英語教育の人と話していて、議論が日本語のことになると「それは日本語教育・国語教育の話でしょ。私たちは『英語』を教えているんだから」とそれ以上の議論を拒まれることがしばしばあります。そういった方々の頭の中にはひょっとしたら「純粋な英語教育」などというものがあるのかもしれません。思考力や世界に関する非言語的知識が入ってきても、英語教育関係者の多くは「そうなると『英語』の教育・試験じゃなくなりますよね」と言います。
でも「純粋な英語」なんてまったくの人工的な想像体です。日英バイリンガルでは両言語使用において脳血流の様子が異なるといった粗い論はさておき、日本語を第一言語として成長した者が第二言語使用の様々な側面において日本語の影響を払拭できないことは最近の様々な実証研究が明らかにしていることでしょうし、SLAにおける"Bilingual turn" (Ortega)が訴えていることでもあるでしょう。
私たちの「英語」には「日本語」が侵入しています。そして虚心坦懐に私たちの身の回りのカタカナとアルファベットを見直せば、私たちの「日本語」にも既にかなりの「英語」が侵入していることは自明でしょう。私たちの英語は日本語に汚染され、日本語は英語に汚染されています。純粋な英語も純粋な日本語もありません。(そもそも「英語」も「日本語」も政治的に構築され制度的に維持された想像体です)
それなのに日本語の影響からも、思考力や世界に関する非言語的知識の影響からも(奇跡的に)逃れている純粋な「英語」に固執し、そういった「英語力」を育み測定することこそが自らの使命と考える英語教育研究者の方々の思考というのが私にはよくわかりません。
ひょっとしたら学習指導要領の「英語」 ―他教科と区分されて規定されている「英語」― を思考の基盤としているのでしょうか。現行の指導要領の枠組みでしか物事を考えない人は英語教育界には結構いますが、私はどうもそうした思考法に共感できません。
「はじめに学習指導要領あり、学習指導要領は神とともにあり、学習指導要領は神なりき。万物はこれに由りて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし」
これはは大学人・研究者の思考法ではないでしょう。
「いや指導要領は関係ない。私が言いたいのは『英語』は『英語』だということだけだ」とおっしゃる方もいるかもしれません。しかし"English"でなく「英語」という言葉を使っている時点で、私たちは日本の歴史的文脈の中に絡め取られています。「英語教育」も、例えば米国や英国で語られる"Teaching English to Speakers of Other Languages" (Otherという表現に注意!)とニュアンスを異にします。ひょっとしたら海外留学経験が長い方などは、幕末以来の日本の英語教育の歴史文化を忘れ、英米などでのTESOL文化に適応することに熱心なのでしょうか。いずれにせよ私が「英語教育」を語るとき、日本語・日本文化(さらには思考力や非言語的側面)は欠かすことのできない要因です。それらを捨象した純粋な「英語教育」なんて科学的でもなければ、常識的でもない、非現実的で非生産的な想定に過ぎないと思っています。
私たちの言語能力を、第一言語能力に第二言語能力を付け足したものと単純に捉えるべきでないでしょう。さらには「両者には共通基盤がある」という以上に、私たちの言語能力には複数の言語が分け離すことができない形で複合していると考えるべきなのではないでしょうか。
Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assessment (CEFR)は言語能力について次のように述べています(強調は柳瀬)。
Plurilingual and pluricultural competence refers to the ability to use languages for the purposes of communication and to take part in intercultural interaction, where a person, viewed as a social agent has proficiency, of varying degrees, in several languages and experience of several cultures. This is not seen as the superposition or juxtaposition of distinct competences, but rather as the existence of a complex or even composite competence on which the user may draw. (Council of Europe 2001, p. 168)複合的言語文化能力が意味するのは、複数の言語をさまざまな度合いで使いこなすことができ、複数の文化での経験をもつそれぞれの人間が、それぞれに社会的主体として、コミュニケーションの目的に応じて複数の言語を使い分け、複数の文化が混在する状況でのやりとりに参加することができることである。この能力は、それぞれに独立した別々の言語能力を積み木のように縦横に並べたものと考えてはならない。複合的言語文化能力は、一つの複合的な能力で、元々は複数の要素からできたのかもしれないがもはや分離することができない一つの化合物ともいえる能力であり、この能力を人は状況に応じて使いこなすのである。(拙訳)
追記(2010/09/02)
"Plurilingual and pluricultural competence"を私は機械的に訳して「複言語主義的能力・複文化主義的能力」としていましたが、これは「複合的言語文化能力」とするべきでしょう。上の翻訳も変更しました。ついでに「積み木のように」という語も今日加えました。
水が2個の水素原子と1個の酸素原子からなるとしても、化合物としての水は水素とも酸素とも異なる性質を持ちます。同じように私たちの言語能力が例えば日本語力と英語力から成り立っているとしても、化合物としての言語能力はモノリンガルの英語力ともモノリンガルの日本語力とも異なる複合的な性質をもっているというべきでしょう。
私は日本語などのことを考えずに英語教育のことを考えられません。言語能力における複数の言語の複合性について私たちはもっと考えるべきではないでしょうか。
追記
上では、一つ言語の中の複数性については書けませんでした。やはりブログといった中途半端な文章を書かずに、きちんと論文を書かなければ。反省。
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