日本教育学会ではいろいろな方々とお話ができてとても勉強になりました。いくつも書きたいことがあるのですが、学会終了後に、またしも多用の波にのみ込まれてしまい、なかなか文章が書けません。しかし記憶が途絶えてもいやなので、少しずつ書いてゆこうと思います。
学会発表では、翻訳を英文和訳、作業訳、英文解釈と区別した上でその意義を主張しました。まずはその区別を下に示します。
| 言語使用の様態 | ||
書き言葉でのテクスト産出 | 理解過程での話し言葉使用 | ||
テクストの自律性 | 原典から自律 | 翻訳 一読して原典の意味がわかる日本語。 時に意訳とも呼ばれる。同化(目標言語重視)と異化(起点言語重視)の二極の志向をもち、その超克に翻訳言語(目標言語)の創造の可能性がある。 | 原典の理解を助けるための口頭での解説や問答。しかし入試対策のため明治中期 (ほぼ1890年代) 頃から英文和訳とも呼ばれるようになった。 |
原典と併存 | 英文和訳 辞書の訳語と「公式」により原典を機械的に日本語化したもの。 これを要求するのが訳読法。紙媒体で行われる入試はしばしば原典の理解の証拠を英文和訳に求めた。 | ||
原典に依存 | 作業訳 学習などの目的のために、辞書の訳語を原典に添えること。原典の文をそのまま訳出したら直訳あるいは逐語訳と呼ばれる。 |
ここで区別している「翻訳」とはあくまでも書き言葉として記された自律的なテクストであり、原典を参照することなく意味が理解できる作品です。この原典との関係において「翻訳」は、原典を横においておかないと意味理解が困難な「英文和訳」や原典に書き込まれただけの「作業訳」とも異なります。
また「翻訳」は書き言葉の作品である点で、原典理解のための準備的作業である話し言葉使用に過ぎない「英文解釈」とも異なります。
この区別は万人に受け入れられているものではありませんが、議論というものは用語の明確な定義を必要とするものですから、実りある議論のために私は私なりにこのような区別・定義を提案してみる次第です(またこの区別・定義はこれまでの議論ともそれなりの整合性を持っているものと私は思っています)。
さてこの定義での「翻訳」ですが、これは私は高校・大学英語教育のどこかで部分的に導入すべきだと考えています。英語教育でも翻訳教育を行うべしという主張です。少し説明してみます。
まず翻訳教育の意義ですが、それはこれが高度の言語教育だからです。英語習得のためにも、日本語力の成熟のためにも有益だと考えるからです。英語と日本語が相まって、複合的に言語力を高めると考えられるからです。
まずは英語の面から論じてゆきましょう。英語のテクストはもちろん、翻訳も英文和訳も、いや作業訳や英文解釈もなしに理解することは可能です。いわゆる直読直解という理解で、英語を常用するときにはもちろんこの直読直解が通常の理解形態になります。
ですがその直読直解という到達点に至るまでにはさまざまな過程・訓練が必要だというのは、習い事の常というものでしょう。
英語よりも先に日本語を書き言葉のレベルまで習得している日本人英語学習者にとって、(直読直解という到達点に達する以前に)英語を理解する際にもっとも有効な媒体(メディア)はやはり日本語でしょう。テクストを書くことで何かを意味するとは、そのテクストの文字通りの意味(literal meaning)を発語する行為(locutionary act)だけで構成されるのでなく、その言語文化で話者が込めた話者の意味(speaker meaing)を発話の内に込める行為(発語内行為)(illocutionary act)でもあり、さらにその発話を媒介にして読者に何らかの影響を与えようとする行為(発語媒介行為)(perlocutionary act)であるというのは語用論の標準的理解です。発語行為は書かれたテクストからほぼ復元可能ですが、発語内行為はその言語文化における筆者の心を推測しないかぎり明らかにできません。発語媒介行為は、筆者がテクストの読者をどのように想定していたかということ、およびその想定した読者は実際にどう振舞うだろうということを考えないと想像すらもできません。
テクストには直接書かれていないこの発語内行為と発語媒介行為を理解しなければ十全にテクストを理解したとはいえません。発語内行為と発語媒介行為の理解は、話し言葉での英文解釈でも明らかにできますが、書き言葉としての翻訳としてある一つの言語表現にしなければならない時に、いわば研ぎ澄まされた形で明らかにされます。文字通りの発語行為に基づきながらも、筆者が込めた発語内行為と意図した発語媒介行為を織り込んだ上で言語表現する翻訳において、翻訳者は自らの理解の妥当性を、本人がもつ最高の表現媒体である日本語で吟味できます。
私たちはここで書き言葉のもつ効果に注目する必要があります。語られるやいなやすぐに消えてしまう話し言葉と違って、書き言葉は残ります。書いた本人の前に残り、吟味する対象となります。書き言葉の利用により私たちは自分の理解を対象化できます。対象化により私たちは自分の理解を長時間にわたり多面的に検討できます。この検討を通じて生み出されるのが翻訳作品です。きちんとした翻訳を試みるなかで私たちは深くテクストを読むことができます。翻訳は精読の唯一の形態ではありませんが、一つの優れた形態であります。これは翻訳を(英文和訳を、ではありません!)試みた人なら納得してもらえることではないでしょうか。
日本語の面からすれば、翻訳とは自らの日本語語彙を総ざらいし、日本語文法を駆使する試みです。ある意味、ある言語表現を別の言語で表現するということは(深いレベルでは)不可能なことなのですが、この不可能性こそが抵抗となり、私たちはこの抵抗により自らの日本語力をさらに深める(あるいは高める)ことができます。
このように翻訳を行うことは、英語を深く理解することと日本語を掘り起こすことを同時に複合的に行うことだと私は考えます。翻訳が高度の言語教育の一つというゆえんです。
このように複合的な言語教育概念に抵抗を示す方もいらっしゃいます。そのような方の頭の中には「純粋な英語教育」や「純粋な国語教育」という概念が揺ぎ無い現実として君臨しているのかとも思います。私としてはそのような「現実」がどのようにしてそのような方の頭の中に確立していったのかに興味があるのですが、それはまた別の記事で書くこととしまして、話を翻訳教育に戻します。
翻訳教育の本質的な意義は以上述べた言語教育の側面にありますが、翻訳教育には実利的な、というより副産物的な意義もあると思います。それは翻訳作品に対して批判的に接することができるということです。
翻訳を自ら真剣に試みたことがない者は、世間に流布している翻訳作品をただ読むだけです。その翻訳日本語を唯一のテクストとして理解しかねません。しかし翻訳を経験した者は、一つの翻訳作品の背後には数多の結実しなかった翻訳表現があることを心底理解しています。だからその翻訳日本語にとらわれてしまうことも少ないでしょう。これが翻訳作品への批判的態度として、読書生活の実利となると私は考えます。
このように私は翻訳が意義深い教育体験になると考えていますが、翻訳教育をするためにはもちろんいくつかの前提があります。ここではその前提の一つだけについて語りますが、それはテクストに対する敬意が必要ということです。
どうでもいいような内容がおざなりな表現で書かれたテクストを私たちは翻訳しようとは思わないでしょう。私たちが翻訳するテクストは、筆者がどうしても伝えたい内容を、それ以外には考えがたいような精度で表現したものです。読者として敬意を払わざるをえないテクストです。この敬意があるからこそ私たちは「翻訳の不可能性」を痛感するわけです。「翻訳の不可能性」と言えば笑い出してしまうような安直なテクストばかり使っていれば翻訳教育は決してできません。
さらに言及すべきは、きちんとした翻訳には非常に時間がかかり、翻訳はほんのわずかのテクストに対してしかできないということです。といっても、時間をかけ呻吟し検討することにこそ翻訳教育の本質があるわけですから、私たちは翻訳が大量のテクストをこなせないことを嘆くべきではありません。こういった量を求めない教育は、教育の大衆化と知識人の凡庸化に伴い、ますます少数派になっていますので、ここで言及する次第です。
以上に述べたような翻訳教育は、とりあえず英語教育の枠組みの中に入れるにせよ、部分的にのみ導入するべきでしょう。翻訳は精読の一つの形ですが唯一の形ではありません(例えば朗読という形による精読も考えられます)。また精読は英語教育のすべてではありません。ですから私は翻訳は「単元」としてある英語科目の一部分に導入するぐらいがよいのではないかと考えます。
以上、とにかく書きなぐりました。この対象化を通じてまた翻訳について考えてゆきたいと思います。てか、疲れた。腹へった。飯食って発泡酒飲んで寝ます。というより寝させて!(笑)。
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