以下、1から10の論点に分けてまとめてみます。
1 この本に関する誤解
■日常的な口頭言語としての日本語が亡びると言っているわけではない
この本が話題になり、タイトルだけ聞いた私は「私たちの生活言語である日本語が亡びるというのは大げさだろう」と早計したが、これは誤解であった。後述するように水村は、書記言語として確立した現代日本語が、書記言語としての力を失ってしまうかもしれないという可能性を『日本語が亡びるとき』というタイトルで表現している。
■英語教育と言語教育の本でもある
日本語が書記言語としての力を失うかもしれないという可能性は、英語が世界史上でなかったほどの力をもちはじめたという事態から生じている。だからこの本は英語教育をどう考えるかという本であり、かつこれからの日本で、日本語、英語、および他の言語をどう教育してゆくべきかという言語教育の本でもある。
■単なる紀行エッセイではない
この本の第一章は紀行エッセイ風であり、私はそこでいったん読書を中止してしまったが、私が考えるにこの本の中心はやや理論的な第三章と第四章であり、英語教育・言語教育の理論的立場からこの本を読む人は第三章と第四章から読み始める方がいいと思われる。この理論的理解抜きに第七章の「英語教育と日本語教育」だけを読むことは勧められない。
2 この本の前提:書記言語と口頭言語の区別
■書き言葉に関する俗見
書き言葉は話し言葉を書き表したにすぎないという俗見は誤りである。この本の議論は書記言語と口頭言語の区別(例えば福島(2008)やOng(2002)などを参照)を前提としてるので、この区別はきちんと理解しておく必要がある(本文中でも何度も説明される)。
3 水村の用語
以下の用語(水村は彼女自身これらの用語を< >か「 」で囲んで使っている)は本書で重要な役割を果すのでここで定義を引用しておく。
■<普遍語>
英語の"universal language"に該当する表現とされ(105ページ)、人類の歴史の中ではラテン語、中国語、アラビア語、フランス語がこの名にふさわしい地位をある時期占めていた。だが現代の英語はそれら以上の力をもっている。(82ページ)
普遍語は長年にわたる人類の叡智が蓄積されつつ大きく拡がっていったものである。(122ページ)普遍語はまずは<読まれるべき言葉>(128ページ)であり、<図書館>に蓄えられるべき言語である。(125ページ)
こういった意味で<普遍語>は何よりも「学問=scienceの言葉」である。(128ページ)学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いたことが<真理>、<読まれるべき言葉>であるかを問うことだからである。学問は<普遍語>でなされるのが当然である。(129ページ)
実際、自然科学のコペルニクス(1473-1543)、ガリレオ(1564-1642)、ケプラー(1571-1630)、ニュートン(1642-1727)、哲学のエラスムス(1456-1536)、ホッブス(1588-1679)、スピノザ(1632-1677)、ライプニッツ(1646-1716)らはみなラテン語で書いた。(130ページ)
日本でも『解体新書』が日本で初めて訳された西洋の書物とされているが、実際は日本語ではなく当時の<普遍語>であった中国語(漢文)に訳されたのである。(165ページ)
現在、学問で英語が多用されているが、別に背後に世界の学者の合意があるわけでも、英語人の陰謀があるわけでもない。学問は<普遍語>なされるのが当然という学問の本質から英語に一極集中しているのである。(250ページ)
インターネットの時代、もっとも必要になるのは「片言でも通じる喜び」などではなく、世界中で流通する<普遍語>を読む能力である。(289ページ)
■<現地語>
英語で言うところの"local language"。(105ページ)別名、「口語俗語」(vernacular)。(111ページ)基本的に発せられたとたんにその場で空中にあとかたなく消えてしまう話し言葉。(122ページ)
ヨーロッパのさまざまな<現地語>で文学とよべるようなものが書かれるようになったのは12世紀以降。ダンテ『神曲』は14世紀初頭。チョーサー『カンタベリー物語』は14世紀後半。シェークスピアは16/17世紀。(173ページ)
■<国語>
英語の"national language"に該当。「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言語」と定義できる近代的概念。「公用語」(official language)ほどはっきり規定されていない場合が多い。(105ページ)
アンダーソン(『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』)によれば、ヨーロッパでは活版印刷技術ができた頃に資本主義史上が成立していたので、ラテン語出版の市場が飽和した後に、強力な<現地語>あるいは「口語俗語」が出版語(print language)という書き言葉に進化した。これが国民国家言語として政治的にまとめられる<国語>の母体になった。
17世紀後半からの啓蒙主義は<国語>で花ひらいた。ジョン・ロック(1632-1704)は途中から、ヒューム(1711-1776)やアダム・スミス(1723-1790)は最初から英語で書いた。モンテスキュー(1689-1755)、ヴォルテール(1694-1778)、ルソー(1712-1778)はフランス語で書き、カント(1724-1804)は(大学で職を得るための本を除いては)ドイツ語で書いた。(138ページ)。
後年、これらの国が力をつけるにつれ、フランス語、英語、ドイツ語の三極構造ができ、これらの言語は<国語>でありながら<普遍語>の色彩ももつにいたった。(140ページ)
■<二重言語者>
日本語での「バイリンガル」は二ヶ国語を「話せる」という意味、つまり二つの口頭言語を操れるという意味で理解されることが多い。水村の議論は書記言語を中心としたものなので、水村は「二重言語者」という用語を使い、「自分の<話し言葉>とは違う外国語を読める人」を意味する。(106ページ)
4 柳瀬の言い換え
以上の水村の用語は非常に有用であるが、若干誤解を招きやすいと考えられるものもあるので、以下に言い換えを提案する。
■<普遍語> ⇒ 知識言語(knowledge language)
水村の言う<普遍語>は、実際には使用者の普及(知識人のみ)と使用対象(科学、学問、その他抽象性が高く時空的な限定をかなり免れている話題)において「普遍」(すべてのものにあてはまること。すべてのものにきょうつうしていること。三省堂『大辞林』)あるいは"universal"(of, pertaining to, or characteristic of all or the hole; applicable everywhere or in all cases; affecting, concerning, or involving all. Dictionary.com Unabridged Based on the Random House Dictionary, 2010)の要件を充たしていない。
<普遍語>は、水村自身も言うように何よりも「学問=scienceの言葉」であり、その話題が知識(〔哲〕〔英 knowledge; (ドイツ) Wissen〕認識によって得られた内容。厳密には、独断・空想などと区別される真なる認識によって得られた客観的に妥当な命題ないしは命題の体系をいう。あやふやな信念と区別され、一般に「正当化された真なる信念」として定義される。三省堂『大辞林』)あるいは"knowledge"(acquaintance with facts, truth, or principles, as from study or investigation. Dictionary.com Unabridged Based on the Random House Dictionary, 2010)であることを主要な特徴としている。この意味で<普遍語>よりは「知識言語」(knowledge language)の方が的確だと思われる。
なお「学識言語」(learned language)や「科学言語」(scientific language)も考えられるが、前者はラテン語といった古いタイプの言語を連想させやすく、後者は話題を狭義の科学だけに限定しその他の広範囲に妥当する話題を除外させてしまいがちなので、やはり「知識言語」(knowledge language)をここでは用いることとする。
■<国語> ⇒ 「国民国家言語」(nation-state language)
■<国語> ⇒ 「国民国家言語」(nation-state language)
日本ではしばしば「国語」は日本語だけを指し、かつそれには「日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ」が含意が明治以降の言語政策者に込められているので、ここでは<国語>のそういった意味合いを払拭し、かつその政治的性格を明らかに示すために「国民国家言語」(nation-state language)という用語を使う。
5 翻訳の重要性
この本の素晴らしいところの一つは、言語(特に書記言語)における翻訳の意義をきちんと認めていることである。その主張を上記の用語修正を踏まえて言い直せば次のようになる。
■国民国家言語は、知識言語を翻訳することで現地語を書記言語へと成熟させたことにより成立した
国民国家言語とは、もとは現地語でしかなかった言葉が、広い意味の知識言語からの翻訳という行為を通じ、知識言語としても機能するようになった言語である。(133,164ページ)
水村はここで翻訳の非対称性を捉え、翻訳を、上位のレベルにある知識言語に蓄積された叡智、さらには知識言語によってのみ可能になった思考のしかたを、下位のレベルにある現地語の書き言葉へと移す行為と説明する。現地語は翻訳を通じて書き言葉として成熟し、やがて国民国家の誕生という政治的背景を得て国民国家言語となるのである。(134ページ)
6 水村の一番の主張
私が理解(誤解)する限り、水村がこの本で最も訴えたいことは次の問題である。他所と同じように私なりに敷衍して書く。
■国民国家言語としての日本語の凋落
国民国家言語の出現により「先進諸国」での国民国家言語の学習は、最先端知識の獲得とも生活感情ともつながった豊かな言語の恩恵にあずかることを意味した。
しかし現在、知識言語としての英語がICTの普及と相伴って絶大な力をもち始めている。これは「英語の世紀」に入ったとも表現できる。(239ページ)。
かくして現在、知識を求めようとする人々は日本でも英語で書かれたものを読もうとする。日本語という国民国家言語を知識言語としては一段格の劣るものと認識し始める。英語で知識を蓄えた者が、英語でも書けるようになるにはある程度の時間はかかるが、そもそも知識は日本語でなく英語に集積しているのだという認識が徹底すれば、知識を極めようとすればするほど英語で書こうと動機づけられ、自ら知識共同体に参加するためもっぱら英語で読み書きする者となる。日本語は日常生活のための言語であり、知識のための言語ではないと考え始め、そう行動し始める。
この結果、日本語といった英語以外の国民国家言語は力を失い、長期的に見れば現地語に凋落さえしかねない。知識言語と現地語という言語の二重構造が再び蘇ってこようとしている。(239ページ)
かくして知識言語、国民国家言語としての「日本語が亡びるとき」が迫っている。
7 歴史認識
■国民国家言語で学問ができるのは例外的
こういった水村の問題意識の背景にあるのは、現地語を書記言語に進化させた国民国家言語で学問ができたのは、長い人類の歴史を振り返ってみれば、本の限られた地域で、ほんのわずかなあいだのことでしかなかったという歴史認識である。(144ページ)
■翻訳機関としての大学が国民国家言語形成に貢献した
日本語で学問ができるようになったのは、日本の大学が大きな翻訳機関として機能したからである。実際、日本の旧制高等学校や大学の主な役割は、英語、フランス語、ドイツ語という知識言語の域にまで達した外国の国民国家言語を教え、「二重言語者」を翻訳者として育てていた。そして日本の「二重言語者」は上記三ヶ国語らをよく読みながらも、それらの言語では書かず、新しい書記言語・国民国家言語としての日本語を形成しながら日本語で書いてきた。(200ページ)かくして日本では(最近の最先端自然科学分野を除くなら)一応あらゆる学問を日本語でできるようになったわけである。
8 歴史的想像
■もし日本が植民地になっていたら
もし明治期に日本が例えば英国の植民地となり、その植民地統治が長く続いたなら、日本の知識人層は、栄達の途を英国政府と日本の現地人の間のリエゾン(連絡係)になることに見出し、伝える英語で読むだけでなく、英語で書くようにもなっただろう。その結果、現地語としての日本語は書記言語としては発展せず、現在のような日本語は成立しなかっただろう。(179-180ページ)
9 知識人の英語集中への危惧
水村は英語集中という未来を恐れている。学問だけでなく文学までもが英語によって集中的に書かれる未来である。ここでは水村の言葉を正確に引用する。
だって、想像してみてください。これから百年先、二百年先、三百年先、もっとも教養がある人たちだけでなく、もっとも明晰な頭脳をもった人たち、もっとも深い精神をもった人たち、もっとも繊細な心をもった人たちが、英語でしか表現をしなくなったときのことを。ほかの言葉がすべて堕落した言葉 ―知性を欠いた、愚かな言葉になってしまったときのことを。想像してみてください。一つの「ロゴス=言葉=論理」が暴政をふるう世界を。なんというまがまがしい世界か。そして、なんという悲しい世界か。(94ページ)
10 日本の学校教育に対する水村の提言
以上のような考えを元に、水村は日本の学校教育について次のように主張する。これも水村の言葉を引用する。ここでの「日本語」および<国語>とはもちろん書記言語としても成熟し、先端知識も扱える国民国家言語としての日本語である。
学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。英語の世紀にはいったがゆえに、その当然の前提を、今までとはちがった決意とともに、全面的に打ち立てねばならない。(中略)学校教育という、すべての日本人が通過儀礼のように通らなければならない教育の場において、<国語>としての日本語を護るという、大いなる理念をもたねばならないのである。(284-285ページ)
以上で、私なりの偏り歪んだまとめを終えます。
この本を読んだのは半年以上前で、それ以来まとめようと思いながら、機会を見出していませんでしたが、今回学会発表のために泥縄式に(泣)まとめてみたらやはり勉強になりました。というより私の今回の学会発表(日本教育学会8/21(土)午前の一般研究発表)の基底にあるのはこの本だとも思えてきました。(私ってやっぱり独自性がないのよね 笑)。
ともあれ、良い本です。ぜひご自身で熟読してください。
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