2016年4月4日月曜日

答えのない問い (大学院講座オリエンテーション挨拶)



ご入学おめでとうございます。

皆さんはこれまで受験勉強などで答えのある問い ― 一つの正解が決まっており、その正解への到達方法(解法)が定められている問い ― に習熟してきたと思います。

皆さんは正解そのものや解法を暗記して、皆さんは「正しい」答えを出し、例えば入学といった権力を得てきました。

しかし世の中には答えのない問いもたくさんあります。たとえば個人レベルでしたら自分がどう生きたらいいのかという問い、国レベルでしたら3.11以降明らかになってきた原発をどうするかという問い、あるいは地球レベルでいえば資本主義的生産体制がもたらす環境破壊と格差拡大をどう制御していくかといった問いなどです。

こういった問いには一義的な正解も解法もありません。一つの正解と解法が定められるのは、世界を断片化して、関連する要素がわずかでしかない問題空間を私たちが人工的に定めるからです。

しかし、現実世界の問いの多くは、関連する要素があまりにも多すぎ、しかもそれらの要素がすべて連動しています。いくつかの要素を取り上げるにせよ、その取り上げる順番によって連動の具合は大きく変わってゆきます。世界が人生が私たちにつきつけてくる問題の多くはこのように、要素があまりにも多く、かつそれらすべてが連動しているため、誰も一望することすらできない複合的 (complex) な問題です。

こういった答えのない問いには、正解がありません。どんな答えを出しても、その答えがすべての要素の連動性によりどんな結果をもたらすかを私たちは十分に予想することができません。また、他によい答えがあるのではないかという疑いあるいは明確な反論が必ず出てきます(もちろんそういった疑義や反論を呈する人も結末は知り得ないのですが)。したがって、定められた解法を適用して他人よりも速く正解を出すといった受験勉強で培った断片的な力は、答えのない問いには無力です。

もちろんまったく無力で役立たずというわけではありません。正解が定まらないにせよ、答えのありそうな方向を漠然と探しだし、その中で限定的な問題空間を定めて、すなわち世界を断片化してシミュレーションをするときなどには、正解を求める知性は有効です。

しかし間違えないでください。正解を求める知性は、正解がわからないままに、答えのない問いを探求し続ける理性に仕えるものです。断片化された世界は虚構であり、すべてが連動しその連動が何をもたらすかわからない世界こそが現実世界です。それどころか、誰も要素を枚挙することもできない世界が現実世界です。

大学院では修士論文や博士論文などで自分なりの正解を呈示する知性を発揮しますが、それは答えのない理性的な探究の母体の中で行うべきことを忘れないでください。理性的な反省を忘れて自らの知性を過信し、知性によって得られた権力を暴走させないようにしてください。

最高学府である大学院では、ぜひ答えのない問いの探究を忘れないでほしいというのが私からのお願いです。

皆さんの学びが充実し、この世界を少しでもよい世界にできることに貢献できるものとなることを切に願っています。


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