2010年10月18日月曜日

ヒクソン・グレイシー『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』ダイヤモンド社

自分がヘタレで運動音痴だからか、昔から格闘技にあこがれていた。小学生の頃は二冊だけもっていたマンガ『空手バカ一代』が宝物だった。中学生の頃は金曜夜8時から正座してアントニオ猪木を見ていた。高校時代はマンガ『1・2の三四郎』の主人公が川べりで泣いたり、高校時代最後の柔道の試合でこれまで打ち込んできたラグビーのタックルを繰り返したりするのを見て感動すらしていた。大学時代は『週刊プロレス』と『ゴング』を常に立ち読みしていた。大学院時代から空手道場に通い始め「そんなんじゃ練習になりませんよ」「試合に出ることが練習ですよ」と言われながら道場一のヘタレとして練習していた。練習中には「苦しそうな顔をしない!」「下を向かない!」とよく注意された。試合の敗者には何の言葉もかけないことを学んだ。敗けは本人が正面から受け入れなければいけないことだからだ。「よく頑張ったね」などと言う人は皆無だった。そんな言葉は道場では侮辱に近いのだろうということはわかった。そんな当たり前のことを言われるほど落ちぶれたくはないからだ。道場はその後止めたり再開したりしていたが、40歳過ぎて一年間に五回骨折するにいたってさすがに空手はやめた。でも今、知人に、ある柔術を教えてあげようかと誘われると一もニもなく練習を始めた(しかしその道場でも最も下手で弱い)。

こうして振り返ると、まったくのバカであるw。研究者の中でも私と同年代で黒帯をもって練習している方もいらっしゃるが、そういう方からすると、私のようなハンパな人間は噴飯物であろう。

だが、なぜか私は格闘技に憧れる。どうもこの魅力から逃れることができない。

この前、ふと思ったのだけれど、私が格闘技に惹かれるのは、自らの意志で困難な状況の中で身体を動かすことこそが生きることだからなのかもしれない。


スポーツとしての格闘技と武術としての格闘技は異なる。

スポーツにはルールがある。ルールの中で他人よりも優れたパフォーマンスを発揮し得点を稼ぐ。得点が稼げなくなると引退する。

武術にはルールがない。与えられた状況で何が最善手かを瞬時に判断し我が身を守る。歳を取ろうが怪我をしようが引退はありえない。生きている限り自分の身を守り続けなければならない。生きている限り動き続けようとする。その動きを他人の動きと比較することに意味はない。これは「私」の人生だからだ。私の人生だから、私の身体で守る。私の意志で身体を動かす。私は私の人生に責任をもつ。

武術的な側面から格闘技を考えるとき、格闘技は人生の本質の表現のようにすら思える。武術的風格を感じさせる格闘家は、人生の達人のように見える。何よりもいい顔をしている。驕らず、高ぶらず、卑下することなく、まっすぐにこちらを見つめる。落ち着き、動きに無駄がなく、隙もない。善き隣人・友人でありながら、敵にだけは回したくないと、どこかに静かな存在感を感じさせる。私はガキというか「男の子」なので―40代後半のおっさんがこんなこと言うなよw―格闘家・武術家に憧れる。


だからこのヒクソン・グレイシーの本を手に取りパラパラと眺めると、やはり買ってしまった。

鏡の中に見える私の顔は贅肉でたるみ、どこかニセモノの雰囲気をただよわせている。意志も弱く、運動もなかなか続けられない。筋力も持久力もなく、格闘技好きを公言することすら痛々しいほどである。

しかし格闘家に憧れる。この本に見られるヒクソン・グレイシーのような表情をした人間になりたいとも憧れる。


まあ、単純w。


でも、こういった憧れは、私の人生の宝だとも思っている。




私のことはさておき、ヒクソン・グレイシーは以下のような人である。



■謙虚である

優れた格闘家が皆そうであるように、ヒクソン・グレイシーは謙虚である。ただその謙虚さは、社交や功利から粧われたものではない。闘いから生じたものだ。

彼が謙虚なのは
闘う上では、自分のほうが有利だと考えたとたんに、足場を失う(42ページ)

からである。



■観察力に優れている

格闘技の練習や試合では、人の性格が露骨にあらわになる。格闘技の苦しさの中で嘘をつける人はいない。そういった格闘技経験を重ねた者は人間観察に長ける。


試合前に握手をして目を見るだけで、いろいろなことが分かる。負けても結果を認めて受け入れるのか、負けた言い訳を始めるのかということまで。(39ページ)




■合理的である

格闘家は空理空論を言わない。大言壮語をしない。わずかなミスや隙だけで地獄に落ちることを熟知しているからだ。格闘家は徹底的に合理的である。そしてそれは現実的であるということでもある。


勝つことを優先したことはない。何よりも大事なのは、生き残ることだ。どんなことをしても自分を守ること。最悪の状況に陥っても落ち着いていること。そのままで時間を稼ぎ、自分の安全を守りながら、チャンスが来るのを待つ。(116ページ)


合理的で現実的だから、「ありたい自分」「あるべき自分」「こうあってほしい状況」「こうあるべきだと思う状況」に振り回されたりしない。


すべてをありのままに認める。できることをやるしかない。できなければ、受け入れるしかない。そしてすでに自分がやったことについては、見返りを期待したり落ち込んだりはしない。(171ページ)

だから格闘家は強い。



■意志を明確に持つ

合理性・現実性は忍耐に基づいていなければ実効性をもたない。忍耐とは意志を持ち続けることである。格闘家は合理的で現実的な意志を忍耐強く持ち続ける。


何よりも重要なのは心の持ち方だ。さらに、現状を見きわめる力と強さがなければ、何かを変えることはできない。(74ページ)


だから格闘家は、合理的・現実的であろうとしない人間、意志を持たない人間に冷たい。弱いまま強くなろうとしない人間を軽蔑する(だから私は何度も軽蔑された。軽蔑されて悔しいから、いや自分自身情けないから、私も私なりにわずかだが強くなれた)。


現実が見えていない人間に、変わろうとしない弱い人間に、チャンスなどない。(144ページ)


格闘家が重んずるのは無謀な「根性主義」ではない。精神論だけで「根性、根性」と言い続ける者は、やがて未熟な技術で負けるか、自ら身体を壊す。格闘家が育む意志とは理性的な意志だ。


意志の力は、感情とは関係なく、論理的に考えることから生まれる(227ページ)




■穏やかで善良な人間である

私が出会った強い格闘家は、例外なく穏やかな人だ。虚勢をはる人はいない(虚勢をはるような者は道場でボコボコにやられ、淘汰されるからだ)。格闘家は落ち着いている。


暴力は不安な心から生まれる。臆病者の心から生まれる。本当に力のある強い男は暴力などに頼らず、必要のない攻撃はしない。抑制がきき、穏やかで、自信に満ちている.(117ページ)


ヒクソン・グレイシーも、強さの追求の中で、善良さの偉大さを自覚する。

本当の価値を生み出す事ができるのは善良な人間だけだと思う。(41ページ)



少なくとも若いうちは、チームでおこなう団体競技だけでなく、格闘技といった個人競技で自らを鍛えるべきだと私は思う。自分で自分に嘘がつけない状況、嘘をついてもどうしようもない状況、正直で合理的で現実的で忍耐強くあらねば生き残れない状況に自分を追い込むべきだと思う。自分を誤魔化すこと、他人から同情や憐憫を求めることが有害無益であることを知るべきだと思う。そうして徹底して強くあろうと努力してはじめて、人間は本当に自分と他人の弱さを認めることができるのではないかと私は思う。強さの追求の中で弱さを知った人こそ、自分にも他人にも優しくなれるのだと思う。自己憐憫でも自己欺瞞でもなく、他人への同情や承認の懇願でもない、自らのごまかしようのない弱さに直面してこそ、人は優しくなれると私は考える。

というわけで、若い人は、機会を見つけて道場で格闘技の訓練をしてみてね(一人よがりでサンドバックを叩いたりしてもダメよ)。1年間でいいから道場できちんと練習をすると一生の宝になると思うよ。おじさんもまた明日、運動をしよう。何度も挫折してきたし、これからも挫折するだろうけど、自らの意志で身体を動かすことだけは忘れないようにしよう。これはスタイルのためでも健康のためでも仕事を快適にこなすためでもない。。これこそが生きること、自分の人生に責任をもつことの表現なのだから。



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