アタリ氏は、ウィキペディアの記述を引用するなら「フランスの経済学者、思想家、作家。アルジェリアの首都アルジェ出身。パリ政治学院卒業。経済学国家博士。初代欧州復興開発銀行総裁。フランソワ・ミッテランの側近中の側近で81年から91年まで大統領補佐官。91年から93年まで欧州復興開発銀行総裁。指揮者としてオーケストラを指揮したこともある」人物です。同書の表紙解説は、「本書は、アタリが、長年の政界・経済界での実績、研究と思索の集大成として「21世紀の歴史」を大胆に見通し、ヨーロッパで大ベストセラーとなったものである。サルコジ仏大統領は、本書に感銘を受け、“21世紀フランス”変革のための仏大統領諮問委員会「アタリ政策委員会」を設置した」とも説明しています。
本書の要旨を強引にまとめるなら、21世紀は三つの波をくぐり抜ける歴史となるだろうというものです。三つの波とは次のようなものです( < > はアタリ氏の造語です)。
第一波: 市場原理が透徹し民主主義・政府・国家が壊滅的な打撃を受ける<超帝国>の時代の到来
第二波: 国家の衰退と共に、希少資源をめぐる紛争、国境をめぐる紛争、国民世論の関心をそらすための紛争、<海賊>と<定住民>の紛争などが続発する<超紛争>の時代の到来
第三波:愛他主義と世界市民的態度こそが人類生存のために必要なことだと自覚する<トランスヒューマン>が人類全員にとって住みやすい世界の構築に尽力するようになる<超民主主義>の時代の到来
第一波はもう私たちが既に経験している「21世紀の歴史」なのかもしれません。第二波も私たちが既に予兆を見ているのかもしれません。
第三波は、それだけ聞いたら安っぽい話に聞こえるかもしれません。しかし、グローバル資本主義が私たちのあり方を圧倒し、貧困層はますます貧困になり、中間層富裕層は次々に国際競争と過酷な労働(特に労働時間)に負けて貧困層に没落し、少数の富裕層も環境破壊や小さな規模から大きな規模の暴力(犯罪からテロ・紛争)に怯えるような状況に追い込まれるなら、こういった考え方はこの上なく現実的なものとして認識されるかもしれません。
個々人が他人を押しのけて富と権力を求めるパラダイムではなく、私たちが人類として互いを支え合うパラダイムこそが個人の繁栄にもつながるという「リアリズム」が多くの人に認識されることが21世紀の課題なのでしょうか。つまりは宮沢賢治の「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得えない」という言葉を理想主義的発言ではなく、現実主義的発言として認めることが今の私たちに必要なのではないでしょうか。
教育界の人間として気になるのは「共通資本」の考え方です。アタリ氏は次のように言います。
超民主主義は(人類が共通してもつであろう)共通資本を発展させるが、これによって共同体のインテリジェンスが生み出される。
超民主主義における共同体の究極目標である人類の共通資本とは、栄華や富、さらに幸福でもなく、きちんとした生活を保障する要素全体を保護することにある。すなわち、気候、大気、水、自由、民主主義、文化、言語、知識などを保護してゆくことにある。こうした共通資本は、維持管理が必要な図書館、自然公園などと同様に、使用した後はこれをさらに豊かにして後世に伝達しなければならず、これに不可逆的な修正を施すようなことがあってはならない。ナミビア共和国による動物相の保護政策、フランスの森林資源保護政策・文化財保護政策などが、共通資本の前兆となる概念である。共通資本とは、市場原理、国家管理、多国間所有では対処できない国家を超えた資本である。 (300ページ)
日本でもまさに「第一派」により、教育の公共性がますます失われ、学校も、消費者としての保護者・生徒のニーズに応えるという意味で「市場原理」によって動かなければならないといった発想が、管理者層を中心にますます強くなってきているように思えます。「教育界は民間に学べ!」ともしばしば言われ、それに疑問をはさむことすら許されないようにまなじりをあげる人も少なくありません。教育界も数字に現れる結果を出さなければならないと、妙な管理強化ばかり進行し、教育の本質が忘れ去られようともしているかと思えます。
悲観的かつ猜疑的な言い方をすれば、日本を動かしているとされるエリート層・富裕層などの多くは、公教育には真剣に取り組んでいません。究極の所、自分の子どもは市場原理で研磨された私立にやればいいと思っているからです(そして自分には子どもを私立にやれる財力があってよかったと思っているからです)。
もし教育が「国家百年の計」だとするなら、私たち教育界にいる人間は、ここ10年ぐらいの(世界の潮流からすれば少し遅れた)日本の安っぽい新自由主義的発想を批判的に相対化するべきでしょう。そしてどんどん激化する資本主義的競争を不可避なものとしてしかとらえられない想像力(ひいては知性)の貧困を指摘し、未来のビジョンを掲げ、それを仮説として試行錯誤する努力を始めるべきでしょう。教育の公共性をもっともっと主張するべきでしょう。
英語教師にとっても、もちろん日々の工夫(「どのように」教えるか)は重要ですが、「なぜ」「何を」教えるかという思考も重要だと私は考えます。そして「なぜ」「何を」という思考は、五年、十年、三十年、さらには百年といったタイムスパンでもなされるべきです。
この本が提起するような問題意識を有形無形に避けているように思える日本の英語教育界には私は脆さと危うさを感じます。
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