならない。 (p.19)
(8) 対話に勝ち負けはない。どんな参加者も相手を打ち負かそうなどとしてはいけない。 (p.7)
(9) 対話では、意味が参加者の間で動き始め、意味の流れが生じ、それが共有される。
(10) 共有される意味の流れが、新たな理解を生む。  (p.7)
(11) 共有される意味の流れが、人々と社会をつなぐ。  (p.7)
(12) 共有される意味の流れが、文化を構成する。 (p.32)
(13) 現代社会では、意味が連動的でなく、人々や社会が分断されている。 (p.32)
(14) 連動的でない意味は、本当の意味とは呼びがたい。 (p.32)
(15)互いに連動していない意味を一堂に会させることにより、連動への努力を始めることができるかもしれない。  (p.32)
(16) 意味を連動させようとする対話では、参加者が考えを取捨選択することもあるかもしれないが、もっとも大切なことは、意味全体が連動していないかぎり、真理には到達できないということを自覚することである。 (p.33)
(17) 現在の意味も過去の意味も、あらゆる意味は共に存在しており、その意味の共存を認めることから新たな秩序が生まれる。(p.33)


私は「コミュニケーション能力」を研究テーマの一つにしています。最初は言語学と応用言語学のコミュニケーション能力論の狭さを感じ、それを分析哲学(ウィトゲンシュタインやデイヴィドソンなど)のコミュニケーション論をつなげることを試みました。その後、アレントやルーマンなどのコミュニケーション論に惹かれ、最近は情報統合理論などから意味について考えなおしたり、当事者研究やオープンダイアローグなどからコミュニケーションの現実の営みについて学んだりしています。ボームのこの本は、これらの論考と整合性が高く、何より現実のコミュニケーションを理解する上で非常に役立つ本だと思ったのでこのようにお勉強ノートを作りました。今後ももう少しこの本についてまとめてゆきたいと思っています。




追記(2016/04/18)

授業用の資料として、この記事内容に関するスライドを作りました。








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飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)
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2016年4月9日土曜日

広大生でしたらGraded Readersを電子書籍として利用することができます

広島大学のWi-Fi環境でインターネット接続をすれば、学習用英語読み物(いわゆるGraded Readers)を電子書籍の形で読めます。著作権法に則った個人利用の範囲内でしたらファイルを印刷・保存することもできます。

詳しくは以下のマニュアルを読んだ上で、その下にあるサイトにアクセスしてください。





https://elib.maruzen.co.jp/

(広島大学のWi-Fi環境からアクセスしてください) 



追記 (2017/02/07)

外国語教育研究センターの「オンライン多読ライブラリー」からでしたらより簡単にアクセスできます。
(ただし、このサイトも広島大学のWi-Fi環境からアクセスする必要があります)


(広島大学のWi-Fi環境からアクセスしてください)  





関連サイト:広大教英生がお薦めするGraded Readers

http://kyoeigradedreadersselection.blogspot.jp/




2016年4月7日木曜日

小学校英語教育に関する読売新聞記事でのコメントについて



本日(2016/04/07 木曜)の読売新聞全国版の「小学校英語 時間確保に苦慮」という記事に、大津由紀雄先生(明海大学外国語学部長)と私のコメントが短く掲載されました。




記事は中央教育審議会が先月示した授業時間の確保案に対する賛否の声を取材したものです。小学校5、6年生で教科として英語を年間70回(平均週2回)教えることとなると時間確保が困難なので、中教審の作業部会は、10-15分程度の短時間学習や夏休み・冬休みの活用を組み合わせることを提案しました。記事の中では、そういった実施案に対する小学校校長や市の担当者の懸念の声が三つと、短時間学習を肯定的にとらえる声が一つ取り上げられていました。

大津先生と私のコメントは、中教審提案に対してそれぞれに危惧を表明したものです。

私への取材は、電話で20分程度お話したものでした。その話を記者の方がまとめてくださり、昨夜には私の掲載予定のコメントを再度電話で丁寧に一字一句確認してくださいました。

取り上げられた私の論点は、

(1) 細分化された短時間学習でコミュニケーションを教えるのは困難だろう。
(2) 短時間学習ではドリルのようなトレーニング型の授業が増えるのではないか。
(3) 2020年度導入という数値目標が先立つと小学校の先生方が時間的・精神的余裕を失うだろう。
(4) 今後は学校間、学校内(学級間)、児童一人一人の格差が広がるのではないか。

というものです。

どれも基本的に『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)で述べたことですが、ここで若干説明を補っておきます。

(1') コミュニケーションは、自分の感性や思考に忠実に、かつ相手の心を読みながら相互に行うものである。そのようなコミュニケーションを慣れない外国語で促す活動を10-15分といった短時間行うのは困難ではないか。感性や思考を喚起させ、相手の心も予想することを楽しめる活動にはある程度の長さの時間が必要だろう。
(2') トレーニング型の授業は、既に英語習得に明確な目的意識とやる気をもっている学習者に対しては有効であることが多いが、そういった心理的な準備ができていない子どもに対しては逆効果になりかねない。他人に勝ちたいという競争心でトレーニングに励む子もいるかもしれないが、そもそもトレーニングに意義を感じられない子にとってトレーニングは苦痛になるかもしれない。
(3') 子どもをよく知る小学校の先生方は本当に工夫にみちた授業を考案し、私も驚くことが多いが、そういった知恵は相当の時間的・精神的余裕があって始めて可能になっている。研究開発校の選ばれた優秀な先生方も、そうとうな努力をしなければいい授業は創造できない(ある研究開発校の先生は、「こんな授業創造をずっとやれということは、私たちに『寝るな』ということなのですか?」と現場の苦労を語っていた)。全国津々浦々で2020年度から正式教科化するというのは、政治的アドバルーンとしては目立つかもしれないが、教育現場からすればあまりに無理筋ではないか。
(4') こうなると、一方では保護者の教育意識が非常に高い地域の学校とそうでない学校、英語指導が例外的に優れた教師とそうでない教師、トレーニングの結果で競争するのが好きな子どもとそうでない子ども等などの間での格差が広がるのではないか。

トレーニングで向上できる固定的な知識や技能は、テストなどで一義的に測定しやすいので世間ではしばしば「英語力」(あるいは「語学力」)と呼ばれていますが、そういった「英語力」は、コミュニケーションのための必要条件ではあっても、それがあれば必ずコミュニケーションができるという十分条件ではありません。資格試験で高得点なのに英語が実際には使えない人や、その逆に英語の成績は悪かったけど英語でのコミュニケーションは抜群にうまい人などは皆さんの周りにも見られるかと思います。

これまでの中高の英語教育は「英語力」にあまりに集中していました(もちろん近年の英語教育は「コミュニケーション中心」や「コミュニカティブ」であることを謳っていますが、その充実はまだまだといったところです (注))。だから「いくら勉強しても英語が使えない」との怨嗟の声が高まりました。もし小学校の英語教育までもが「コミュニケーション」ではなく「英語力」に傾いた旧来型の中高の英語教育を前倒し的に実施すれば、怨嗟の声はさらに高まるだけでしょう。

もちろん新聞記事で紹介されているように、短時間学習をうまく活用できていると自信をもっているところもあるでしょう。しかし、ある成功例は、その地域・学校・学級・教師・児童・保護者などのさまざまな要因があってのものであり、それらの要因が異なるところで成功例を真似てもうまくいくわけではないことは、多くの教員が身にしみて知っていることです(参考:リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究 )。

ある成功例からそれぞれの教員が学びそれを咀嚼して自分なりのものに熟成させるためには長い時間がかかります。しかし、2020年からという数値目標が先にありきとなると、多くの先生方は時間的・精神的余裕をなくして、旧来型の中高の英語教育を水で薄めたような授業に飛びつくかもしれません。これまで蓄積されてきた少数の優れた小学校英語教育(「外国語活動」)や民間児童英語教育実践が普及されないまま、旧来型の英語教育に淘汰されてしまう可能性すらあります。

小学校英語教育は数値目標をかかげて、それを厳守せよと厳命を下すことで成功するようなものではありません。

幸い少数の小学校英語・児童英語の関係者は、子どもと正面から向き合うことで、子どもの「からだ」と「こころ」を育てて英語を「身につける」ことを可能にしています。そこから学びつつ、関係者が英語教育を熟成させることがなすべきことだと私は考えます。

しかし上でも書きましたように、そういった実践から学ぶには時間がかかります。技法を習得する以上に、考え方を変える必要があるからです。でも、日本が世界に誇る優秀な小学校教師が、ゆっくりと学べば、きっとよい英語教育実践は少しずつ芽生えてくるはずです。そうやって「小学校から」中高そして大の旧来型の英語教育を変革することが希望の途だと私は考えています。

だからこそ私は本の題名を『小学校からの英語教育をどうするか』としました。そして多くの読者が小学校英語の本に期待するような具体的なノウハウではなく、根本的な社会観や学習観(身体論)から英語教育を考えなおすことを促しました。

公教育は国の礎です。大切に考え続けてゆきたいと思います。市民が小学校英語教育について考えるための今回の記事を提起してくださった読売新聞に感謝します。


 



(注)
「コミュニケーション中心」や「コミュニカティブ」であることを謳う英語教育を行っても、まだ英語が「身につかず」、創造的な対話ができるまでに至っていないことの根本原因の一つは、関係者の「コミュニケーション」の理解が浅薄であることであると私は考えています。ですから例えば「コミュニケーション能力と英語教育」といった授業で学生さんのコミュニケーション観を根底から揺さぶるようにしています。

聞く文化と読む文化 (4/5留学壮行会挨拶)



  皆さん、留学おめでとうございます。皆さんがこの幸運な機会を活かして深く広く学び、その学びの成果を他の人々に惜しみなく伝えることを願っています。
  留学にあたって皆さんには英語を聞く文化と読む文化を学んでほしいと思っています。
 
  日本の英語教育にはいいところもたくさんありますが、批判すべきところもあります。それらのうちに含まれるのが、聞く文化と読む文化を貧しいものあるいは偏ったものにしていることです。
 
  皆さんが英語を聞く時ことは、しばしば「リスニング」というカタカナで表現されています。リスニングでは、皆さんは一方的に与えられる音声を聞き、それについて定められた反応(つまりは既成の問題に対する正答提示)だけをすることを求められています。リスニングテストを思い起こしてください。スピーカーから、皆さんにとって予想もつかない内容の英文が、一度だけ流されます。皆さんは話し手の表情を見ることはありません。仮にビデオで表情を見たとしても、情報の流れの一方向性は変わりません。皆さんは与えられる音声に対して無力です。
 
  しかし、自然な状況では、状況からの知識や前提なしに聞くことはありません。一方的に音声を与えられるだけのこともほとんどありません。聞き手が特定の反応しか求められないこともまずありません。あなたが誰かの話を聞く時、その相手の表情は刻々と変わります。それはあなたの表情の変化の反映です。あなたは相手の話を理解しながら、その理解を(あるいは理解の不成立を)さまざまな表情や身のこなしで表現します。その表現を受けて話し手の表情も変化しますが、その表情の変化は、話し手の情動と意識の変化の反映です。その情動と意識の変化は、話し手の語彙や話の内容の選択にも影響を与えます。つまりあなたは聞き手として聞く文化に参加しているだけで話し手に影響を与えるわけです。
 
  この意味で、聞くことは一人で行うことではありません。聞くということは、聞き手と話し手が相互作用を通じて、共に話を創り上げるものです。聞き手の聞き方で話し手は話し方と話の内容を変えます。一見、受け身の聞き手も実は話を作り上げているのです(皆さんもよい聞き手に恵まれた時と嫌な相手を相手にする時では話が大きく変わることを十二分に経験しているでしょう)。
 
  留学では自然な状況で聞くことが飛躍的に増えます。ぜひその経験から十分に学んでください。上手な聞き手になってください。決してリスニングテストの時のように眉間にしわを寄せた渋顔で聞かず、相手に対する純粋な関心から聞いてください。話し手の心に寄り添おうとしてください。そうすれば皆さんは聞くことだけでなく、話すことについても学ぶことができるでしょう。それが聞く文化に参加するということです。
 
 
  読む文化も、リーディングテストとは異なるものです。リーディングテストでもリスニングテストと同じように、藪から棒にあるトピックの英文を皆さんは読まされます。皆さんは、その英文への個人的関心とは無関係に設問で問われたことに答えるのみです。設問に関連する箇所だけしか読まないことがしばしば「効率的な受験ストラテジー」として推奨されています。
 
  これは自然な状況での読む文化とは大きく異なっています。読む文化では、あなたは本屋などで、自分の興味関心に応じて本を手に取ります。題名や著者や装丁、あるいは前書きや目次などから得られる予想をもとにあなたは本を読み始めます。読むことに特定の達成目標があるわけではありません。あなたはあなたの感性に忠実に自分の好きな表現を愛で、あなたの思考に応じて内容を吟味します。読む環境や速度も自分で好きなように選びます。一読し他の関連書に手を伸ばすこともあれば、途中で読むことを止めることもあります。あなたは自分の自由な意志と感性で読書を楽しみます。
 
  読書は、話し手よりも文章を練った書き手と対話することです。もちろん会話のようにあなたの存在や行動が本の活字(書き手のことば)を変えることはありません。しかし、読み手であるあなたは、聞き手である時以上に能動的に本のことばから想像をし、連想や想起をし予想をします。読む場合は、会話の時のように書き手のことばに表情が伴っていませんから、あなたは書き手の気持ち(あるいは書き手が創りだした世界の情景や登場人物の心情)を想像して活字に表情をつけて本を読みます(活字から表情のある音声を喚起できない人の読書は苦行であり続かないものです)。
 
  この意味で、読むとは書き手に寄り添うことです。喩えて言うなら書き手というスキー選手が滑降している直後からそのスキー選手と同じ軌道でスキー滑降をするようなものです。書き手のことばに即することであなたはことばの使い方を学びます。この意味で、読むことは書くことを学ぶことでもあります。
 
  留学ではこういった読む文化をぜひ楽しんでください。授業中の課題をこなすだけで英語を読んだと考えるのではなく、ぜひ自分の意志と感性で本を手にして、書き手と共に本が喚起してくれる想像上の世界での冒険を楽しんでください。
 
  そうやって皆さんが聞く文化と読む文化の喜びを知ってから日本に帰り、日本の英語教育をより自然なものにすることを私としては願っています。
 
  皆さんの留学の成功をお祈りします。

2016年4月4日月曜日

答えのない問い (大学院講座オリエンテーション挨拶)



ご入学おめでとうございます。

皆さんはこれまで受験勉強などで答えのある問い ― 一つの正解が決まっており、その正解への到達方法(解法)が定められている問い ― に習熟してきたと思います。

皆さんは正解そのものや解法を暗記して、皆さんは「正しい」答えを出し、例えば入学といった権力を得てきました。

しかし世の中には答えのない問いもたくさんあります。たとえば個人レベルでしたら自分がどう生きたらいいのかという問い、国レベルでしたら3.11以降明らかになってきた原発をどうするかという問い、あるいは地球レベルでいえば資本主義的生産体制がもたらす環境破壊と格差拡大をどう制御していくかといった問いなどです。

こういった問いには一義的な正解も解法もありません。一つの正解と解法が定められるのは、世界を断片化して、関連する要素がわずかでしかない問題空間を私たちが人工的に定めるからです。

しかし、現実世界の問いの多くは、関連する要素があまりにも多すぎ、しかもそれらの要素がすべて連動しています。いくつかの要素を取り上げるにせよ、その取り上げる順番によって連動の具合は大きく変わってゆきます。世界が人生が私たちにつきつけてくる問題の多くはこのように、要素があまりにも多く、かつそれらすべてが連動しているため、誰も一望することすらできない複合的 (complex) な問題です。

こういった答えのない問いには、正解がありません。どんな答えを出しても、その答えがすべての要素の連動性によりどんな結果をもたらすかを私たちは十分に予想することができません。また、他によい答えがあるのではないかという疑いあるいは明確な反論が必ず出てきます(もちろんそういった疑義や反論を呈する人も結末は知り得ないのですが)。したがって、定められた解法を適用して他人よりも速く正解を出すといった受験勉強で培った断片的な力は、答えのない問いには無力です。

もちろんまったく無力で役立たずというわけではありません。正解が定まらないにせよ、答えのありそうな方向を漠然と探しだし、その中で限定的な問題空間を定めて、すなわち世界を断片化してシミュレーションをするときなどには、正解を求める知性は有効です。

しかし間違えないでください。正解を求める知性は、正解がわからないままに、答えのない問いを探求し続ける理性に仕えるものです。断片化された世界は虚構であり、すべてが連動しその連動が何をもたらすかわからない世界こそが現実世界です。それどころか、誰も要素を枚挙することもできない世界が現実世界です。

大学院では修士論文や博士論文などで自分なりの正解を呈示する知性を発揮しますが、それは答えのない理性的な探究の母体の中で行うべきことを忘れないでください。理性的な反省を忘れて自らの知性を過信し、知性によって得られた権力を暴走させないようにしてください。

最高学府である大学院では、ぜひ答えのない問いの探究を忘れないでほしいというのが私からのお願いです。

皆さんの学びが充実し、この世界を少しでもよい世界にできることに貢献できるものとなることを切に願っています。


地道に根をのばしてゆきましょう(学部生講座オリエンテーション挨拶)


  私は趣味で毎日のように通勤路で出会う植物の写真を撮っていますが、この春の木々と草花の芽吹きには本当に驚かされました。年度末に私は出張で一日だけこの西条を留守にしたのですが、帰ってみるとそれまで枯れ木同然だった木々に緑の葉が芽吹き、小さな草には色鮮やかな花が咲いているのには感動すらしました。



  これらの芽吹きをもたらした一つの契機はまちがいなく春の暖かな陽光ですが、私たちは木々や草花がこの冬の厳しい季節に着実に根をはっていたことを忘れてはいけません。

  冬の間、木々や草花は地面の上ではほとんど何も変化を示していませんでしたが、実はその間に、土壌の中に根をはり、自らの中に力を蓄え続けていたわけです。地下で根をはることは容易ではなかったかもしれません。地上の気候は過酷で木々や草花はひたすら耐えているしかなかったようにも見えました(私は毎日植物を観察していましたから、それらの日々をよく覚えています)。しかし冬の間の地道な営みで潜在力をつけたからこそ、この春に木々や草花は一気に芽吹き開花することができたわけです。

  皆さんは大学入学ということで周りからおめでとうと言われ続けているでしょう。私もおめでとうと言わせていただきます。

  しかし社会的に言うなら、皆さんは保護者のお金、あるいは奨学金という名の教育ローンと、多額の税金投入によって、学生の身分を一時的に得ているに過ぎません。厳しすぎる言い方になりますが、社会的には皆さんはゼロに等しい存在です。

  皆さんの中には、これまでも様々な困難の中で根をはってきた人もいると思います。しかし最近目立つのは、親や学校に手取り足取り世話をされた人 ― 喩えてみるなら、ぬくぬくとした温室の中で、栄養剤入りの水の中で水耕栽培されて花を咲かせたような人です。受験勉強でいい点は取ってきたかもしれませんが、知性の面でも人間性の面でも鍛えられないままに、徒花を咲かせてきた人です。

  私は教師の一人として、皆さんが幸せな生涯を送ることを切に願っています。ですから、学業については厳しい指導もします。困難な課題も出します。甘やかされ続けたまま社会に出た若者が多く挫折していることを知っているからです。

  大学時代に、しっかりと知性と人間性の根を地道に延ばしてください。水耕栽培で根をのばすのとは異なり、自力で大地の中に根をはることは容易ではありません。しかしその営みをしっかりとしてこそ、皆さんは社会で開花できます。

  どうぞしっかり学びましょう。私も教師として学びます。これからの四年間、徒花を求めることなく地道に根をのばしてゆきましょう。

  以上を私からの挨拶とさせていただきます。改めてご入学おめでとうございます。