人目を引くタイトルではありませんが、人類学的なコミュニケーション論として面白く読める新書ですので多くの方々にお薦めしたい本です。
内田先生は、コミュニケーションの交換的側面ではなく、生成的な側面に注目します。
親族を形成するのも、言葉を交わすのも、財貨を交換するのも、総じてコミュニケーションとは「価値あるもの」を創出するための営みです。ことの順序を間違えないでください。「価値有るもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返戻を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。(176-177ページ)
私たちは「モノには価格がついている」という信念の中にどっぷり浸かっています。市場での商品取引が私たちの根源メタファーになっています。だから学び・教育や恋愛・友情も、自分にとって「お得」かどうかを判断基準にしたりもしています。「価値」は「価格」に変えられ、もっぱら交換されるものとみなされています。
だから自分に「価格」を支払う購買力がなければ、自分は「価値」を得られないと考えてしまいます。金があれば勝ち組。なければ負け組。金がなければ「価値」とは無縁の人生を送らざるを得ないとも思ってしまいます。
しかし私たちは価値を交換により獲得するのではなく、コミュニケーションにより生成させることができると内田先生は説きます。何かに対して肯定的な反応をするというコミュニケーションは実は価値の創出行為なのだと内田先生は考えます。他の人はなんとも思わないかもしれない物事に対して「ありがたいものだ」と感謝の意を表することで、そこには価値が生まれてきます。そして感謝をするだけでなく、その価値に報いるために何か新しいことを始めるコミュニケーションによってさらに価値の生成は連鎖的に派生してゆきます。
僕が言いたかったことは、人間たちの世界を成立させているのは、「ありがとう」という言葉を発する人間が存在するという原事実です。価値の生成はそれより前には遡ることができません。 (183ページ)
私たちは市場の価格がついた物事ばかりに目を向け、金銭だけを度量衡にせずに、ただそこにあり多くの人にとっては「なんだかわからないもの」を「自分宛の贈り物」として価値を見出す力を取り戻すことが必要です。そして見出した価値に感謝しつつ何か新しい活動を行うことを始めなければなりません。
この後期資本主義社会の中で、めまぐるしく商品とサービスが行き交う市場経済の中で、この「なんだかわからないもの」の価値と有用性を先駆的に感知する感受性は、とことんすり減ってしまいました。それもしかたありません。僕たちの資本主義マーケットでは、値札が貼られ、スペックが明示され、マニュアルも保証書もついている商品以外のものには存在する権利さえ認められないんですから。その結果、環境の中から「自分宛の贈り物」を見つけ出す力も衰えてしまった。 (203ページ)
しかしこれは深刻な事態です。自ら価値を見出し創出できる力こそが生きる力に直結するからです。
「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。言い換えれば疎遠な環境と親しみ深い関係を取り結ぶ力のことです。 (204ページ)
よく「昔の子どもはその辺にある石ころや草花などからでもいくらでも遊ぶことができたけど、今の子どもはテレビで宣伝しているものや大人の用意したものでしか遊べない」と言われます。この意味で今の子どもは確実に生きる力を失っているのかもしれません。
何もないと思われるところに価値を見出し、それを感謝し、それに報いようとすることは、どんな時にでも希望を失わない「信仰」という文化の基礎でもあると内田先生は言います。
人間のコミュニケーションはその言葉 [=ありがとう] からしか立ち上がらない。それは「おのれを被造物であると思いなす」能力が信仰を基礎づけ、宇宙を有意味なものとして分節することを可能にしたのと、成り立ちにおいて変わらないと僕は思います。信仰の基礎は「世界を創造してくれて、ありがとう」という言葉に尽きるからです。自分が現にここにあること、自分の前に他者たちがいて、世界が拡がっていることを「当然のこと」ではなく、「絶対的他者からの贈り物」だと考えて、それに対する感謝の言葉から今日一日の営みを始めること、それが信仰ということの実質だと思います。人間を人間的たらしめている根本的な能力、それは「贈与を受けたと思いなす」力です。この能力はたいせつに、組織的に育まれなければならない。僕はそう思います。ことあるごとに、「これは私宛の贈り物だろうか?」と自問し、反対給付義務を覚えるような人間を作り出すこと、それはほとんど「類的な義務」だろうと僕は思います。(204-205ページ)
私の分野である英語教育の世界でもしばしば「コミュニケーション能力」について語られています。しかし私たちはその言葉で何を意味して、何を意味しそこねているのか。「英語教育の思想」あるいは「英語教育の無思想」の分析が必要なのかもしれません。
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