tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post5186380961792586471..comments2017-09-29T08:02:30.650+09:00Comments on 英語教育の哲学的探究2: 「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」のPDFファイル柳瀬陽介http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378noreply@blogger.comBlogger2125tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-44980101441093047802009-06-10T05:14:11.749+09:002009-06-10T05:14:11.749+09:00szeidzsiさん、
わざわざのコメントをありがとうございました。
西川先生の論考は知りませんでし...szeidzsiさん、<br />わざわざのコメントをありがとうございました。<br />西川先生の論考は知りませんでしたので、早速<br />勉強しようと思います。貴重な情報提供に<br />感謝します。<br /><br />日本語での「異文化」の規定が狭いかもしれない<br />とのご指摘、同感です。<br /><br />妙に青臭い議論をするわけではありませんが、<br />日本では「純」なものを作り上げて、自分たちは<br />それに属するのだと主張し、そこから少しでも<br />逸脱するものは積極的に排除して、「心地よい」<br />「私たち」の世界を作ろうとすることが少なくない<br />と思います。<br /><br />ともあれ、ありがとうございました。柳瀬陽介https://www.blogger.com/profile/05970610356649572378noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-21274331636451451222009-06-10T04:20:12.780+09:002009-06-10T04:20:12.780+09:00ハンガリーで日本語教育に携わっている者です。論文興味深く読みました。(用語が難しくて理解できていない...ハンガリーで日本語教育に携わっている者です。論文興味深く読みました。(用語が難しくて理解できていないところもありますが・・)<br /><br />論文の主張しているところ(の一部)は、上越教育大学の西川純教授の提唱する『学び合い』と非常に似ていると個人的に思いました。(西川教授は違うというかもしれませんが)<br /><br />『学び合い』の主張<br />1)人間は種レベルで他者と学び合い問題を解決する能力がある。(これがなければ既に絶滅しているはず)<br />2)しかしこれは家族・村レベルの能力<br />3)近代社会は拡大化・複雑化し、元々人間の持っている能力では足りない。<br />4)学校は「自分とは違うできるだけ多くの他者と折り合いをつけて問題を解決し目標を達成する経験を積み、その有用性を学ぶ場」であるべき・・<br /><br />日本語教育でも「異文化コミュニケーション」が叫ばれていますが、個人的にはこの「異文化」の規定がとても狭いような気がしています。<br /><br />ご存知かもしれませんが参考までに西川教授のサイトアドレスを記します。<br />www.iamjun.comszeidzsihttps://www.blogger.com/profile/16722335995408807435noreply@blogger.com