2016年4月7日木曜日

小学校英語教育に関する読売新聞記事でのコメントについて



本日(2016/04/07 木曜)の読売新聞全国版の「小学校英語 時間確保に苦慮」という記事に、大津由紀雄先生(明海大学外国語学部長)と私のコメントが短く掲載されました。




記事は中央教育審議会が先月示した授業時間の確保案に対する賛否の声を取材したものです。小学校5、6年生で教科として英語を年間70回(平均週2回)教えることとなると時間確保が困難なので、中教審の作業部会は、10-15分程度の短時間学習や夏休み・冬休みの活用を組み合わせることを提案しました。記事の中では、そういった実施案に対する小学校校長や市の担当者の懸念の声が三つと、短時間学習を肯定的にとらえる声が一つ取り上げられていました。

大津先生と私のコメントは、中教審提案に対してそれぞれに危惧を表明したものです。

私への取材は、電話で20分程度お話したものでした。その話を記者の方がまとめてくださり、昨夜には私の掲載予定のコメントを再度電話で丁寧に一字一句確認してくださいました。

取り上げられた私の論点は、

(1) 細分化された短時間学習でコミュニケーションを教えるのは困難だろう。
(2) 短時間学習ではドリルのようなトレーニング型の授業が増えるのではないか。
(3) 2020年度導入という数値目標が先立つと小学校の先生方が時間的・精神的余裕を失うだろう。
(4) 今後は学校間、学校内(学級間)、児童一人一人の格差が広がるのではないか。

というものです。

どれも基本的に『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)で述べたことですが、ここで若干説明を補っておきます。

(1') コミュニケーションは、自分の感性や思考に忠実に、かつ相手の心を読みながら相互に行うものである。そのようなコミュニケーションを慣れない外国語で促す活動を10-15分といった短時間行うのは困難ではないか。感性や思考を喚起させ、相手の心も予想することを楽しめる活動にはある程度の長さの時間が必要だろう。
(2') トレーニング型の授業は、既に英語習得に明確な目的意識とやる気をもっている学習者に対しては有効であることが多いが、そういった心理的な準備ができていない子どもに対しては逆効果になりかねない。他人に勝ちたいという競争心でトレーニングに励む子もいるかもしれないが、そもそもトレーニングに意義を感じられない子にとってトレーニングは苦痛になるかもしれない。
(3') 子どもをよく知る小学校の先生方は本当に工夫にみちた授業を考案し、私も驚くことが多いが、そういった知恵は相当の時間的・精神的余裕があって始めて可能になっている。研究開発校の選ばれた優秀な先生方も、そうとうな努力をしなければいい授業は創造できない(ある研究開発校の先生は、「こんな授業創造をずっとやれということは、私たちに『寝るな』ということなのですか?」と現場の苦労を語っていた)。全国津々浦々で2020年度から正式教科化するというのは、政治的アドバルーンとしては目立つかもしれないが、教育現場からすればあまりに無理筋ではないか。
(4') こうなると、一方では保護者の教育意識が非常に高い地域の学校とそうでない学校、英語指導が例外的に優れた教師とそうでない教師、トレーニングの結果で競争するのが好きな子どもとそうでない子ども等などの間での格差が広がるのではないか。

トレーニングで向上できる固定的な知識や技能は、テストなどで一義的に測定しやすいので世間ではしばしば「英語力」(あるいは「語学力」)と呼ばれていますが、そういった「英語力」は、コミュニケーションのための必要条件ではあっても、それがあれば必ずコミュニケーションができるという十分条件ではありません。資格試験で高得点なのに英語が実際には使えない人や、その逆に英語の成績は悪かったけど英語でのコミュニケーションは抜群にうまい人などは皆さんの周りにも見られるかと思います。

これまでの中高の英語教育は「英語力」にあまりに集中していました(もちろん近年の英語教育は「コミュニケーション中心」や「コミュニカティブ」であることを謳っていますが、その充実はまだまだといったところです (注))。だから「いくら勉強しても英語が使えない」との怨嗟の声が高まりました。もし小学校の英語教育までもが「コミュニケーション」ではなく「英語力」に傾いた旧来型の中高の英語教育を前倒し的に実施すれば、怨嗟の声はさらに高まるだけでしょう。

もちろん新聞記事で紹介されているように、短時間学習をうまく活用できていると自信をもっているところもあるでしょう。しかし、ある成功例は、その地域・学校・学級・教師・児童・保護者などのさまざまな要因があってのものであり、それらの要因が異なるところで成功例を真似てもうまくいくわけではないことは、多くの教員が身にしみて知っていることです(参考:リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究 )。

ある成功例からそれぞれの教員が学びそれを咀嚼して自分なりのものに熟成させるためには長い時間がかかります。しかし、2020年からという数値目標が先にありきとなると、多くの先生方は時間的・精神的余裕をなくして、旧来型の中高の英語教育を水で薄めたような授業に飛びつくかもしれません。これまで蓄積されてきた少数の優れた小学校英語教育(「外国語活動」)や民間児童英語教育実践が普及されないまま、旧来型の英語教育に淘汰されてしまう可能性すらあります。

小学校英語教育は数値目標をかかげて、それを厳守せよと厳命を下すことで成功するようなものではありません。

幸い少数の小学校英語・児童英語の関係者は、子どもと正面から向き合うことで、子どもの「からだ」と「こころ」を育てて英語を「身につける」ことを可能にしています。そこから学びつつ、関係者が英語教育を熟成させることがなすべきことだと私は考えます。

しかし上でも書きましたように、そういった実践から学ぶには時間がかかります。技法を習得する以上に、考え方を変える必要があるからです。でも、日本が世界に誇る優秀な小学校教師が、ゆっくりと学べば、きっとよい英語教育実践は少しずつ芽生えてくるはずです。そうやって「小学校から」中高そして大の旧来型の英語教育を変革することが希望の途だと私は考えています。

だからこそ私は本の題名を『小学校からの英語教育をどうするか』としました。そして多くの読者が小学校英語の本に期待するような具体的なノウハウではなく、根本的な社会観や学習観(身体論)から英語教育を考えなおすことを促しました。

公教育は国の礎です。大切に考え続けてゆきたいと思います。市民が小学校英語教育について考えるための今回の記事を提起してくださった読売新聞に感謝します。


 



(注)
「コミュニケーション中心」や「コミュニカティブ」であることを謳う英語教育を行っても、まだ英語が「身につかず」、創造的な対話ができるまでに至っていないことの根本原因の一つは、関係者の「コミュニケーション」の理解が浅薄であることであると私は考えています。ですから例えば「コミュニケーション能力と英語教育」といった授業で学生さんのコミュニケーション観を根底から揺さぶるようにしています。

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