http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20071220
(進学校での)高校教育の最終目的を大学入試問題への対策とするのではなく、
もっと得体の知れない、出口がどこにあるのか、そもそもゴールを目指しているのかも怪しいような足取りの中で藻掻き苦しむ間に入試というハードルを既にクリアーしている
ことするように取り組む、というのは至言だと思います。
また「教育学博士」について、スタイナーを引用した上で、
私の師匠は「大学で学ぶことは須く机上の空論で良い」と喝破した。「その論が何故、現場で窒息するのかを身をもって体験する」ことを私(たち弟子)に求めていたのだと思う。では、「教育学博士」は教室に何をもたらしてくれるだろうか?紋切り型ではないとはいえ「答え」を求めている時点で、すでに泥沼に嵌っているのかもしれない。問い続けることにこそ意味があるのだろう。
と述べておられます。「実践」と「学問」の安直な同一化を図って両者を駄目にしてしまうのではなく、両者の矛盾と緊張関係を我が身に引き受けながら、「実践」を行い、「学問」を行い、両者をそれぞれに進化させることが必要ということを、松井先生は師匠の(反語)表現に読み取っている、と私は解釈しました(間違っていたらごめんなさい)。
もちろん「(英語)教育学」といった分野では、この「実践」と「学問」の間の矛盾と緊張を忘れたままに、ひたすら片方だけに安住することは目指すことではないといえるでしょう。分断化でもなく、同一化でもなく、他方の存在を痛みとして感じながら一方に従事し、また次の時にはその役割を交換して、両者の間を往復し続けることが必要なのかもしれません。
上記ブログ、ぜひお読みください。
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