さて、今まで述べてきたような学界背景、質的研究法の位置づけ、各種質的研究方法の特徴の考察から、私たちはフォーカス・グループ・インタビューを行なうことを決定したのだが、インタビューの形式以上に重要かもしれないのが、研究の分析である。この分析に関しても、質的研究においては、量的研究と異なった配慮、というより認識論が必要なので、この節では鯨岡(2005)を基にしながら、質的研究における分析についてまとめておきたい。
質的インタビューにおいては、インタビュイーが「感じたこと」、その語りを聞いてインタビュアーが「感じたこと」、あるいは両者で共感的に理解することを重視する。だが、このような感性重視の方法は、従来の量的研究の思考法からすれば、なんとも主観的で情緒的すぎるもののように思えるかもしれない。鯨岡(2005: 17)は次のように述べる。
関わり手に感じられる相手の「思い」やそのような「生き生き感」や「息遣い」は、関わる相手の生のありように結びつき、その人の存在のありようを告げるものです。ところが、これまでの行動科学の枠組みではそれを捉えることができません。そればかりか、むしろそれを排除しなければならないと考えてきました。なぜなら、それらは客観主義の立場では観察可能なものではなく(目に見えるものではなく)、常に描き出す「私」の主観を潜り抜ける中でしか捉えられないもの(「私」の身体が感じられるとしかいいようのないもの)だからです。そのことは、観察する人(記述する人)が無関与的な透明な存在であることを前提とする従来の客観主義の枠組みとは確かに相容れません。
たしかに従来の量的研究(行動科学)の枠組みでは、主観的(あるいは参加者が共に感じるという意味の哲学用語である「間主観的」)である「感じ」あるいは「思い」、「生き生き感」、「息遣い」などは捉えることができないだけでなく、むしろ積極的に排斥するべきものである。だが、現実世界に生きる人間にとってはそのような主観性および間主観性を否定することはできない。そういった量的研究から抜け落ちてしまう事象を取り扱うのが、質的研究であり、質的研究の分析は、そういった事象の扱いにひとしお注意を払わなければならない。
それにしても上の引用で「客観主義」という言葉が批判されたので、驚いた読者もいるかもしれない。客観性こそは学問の要諦だからである。しかしここで鯨岡が「客観主義」として批判するのは「実証主義」のことであり、実証主義(だけ)を客観的態度と考えるのは、偏った考えであると鯨岡は彼の現象学の素養を背景に主張しているわけである。「事象の客観的側面(あるがまま)に忠実であることと、事象を客観主義的=実証主義的に捉えることとは別のことである」(山岡 2005: 20)として、彼は次のように述べる(山岡 2005: 23)。
生の実相のあるがままに迫るためには、その生の実相を関わり手である自分をも含めて客観的に見る見方と、その生の実相に伴われる「人の思い」や「生き生き感」など関わり手の身体に間主観的に感じられてくるものを捉える見方が同時に必要になります。後者を重視することが、あたかも客観的な見方が必要でないと主張しているかのように誤解されたり(自分の中に生まれた考えや観念をただ述べればよいと誤解されたり)、客観的な見方も必要であると主張することが、あたかも客観主義=実証主義を肯定したかのように誤解されたり、といったことが生じるのは、おそらく、この「客観主義の立場」と「客観的な見方」との混同に起因しているように思われます。
私たち英語教育関係者もこの高次の意味での「客観的な見方」を理解するべきであろう。すなわち観察・記述とは、対象の問題だけではなく、観察・記述者の問題でもあるということを自覚するわけである。対象と観察・記述者の両者を、観察・記述者は、自分を対象化するという困難にも挑みながら、「客観的に」捉えることを試み、かつ、その場で経験される間主観的な感じも大切にすること、これが高次の意味での「客観的な見方」といえるだろう。観察・記述者の存在を無化し、見えるものだけを取り上げ感じられるものを無視することは、低次の「客観主義」にすぎないともいえるだろう(もちろんその逆に自らの主観性ばかりに耽溺するのは学問ではないが)。しかし観察・記述者の問題や間主観性に関して言及したり考察したりする事例研究などは、「これまでの学問動向の中ではその内容よりもその手続きのところで門前払いしてしまう動きがあったこと」(山岡 2005: 40)は、英語教育研究においても事実であろう。こういった問題は克服されなければならない。
しかし、質的研究のエピソード記述には、しばしば「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」といった批判が浴びせられることがある。しかし鯨岡はこの批判は、「すでに行動科学の土俵の上での議論だといわねばなりません」(山岡 2005: 45)と述べる。彼の反論の根拠は、人間は一般・普遍からだけでなく、特殊・個別からも学ぶことができることにある。人間は想像力を持ち判断をすることができる存在である。鯨岡(2005: 45)は次のように述べる。
一つのエピソードを一つの事実として提示するとき、前項でみたように、もしもそれが読み手に自分の身にも起こりうることとして理解されるなら、つまり過去に同じような経験をもったかどうかに必ずしもこだわることなく、それはありうることとして理解されるなら、それはエピソード記述に固有の事実の提示の仕方として認められるべきだということです。これは、私たち一人ひとりが自分の経験世界に閉じられていないこと、他者の経験世界に可能的に拓かれていることに拠っています。つまり、身体的には類的同型性をもち、それゆえ感受する世界はかなりの程度同型的であることを基礎に、幾多の類似した経験をもつ私たち人間は、絶対の個であると同時に類の一員であり、それゆえ大勢の他の中の一人でもあります。しかも、豊かな表象能力を付与されている人間は、その想像力によって、他者に起こったことはそのようなかたちで我が身にも起こる可能性があると理解することができるのです。(45ページ)。
このことは人間存在が想像力と判断力を持つことの再確認だけにとどまらない。「いかにして私たちは真を知るか」という学問の基礎である認識論の拡充を求めるものでもある。量的研究は実証主義的な認識論だけを採用していたが、質的研究におけるエピソードの記述は、実証主義を超えて想像力と判断力による認識論を提示しているとさえもいえるかもしれない。次は山岡(2005: 47)の言葉である。
ともあれ、いま議論しておきたいのは、私たちが可能的に他者の世界に開かれていること、それゆえ、他者の一つの体験の提示が、我が身にも起こり得る可能的真実であると受け止めることができること、逆に、エピソード記述はその読み手の開かれた可能性に訴えかけるものであることを認めることです。これによって、従来の再現可能性や検証可能性、あるいは信頼性といった、行動科学の枠組み内の認識論とは違う、エピソード記述の方法論に固有の認識論を構えることができます。(47ページ)
この鯨岡の見解を私なりに敷衍したい。従来の量的な英語教育研究は、実践者(教師)をあたかも機械のようにしか捉えていないのではないだろうか。「教師には、誰でも当てはまる一般的なルールを教える。そうすれば実践は良くなるはずだ」というわけである。なるほど、それはその通りであろう。しかし「誰でも当てはまる一般的ルール」は、たいていの場合、とても常識的なことにすぎない。だが、教師は一般的ルールが当てはまらない特殊・個別な状況にも対応しなければならない。多くの教師はこの対応を、自らの経験から学ぶだけでなく、他人の経験(つまりは他人が語るエピソード)からも学ぶ。それは教師には、全ての人間がそうであるように、想像力というものがあり、その働きにより、様々な判断力が養われ、新しい場合にも、その判断力を活かして対応ができるからである。そもそも私たちはそうやって歴史や小説を読み「教養」をつけているのではないだろうか?極言をすれば、想像力・判断力・教養といった存在を、量的研究は、はなから当てにしていないことを存在基盤としているようにも思える。量的研究の専横は現代の浅薄さの表れといえば話が大きくなりすぎだろうか。だがいずれにせよ、量的研究が扱いきれないところを、質的研究が異なる認識論的前提に基づきながら細心の注意を持って遂行されることにより、英語教育研究もさらに現実的に、そして客観的になるということは言えるのではあるまいか。
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