2010年8月27日金曜日

学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)

職場の命令で、第一種衛生管理者試験のための講習会に出ている。朝9時から夕方5時までの三日間の講習で、さきほど二日目が終わった。講習を受けているうちになんだか自分が進学校にいる中途半端な落ちこぼれのように感じてきた。さらにはこんな勉強ばかりしていれば、試験には合格するかもしれないが、バカになるかもしれないと思い始めた。



断っておくが、講師の先生はいい人である。第一種衛生管理者資格取得をそれぞれの職場で期待された社会人が、最短の時間で試験に合格するように淡々と説明を進める。話術も決して下手なわけではない。

だがその説明にはwhyがない。ただ膨大な試験範囲のうちの何(what)を覚えるべきかを、過去問題の題材分析から端的に告げる。さらに過去問題の問い方を分析した上で、どのように(how)覚えておけばいいかを次々に告げる。受講生からの質問を招くこともせず、導入話も脱線話もなく、ひたすらに合格のためのwhatとhowを伝える。効率的なことこの上ない。そういえば私の高校時代の世界史の授業もこのようなものだった。

職場で「有害業務」にまったく携わらず、物理学や化学の基本的知識を欠いている今の私が衛生管理者試験に合格するのは容易ではない。しかしこの講習が合格への「最短経路」の一つであることは間違いないだろう。私だって、根性を据えて丸暗記に励めば合格できるかもしれない。

だが思った。こんな勉強ばかりしていたら ― この試験科目だけでなくあらゆる科目でこんな勉強ばかりしていたら ― 私はバカになってしまうのではないか。


バカというのは新しい状況に対応できない奴のことである。効率ばかりを追求した受験合格のための勉強ばかりしていたら、人はwhyを問うことを忘れる。Whyを問う喜びも忘れる。ひたすらにwhatとhowを教えられることを待つ。それをひたすらに覚える。こうして過去の問題にはおよそ見事に対応できるが、新しい問題に対してはみじめなほどに対応できない人間になる。過去の問題への機械的な対応力が高くなればなるほど、新しい問題への創造的な対応力が低くなるのではないかとすら思える。覚えられたwhatとhowは財産になっているはずだが、それらを使いこなす力がまったく育っていないからだ。


学校に行けば行くほどバカになるのだろうか(試験には受かるかもしれないけど)。


断っておくが学校教師は善意の人である。試験合格という結果を強く求められているのだから、Whatだけを述べ、過去問対策・記憶術のHowを述べる。Whyは捨てる。WhatへのWhy(なぜA=Bなのか)も捨てる。HowへのWhy(なぜA=BにXという方法で対応すべきなのか)も捨てる。そもそものWhy(なぜAを教えるべきなのか)も捨てる。Whyを捨てて、学習者に最小の労力で結果を獲得させる。それがいい教師だと信じて疑わない。教材研究は過去問題の分析だけである。

かくして学習者もwhyを忘れる。子どもの頃は「なんで?」と繰り返していたはずなのに、知的な喜びや興奮などを忘れて、感情を押し殺す。教えられたwhatとhowを淡々と覚え身につけることこそが学びだと思い込む。そうして試験に合格し、自分は合格したのだから頭がいいに違いないと思う。


しかし試験とは、新しい職場や大学などの現場で、どんな状況にでもそれなりに対応できる人を選ぶためのものではなかったのか。自ら考え判断し行動し、その試みを振り返り修正し再試行する人間こそが必要なのではなかったのか。過去の知識は重要だが、それにこだわるのではなく、それを活用し時には捨て去ることができる人物が求められているのではないか。さらに情報化が進行した現代においては、多くの情報を自分の頭の中に入れておくより、自分の頭で考え仮説を立て、情報はその仮説に基づいて素早く参照すればいいのではないか。受験対策の勉強は、そのような創造的で探究的な人間を育てないという意味で反教育的とすらもいえるのではないか。


講習会での私は、次々に進む説明を受け、「なぜそうなるのか」を考える時間をもつこともできず、次第に講師の先生が提供してくれた受験対策や記憶術をメモするだけになっていった。だんだんと学ぶことを諦めてきた。最小の努力で合格できればいいとだけ思い始めてきた。

衛生管理というのは、産業革命以来の数多くの労働災害で怪我をし病を患い亡くなっていった方々の犠牲の上に成立した尊い学びだというのに。学ぶことで物理学や化学や法学の考え方を理解し、世界と社会をより深く知ることができるはずなのに。講師の先生だって、最短時間での結果を求められていなかったら、ご自身の理解と経験に基づき、もっと知的に面白い講義ができたはずなのに。

でもほとんどの人はそんなことを想像もせず、感性と感情を抑えて、直観の働きも忘れる。いや自ら考えることすらも放棄する。そうして覚え、合格する。

そのように自分の感性・感情・直観・思考を捨てることができない私のような不適応者は、かくして落ちこぼれる。徹底的に落ちこぼれて不合格を覚悟し自ら面白いことだけをやればいいのだが、落ちこぼれ方が中途半端だと、説明を聞きながら手悪さをしたり意味なく携帯をいじくったりする。今回自ら思ったのだが、そのように授業とは関係ないことをしてしまうのは、ひょっとしたら自分にはまだ自由意志が残っているかどうかを確認したいからだろうか。気がついたら必要もないのに携帯でメールをチェックしていた自分には、その行為が自分の主体性の確認の行為であるように思えた。みずからの正気を保つ行為のようにすら思えた。


日本の学校文化にはこのような受験勉強文化がどれぐらいはびこっているのだろう。教師はどれだけ「善意」で合格への最短経路を教えているのだろう。保護者もどれだけ最短経路を求めているのだろう。子どももどれだけ最短経路と最小労力を要求してしまっているのだろう。

もし日本の学校がこのような最短経路・最小労力・結果重視の勉強ばかりに傾倒してしまっているのなら、私たちは集団でバカになろうとしているのではないか。一人ひとりが善意をもってバカの坂をころがり落ちているのではないか。



ハイ、二日間の勉強に疲れただけです。明日の最終日もちゃんと勉強します。そして合格できるよう努力します。なんせ職場からの指示ですからね。かくして私たちは・・・




追記
衛生管理者の試験は、五つの選択肢の中から正しいもの(あるいは誤ってしまうもの)を一つ選ぶ形式です。ですがひっかけ問題は少ないように思えます。また合格レベルは6割(ただしそれぞれのトピックで4割以上得点していなければならない)ですから、試験としては、受験生にまあ最低限の勉強をしてもらって合格させ、あとは職場でその資格の責務に基づき経験を深めさせることを狙っているのかもしれません。ですから上の文章は衛生管理者試験への批判でなく、日本の試験対策一般への批判とご理解ください。









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4 件のコメント:

Tomo さんのコメント...

3つも日記が更新されていたので、いろいろとコメントしたいことはありますが、まずこちらから。

僕の尊敬する駿台英語科の大島保彦先生がこのように仰っておられました。「もし勉強のプロセスの中で、自分が変わらないのだったら、そしてまた、今の自分がそのままで、たんに知識を頭の上に乗せるだけだったら、勉強なんかしない方がいい」。これは本当にそうだろうなと思います。

>そのように自分の感性・感情・直観・思考を捨てることができない私のような不適応者は、かくして落ちこぼれる。

僕も医学部においては”不適応者”なので先生のお気持ちはわかるような気が致します(僕のようなナマケモノを先生と一緒にしては、先生に極めて失礼かもしれませんが・・・)。WHY=なぜ、を問いかけることというのは「哲学をする」ことではないでしょうか。どうも、僕は、メタレベルの問題意識が先に来て、オブジェクトレベルの知識獲得が疎かになってしまう。メタレベルの問い、哲学の問いを発すれば発するほど、勉強に集中できなくなるんですね。しかしそれを言い訳にしていてはならないのだろうなとも思っています。「WHYを問いながらもHOWやWHATを身につけてゆく」器用なことができるようになるといいのですが。

>さらにはこんな勉強ばかりしていれば、試験には合格するかもしれないが、バカになるかもしれないと思い始めた。

単純な試験勉強は人をバカにしてしまうと僕も思います。しかし、その単純で無味乾燥な試験勉強からであっても何かを自分なりに得てゆくことができれば、バカにならずに済むはずなのです。僕は、なかなか学部での勉強に対するやる気がでない(本当にやる気がでないのです)自分への戒めを込めて、そういう風に考えようと努めております。

でも、柳瀬先生ですらもそんな風に感じられることがあるのだと知り、ちょっと勇気づけられました。

(「中学生の英詩が教えてくれること」を購入、まずは柳瀬先生と大津先生などの対談部分を読みました。柳瀬先生が対談の最後で言及された「心をこめてことばを使う」ことの大切さ。ことばと人間に対する愛のこもった、良い本ですね。凡庸な感想かもしれませんが、なんだか、読んでいてとても暖かい気持ちになりました)。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、
確かに砂を噛むような勉強も時には必要だと思います。といいますのも私たちのWHYを問う能力はしばしば非常に拙いものですからね。
『15』をお買い上げありがとうございます。
しかし私が書いた箇所以外のところを読んでください(半泣・半笑)

Taiki さんのコメント...

うなってしまいました。

>さらに情報化が進行した現代においては、多くの情報を自分の頭の中に入れておくより、自分の頭で考え仮説を立て、情報はその仮説に基づいて素早く参照すればいいのではないか。受験対策の勉強は、そのような創造的で探究的な人間を育てないという意味で反教育的とすらもいえるのではないか。

これこそ、前の学習指導要領で学習内容を削減し、総合的な学習の時間を導入した「不易と流行」の発想ではなかったでしょうか。また、もう少しさかのぼると、問題解決型の授業法がもてはやされたのも、こういうことだったのではないでしょうか。

このとき、確かに「学力」の定義が大きく転換した<はず>でした。柳瀬先生のおっしゃるような「新しい問題への創造的な対応力」こそ、あの時代の学習指導要領が目指したもののはずでした。(少なくとも表向きの理念的には、ですが。)

けれども、それが国際的な「学力」調査で、いとも簡単にひっくり返ってしまったようです。

その実際的な経緯は現場の教員にはなかなかわかりにくいものですし、教育行政に関わる人々とて良心的に一生懸命に考えていることでしょうから、簡単に否定的な評価をするつもりはありませんが、「新しい学力観」が一気に劣勢に立たされてしまったように見えるのは、やはり残念です。

と言いつつ、つい最近になって、自分がいかに旧来の学力観に支配されているかに気づき、愕然としました。まさに、自分としては「善意」のつもりだったのですが。

この記事を読んで、そんなことを思い、考え込んでしまいました。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Taikiさん、
コメントありがとうございます。
私がおそろしいと思ったのは、私が今回受けたような試験対策の授業は、教師の「善意」で行われ、受講者もそれを望んでしまうということです。
あまり偉そうな言い方をしてもいけませんが、教師にも生徒にも保護者にも大局観が必要だと痛感しました。