「おい、○○ [=あなたの名前を呼び捨て]。百円やるさかい、ジュース買(こ)うて来い」
クラスの残りの生徒は緊迫してあなたの反応を待っています。
さあ、あなたならどう対応しますか?
間違ってはいけないのは、これは何か「正解」の対応がある問題状況ではないということです。この本の著者は -- 上記の状況はこの本の冒頭に紹介されているエピソードです -- 彼なりに対応をしますが、彼も言っているようにそれが唯一の正解などといったものではありません。ですから生徒指導の「正解」を求めて、その「正解」を覚えておこうとしてこの本を読むことは、根本的な錯誤と言わざるを得ません。
しかしこの問題を抽象的・原理的に理解することはできますし、そういった理解は現実世界にとって有効なものだと私は考えます。
私なりに上記の問題を抽象化するなら、それは「あるフレーム(枠組み)で八方塞がりになったが、それでもコミュニケーションを継続させなければならない時にどうすればいいのか?」となります。ウィトゲンシュタインの言葉を借用するなら「アスペクト転換」(=物事の認識の仕方を一気に変えること)はどのように行なえばよいか、ということになるのかもしれません。いや、そんな難しいことを言わずとも、話がどんどんとかみ合わなくなり、一発触発ぐらいになってみんながハラハラしている時に「ま、お茶でも飲みまひょか」という老婆や、「ちょっとションベンしてきてよろしいか?」とわざと神妙な顔で提案するおっさんの知恵に学ぼうと言い換えることができるのかもしれません。
もう少し直接的な類似を求めるなら、それは禅僧とその弟子との対話に見いだせるかもしれません。棒(警策)を掲げて禅僧は弟子に迫ります。「この警策で俺がお前を打つとお前が言えば、俺はお前を打つ。俺が打たないと言えば、俺はお前を打つ。お前が何も答えないなら、俺はお前を打つ。さあ、答えよ、答えよ」と言う禅僧に弟子はどう対処すればいいのか・・・
禅仏教が日本の教養の重要な一部であった時代、このような禅的な対応、ひいては冒頭の状況での対応などは、多くの日本人にとってお茶の子さいさいのものだったのかもしれません。しかしそのような知恵を失った者にとって冒頭状況は恐ろしい危機として迫ってくるでしょう。
本書は小学校臨時講師四ヶ月、中学校教諭12年、普通科全日制高校五年の勤務を経て普通科夜間定時制高校に赴任した著者がその定時制時代の経験をまとめたものです。著者の筆力は高く、数々のエピソードはいきいきと描かれています。また社会学のトレーニングを受けている著者は、制服(およびそれからの逸脱)に関する社会学的分析、成績に関する人類学的考察(贈与論)などを展開しますし、ベイトソンのコミュニケーション論も下敷きにしながら分析を進めますから、学校現場でのコミュニケーションについて私たちは深く学ぶこと・振り返ることができます。
学校現場でのコミュニケーションを問題意識に持つ方はこの本を一気に面白く読めるのではないでしょうか。ただし繰り返しますが「正解」を求めるべきではありません。コミュニケーションは「唯一の正解」なるものなどに束縛されない自由を持っているからこそ、豊かになり深くなるものなのですから。コミュニケーションに「正解」を求めることは、私たちの自由と可能性を否定することだと私は考えます。
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