1 序論
1.1 背景(なぜ田尻悟郎氏の実践を研究しなければならないのか)
1.1.1 田尻悟郎という英語教師の実践は、その豊かさと深さから各方面での注目を浴びた。
1.1.2 彼の実践を「天才の技」「カリスマの芸」と称して、そこで彼の実践の解明をストップさせるのはあまりにも安易である。
1.1.3英語教育研究は彼のような教師の実践を解明し、できうる限りの洞察を得る必要がある。さもなければ英語教育研究は「現場軽視の、研究者の自己満足」といった謗りを免れないだろう。
1.2「田尻科研」以前の試み
1.2.1 発表者は1990年代後半から、できうる限り田尻悟郎を観察し、その観察に促された分析をホームページ(「英語教育の哲学的探究」http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/)に掲載してきた。
1.2.2「田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察」(『中等教育における教科内容指導研究』平成16年度広島大学教育学研究科リサーチオフィス研究報告書 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#050306)にでは田尻実践が「到達目標型」「スパイラル型」「生徒実態対応型」「複数リソース型」であることを示した。
1.2.3「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 (2005), Number 30, pp.167-176 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418)は、田尻実践が、英語教育によって、教室を殺伐とした空間から公共的で各人が自らを発見する空間に変えた様子を、ハンナ・アレント (Hannah Arendt) の哲学的枠組みを使って分析的に記述したものである。なおこの分析は、より広いオーディエンスを求めて、国際学会Asia TEFL 2006 International Conference (Seinan Gakuin University, Fukuoka, Japan) on August 19th, 2006 で口頭発表された。(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#060816)
1.2.4 「ヤフケ実践と田尻実践を見て:芸術としての英語教育」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050603)は、田尻実践が、生徒を英語処理ができるメカニズム以上の、言語を豊かな意味合いで使える人間として育てているものであり、その人間的な英語教育は、アレントの言う「芸術」性を持つことによって可能になっているという解釈を示した。
1.2.5 「ヤフケ・田尻シンポジウムのまとめに代えて:「個性記述主義」あるいは"English as an alternative language"などについて」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050626)においては、思春期にある子どもたちには、事があまりにも深く今までのしがらみと絡まっているため、日本語で語ろうとすると、かえってその言葉の重みゆえに語れず、文法的に不如意で、語彙も貧困かもしれないけれど、第二言語である英語で表現した方がむしろ語れる事柄があるかもしれないという可能性を提示した。
1.3 「田尻科研」での試み
1.3.0.1 2005年度からは、通称「田尻科研」(「言語学・コミュニケーション・ライフヒストリー的観点からの中学英語教師の研究」平成17-19年度科学研究費萌芽研究 課題番号17652064)をスタートし、言語学的観点(大津由紀雄)、ライフヒストリー的観点(横溝紳一郎)と共に発表者はコミュニケーション的観点から田尻実践を観察しインタビューを重ね、田尻実践に関する思考と分析を進めた。
1.3.1 多くのインタビューから、発表者は言語を通じて技能の解明を行うインタビューについての問題点を「インタビュー研究における技能と言語の関係について」(中国地区英語教育学会紀要 2007年 Number 37, pp. 111-120 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517)にまとめた。
1.3.2 「ある中学英語教師の多声性について」(『中等教育における教科内容指導研究』平成17年度広島大学教育学研究科リサーチオオフィス研究報告書 未公表)は、田尻実践におけるコミュニケーションの豊かさを分析したものである。なおこの分析は、国際セミナー(The 1st English Education Seminar, KOBE, JAPAN, 14-17 MARCH 2007)のポスターセッションで発表された(http://yosukeyanase.blogspot.com/2007/03/multi-voices-in-tajiri-goros-classes.html)。
1.3.3 「田尻科研」を通じてコミュニケーションを考える中で、発表者は、旧来の言語コミュニケーション力論(『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』溪水社 平成17年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)による出版)の限界に気づくようになり、言語コミュニケーション力論の新たな枠組みを、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」 (2007年10月28日日本言語テスト学会 口頭発表 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html)で示した。
1.3.4 しかし田尻実践が示すコミュニケーションの豊かさと深さは、「三次元的理解」も含めた従来の個人を対象とした論考ではとらえきれないことを発表者は直感していた。
1.3.5 そんな中、発表者は、10年以上前に興味を持ちながらも、研究にまでは結実しなかったルーマンの理論に偶然に再会し、読みすすめたところ、これがコミュニケーション理論として優れているだけでなく、「何がよい英語教師をつくるのか」という大きな問題の解明にも優れた理論的解明をすることを確信した。まだまだ発表者のルーマン理解には地道な読解が必要であるが、シンポジウムのこの機会を利用し、現時点での発表者の考察を公開し、批判を仰ぐこととする。
1.4 目的
1.4.1 この小論の目的は「何がよい英語教師をつくるのか」という普遍的問いについて、説得力のある普遍的・理論的解答を提示することである。
1.5 方法
1.5.1 この小論は、「何が田尻悟郎をつくったのか」についての観察を経て得た漠然とした仮説を、関連性理論 (Relevance Theory) とニクラス・ルーマン (Niklas Luhmann) のシステム理論により定式化することにより、上記の「何がよい英語教師をつくるのか」に対する答えを出すことを試みる。
1.5.1.1 つまりこの論は、個性記述的研究を経た上での、普遍理論的な仮説的解答の導出の試みである。
1.5.1.2 ルーマンの理論は、この導入が、もっとも上記の問いに的確な答えを出しうるだろうという発表者の直観に支えられている。つまりルーマンの導入は、演繹(deduction)、帰納(induction)によるものではなく、アブダクション(abduction)によるものである。この直観的アブダクションは、発表者のこれまでのデイヴィドソン(Donald Davidson)哲学および関連性理論によるコミュニケーション理解に基づいたものである。(デイヴィドソンに基づいた論考としては「コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学」日本教科教育学会誌 2002年 第25巻 第2号 pp.1-10 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/DComComp.html)、「デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第47巻第一部pp.55-60. http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/GlobalError.html)を参照されたい。
1.6 仮説
1.6.1 第一次仮説提示:よい英語教師をつくるのは「コミュニケーション」である。
1.6.1.1 だがこの「コミュニケーション」は後述するような通俗的なコミュニケーション観(コードモデル (Code Model) ・「移転」 (Übertragung; transmission) メタファーで理解されるコミュニケーションではない。
1.6.1.2 「コミュニケーション」はより洗練された理論によって理解されなければならない。ルーマンの理論はその最有力候補である。
1.6.2 第二次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる英語教師のコミュニケーションである」
1.6.2.1実際の「コミュニケーション」は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などに下位区分される。これらすべてのコミュニケーションにおいて日本語と英語は場合に応じて使い分けられる。
1.6.3 第三次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」
1.6.3.1 採択しない二つの仮説
1.6.3.1.1 「よい英語教師をつくるには、本からの理論研究の広範な学習が不可欠である」。
1.6.3.1.2 「よい英語教師をつくるには、長期間の海外留学が不可欠である」。
1.6.3.2これらの事実は田尻氏には観察されなかった。それよりも田尻実践の観察から痛感されるのは彼のコミュニケーションの豊かさと深さである。
1.6.3.3よって「理論研究の広範な学習」および「長期間の海外留学」は、よい英語教師をつくるための、厳密な意味での必要条件とは言えない。
1.6.3.4 だが、このことは理論研究および海外留学の重要性を否定するものでは決してない。実際田尻氏も理論研究および海外体験の重要性を主張している。
1.6.3.5 したがって、本論考での主張は、英語教師の毎日のコミュニケーションは、おそらく理論研究や海外留学以上に重要であること、少なくとも毎日のコミュニケーションが豊かで深くあれば、広範囲な理論研究や長期の海外留学がなくともよい英語教師が誕生することは可能である、ということである。
1.6.4 第四次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」
1.6.5 最終仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである。よい英語教師は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などでつくられる」
1.6.6以上の仮説の妥当性を示すべく、以下の論考では「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」を明らかにする
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