2013年7月8日月曜日

「中高英語教師が自らの実践を公刊することについて」の発表要旨(8/10(土)全国英語教育学会) ― 教師の自律性を高めるためのシンポジウムです





■ 教師の自律性を高めるために

8/10(土)の第39回全国英語教育学会(会場:北星学園大学)で16:00~17:40にシンポジウムを開きます。



中高英語教師が自らの実践を公刊することについて

―日本語事例と英語事例から―


コーディネーター:柳瀬陽介(広島大学)
指定討論者:樫葉みつ子(広島大学)
提案者:大塚謙二(北海道壮瞥町立壮瞥中学校)
提案者:坂本南美(兵庫県立大学附属中学校)




このシンポジウムは昨年のシンポジウム(発表要旨当日進行の成果を受けてのものです(また私の科研の一環でもあります)。そういうこともあり、今年も、「英語教師が自らの実践について書くことにより、どのように成長できるか」というテーマで行い、今年は特に公刊(商業出版や学術出版)をした実践者を招き、話し合いを深めます。

ですが、さらに大きなテーマ、あるいはこの研究の背景あるいは動機は何なのかと自らに問うてみると、これは英語教師の自律性を高めるためのものだと自覚することができました。

日本の教科の中で、英語ほど改革が多い教科はありません。しかもそれは(私が思い出せる限り)どれも外から強いられたような改革で、英語教師の自発的な動きが改革につながったものではありません。

時々の政策や財務省の方針にしたがって、文部科学省が教育政策を発表するや、英語教育界ではさまざまな講演会やセミナーが開かれ、「上意下達」が図られます。いい講師による説明もありますが、講師の中には理念的な説明や具体的な解説もそこそこに「このように方針が決まったのだから、とにかくやりなさい!」とまくし立てる人もいます。おそらくは学問的な権威付けのために呼ばれた大学研究者の中にも、小・中・高の現場のことはあまり知らないのに、自らが興味あるSLA理論の枠組だけから時々の施策を肯定し、これまた「とにかくやりなさい」と圧力をかける人もいると聞いています。

トップダウンで情報が降りてくることのすべてが悪いなどとはまったく思いませんが、英語教師をとにかく管理し操作しようとする動きばかりが強まり、英語教師の自律性を高め、英語教師自身の観察力・思考力・分析力そして判断力を育みそれを活かそうという発想がどんどん軽んじられていることは、組織経営の点からしても、最終的な教育の効果の点からしてもはなはだ疑問です。強めのことばを使うなら、英語教師をひたすら「上」(=文部科学省、ひいては財務省や時々の政治権力者、さらには資本主義社会新自由主義の発想)に隷属させるような体制は、学習者のためにも、教師のためにもならず、国益にも反するものだと私は考えます。



教職とは、教科の専門的知識・技能だけでなく、学習者理解、学習者とのコミュニケーション、学習集団の形成と育成、同僚との協力関係、保護者や地域に対する理解とそれらへのコミュニケーション、そして教師自身の人間的成熟など多方面にわたる職業です『教師が育つ条件 (岩波新書)』は一般書として、『成長する英語教師をめざして?新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』は英語教育の書として、それぞれに教師が育ち成長する条件や過程を記述していますが、教師は、自律した専門職としての自信と責任を感じながら、学習者・同僚・保護者などとコミュニケーションを取りながら仕事をする時に、もっとも教育効果が高まることだと私は信じています。外からの圧力をやたらと教師や学習者にかけることは、一部の才能・環境に恵まれた者を伸ばしても、国全体としては学ぶ文化を損ねてしまう、というのが世界の様々なで少しずつ理解されていることではないでしょうか。(資本主義・新自由主義的発想に頭の先まで浸かった方は「そんなきれい事を!」と顔を歪ませるかもしれませんが、例えばどうぞ以下のビデオなどを御覧ください)








考えてみれば、学習者の自律性 (learner autonomy) は推奨されても、教師の自律性 (teacher autonomy) はほとんど語られないというのもおかしな話です。自ら自律していない(あるいは自律することを妨げられている)者(教師)が、他人(学習者)の自律を育てられるとは私は思いません(育てられるのは、学習者が巧みに権力者の意図を察知し、それに適う言動だけを行う態度だけでしょう)。

教師が自らの実践について書くことにより、思考を深め、観察力と分析力を高め、判断力をつけてゆくという、昨年と今年のシンポジウムも、こういった問題意識から行なっているのだと私は思っています。

このシンポジウムのために、先日私と樫葉先生は、大塚謙二先生の学校を訪れ、実際の授業の様子も見させていただき、合計5時間のインタビューもさせていただきました。坂本先生についても近いうちにお話をゆっくり聞かせていただく予定です。

当たり前のことですが、私はシンポジウムなどに登壇する場合は全力を尽くします。やる気のない発表や、世間のしがらみから仕方なくする発表などはやりません。8/10(土)のシンポジウムに一人でも多くの方が来られることを願っております。





■ シンポジウムの概要

一年目の研究で私たちが明らかにしたことは、教師は、ジャーナル・ライティングを通じて自らを他者化し、かつ、その他者化した自己をさらに二次的に観察・記述する自分を作りだすことでした。教師は、二次的観察・記述により過去から未来にわたり「こうありえた・ありうる現実」を想像することができるようになります。

今回の二年目の研究では、教師が自らの実践の振り返りを公刊(出版)することに注目し、その過程と結果を分析します。実践者としては、日本語で書籍出版をしている教師、実践論文を英文国際学術誌で公刊した教師を招きます。問題意識としては、「一般読者を対象としながら編集者や査読者という熟達の読み手を得ながら書く」こと、および、「日本語での日常の実践的思考を英語に翻訳する」こと、などに注目します。昨年同様、フロアーとの討論を充実させます。実践者と実践研究者のご来場をお待ちします。





■ 柳瀬の予稿原稿



概要

柳瀬 陽介 (広島大学)

キーワード:ジャーナル・ライティング,リフレクション,対話


本研究は二年プロジェクトですが、一年目の研究で私たちが解明したことの主な点は、教師は、(a) ただ実践するだけでなく実践について書くことにより自己を他者化し、(b) 他者化された自己についての観察・記述を推敲することにより過去・現在・未来の現実の可能性を想像できるようになる、ことでした。

二年目の研究ではこの知見を受けて、ただ書くだけでなく、日本語商業出版物や英文国際学術誌に公刊することが、英語教師の認識と実践に対してどのような変化をもたらすのかを、二名の教師教育者と二名の実践者との協働的な研究により解明します。研究の方法は、往復書簡による対話、実際の授業観察と対面しての対話、観察と対話を文章化した上でのさらなる往復書簡による対話などにより、互いに批判的かつ協働的に読み書きを繰り返し、恣意的でなく互いに納得のゆく文章を紡ぎだすものです。 当日の発表では、以下この予稿で明らかにしていることを繰り返し述べることは最小限にとどめ、登壇者間で新たな対話を展開し、加えてフロアーとの対話を積極的に行います。原稿の読み上げ形式ではない、コミュニケーションを重視した発表とします。 予稿時点でわかっていることは、以下、大塚・坂本・樫葉の原稿をお読みいただくようお願いしますが、予め私なりにその要点をまとめておくと次のようにまとめられます。

公刊という、より責任感を伴い使命感を喚起させる書く行為により、日本語書籍を公刊した大塚は、(1) 読者層の公共的な関心に応じて実践意識を変容させ、(2) 生徒をより具体的・細密に観察し、(3) 教室を出ても授業実践について振り返るようになり、(4) 記述が一般読者にも理解できるような分析的なものになり、(5) 実践がより焦点化し、(6) (「理論の応用」でも「実践の理論化」でもない)実践と理論の「融合」を試みるようになりました。

英語論文を国際学術誌で公刊した坂本は、(7) データ・理論・実践・自分との「対話」が深まり、(8) 翻訳を通じて日本語と英語を問わず言葉を学び直す実感を得、(9) 生徒・同僚・自分が存在する教室・学校の「意味」を実感し、(10) 自覚できなかった意識下の本来の自己を(再)認識しました。

つまり、この二年間の研究は以下の図のように整理できます(クリックして拡大)。



図1 本研究プロジェクトの整理


自ら英語を教え、学習者には英語をコミュニケーションのために使用することを促している英語教師が、自らの専門(英語授業実践)を英語で書き、国内外でのコミュニケーションを促進し、英語教育の営みを豊かにすることの意義は否定できません。そういったコミュニケーションが、英語のみならず日本語でも貧困であるとすれば、これほど悲劇的な皮肉はありません。本研究発表を通じて、英語教育に関するコミュニケーションをより豊かにしたく考えています。 以下この予稿では、大塚と坂本がそれぞれ柳瀬と樫葉からの問いかけに答え、最後に樫葉が現時点での総括をします。





■ 大塚謙二先生の予稿原稿



自らの実践を日本語書籍で公刊することについて

大塚 謙二(北海道壮瞥町立壮瞥中学校)

キーワード:生徒観察, 実践記述, 理論と実践



1. 柳瀬から大塚への問いかけ

幅の広い読者層を対象にして編集者の目を経ながら出版をするという書く行為と、一定の限られた読者層に向けて書く行為(生徒や保護者に対して書くことも含む)は、それぞれ先生の観察力・分析力・思考力にどのような変化をもたらしましたか(それとももたらしませんでしたか)。

(1)書くこと全般について

幅広い読者層と限られた読者層のいずれに書く場合も、読む対象者にあわせるように意識します。要するに、読み手に理解してもらえるようにということが大前提です。

(2) 幅広い読者層の場合(英語教師に対する出版物)

英語教育に関する原稿を書く場合の生徒達を観察する視点は、その時に書いている原稿に関連したことをとても注意深く観察するものになります。何をしていても、ふとした時に、そのことを考えている自分がいます。ですから、授業中は観察し、授業以外の時間には、その様子を振り返りながら客観的に見つめなおしています。そうすると、反省点、改善点がふっと思い浮かびそれを次の授業に取り入れたりして、改善を図ります。 また、書く内容については、編集者が「対象を若手教員に」「コミュニケーション活動を幅広い読者に伝えるように」と指定する場合と、私から「教員採用試験に合格したばかりの人、若手教員、困っている教員に書きたい」というように、読者層と内容を提案する場合があります。そんな時には、その読者の時の時代に戻ってイメージします。編集者にも言われましたが、若手の心を捉える内容は、案外、超一流の先生は書けない場合があるそうです。書き手のレベルが上がれば上がるほど、達人の域に達してしまい、難しくなってしまい、ビギナーには理解・実践できない場合があるのではないでしょうか。

ですから、一般的に指導技術に関する原稿の場合は、対象が教師なので一般化できそうな、自分で行なっている授業実践の中でも、生徒のアンケート結果が良かったこと、観察していても良かったことを理解してもらえるように、客観的に文字にできるように心がけます。自分で行なっていることは、自分の中で消化されてしまい説明不足になり、伝わらないこともあるので注意が必要です。また、表現方法は「~をする・したほうが良い・すべき」のようなストレートな表現で書きます。また、できる生徒だけをターゲットにしたことではなく、全てのレベルの生徒達が活動できるような工夫を加えます。

(3) 限られた読者層(生徒や保護者)

学級通信・教科通信では、内容から刺を抜いて、「~だと思います」のようなやわらかい表現を使い、批判的なことはなるべく書かないようにし、良い面を伝える道具として、生徒達のプラスの面を探しながら担任として観察をしていました。書きたいことがプラス面の場合、友だちへの小さな思い遣りの行動なども目につくようになります。また、ある特定の生徒のプラス面だけが掲載されないように平等に見るようになり、なかなかプラス面を探せない生徒の場合、いつもよりも観察を細かくするので、その生徒の思わぬ良い面を見つけることができます。

担任としては、良い面や悪い面で目立つ生徒には頻繁に目が行ったり、コミュニケーションをとったりする傾向があるので、その中間の普通の生徒達にも気配りをすべきだということがわかり、そのことを授業でも気をつけるようにしています。なぜなら、そのような中間層の目立たない生徒達は良い方向にも悪い方向にも行く可能性があるからです。



2. 樫葉から大塚への問いかけ

出版の経験から、自らの授業実践は変わりましたか(それとも特に変わりませんでしたか)。もし変わったとしたら、その変化をできるだけ具体的に教えて下さい。

(1) 英語教育に対する自分の考え方の変化

出版するにあたって、その前の段階として、ワークショップで発表するということがありました。その段階で、自分の実践をハンドアウトにまとめている時に、自分で気が付かないで行なっていた活動の意味や目的を発見し、驚いたことが何度かありました。この驚きは別々の活動との関連性(発展)の発見です。また、単著を出す前に、教職経験8年目くらいから、雑誌や分担執筆の原稿を書くようになり、自分が直感的に良いと思っていることを行うだけでは物足りなくなり、大学院への進学を考えるようになりました。自分の言葉に責任を持てるように、理論的な裏付けが欲しくなり、勉強したいという気持ちが芽生えました。

初任の頃は漠然と、「英語を苦手とする生徒のために」ということを念頭に置いていました。しかし、書くようになってからは、徐々に次の着眼点が芽生えました。①活動の目的や生徒につくと思われる力を明確にする ②活動時間とその有効性(費用対効果のようなこと)を意識する ③意識的に文法有りとなしの活動を取り入れる ④基本に戻るようになり、シンプルな授業や英語教育のコアの部分(不易を大切にする)を大切にする ⑤家庭学習と授業のリンクを意識する ⑥英語の授業を通しての人間教育を意識する ― このような順番で変化がありました。そのため、英語を苦手としている生徒から、得意な生徒までが充実感を得られる授業を目指すと共に、子ども達の進路実現のためにも、四技能の育成のみならず、テストでも点数に結びつくようにして喜びを感じてもらえるようにすることを考えるようになりました。

(2) 授業をしている際の変化

新卒の頃は誰でも経験したように、授業を流すだけで精一杯でした。5年後、多少余裕ができて、生徒を主役にしたスキットビデオを授業に取り入れたり、コンピュータを活用したりするようになりました。10年目にワークショップで発表する機会をいただき、自分の実践をまとめるようになり、12年目には、インターネットを使った実践を初めて英検の雑誌で発表しました。13年目以降のセミナーの資料を作成している途中で、他の発表者との比較で、自分の授業がICTなどの機器に頼りすぎていて、力をつけることよりも、生徒達が楽しめる授業をしすぎていたことに気づき、力のつく授業を目指して、脱ICTで授業をし、コミュニケーション活動、アウトプット活動をより多く取り入れるようになりました。その後、分担執筆の書籍、小冊子の執筆を経て、自分の原稿が公になる数が増加するとともに、その記事に対する責任感を感じ、16年目に大学院へ行き、TBLTに関する研究を進めている先生の元で勉強しました。そこで、英検3級の生徒がコミュニケーションタスクによって得られる暗黙的なフィードバックの知覚の研究をし、その後、職場復帰して、更にタスクやアウトプットを中心とした授業を展開しました。そして、22年目に単著の1冊目を書き、それによって、本当に有効だと思える活動に絞るようになり、その活動を変化させました。例えば、最初は聞くだけの活動だったひとつのことを、話す活動、読む活動、書く活動に発展させていきました。そうしていくうちに、多様な活動を行うのではなく、シンプルな活動でいいことに気が付き、例えば話す活動は、疑問文を話す、疑問文に答える、事柄を説明する、スピーチをすることに絞る。話せることを書かせることにつなげる。という、プロセスで生徒達に効率よく指導することを考えるようになりました。そうなると、中心となる活動が残っていき現在の自分の指導のコアを形成しました。

現在も、第二言語習得研究の使えるエキスを、現場に使えるように調整しながら、試行錯誤をしながら取り組んでいます。日本の英語教育のためには、日本の英語教育理論も必要で、現場と研究の融合を目指していきたいと考えています。



参考



大塚先生の近刊








柳瀬ブログ記事:大塚謙二先生のワークショップに参加して






■ 坂本南美先生の予稿原稿



自らの実践を国際英語学術誌で公刊することについて

坂本 南美(兵庫県立大学附属中学校)

キーワード:インタビュー, ナラティブ, 翻訳



1. 柳瀬から坂本への問いかけ

日頃の実践ではおそらく日本語を基盤として思考し感情を確認していると思われますが、その日本語での実践経験を、英語に翻訳すること、ましてや学術雑誌にふさわしい英語で表現することの経験はどのようなものでしたか。

(1) 日本語での実践経験を英語に翻訳することは、言葉を学びなおす作業

2011年5月にTeacher Developmentから姫路市の公立中学校での実践をまとめた論文掲載の機会をいただきました。これは、9カ月にわたり中学校2年生の選択英語の授業でTeam-Teachingをともに行ったパートナー教師(日本人)の成長の様子を綴ったものです。 この論文の主なデータがインタビューやナラティブであったことから、英語に翻訳するのにはとても慎重になりました。データは、パートナー教師のN先生とのセミフォーマルな二回のインタビューと彼女の記述によるリフレクション、私が書き綴っていたティーチングジャーナル、生徒たちへの口頭によるインタビューでした。インタビューデータは、記述データと異なって、日常行われる会話にほぼ近いもので、地域性を感じる表現や姫路市を中心とした播州独特の言い回しもたくさん含まれています。私たちが語り合ったことや生徒たちの言葉を、その文意に忠実に英語に翻訳していくことは思っていたよりもとても繊細な作業で慎重にならざるを得ないものでした。データ翻訳の時にいつも意識していたのは、語り手の表現に常に忠実であることです。私たちの日常の語りの中には、語り手の教師としての信条や心のあり方、葛藤や喜び、微妙な心の揺れもちりばめられていました。それを英語に翻訳するときに微妙なニュアンスの違いによって誤解を生まないように、日本語の微妙な心の揺れなどのニュアンスは、リフレイズする中で意味を絞り込んでいきながら明確に、同時に日常の言葉の豊かさを残しながら表現することを試みました。また、常に繰り返して日本語と英語を行き来しつつ読み直しながら、時に必要な場合はN先生に確認しながら進めることもありました。結果、前後の文脈を意識下に持ちながら、日本語で論文を書くよりも格段に深い推敲が必要になり、私にとって、英語だけでなく日本語ももう一度学びなおす作業であるように感じていました。

日本語はいろいろな部分を省略して話しても十分に会話の中では伝わりますが、それを英語に翻訳する時に、日本語と英語との間を行き来する私に大きな課題をもたらします。例えば、インタビューの中に「あの時、すごくがくっとなって…」という言葉がありました。その時の教室の様子を思い出して感情や微妙な表現を推敲しながら、「がくっと」なったのは、「怒っていたから…いや怒っていたと言うよりも苛立つ瞬間だった?いや自分へのがっかりした感覚に近かったかもしれない。もう一度彼女に聞いて確認してみよう。」と後で確認をしなおしたことがあります。同じような場面は他にもあり、日本語でならばそのままデータとして書きおとすところを、英語で書く場合には、常にデータの表現に慎重に向き合って言葉を選ぶ作業を重ねる必要がありました。データの翻訳の他にも、特にナラティブ研究の論文では、自分の書きたい本当のところをきちんと英語で書けているか、この単語が最も適しているのかを常に自問しながら筆を進めていました。また、どうしても悶々としてストンと腑に落ちない時には、大学院でお世話になった先生や第三者の方の意見も確認しながら進めた事を覚えています。実践やデータを英語に翻訳する作業は、私にとって日本語、英語を問わず「言葉を学びなおす作業」でした。

(2) 学術雑誌にふさわしい英語で表現することから得た学び

教師や生徒たちの日常の語りを研究の言葉に落としていくことやそれを分析し、議論すること、そこから見えてきたことを丁寧に紐解いていく作業を英語で行うことは、特に書き始めた頃の私にとってとてもハードルの高いものでした。今も研究に携わるときは常にstruggleしながら英語で表現しています。論文としてまとめることは、まるでインタビューやジャーナルデータとの対話であり、実践との対話であり、私自身との対話でした。ナラティブを読むとは紡がれた言葉を紐解く作業でもあるので、その中に言葉の持つ力を感じずにはいられません。それを学術論文にふさわしい英語で、しかもそれらの言葉が持つ生き生きとした力を損なわずにまとめる難しさは今もいつも感じています。実際には、まずは私自身が研究の言葉を繰り返し広く学ぶ必要があって、その上で、理論や枠組みのレンズでデータを見ることからでした。教師になって14年目、思い切って飛び込んだ大学院での学びはその機会を私に与えてくれて、素晴らしい研究者の方との出会いが教室研究の価値をあらためて教えてくれました。正直なところ、教師でありながら研究を始めた頃は、中学校教員の私が国際学術誌に論文を投稿すること自体、本当にできるだろうかという躊躇がありました。それゆえに書き進めていても、日本の公立中学校の教師が書くこの論文が本当に受け入れてもらえるものだろうかという思いも膨らみ、なかなか思い切ることができませんでした。その背中を押してくださったのは、大学院でお世話になった先生でした。

学術論文を書いているということに意識を集中していると、データとの対話、理論との対話、自分自身との対話を何度も繰り返す作業にもつながっていきました。学術論文にふさわしい英語で表現していこうと自分のモードを切り替えていくことで、研究を進めながら、自分自身が研究者と実践者の二つの視点から自らの研究を見るようになったと思います。



2. 樫葉から坂本への問いかけ

自らの授業実践を英語学術誌で公刊した経験により、自分の英語授業は何か変わりましたか(それとも特に変わりませんでしたか)。もし変わったとしたら、その変化をできるだけ具体的に教えて下さい。

(1) 教室の「意味」を実感

自分たちの教室についての研究を公刊することで、何より大きく変わったのは授業や教室の研究を行うことの素晴らしさにあらためて気づいたことです。教室では、起こること一つひとつに意味があり、そこで行われる英語授業という営みを通して生徒も教師も成長していく「教室」の素晴らしさを再確認しました。生徒や同僚と一緒に悩んだり葛藤したり、喜んだり達成感を感じたりするその空間がかけがえのないものだということを認識しました。そういった教室の温かい関係の中で、学ぶことに対する喜びを生徒たちとも共有できるようになってきたと感じるようなりました。その上で、今は私たちが過ごしている教室の意味を探り研究できることに喜びを感じています。研究の言葉で語り、理論のレンズで教室を再度見直してみると、教師としてのみの立場で見ていた教室とはその風景は徐々に違って見えてきました。

また、自分が教師の立場でもありながら、同僚の教師の成長の様子を捉えて公刊させてもらったことへの責任と、ここから私の中にも新たなチャレンジが始まるんだという覚悟のようなものを自覚したように感じています。「さぁ、自分は?これからの自分は?」という感覚です。自分探しという言葉もありますが、むしろ自分はもともと存在していて、その上でこれまで意識の下にあったものが自覚されて、自分はどこへ向かいたいか、何を育てたいかという核になるところを再認識しました。教師も生徒も学ぶ喜びを共有できる教室で、温かな関係を育てる、そこでの生徒の成長をすぐそばで支え、見守る。そんな教室の価値をあらためて認識しています。さらに、同僚性について以前より深く考えるようになり、教師たちの草の根活動的な研修会や研究会を考えるようになりました。教師同士のつながりを意識した時、私たちはきっともっと大きな力を得るようなるのだと思います。また、この論文公刊に際して国内や海外の研究者や教員の方々と交流することができ、学びを深め視野を広げる機会をいただきました。



参考

坂本先生の学術論文

Professional development through kizuki - cognitive, emotional, and collegial awareness

Teacher Development: An international journal of teachers' professional development

Volume 15, Issue 2, 2011

http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/13664530.2011.571501#.Udorhjtmh8E


坂本先生の日本語執筆










■ 樫葉みつ子先生の予稿原稿



実践の振り返りの公刊と英語授業

樫葉 みつ子(広島大学)

キーワード:省察、実践の発達、教職の専門性



1. 教師の実践の発達

実践の場面における教師は、自分自身にのみ注意が向く段階から、生徒の学習へと注意が向けられる段階へと発達を遂げ、また、教職観を成熟させていきます(ダーリング‐ハモンド・パラッツ‐スノーデン編 2009)。しかし、発達には個人差があり、また、契機となるものやそれによってもたらされるものも一様ではありません(山崎 2012)。



2. 書籍や論文の公刊による英語授業の変化

大塚先生と坂本先生の英語授業の変化についての叙述を見ると、生徒の学習に対する責任の負い方、果たし方に大きな変化があったことがわかります。

初任の頃は漠然と「英語を苦手とする生徒のために」と思っていた大塚先生ですが、英語授業に関して書くようになってからは、授業での目標、活動の目的、時間配分、文法指導と活動のバランスなど、成果をより一層意識して授業を構成するようになりました。「生徒達が楽しめる授業」よりも「力のつく授業」を目指すようになったのは、出版という形で自分のそれまでの実践を振り返ったことで、教師として本来果たすべき生徒に対する責任をさらに強く認識したからなのでしょう。

授業の準備段階での計画性において際立つ変化を示す大塚先生とは異なり、坂本先生の成長は教授観と学習観の変化に見られます。「同僚の教師の成長を捉えて」実践論文を著した坂本先生は、生徒の成長を支援したり見守ったりすることが教師の役割だと考えるようになりました。論文を書くことを通して、「生徒が学びの担い手に育つ、出来事に満ちた教室の素晴らしさに出会ったこと」が教授―学習スタイルからの大きな転換をもたらしたのです。

大塚先生と坂本先生の発達は、単に生徒の学習へと注意を向けることに留まらず、このように、生徒の学力を十分に保障し学習者としての自律を促進しようとする域にまで達しています。現実の授業は、絵に描いたような「いい授業」とは違うかもしれません。しかし、これだけの専門的な知識をもった先生方が、生徒の学習を自分の責任として引き受け、思考・判断・行為する限りにおいて、その授業は生徒のために最善を尽くして行われているとは言えないでしょうか。



3. 教職の専門性

 教師と生徒との関係は、医師と患者とのそれに似ています。教職を医師と同様の対人関係専門職のひとつとして捉えると、その専門性は生徒のもつ可能性を最大限に引き出す手助けをする行為において発揮されると考えられます(今津2009)。熟達の読み手を得ながら実践を書き、読み手の視線を自分に向けて実践を行っている大塚先生と坂本先生は、生徒に対する権威者としての教師の役割意識を脱却し、クライアントである生徒の学習に対して責任を負う教師として、その専門性を高めているのです。



引用文献

今津孝次郎(2009)「教職専門職化の再検討」油布佐和子(編著)『リーデイングス 日本の教育と社会15 教師という仕事』日本図書センター

ダーリング‐ハモンド,L.・パラッツ‐スノーデン,S.(編)秋田喜代美・藤田慶子(訳)(2009)『よい教師をすべての教室へ―専門職としての教師に必須の知識とその習得―』新曜社

山﨑準二(2012)『教師の発達と力量形成―続・教師のライフコース研究―』創風社









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