2009年12月1日火曜日

吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』 ひつじ書房

ひつじ書房社長の松本功さまの忍耐と編集の竹下乙羽さまの丁寧な仕事をはじめとした皆様のご支援のおかげで『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』を刊行することができました。この出版を可能にするための所縁をいただいたすべての皆さんに感謝しつつこのブログでも紹介させていただきます。

この本はひつじ書房のホームページにもありますように次のように要約することができます。



英語教師が成長するとはどういうことだろう。大学で習った教育方法を実行する。学説で聞いたことがある心理(言語)学の理論の枠組みで現実を理解する ― はたしてそんなに単純なことだろうか。現実の英語教師は、複雑な状況に投げ込まれ、現実を直視することもできずに、もがき苦しむ。その中で、次第に自分を見つめ直し、問題の整理を始める。その際に、共感的に理解できる第三者は大きな役割を果たす。本書はそういったダイナミックな英語教師の成長を描く。


タイトルと要約から得られるキーワードは「リフレクション」「語り (ナラティブ)」「教師の成長」です。このうち「成長」について吉田達弘 (兵庫教育大学) は次のように語ります。


「成長」という言葉は、一般的にポジティブな意味を持ちますが、教師が日々携わる教室では、必ずしもポジティブな出来事、成功やハッピーエンドばかりが起こるわけではありません。むしろ、学校や教室で何かことが起こると、教師はすぐに批判の対象となってしまいます。そうなると、教室での失敗やジレンマを抱え込み、「成長」とはほど遠い心境になってしまいます。しかし、児童・生徒たちが教室でつまずきながらも成長するように、教師も失敗や葛藤、そして、もちろん、成功体験を通して成長していることは間違いありません。私たちは教師の成長についてもっと語るべきですし、教師だけでなく、教育実践に関わる研究者の成長について議論できる土壌を作るべきです。 (1ページ)



この本には編者の論考だけでなく現職中高教員の論考も掲載されていますがその一つとしての坂本南美 (兵庫県立大学附属中学校) の論考は、「成長」を教室での教師のteachingとlearningの相互作用からくるものとして捉えて、それをもたらしたものが「語り」だと述べています。


今回の教室にteacher-researcherとして参加した授業を通して得た最も大きな気づきは、教室でのteachingとlearningには分かちがたい関係があるということです。教師のteachingとlearning。それらは、個々に独立した存在ではなく、相互的に作用しながら変容していくものでした。 (中略) 多面的な視点をもって教室を見たときに、私の目に飛び込んできたものは、多くの意味を含む教室での教師の学びでした。授業を通した教師の学びが、教室のより深い理解につながり、さらに生徒達の学びを支える関係を作り出していきました。つまり、私たちは、教室で教え、教室で学んでいたのです。教室の原点がそこにあるのだと私たちの「語り」が教えてくれました。 (41-42ページ)



同じく現職教員の津村正之 (神戸市立本山南中学校) は、「成長」の可能性をALTとの実践に見いだします。


私たち日本人教師がALTを「正統的な参加者 (legitimate participant)」であると認識し、英語の教室という「実践のコミュニティ」に積極的に招待するなら、日本人教師もALTもともに学びあい、「同僚教師として」ともに成長できるとも考えられます。 (72ページ)




横溝紳一郎 (佐賀大学) は教師の「成長」に関する数々の論点を的確に整理し、仮説-検証型アクション・リサーチと対比される課題探究的型アクション・リサーチを理論的にも方法論的にも明確に示します。横溝の明快なまとめは貴重です。



玉井健 (神戸市外国語大学) は多くの現職中高教師のメンターとして現職教師のリフレクションと語り (ナラティブ) を引き出します。

メンティーの一人である山本真理 (兵庫県立北須磨高等学校) はその体験、およびその体験がもたらした変化を次のように述懐します。



人間は成長するものだといわれるが、この年齢になってそんなに変化するとは予想していなかった。今は小さな出来事にも意味を見出し、生徒の力を以前よりずっと信じるようになり、自分の考え方に大きな変化を感じている。 (173ページ)



小関静枝 (兵庫県立明石南高等学校) は次のように表現します。



アクション・リサーチをやっていなければこのような生徒の気持ちにも気づかずに毎日を過ごしていたと思う。この姿勢が何によって作られたのか。いろいろと考えられるがインタビューをはじめとして自分の考えを言語化する作業によるところが大きいと思う。これはジャーナルをつけるという「書く」という作業と共通するところがあるだろう。 (中略) 自分の考えを言語化するというのは伝わるように言葉にするということだ。これまで何度か周囲に「変わった」「突き抜けた」「break throughが起こった」と言葉をかけてもらった覚えがある。実は自分の中では「私は特に変わっていないのに」と思うときもあった。よく考えてみるとその時は自分の中にあった考えが言語化できた時だった。つまり適切な言葉で適切に自己開示ができたとき周囲は私を「変わった」と感じるようだ。そして周囲との関係が変わり、自分の行動も変わってくる。そう考えるとこの過程は終わることがなくずっと続くものなのだ。大変であると同時に面白いことを始めたのだなという気持ちである。 (178ページ)



松野哲也 (兵庫県立姫路別所高等学校) はこうまとめます。



私自身が内省を進めていく上で最も大切であると感じていることは、「いつも心の窓が開いている」状態、すなわち「気づき」に導かれた「注意力」が様々な方向に、そして様々な強さで広がっている状態が維持されていることです。 (184ページ)



現職教員のこのような変化をもたらした触媒役の玉井はこう総括します。



ここで紹介した三人の実践者のうち、誰の実践を読んでもそれが決して平坦な道のりではなかったことは明白です。そして現在の授業が、いわゆる研究授業として見ばえのよい授業になっているかと言えば、三人とも素直に首を縦には振らないことでしょう。それは三人の実践者の目指すところが、もはやそこにあるのではないからとも言えます。
一方で、今も三人の観察と内省は深く鋭さを増しています。それとともに、私の拙い言葉の出番はもはやそこには無いかの如く、私が存在する意義は次第に小さく薄くなっていくのです。(中略) リフレクティブ・プラクティスにおけるメンターは、アドバイザーではありません。あくまで支援者でしかありません。 (中略) それは、存在していても、その存在を感じさせない影のようなファシリテーションの実践者です。そしてメンティーはいつしか自律した実践的研究者として自身の言葉を発見して、メンターから離れていきます。自らの足音に耳を澄ませつつ。一人の内省的実践家として。 (186-187ページ)



玉井のこの静かなまとめは、実は非常にラディカルなものです。「教師は見ばえのよい授業を目指さない」。「メンターは存在感を消しメンティーの自律を促す」。当たり前ではないかと反論する方もいらっしゃるかもしれませんが、現実世界ではこの「当たり前」がどれだけ行なわれているでしょう。公開される授業はどこか「見ばえ」を気にし、参加教師はそういった授業を目標とする。メンターは陰に陽にメンティーを支配し権力関係を保とうとする ― そんな姿は皆さんの周りにないでしょうか。玉井の発言はそんな傾向からきっぱりと袂を分かつものです。だから根源的であり、見ばえや権力支配を是とする人々からすれば過激です。


私 (柳瀬陽介)は、一部のブログ記事やすべての論文の文体とはうってかわって(笑)、できるだけ平明な言葉で、英語教師が誰からも強制されることもなしに、自主的に自分たちのために開催している「自主セミナー」についてまとめます。まとめはどのように自主セミナーで学び、その学びを深めるかについてです。

これは達セミなどの自主セミナーに対する私なりの恩返しです。


私は教育学部で教員養成を担当していますが、その中で「まとも」なことを言えるのは達セミなどで実践者のお話を聞く機会があるからだと思っています。

私は10年以上、自分の可能な範囲ではありますが自主セミナーに参加して本当に多くのことを学びました。

その学びはこれまでホームページやブログで折に触れてまとめてきましたが、今回の『リフレクティブな英語教育をめざして』では、具体的な学びの内容もさることながら、自主セミナーから学ぶにはどうしたらいいかを私なりに分析してまとめました。

以下は私が索引にあげた語句ですが、このリストから、私が実感のこもった体験を、平明な言葉と必要最小限の理論的用語によりわかりやすく説明しようと試みたことを察していただければ幸いです。



官製研修
英語教育達人セミナー(達セミ)
つかみ
生徒指導
チョムスキー
追っかけ
田尻悟郎
懇親会
事務局
言語化
構成概念化
アンテナ
フィールドワーク研究
既製服
注文服
「うまくゆくはず」
判断力
魔法の呪文
守・破・離
いいクラス
蒔田守
自己肯定感
想像力を解放
職場
メタ意識
教育実習生
フィードバック
リーダーシップ
久保野雅史
研究
大学院
「何でも学」
第二言語習得研究
キャラ
「家に帰って寝るだけ」
複雑な関係性と相互作用
単純な因果的考察
仮説検証
「他の条件が同じならば」
ショーン
スクラップ
事例研究
物語
ブルーナー
仮定法化
やり方(HOW)
あり方(BEING)



今井裕之 (兵庫教育大学) も今回の私たちの試みが「見ばえ」や「計量的変化」あるいは「問題解決」を狙ったものではないことを説明します。



この実践を通して、実感を持って確信したことは、アクション・リサーチの駆動力は問題解決ではないということです。問題解決型のアクション・リサーチが「Problem-Cause-Solution」のサイクルを採るのに対して、今回の実践は、「状況に埋め込まれた出来事-出来事の説明の企て-出来事の理解の更新」のサイクルになっていて、そのサイクルを経て得た更新された理解は、言葉によって語られるものであるのと同時に、教室での相互作用 (の変化) によって表現されるものであったということです。 (261ページ)



私たちはリフレクションにおける語り (ナラティブ) を重視しますが、その語りも実践世界の行為連関の中に埋め込まれていてはじめて意味をもつものです。時には語りによって語られたこと以上に語ろうとしても語り得ないことが重要なのです。その語り得ないことをどのように伝えるのか ― これは今後の課題 (というより古今東西に見られる永遠の課題) です。



吉田は自らの論考で、これもある意味非常に大胆に「指導助言者」としての居心地の悪さを述べます。実践の状況をほとんど知らない「専門家」が実践者に何を「指導」できるのだろうというのが吉田の問いかけであり、これもラディカルな問いだと思います。


最後に玉井は次のように述べて本書を終えます。



教師の成長のための研究は、大学などに籍を置く研究者の手から実践家の手に研究の主導権を移すものでもあります。実践家はもはや研究される対象ではなく、自らが実践を過程の中で分析し、よりよい理解を試み、それを自らの言葉で語り始めるのです。その向こうに、学習者に対するより豊かな貢献がある、それこそが実践家によるティーチャー・リサーチではないかと思います。 (333-334ページ)



これもラディカルで、権力関係からすれば「革命的」とも言えることをさらりとのべた文章だと思います。私もこれとまったく同じ思いを抱き、先日のナラティブ・シンポジウムも開催しました。いやこの10年以上で私はこの思いにだんだんと至ってきたと言えるかと思います。


厳密で正確かもしれないけど極めて限定的な知識と視野しかもたない人間が大学に籍を置く「研究者」というだけで実践者を「指導」することが当たり前になる。実践者は「ご指導をいただく」存在に成り下がってしまう。あるいは誰かが制度上メンターとなっただけで、メンティーを一方的にコントロールすることが是とされてしまう (これはメンターの原義から外れたことですが、日本ではこういった例は多いのではないでしょうか)。実践者は指示を待ち指示に従うだけの存在になり、自ら考え自らを改革してゆくことを忘れてしまう ― 私の思い過ごしならいいのですが、日本の英語教育界にはこういった慣行がまだ多く見られるように思います。

しかし私がこれまでの10年以上の観察で確信できたことは、実践家の思考と判断、対応力と創造性は、下手な研究者をはるかにしのぐことも多くあるということです。研究者として過去の知見の整理と新たな問題発見の取り組みを日々行なっている者は、自らの狭い考えを実践者に押し付けるのではなく、実践者自身の思考と判断と問題問題発見を支援する方がはるかに創造的で現実に豊かに対応できるということです。

この本が広くまた深く読まれ、多くの実践者が研究者としても飛躍することを願ってやみません。そうしてこそ研究者もより広くより深い研究を開拓できるというものでしょう。



なお上の引用はすべて抽象的な文言ですが、こういった本の良さは具体的な事実の詳細にあります。ぜひお手にとってじっくりお読み下さい。




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2 件のコメント:

ゴジラ さんのコメント...

一気に拝読!というのは大嘘で、購入してから2ヶ月経ち、ようやく一読させていただきました。確かに、一部のブログ(笑)とは大違いで読みやすい良書でした。

様々な実践者と研究者の方々が奮闘して成長していく姿を描き出したこの本は、「俺が世界を変えてやる」という学問を履き違えた若者(誰のこと言ってるんだか…)の出鼻をくじくためにも良書だと思います。狭き日本、狭き英語教育とはいえ、様々な先生が活躍されているのだということが頭に浮かび、本当に自分の無力さを痛感する今日この頃です…。

さて、まじめな話はこれくらいにして…この本を購入した際、まるで猛牛のようにサインを求めに行った猿のような奴がいると聞いたのですが、誰のエキスを吸えばそのような輩になるのでしょうか(と、他人に責任転嫁)。ヒントはこちら→(三・陽)

柳瀬陽介 さんのコメント...

ゴジラさん、

お買い上げありがとうございます。ね、読みやすかったでしょう。
私もわかりやすい文章を書けるのよ(笑)。

と言いながらゴジラさんの正体がまだわかりません・・・ (汗)


さて、真面目な話をしますと、私は田尻先生などの素晴らしい
先生方をしばらく研究したことによって、ようやく「普通の」
先生方の大切さがわかるようになってきました。(うーん、
うまい説明ではありませんね。でもこの詳しい説明はまた
別の機会に)。

「普通の」先生といっても気質・性格・能力・特性など千差万別
ですが、その様々に異なる先生方が、それそれの個性を
活かしながら教師としての経験を深めることが重要だと
最近特に思っています。


というわけで、これを読んでいる皆さんも買ってね (爆)