2009年5月11日月曜日

矢守克也 (2007) 「アクションリサーチ」

やまだようこ編 (2007) 『質的心理学の方法 --語りをきく--』の第12章 (178-189ページ)の矢守克也 (2007) 「アクションリサーチ」は日本の英語教育界にとっても重要な論文だと思いますので、ここで短く紹介し、続いて私見を述べます。

矢守先生は最初に「アクションリサーチとは『こんな社会にしたい』という思いを共有する研究者と当事者とが展開する共同的な社会実践のことである」と述べ(178ページ)、「ナチスから逃れて米国に渡ったレヴィンの研究の底流には、常に、民主的な社会の創造という目的があった」(179ページ)と説明し、アクションリサーチの創始者ともいえるクルト・レヴィン (Kurt Lewin) の重要性を強調します。

「1 アクションリサーチの要・不要」では、実践の現場にリサーチ(研究活動)を持ち込むことは、一つの重大な判断であり、「すべての実践にとって研究的営みが必要と考えるのは、研究者の思い上がりにすぎない」という杉万(2007)の言葉を引き、アクションリサーチが研究のための研究になってしまってはいけないことを示唆しています。

「2 アクションリサーチの基本特性」では、(1)目標とする社会的状態の実現へ向けた変化を志向した広義の工学的・価値懐胎的な研究、(2)上記にいう目標状態を共有する当事者と研究者による共同実践的な研究を基本的特性としてあげ(180ページ)、アクションリサーチが「よりよい [と信じられている] 方向」へ向けて、研究者や対象者といった当事者が、自らの研究が実践に及ぼす再帰的な影響を自覚しながら従事するものであることを説明します。

「3 どのような条件のもとでアクションリサーチはなされるべきか」では、「3-1 『価値』の調整が求められるとき」、「3-2 研究者/対象者間の固定した構造に変化が必要なとき」をあげ、前者の場合でのナラティブの重要性、後者の場合で、従来研究されるばかりでしかなかった対象者が研究者的性格を有し、研究者が対象者的立場も理解することの重要性を説きます。このあたりでアクションリサーチは、疑似実験研究でも「お手軽な実験研究」でもない、社会改革への理性的な試みであることがはっきりと示されているように思えます。

「4 アクションリサーチで活用、ツール、プロダクツ」では、それまでの議論を踏まえ、「アクションリサーチを、特定のデータ収集方法や分析方法と結びつけるのは、それがもつポテンシャルを矮小化することになる」(187ページ)と述べ、アクションリサーチの基本精神を顧みないままに、些末で不毛な研究手法論議をすることを戒めています。

さらに「アイヒマン実験」としても知られる「服従の心理」に関する有名なミルグラムの実験研究も、レヴィンの志を受け継ぐアクションリサーチであったと解されるべきであると主張しています。





日本の英語教育にとって重要なメッセージは少なくとも二つあると私は考えます。一つは上にも述べましたように、アクションリサーチを「価値中立的」(この用語がはらむ問題はここではさておきます)な自然科学研究の単なる亜流とみなす誤解をこれ以上持ち続けてはいけないということ、二つ目はアクションリサーチとて実践に対する介入であり、無批判的に良きものとみなされてはならないということです。

二つ目に関してもう少し述べます。教育実践現場の中には、困難な教育状況や、とにかく上から命令される書類仕事・事務仕事などに教員が追われ、ゆっくりと教員が語り合えない職場が少なからずあります。そんな職場では、教育上の悩みや問題を抱える教員も、他の同僚に相談する時間、機会、雰囲気をもてずに孤立しがちです(実際、2009年2月4日に掲載された毎日新聞の記事は「東京都教職員互助会などの調査では、先生が相談できる相手で最も多かったのは「家族・友人」で83.5%。「上司・同僚」は14.1%しかない」ことを伝えています。社会常識からすれば、仕事の問題や悩みを語る一番の相手は上司・同僚であると私などには思えるのですが、そのような当たり前のことが行なわれていないところに教育界の歪みをみるように思えます)。


そういった職場にアクションリサーチが上からの指令で命ぜられることがあります。もちろんそういったアクションリサーチを契機に、職場に風穴が空き、教育環境の改善がはかられた事例はたくさんあります(アクションリサーチの例に入るかどうかわかりませんが(注)、SELHiも校長や教育委員会の命令で導入されたものの結局はよい結果をもたらした場合もあります)。

ですがいくつかの場合では、アクションリサーチが上から命ぜられることにより、英語教師まで「校長派」(命令に従いアクションリサーチを行なおうとする者」と「対立派」に分断されて同僚間でのコミュニケーションが困難になったり、職場がますます忙しくなって一部の者が病気になったりした例もあるはずです。

また新人研修でも、アクションリサーチの報告書の提出は求められても、その新人がゆっくり落ち着いて自らの実践を振り返る時間すら与えられず、年中睡眠不足で疲労困憊しながら、職場で教育困難な生徒はもとより、同僚教師ともコミュニケーションがとれずに孤立してゆくことも多くあるはずです。(岩波書店『世界2007年2月号』にはルポライターの星徹氏が「学校現場に不幸をもたらす「教育改革」」で、そのような状況で追い込まれ自殺した新人女性教諭の状況を報告しています)。




私は日本の英語教育界ではもっとアクションリサーチが普及すべきだと思っています。また理論研究・実験研究を行なう研究者ももっともっと現場を向くべきだと考えています。しかしだからといってアクションリサーチが無条件に推進されるべきものとは考えません。

日本の教師には優秀な人材が多いというのは、少なくとも国際的にはしばしば言われていることですが、日本の教師の多くは労働基準法違反の長時間労働をし、しかも土日や休日までクラブ活動の指導に追われています。そういった過酷な社会的状況を無視して研究や研修を押しつけることは、(私はあまりこういう言い方は好きではないのですが)まさに人権問題ではないでしょうか。

この点、とにかく教師にまともな私生活の時間を与え、勤務時間内にお互いの教育実践を自由に語り合える時間を制度的に保障することが、アクションリサーチを含めた研修の前になされるべきことだと私は考えます。

私が時折述べておりますExploratory Practiceというのはあくまでも実践であり、実践を惰性で行なうのではなく、探究的に行なおうというものです。そこでは目に見える結果は必ずしも求められず、言葉になりがたい実践的理解を深めることが重視されています。それよりも何よりもExploratory Practiceが重視するのは、当事者(教師・生徒など)のQuality of Lifeです。



残念ながら現代日本では、看護士や介護士あるいは教師といった最もQuality of Lifeに敏感であるべき職種の人間が、自らのQuality of Lifeを犠牲にして疲弊しているという現実があります。

こういった問題はこれ以上看過すべきではないかと思います。

こういった状況の改善のためのアクションリサーチなら私は全面的に協力します。

話は矢守先生の論文からずいぶん逸脱しましたが、私たちは今一度研究は「誰のため・何のため」に行なわれるべきなのかということを真剣に問い直すべきかと思います。




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(注) 書いていて気づきましたが、SELHiについてある程度関わったはずの私のような人間でさえ、SELHi研究をアクションリサーチとみなしてよかったのかどう即答できないというところに、日本の英語教育研究の貧困さが表れているのかもしれません。SELHiを始めとした実践研究に、研究者が実践感覚とはとても遠い研究スタイルを押しつけることにより、現場実践が混乱し歪むといった事例は私もしばしば見聞しているものです。今思えば私はSELHiに関する会合などで、SELHi研究はアクションリサーチであると明確に断言し、もっともっときちんとアクションリサーチと実験室的実験研究の違いについて説明すべきでした。それができなかったのは私の不覚であり、不勉強です。


参考文献
杉万俊夫 (2007) 「質的方法の先鋭化とアクションリサーチ」, 『心理学評論』49,551-561.








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