新学期始まってそれほど時間がたっていない4月26日に私の講座(「教英」)の新入生を対象に「教養ゼミ」の授業を行いました。一昨年は、「『教養ゼミ』での学部一年生へのメッセージ」を使って話をしましたが、今年は以下の記事を中心にこちらでスライドを作り、私が語りかけ新入生同士にも話し合ってもらいました。
北川智子 (2013) 『世界基準で夢をかなえる 私の勉強法』 幻冬舎
学校に行けば行くほど バカになるかもしれない (試験には受かる かもしれないけど)
映画を繰り返して見て、 ついでに英語を身につけよう
ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!
字幕付きの無料動画で楽しく英語を学ぼう!
英語動画で高度な英語説明力をつけよう!
英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう
来週の7/24に私はもう一度「教養ゼミ」でお話させていただく機会を得ました。私は日頃新入生と接することがないので、彼・彼女らがどう変わっているのか楽しみです。
同時に、彼・彼女らが仮になんら変わっていなくても驚きません。長年にわたって植えつけられた思考や行動の習慣を変えることはそれほど容易ではないからです。しかし、もし変わっていたら、もう一度(今度は少し別の方法で)焚きつけようと思っています。
以下は4月の教養ゼミを受けての感想の中で印象的だったもののいくつかです。タイトルは私が勝手につけましたが、文章そのものには(ごく些細な修正を除けば)手を入れていません。もしよろしければお読みください。
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HSさん: 自ら調べ、考え、解決していく学び
私は柳瀬先生が書かれた記事を読み、試験合格を最終目的として効率ばかりを追求するような教育法は、実社会に出ていく人間に対して反教育的であるとも言える、ということに対して深く共感するとともに、自分が高校時代にお世話になった学校の先生方のことを思い出しました。
私は一般入試を受け、この教英に合格しました。また、私の母校は中高一貫の進学校であったため、中学校の頃から「大学受験に向けて」組まれたカリキュラムに沿って学習してきました。そんな中で、私はふと在学中に「この勉強には果たして意味があるのだろうか」という考えが芽生えることがありました。それはこの記事に書かれているように、当時受けていた授業が入試に合格するためだけの効率ばかりを追求した、whyのないものであったからなのだと思いました。
しかし、私が高校3年生の時に英語を教わった先生は、それまでとは全く違いました。ただ文法を教えたり、単語の意味や発音を教えたりするのではなく、あるテーマに沿った英文を生徒に読ませ、その文章が書かれた時代背景や歴史、思想などについても興味深い話をしてくださりました。もちろんそのような知識は、センター試験や大学入試(広島大学以外のことはよく知りませんが)では出ることはほとんどありません。しかし、私自身もそのようなことに疑問をもつ方であったので、とても面白く、通常の英語の授業という枠を超えた学習をすることができました。
またその先生は、授業で取り扱ったテーマについて疑問があれば、自分で調べ、まとめ、それでもわからなかったら先生に質問するといった形で生徒に学習させていました。それは、とても手間のかかる学習法です。入試に合格するためには、非効率的であるかもしれません。しかし、この記事にもあるように、効率主義的な受験勉強ではなく、手間はかかろうとも創造的で探究的な喜びを感じられるような学習は、自ら考え行動しどんな状況にも対応していく力を養うためには、必要不可欠なものだと思います。私もこのように、生徒自身の中のwhyを呼び起こさせ、自ら進んで学ぶことの楽しさを伝えられるような指導ができたらいいなと思いました。このたび拝見した記事は、私は将来どのような教師になりたいのか、という教師像を改めて考えるきっかけとなりました。
柳瀬先生が進められている英語の勉強法について、身体と状況が繋がりを持つ映画を何度も何度も見る、というのはとても効果的だと思いました。ただ文字として書かれた英語ではなく、その英語の正確な意味やニュアンスを感じ取るためには、やはり映画のようにその英語が使われる場面や発話者の表情からそこで話される英語の表現を感じとることが必要であると思うからです。英会話について、私は、英語の論文を読むのは高校時代からかなり練習していて得意な方なのですが英語を話すことは苦手なので、初級者だと思います。これから、先生が進められている「集中的入出力訓練」を実践してみようと思います。
最後に、私はこれらの記事を読み、大学ではただ授業を受けテストに合格し単位をもらうというのではなく、授業を受けていく中で疑問が生まれたら、自ら調べ、考え、解決していくよう心がけていこうと思いました。
AS君: 私の知っている英語は本当の英語なのだろうか
私は課された課題文を読んで、これからの英語学習に対する考え方を改めねばならないと、そう感じました。「これから」というのは大学在学中に限ったことではなく、英語教師になってからも、さらには生涯を通してずっとかもしれません。
課題文にあったように、英語教師にいま要求されているのは高度な英語説明力だと思います。複雑な内容を簡潔に説明し、相手に信頼感を与える説明力とありましたが、まさしくこれこそが英語を学習する者としての素質の一つだと納得しました。しかし、それを現在の自分、もしくは英語学習者としての過去の自分に当てはめた時に、私にはその素質があるのだろうかとふと考えました。答えは「NO」でした。
先生のおっしゃる印象的な要約、的確な用語選択、複雑だが分かりやすい文法構造、訴求力あるデータ表示、魅力ある画像提示、明瞭な発音、魅惑的な発声、音楽的抑揚、大胆な律動、豊かな身体表現といった要因に対する私の到達度はお世辞にも高いとはいえません。だからこそ、上記の自問に「YES」と答えることができませんでした。
では、なぜ私の到達度は充分な段階に達していないのか、そのことについて分析してみました。すると、その原因は私の英語に対する向き合い方にあるということが分かりました。私的な話ですが、予備校で2年間浪人していたこともあって、私は受験英語としての英語にしか触れてこなかったのです。大学に合格するために、他の受験生よりも点数を取るために英語を勉強してきました。だからこそ、私はこう思うのです。私の知っている英語は本当の英語なのだろうか、と。
そう考えてみると、私はまだ本当の英語を知らないのだと思いました。先述の印象的な~とか、音楽的な~とか、豊かな~など、受験英語だけでは身に付かない本当の「生きた」英語をいかにして身につけていくのか、その方法の一つが先生のおっしゃる優れた英語動画を観ることだと思います。これが私の決意したことでもあるのですが、今まで映画を英語の音声や字幕で見たり、英語動画を繰り返し見たりする等の学習方法を実践したことがありません。なので、これを実践していこうというのが私の決意です。生き生きとした躍動感のある英語表現に触れることはどんなに楽しいことだろうかと期待もしています。
私は英語教師になりたいです。英語のあらゆる側面を生徒に伝えることのできる教師です。ですが、このままでは私は受験でのみ通用する英語しか教えられない教師になってしまいます。だからまず、自分から変わりたいです。そのために英語に対する向き合い方を改めていきます。生徒に教えるためには、教師自身が生きた英語を身につけておかなければなりません。今回の課題文ではそのきっかけを見つけることができたと思っています。
OT君: 正直なところ、大学でこういう「勉強したい」と思うような話が
聞けるとは思っていませんでした
記事を読んで感じたことは、自分の英語学習に対する意識や方法が間違っていたということです。高校時代はとにかく大学受験に受かることばかり考えてひたすら単語帳を読む、ひたすら過去問を解く、ひたすら英文をリスニングするという勉強方法でした。当時、英作をしたときに別解が出た時、「覚えやすい解答を覚える」という方法を取っていた事を思い出します。クラスメイトの中にはその別解を見て「なぜ自分の答えはダメなのか」「自分の答えとはどこが違うのか」と質問を度々している人もおり、自分はそれを見て「なぜあんな無駄な事をするのか。答えを覚えればいいだけなのに」と考えていました。柳瀬先生のおっしゃる「バカ」になっていました。TEDに関しても、高校時代に塾の先生に見てみるといいとは言われていましたが、「受験が忙しいから」と言い訳をして見ていませんでした。
先日のメールでも書いたと思いますが、大学ではスピーキングの機会が増え、今まで受験の中では自信のあった英語がまったく活かせず、自信を失っています。これからは受験英語から言語としての英語を学ぶようにしなければなりません。僕は洋画が好きで、小学生、中学生のころには数百の作品を見たので、面白い作品がいくつか記憶にあります。柳瀬先生の記事に具体的な洋画や字幕の活かし方があったので、「面白い作品」を「面白い教材」として使っていきたいと思います。その中で、きっと高校時代に機械的に覚えた単語も言語として使える物になると思います。
大学での勉強はどう取り組めばいいのかよくわかっていませんでした。先輩からは「この講義は単位が取りやすい」というような話ばかり聞かされ、僕自身、教員免許さえ取れればあとは遊べるという考えになりつつありましたが、教育の現場が変わりつつある今、意識を変えてよりよい教師になるために勉強をすべきだと感じました。柳瀬先生の講義と記事はいい刺激になりました。正直なところ、大学でこういう「勉強したい」と思うような話が聞けるとは思っていませんでした。ありがとうございました。
HF君:「なぜ?」から好奇心へ
僕はこの広島大学に入るまで、高校で受験に合格するためだけの学習をしてきたのだと痛感しました。おっしゃるように、‘why’を追求する精神が欠落してしまっているかもしれません。しかし思えば、僕の高校の世界史の先生は、「なぜ~なのか?」「どうやって~?」をその都度徹底的に教えてくれました。また、ただ教えるだけではなく、生徒に質問をしてから、教えるという体制をとっていました。正直、無理して短い時間を削ってやる必要はないのではないか…?と考えた時もありました。(実際、授業が急ぎ足になったこともありましたし。)この文章を読み、改めて思い出してみると、‘why’を教えてもらっているときは楽しかった気がしました。その答えが印象的であればあるほどその範囲の世界史はどういうわけか覚えやすかったりしました。僕が世界史を好きだったのはその先生の授業の仕方によるものなのかもしれないと思いました。おかげで、自分から興味を持って、空き時間に特に試験に出る可能性もない資料集の片隅を見て、友達と無駄に覚えあい、クイズをだしあう、また部活の文系メンバーも全員世界史が好きで、(少し異常かもしれませんが)筋トレ中に世界史用語でしりとりなんかもしていました。勉学における、「なぜ?」や「どうして?」に興味を持つとある種の楽しみをもって勉強できます。学習に楽しみを見つけることが重要だと考えました。
僕は試験の現代文の評論などで新たな考え方、知識が手に入ることが好きでした。だから紹介していただいた、英語で書かれている雑学や英語の動画は、非常に僕自身興味をもちながら英語を学ぶことができるという最高の学習だと思いました。今までインターネットは娯楽にしかすぎないと考えていた自分にとって革新的でした。映画はもちろんこれらの手段を使って英語を学習したいです。単語集などは極限抑えて、生の英語に触れ、その英語を使うことをしていきたいと思いました。今の段階ではまだ頭のなかで考えながら英語を話している僕だが、この学習法で身体に身についた英語、いうなれば「身体の延長としての英語」を目指してやっていきたいです。
SK君: 教員になって社会の「ものさし」を変えたい
私がこれらの文章を読んだ後で一番深く考えさせられたことは、現実と理想との大きなギャップでした。そして全ての記事を読んだ後で、私の考えの中心的な役割を果たしてきたのが「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)」の記事でした。
恥ずかしい話ですが、私の高校時代は特に部活動に積極的に参加しているわけでもないのに成績はひどいものでした。偏差値が全てではないかもしれませんが、高校三年生の私にとって50にも満たない偏差値を見ることは自己責任だとは言え、非常につらいものでした。当時の私はこの記事の内容のようなことを全く考えることもなくただ丸暗記をして、どうして?(why?)などという感情はむしろ自分にとって有害なものだと感じていました。そして残念なことに実際に現代の受験の仕組みはそのような姿勢で挑むことが一番の必勝法のようにも思われます。そして自分もそうであったように受験生は受験を終えてつかの間の味気ない達成感を感じたあとはせっかく得た知識や教養をあっけなく忘れさってしまいます。
こんな事を今の受験生に言えばきっと奇麗事だといわれてしまうでしょうが、興味や楽しさの沸かないような学習を迫ってくるような現代の受験の風潮に乗っかるくらいなら、いっそ自分が追及したいと感じる学問を自分なりの方法で徹底的に追求してもらいたいと思います。しかし、そんなことを実際にしてしまうと教師からは、我侭といわれ社会に出る際にも不当な苦労を強いられるでしょう。
そこで将来、高校の教員を目指す私が教員になってからの目標として定めたことは、社会の「ものさし」の定義を変えることです。今の学生はいかに決められた事柄を覚え、いかに良い学校に入るかによって測られ社会に出る際の待遇が変わるという傾向がやはり強いような気がします。そんなくだらない「ものさし」を私は、自分を熱くさせる学問を徹底的に追求し続けることのできる人間こそが報われるという「ものさし」に変えたいと思いました。
具体的にはまず、将来自分の専門になるであろう英語からはじめたいとおもいます。他の記事で見たような学習方法、いや英語を感じる方法は本当に自分にぴったりな手段だと思いました。自分は映画が本当に大好きでひどい時には、ツタヤの店員に覚えられてしまいました。はじめは苦労も多いでしょうがこの方法で自分の乏しい英語力を趣味と一緒に楽しみながら伸ばしていこうとおもいます。
しかし、映画が大嫌いだという学生もいるかもしれない、自分とは全く違う趣味をもつ学生もいるかもしれない。そう思うとふと、不安になりました。だから私は、この大学での四年間または六年間の中で教英の仲間はもちろん先輩、後輩、教授、異文化の人々と仲を深め、多くの人の価値観に触れることで将来出会う自分の生徒の本質を理解する力を身につけようとおもいました。
英語という多くの人との輪を広げることのできる道具の魅力を伝えることのできる教員になることを私はこの大学で目指します。
NAさん:このままでは、どんどんバカになって、なんとなく大学生活を終え、
思い描いているような教師にはなれないと思います
私は最初の文章である、”学校に行けばいくほどバカになるかもしれない”という題に衝撃を受けました。そして、なぜそう考えられたのだろうかと疑問に思い、文章をすべて読んだうえで納得しました。
私も常々受験勉強に対して疑問を抱いておりました。なぜこんな詰め込み学習をさせられるのか、この勉強は将来必要であるのか、受験が終わればみんな忘れるのに何のために覚えているのか、などです。さらに、勉強したことをいざ実生活で生かそうとしても、常日頃座学中心な分、なかなかうまくいきません。このような教育制度に疑問を感じつつも「勉強を継続する力や、効率よく作業できる力を身に付けているのだろう」と勝手に解釈して一人で自己完結していました。
しかし、この文章を読んで、やはりそうではなかったのだと感じました。詰め込み学習では、実際の生活であらゆる物事に対応する力が身に付きません。物事に対応するとき、人は自分で考え、あらゆる解決方法を挙げ、その中から最適であるものを選択しなければならないからです。日頃whyの思考を捨て知識だけを蓄えた人間は、そのようなことができないと思います。いつも自分で考え、行動し、身に付けた知識を実生活に生かすことが大切であり、そのような人間がいわゆる”生きる力”を持っているのだと感じました。
さて、それがわかったところで、自分は何をすべきなのか。私は高等学校の英語教員になりたくて教英にきました。しかし、入学してから今まで、受け身で授業を受けており、Whyの精神を持って積極的に勉学に励むことはできていないように思います。このままでは、どんどんバカになって、なんとなく大学生活を終え、思い描いているような教師にはなれないと思います。
そこで、ほかの文章も読んで考えたことは、自分のペースを守って楽しく積極的に学ぼう、ということでした。詰め込みの英語学習はやめて、実際に使える英語を身に付けよう、そして自分も生徒に使える英語を教えられる教師になりたいと感じました。英語は言語です。母語を習得するとき、人は座学をしているわけではありません。英語習得も、耳で聴き、口で話して習得することが大切であると学びました。私はシャドーイングが好きなので、洋画や洋楽などをたくさん聴いて、たくさん話そうと思います。このように、英語を自然と体に身に付けて、それを実生活で使えるように、さらにはその体験を生徒にさせることができるような教師を目指して、自分のペースで頑張りたいと感じました。
これらの文章を読んで、自分の学習や英語に対する考え方が大きく変わりました。ありがとうございました。
KSさん:生徒に英語の面白さを伝えられ、英語を好きになってもらえるような
授業をする教員になろう
Don’t study English. Use it. という言葉が印象に残りました。柳瀬先生のおっしゃる、捨てるべき・変えるべき英語の勉強法に、自分ががちがちに縛られていたことを6つの記事を通して自覚しました。記事の中にあった大学新入生と同じく、私も単語集で勉強を再開しようとしていました。耳と口を重点的に訓練するべきだと知ることができたので、TED、パソコンを使ったラジオ英会話(ラジオ英会話は母にすすめられ、今年からしようと思っていたのですが、アパートに電波が届かず挫折していました。ぜひ利用してみたいです)等の学習法を取り入れてみようと思います。また、YouTubeもTEDのように英語の勉強ツールになり、しかも自分の気になる単語から動画を検索・視聴できる、というところがとても良いなと思いました。機械が本当に苦手なので、少しずつ自分用に設定を変えていこうと思います。
高校時代、私の周りには英語嫌いの友達、嫌いじゃなくとも英語学習に面白さを感じず、淡々と学習している友達がいました。友達は、なぜ海外で働く気が皆無なのに英語をこんなに勉強しないといけないのかと言っていましたが、記事を読んで、友達の英語嫌いは毎週のように行われた単調な単語100問テストや、脱線なく息の詰まるような授業を通して、英語=苦痛・入試に出るから勉強しないといけないもの、だと感じたことが原因だったのではないかと思いました。しかし、与えられた授業時間の中で生徒が希望する大学に行けるように授業を効率よく行わないといけない教師の立場を考えると、面白くて力のつく授業を行うことの難しさを改めて感じました。また、先生のおっしゃるwhatとhowばかりでwhyのない授業や説明が学びの姿勢として改善されるべきものだ、ということは納得したのですが、じゃあ英語という言語・授業におけるwhyは何か?自分が授業をする時、どんなことをwhyとしてとりあげるのか?と自問したときに答えを思いつくことができませんでした。読書で自分の視野を広げ、教養をつけるとともに、四年間の広島大学での授業や授業外での活動を通して答えを見つけていこうと思います。
また、英語字幕がなぜ日本語字幕と違い、実際の音声とあまりずれがないのかも知ることができ、英語字幕の効果が分かりました。一人称単数を考えてみても、英語がIという一つの言葉で表現するのに対して、日本語は表現する言葉の数が多い(私・あたし・うち・俺・僕・わし等)ことを再認識し、日本語と英語の言語の違いが身近な映画に現れているなんて?と、ちょっと感動しました。
(中略)
行きたかった教英に入れたからには、英語や英語圏の文化に深い教養をもち、生徒に英語の面白さを伝えられ、英語を好きになってもらえるような授業をする教員になろうと思います。そのためにも友人と情報交換を欠かさないようにしてTOEICもTOEFL-ITPも英検も毎回受験するよう心掛け、柳瀬先生がおっしゃるように、授業の中でも外でもよく学び、よく遊ぶ充実した大学4年間を送ろうと思います。
NKさん: whyと問うたものを解決させた過程が自分の中に残っていく大切な英語力
柳瀬先生が書かれた6つの記事を読んで、まず私は英語で映画鑑賞をして英会話力を身につけていこうと思いました。高校生のころから、英語も一つの言語であるから、ただ問題集を解くだけではいけないと思い、リスニング用問題集のCDを使ってスクリプトを見ながらシャドーウィングしたりリピーティングしたりしていました。しかし、リスニング問題用に作られた英文なので、それが実際の英会話として使われている表現かどうかが分からず、ただ英語を発音しているだけになりつつありました。でも、映画はほとんどが実際に使われている英会話なので、覚えるくらい繰り返し練習すれば、自分の口から自然な英語が出てくるようになるので、最も短く、で楽しみながらできる英会話学習なのではないかなと思いました。日本語のバージョンのストーリーを知っている映画を使って少しずつ英語でも理解できるようになれたらいいなと思っています。
次に、英語を学んでいく際に、“why”と問いながら勉強していきたいと思いました。今まではどうしても大学合格という目標をもとに、受験英語としての英語を学んできていることが多かったので、whyと問う間もなくwhatやhowだけで英語学習を進めていました。でも、一番必要なのはwhyと問うことであってそのwhyと問うたものを解決させた過程が自分の中に残っていく大切な英語力なのではないかと思います。やはりwhatやhowだけの英語学習は、ただの機械的な作業であり、そこで身につけたものはある程度時間が経過した後すぐに忘れられてしまうものなのではないかなと思います。だから、whyと問ったものを解決させていった過程を大切にして、英語学習を進めていきたいなと思います。
また、将来、英語教員を目指すものとして、やはりただひたすら問題集を解いて身につけた英語力だけでは生徒へ指導しきれないと思います。実際に使われている英会話を身につけ、使ってみてインプットすることができてはじめて生徒へ指導することができるのではないでしょうか。また、国際化がすすみ、日本人の英語力強化が求められている今だからこそ、私たち教員が自然な英会話力を身につけて、教壇に立つべきだと思います。そんな実践的な英会話が自然と口から出てくるぐらいまで、耳と口を使って英会話力を身につけていかなければいけないなと感じました。
最後に、やはり英語も日本語と同じ言語です。ただひたすら問題集を解くだけではある程度以上は身につかないかもしれません。また、問題集を解くという機械的な作業を繰り返すだけではいつかは疲れてやめてしまうかもしれません。ある程度の単語力は必要だと思いますが、英語での映画鑑賞という楽しみながら英会話力を身につけることができるのは本当に良い学習方法だと思います。人間、楽しいものなら続けられると思うので、映画を使ってコツコツ自然な英会話力を身につけていきたいなと思いました。そうやって身につけた英会話力の成果がTOEICやTOEFLの成績につながるよう、日々努力を重ねていきたいと思います。
OMさん: 大学で学ぶにあたって、このもやもやを解消しようとする姿勢を
大事にしようと思いました
今回は、主に「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)」を読んだ感想を提出します。
まず、本文を読む前に、バカとは何かを考えました。とっさに、勉強ができない人(つまり成績が悪い人)、学力とは無関係に、社会に適応する能力が足りない人の二種類が思い浮かびました。柳瀬先生の指すバカは、後者に近いものと考えます。
私は先生がおっしゃる通り、学習には「why」が必要だと思います。私は、「why」を突き詰めようとすればするほど、今自分がどこにいるのか分からなくなってしまうタイプだったため、最終的には「what」「how」を詰め込む人間になっていました。それが、確かに、最短経路だと信じ、今この状況(最近でいうと大学受験)では、回り道をする余裕はないと考えたからです。
私は「why」を自分が納得いくまで突き詰めなかったことを、特別後悔はしていません。小中高での学びは大学での研究につながるものですが、まず、大学に入ることができないと、研究現場にたどり着くことすらできない。だとしたらやはり、その先の発展を見込めるかどうかは別として、とにかく頭に知識を詰め込むしかなかったように思うし、高校時代の私に、「why」を求める精神的余裕も、時間もありませんでした。後悔をしていないと述べたのは、結果的に今このように志望大学に合格できたからです。
「why」の探求を世間が避けようとする理由のひとつに、単に時間が足りないから、ということが挙げられると思います。実際、私もそれを理由に避けてきました。しかし、一度「why」の答を追い求めることを知った生徒は、通常(淡々と受身の勉強をする)より速いスピードで勉強が進められるのではないか、もしそうなれば、結局「why」を重視する授業内容にしたところで、全体として教師が生徒に提供できる知識の量はさほど変わらないのではないか、とも思うわけです。その生徒が学ぶ教科に抱く興味関心の度合いにもよる(いくら「why」の答を見つけたとしても、それにどの程度生徒が興味を持つかは人それぞれであるでしょう)と考えたら、「why」をもっと織り交ぜた授業をすることはやはり難しいのかもしれませんが、現状のままだと、先生のおっしゃる「バカ」の増加を食い止めることは難しいと思います。
日本で最高峰の進学校と言われる灘高校や開成高校の生徒には、どれくらい「バカ」がいるのでしょうか。やはり彼らのレベルまでになると、「why」を追求することが慣習化しているのでしょうか。だから頭が良い(ここはストレートに成績が良い)のでしょうか。やはり彼らは「バカ」ではないのでしょうか。
先生の記事を読んで、いろいろなことを考えたのですが、いろいろなことを考えすぎて、上手く文章にできませんでした。気づいたことは、今の自分に「why」を求める心があるということです。今すごくもやもやしているのですが、この、答を求める感触が大切なのかなと考えます。
大学で学ぶにあたって、このもやもやを解消しようとする姿勢を大事にしようと思いました。これが私の決意です。
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学生さんの感想の紹介は以上です。
「教英」では教員志望の学生さんが圧倒的に多いのですが、私は教英を「教員採用試験対策予備校」のようにするつもりはまったくありません。徹底的に「教える-学ぶ」ということについて考え直して、同時に英語教員として英語をしっかりと「身につけて」ほしいと考えています。
「教える-学ぶ」ということについては、やや挑発的なタイトルをもつ以下の本が面白いです。古今東西の作品からのさまざまな引用もありますから、教養の幅をつけたい学部生さんにはいい読書になるかとも思いますので、ここでお薦めしておきます。
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