2010年8月18日水曜日

藤本一勇(2009)『外国語学』岩波書店

私はこの本を、授業の一貫として学生さんと一緒に一字一句揺るがせない態度を共有しながら読んでみたら面白いのかなと思っているのですが、本日はこの本の翻訳論について少しだけ引用します。


翻訳においては、それを真剣に行なおうとする限り、常に原典を裏切ってしまうような思いに襲われます。著者の藤本先生は、このように他者の言語を変形し歪曲してしまうことを「原暴力」と呼びます。(私はこの言葉は少しおどろおどろしくてあまり好きではないのですが、そのまま引用します)。


翻訳は他者の言語を自己の言語へ転移する以上、必然的に変形と歪曲を伴うものであり、このレベルの暴力は避けがたい。これを原暴力と呼んでおこう。(58ページ)


この原暴力は、私がこのように本の一節を引用しているだけでも、著者の意図を歪めているかもしれないという形で現れているものだと私は理解しますが、藤本先生は、、翻訳者が自らの原暴力を自覚することにより、翻訳という行為が倫理的試練になると論じます。


翻訳とは、自己が振るわざるをえない原暴力を否認しないという倫理的試練が課される行為である。それは単なる偽善でも自虐行為でもない。他者に向けて、また他者との関係において自己を生成変化させていく、可能性に満ちた積極的な行為なのである。(58-59ページ)


この主張はベンヤミンの主張につながります。


ベンヤミンが翻訳について問おうとしているのは、「伝達不可能性」あるいは「翻訳不可能性」という事態そのものである。すなわち、翻訳みずからの限界、自らの不可能性である。それが反転して翻訳の可能性―実際的可能性と同時に倫理的可能性―につながる。(73ページ)


つまり翻訳とは、決して同化できない(またするべきでもない)他者のことばを、他者への敬意を失わずに、自らのことばに変えるという不可能かつ暴力的な行為というわけです。しかしその不可能性や暴力性を自覚しあえて引き受けることにより、自らの他者との関係が開けると言えましょうか。(こう書きながら私は、藤本先生の論考を数行で表現しようとする、理不尽で禍々しい「翻訳」を自分はしているのだなと思わされます。しかしこの著作の素晴らしさを感じた私にとってこの著作との関係を否認することは不可能ですし、私の言葉を一切使わずにただ「この本は良いから読んでください」とだけ述べるのは、一見、「翻訳」を回避するという点で倫理的なようでいて、実は無責任なことなのかなとも思えます)。


しかし、ベンヤミンは、この無にも等しいと思われる到達不可能なもの(他者)への「志向性」を、翻訳の可能性―翻訳不可能なものに直面しつつ、それを自己のシステムのうちに同化させることなく、その他者性を尊重すること―として浮かび上がらせる。翻訳はそれが「目指したもの」に対して「不適切で暴力的で異質」であるということを自己のシステムの限界として引き受け、みずからが歪曲(さらに抹消)せざるをえないものへ向かって終わることなく応答しようとすることによって、他者に開かれる自己の可能性を、さらには他者への開けによって自己が生まれ変わる可能性を切り開く。翻訳とは、みずからの不可能性を自覚しつつ、しかしそれでも不可能なことをなそうと欲望することによってみずからを可能にするという、「アイロニカル」かつ特異な行為なのである。(75ページ)



このような言語体験は日常の第一言語使用ではなかなか体験できません。いや第二言語・外国語教育の場でも、「実用性」ばかりがもてはやされ、その教育的意義を問うことが忘れ去られた昨今、なかなか体験できません。


通常、言語コミュニケーションを、たとえば日常的に口頭でいわばプラグマティックに行っている場合、その場の実務的な目的が達せられればよいのであって、外国語や自国語といった言語の境界線(限界=極限、あるいは臨界)の問題や、相手の言語や意図にどこまで肉薄できるか(あるいは不可能か)といったような根本的な問題は、ほとんど意識しないで済まされるだろう。その意味で、翻訳は、外国語との関係において、翻って自国語との関係において、ある意味、極限的な経験ではある。しかし、翻訳があぶりだす極限的構造は、自国語であれ外国語であれ、日常的・一般的に言語を使用する場合にも、その基礎にあることは忘れてはならない。(82ページ)


ここに翻訳の教育的意義があるのかもしれません。

考えて見れば、自らとは異ならざるを得ない「他者」をそれでも理解しようとし、理解できないままに共に生きることは、社会性の基盤です。


社会の根本的な絆は、いかに他者と付き合うか、他者の他者性をどのように受け止めるかにある。その意味では、子どもの頃から嫌というほど―場合によっては、教条的に―聞かされた、「他人の身になりなさい」という命令は、不可能なことをやりなさいという命令であり、不可能だと知っていてなお、それでもその不可能事を引き受けることが社会の源であるということを物語っている。言語とは、本質的に考えていくと、単に知的・記号的・技術的な現象であるのではなく、他者との社会的・倫理的関係のまさに接点=「絆」であることがわかる。外国語を学ぶこと、さらにはその極限状態である翻訳の試練に身をさらすことは、社会性の根本を見つめなおす機会を与えてくれるのである。(85ページ)


今回こうして私は藤本先生の著作のほんの一部だけを私の恣意で選択し引用し、さらにはそのことばを私のことばで言い換えるという自国語内翻訳をし、なぜ私はこのようなことをしているのだろうと思いました。

しかしこの記事を書きながら、つまりは引用と翻訳を行ないながら、本を読んでいただけでは決してわからなかったことがわかりはじめるという喜びを感じました。そして私はおそらく他の人間と同様、わかったこと、あるいはわかったかもしれないことを伝えたいという一種本能的な欲望をもっている存在なのでしょう。この喜びと欲望―絶えず他者に否定され苦しみと後悔に転じてしまうかもしれない喜びと欲望―が私を動かしているのであり、創り上げているのかもしれません。これらを失ったとき私は生きる意味の多くを失ってしまうのかもしれません。


私の歪曲はここまでとします。熟読玩味するべき本かと思います。どうぞお読みください。


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追伸、
こういった「翻訳」の実践は、中学校レベルで中嶋洋一先生がなさっています。やはり中嶋実践はすごかったのだと思わされます。この本もぜひ手にとってください。

『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること かつて15歳だった全ての大人たちへ』










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【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

4 件のコメント:

Tomo さんのコメント...

Tomoです。


ちょうどネット上で(出版や書籍の翻訳も行っているくらいのプロによる)ひどい翻訳を見つけて-いや、翻訳というよりはそのあとの翻訳者の言い訳がひどいんですが-コメント欄で長々と(哲学的レベルというよりは日常的レベルに近い水準で)議論をしたのををきっかけに、いろいろと翻訳や翻訳のもつ他者性というものについて考えていたところなので、先生の紹介してくださったその本を今度また読んでみようと思います。「他者を理解する」っていうのは、日常レベルでは簡単に使ってしまう言葉だけれども、哲学的には非常に奧の深い問題ですね。

http://jp.techcrunch.com/archives/20100811new-sophisticated-trojan-which-is-undetectable-has-emptied-bank-accounts-worldwide/#comment-68757951

※コメント欄が圧縮されていますが、下の「看更多回應」というボタンを押せば展開することができます。

あとtwitter?のほうで紹介されてたhttp://www.nytimes.com/roomfordebate/2010/8/19/x-phis-new-take-on-old-problems/philosophy-vs-imitation-psychology はPhilosophy of Mindや科学哲学のほうに興味がある僕としてはとても面白く読むことができました。ご紹介ありがとうございました。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、
当該ブログでのコメントを大変興味深く読ませてもらいました。私自身どこかで誤訳をしているかもしれないので怖いのですが、同時に、きちんとした翻訳をするのは、一つの究極の精読だと思わされました。非日常的経験だからこそ学校でやるべきと論ずることも可能かもしれません。

Twitter記事ですが、やはり欧米は哲学というが日本よりも浸透していると思います。

ところでTwitterのアカウントはお持ちですか?よければ一度拝見させてください。

それでは!

Tomo さんのコメント...

向こうのコメント欄の長い文章を読んで頂きありがとうございました。

先生の「翻訳は究極の精読」、というご意見には頷かされました。

ただ、日本の教育現場ではなぜかこれを逆にとらえて「精読するというのは究極、翻訳することだ」と必要十分条件を勘違いされている人も多いので、ときどき、ちょっと困るのですが(^^;)英語を英語のまま理解する、というのもこれまた哲学的厳密性に欠けた言葉ではありますが、しかしそういった「他者の言語にコミットする(口で言うほど簡単ではありませんが)」感覚を養わずに、英語を日本語の枠組みの中に引きずり込んで理解させるような英語教育というのは、ちょっとあれかなと思っています。

しかし、更に最近ひとつ上の認識にようやっと辿り着いたのですが、そもそも言語とはそういう相互翻訳・相互浸透(そして相互理解と相互無理解)という”関係性”の中で存在するのであって、ひとつひとつの言語を「英語」とか「日本語」とかいうふうに純化して(言語相互の影響を無視して)取り出し論じること自体あまり自然でないのかなとも思うようになりました。すみません、ぐちゃぐちゃ書いてしまい。AM I MAKING SENSE?

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%AD%A6-%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA-%E8%97%A4%E6%9C%AC-%E4%B8%80%E5%8B%87/dp/4000283278

今気づいたんですが、これですよね。ああ、これ既に持ってました。てか途中まで読みました(^^)藤本さんはデリダ派の人だったですよね?これ、面白かったですね。出たばかりの頃に読んだので詳しい内容は覚えていないのですが。

>この喜びと欲望―絶えず他者に否定され苦しみと後悔に転じてしまうかもしれない喜びと欲望

僕はむこうの記事コメントに翻訳は愛と何度か(偉そうに)書きましたが、煩悩や執着、つまり先生の仰る「欲望」と僕の言った「愛」は紙一重だと思います。翻訳にしても人間関係にしても、むずかしいですね。ただ、先生も「しかしその不可能性や暴力性を自覚しあえて引き受けることにより、自らの他者との関係が開けると言えましょうか」と仰られている通り、本質的に理解できない他者を理解しようとする試みをやめてそこから逃避し自閉してしまうこともまたきっとまずいのでしょうね。ううむ。

mixiやfacebookはやっているのですが、twitterは色んなところで色んな人が不自然なくらいプッシュしていて、そこに何らかの隠れた意図の存在を感じずにはおられなかったので(気のせいかもしれませんけど)、ちょっと様子見をしておりましたが、隠れた意図うんぬんはともかくとして、使い方によっては有効にも使えそうですね。またアカウント取得した暁にはお知らせさせていただきますので、そのときは宜しくお願いします!

では、今日の学会発表の成功をささやかながらお祈りしております。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、
重ねてのコメントに感謝します。
もちろんおっしゃるように、翻訳は精読の一つの形でありますが、
翻訳をしなければ精読できないというわけでもありません。
さらに、精読というのは、異言語に明示的に変形するにせよしないにせよ、
何らかの形での読者のコミットメントを必要とし、読者が著者に深く
関わろうとするところに成り立つものだというのもおっしゃる通りかと
思います。
その関わりは、読者がさらに他人に対してそれを形にしようとする時に、
明確で責任をもって行う行為となるのでしょう。
だから翻訳は、一つの精読文化として大切なのかとも思います。
なんとか本日の学会発表でそのあたりも伝えられたらと思います。(もちろん翻訳にばかりこだわるつもりもないのですが)。
それではまた!
柳瀬陽介