2010年8月3日火曜日

学校英語教育の課題 ― あるいはWHYの教材研究 ―

本日、三時間ほど中高の英語の先生に対してお話しをさせていただく機会を得ましたので、以下のスライドを使ってお話ししました。



このスライドは先日の「中学英語教育の課題」を拡充したものです。スライドにして約30枚追加し、講演時間においては二時間から三時間になりました。したがって、先日の講演より本日の講演の方が、現在の私の考えをより包括的に述べていると考えますので、ここに本日の講演音声も公開します。




私の悪い癖で、スライドを欲張りすぎたので、早口の説明になっていますし、一部のスライドでは説明を省略してしまっていますが、もしご興味があればダウンロードしてみてください。


ついでながら、この講演の中で思わず口に出たことばでこの講演を要約しますなら、この講演では「WHYの教材研究」の重要性を述べた、ということになろうかと思います。

教材研究には、HOWの教材研究やWHATの教材研究があります。HOWの教材研究は、所定の教材をどのように提示しどのように活用するかという方法を練ります。WHATの教材研究は教材の何を強調しさらには何を追加して教えるべきかを考え調べまとめます。

WHYの教材研究はもっと抽象的なものです。もっとも抽象的なWHYの教材研究は、なぜこの英語という教科を教えなければならないのかを、自分も生徒も保護者も納得できるように考えることです。もう少し抽象レベルが下がりますと、なぜこの内容を教えなければならないのか、なぜこの方法で教えなければならないのかと、WHYの教材研究がHOWやWHATの教材研究と重なってきます。しかし共通しているのは、なぜ・どのような意味で、自分という教師は、この目の前の生徒に対し教えることが必要なのかということです。現代社会と生徒―生徒の過去・現在・未来―そして教育内容と教育方法を同時に考え、それらの中に意味を見出すことです。

抽象的ですし迂遠な思考ですが、時にこういったWHYの教材研究をやっていないと、教師は自分自身も納得できないまま授業に臨み、その結果、どこか生徒の心にも訴えることもないまま中途半端に形通りの授業をしてしまうだけになりかねません。


もちろん日頃の教材研究はHOWとWHATに関するものでしょう。しかし時には抽象的に考えることが重要だと私は思います。

2 件のコメント:

たかみん・まーれい さんのコメント...

今日は久しぶりにお話が聞くことができ、あれだけの短時間ですごくたくさんのことを教えていただきました。・・・一瞬ですが、私のアタマの回転がついてゆけず、気絶しかかりましたけど・・・(笑)。情報量は尋常なく多いのに、すべてが一本の糸でつながっている感じで、いろんなことがストンと落ちてきました。何よりも、ものごとの根本を考え直すいい機会を与えて頂いたと思っています。

ありがとうございました。

最後は罫線も何も書いていない紙が1枚配布されて、一瞬戸惑いましたが、とりあえず今日のお話から感じたことを書いてみました。あれがどんなふうに評価されて戻ってくるのかめっちゃ不安ですが(笑)、私は評価よりも柳瀬さんのフィードバックが頂ければと思っています。(評価については問い合わせるのはNGらしいので)

そのうちでかまいませんので、よろしくお願い致します。(催促してごめんなさいです。)

柳瀬陽介 さんのコメント...

まーれいさん、
コメントありがとうございます。やはり情報量多すぎたですね(苦笑)。私の悪い癖です。

さて書かれていたことですが、連綿と実践され続けていたことは実はとてもまともなことだった、というのにはまったく賛同の思いです。下手に世論や教育行政の恣意に振り回されず、自分たちで考えながら、なされてきたことを受け継ぎ、部分的に修正して、少しずつ伝統を革新してゆくという、自分たちの頭と心と責任でもって行う実践こそがまともなことだとも思います。

ここからさらに個人的な意見を述べますが、ひょっとしたら英語教育界は改革疲れになっているのかもしれません。改革疲れの怖いことは、忙しくなるだけでなく、自分の頭で考える営みが否定され教師までもが指示待ち族になり、とにかく改革路線に従うことが矯正されるので教師自らが責任をとるという文化が破壊され教師に無気力感・無力感が蔓延してしまうことです。

私も含めて「大人」の世代は、子どもが考えないこと・意欲がないこと・内向きで積極性がないことなどをよく嘆きますが、しばしば言われますように、そういった子どもの特性は社会あるいは私たち「大人」の反映とも考えられます。

小手先の技術的改善の大切さを否定するつもりは毛頭ありませんが、大きく考えることは現在必要だと思います。

それでは!