2009年12月24日木曜日

メリー・クリスマス 2009

[人が文章を書くのは他人と世界に向けてであると同時に自分に向けてであり、自分に向けてであると同時に他人と世界に向けてである。

言葉は他人と世界のものであると同時に自分のものであり、自分のものであると同時に他人と世界のものである。

人は自らについて語らずに他人と世界について語ることはできず、他人と世界について語らずに自分について語ることはできない。

自分と他人と世界は不即不離であるが、一心同体ではない。だからあなたの言葉が他者に理解されずとも、あるいは他者の言葉があなたに理解できずとも、悲しむことはない。あなたと他者は、理解しようとしても理解できない言葉で既に結びつけられているのだから。]



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精神科医の斎藤環は2009年12月20日の毎日新聞のエッセイ「時代の風」で、「40代なかばを過ぎた『ひきこもり第1世代』の人々だけでも「少なく見積もっても10万人以上は存在する」としている。NHKは、「ひきこもり状態にある人は全国に50~100万人」「ひきこもりの子を持つ家庭は、控えめにみても、全国で約41万世帯」という推定を報告している。


平成21年度厚生労働白書は、独り者の世帯、つまり「単独世帯」は1980年に19.8%であったが2005年には29.5%に上昇し、2030年には37.4%になるとも推定している。そんなに遠い未来ではなくとも、2010年には単独世帯が家族類型 (夫婦のみ・夫婦と子・ひとり親と子・単独・その他) の中で最大の割合を占めるものになると推定されている。「家」の代表例は単独世帯となるのだ。


国立社会保障・人口問題研究所は「少子化情報ホームページ」で少子化要因として晩婚化・未婚化・結婚後の出生ペースの低下をあげ、次のように述べる。



結婚のし方や結婚後の子どもの生み方が変わったのは、社会・経済の変化全体が関係しています。経済変化による働き方や消費生活の変化、男女、家族など社会関係や価値観の変化・多様化、さらにそうした変化と従来の慣行、制度との齟齬(そご)が指摘されています。そして、このような出生率の低下は、おおむね先進国に共通した現象です。社会経済の変化にともなって、もし人々の間に結婚や出産を望んでいるのに、しにくい事情が生じているとすれば、これを取り除く必要があります。


望んでいる結婚や出産をしにくい状況を取り除く必要があると同研究所は述べる。だが結婚や出産を積極的に望まない・回避したい人々は増えているようにも思える。同研究所の「未婚化の進行」は、20歳代から30歳代の未婚化および生涯未婚率の増大傾向を伝える。


晩婚化の理由」としては、「独身生活の方が自由である」が男性の第1位・女性の第2位、「仕事をもつ女性が増えて、女性の経済力が向上した」が女性の第1位・男性の第3位、「結婚しないことに対する世間のこだわりが少なくなった」が男性の第2位・女性の第3位としてあげられている。


左様、私たちの社会はかつてないほどの自由と経済力を得た。世間のこだわりからもずいぶん解放された。しかしその自由と経済力は万人が満喫しているものではない。

上述の厚生労働白書によれば、非正規労働者の全雇用者(役員除く)に占める割合を見ると、1985(昭和60)年には16.4%であったが、1990年代後半から2000年代前半にかけて大きく上昇し、2003(平成15)年以来3割を超えて推移しており、2008年には34.1%まで上昇した。言うまでもなく非正規労働者の経済力は十分ではない。彼/彼女らのもつ「自由」は、むしろ簡単に解雇される自由である。

「世間のこだわりが少なくなった」にしても、それは「誰も他人のことをかまわなくなった」とも言い換えられるかもしれない。


近代社会が得た自由・経済力・解放とは何だったのだろう。一面的な解釈は控えなければならないが、1998年以来3万人を突破したままの自殺者数と、世界的に見ても極めて高い水準にある自殺率は、「自由・経済力・解放」に楽観的なだけのイメージをかつてのようには与えない。




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一体なぜこうなったのだろう。


私たちはどこから来て、どこに向かおうとしているのか。私たち、つまり現代社会とは何なのか。



ウェブという無責任な媒体であることに甘えて、粗雑な論を展開しよう。以下の記述には、ネット上の安直な記述が多々そうであるようにウィキペディアの参照に基づく記述が少なくない。(だが誤解しないでほしい。私はウィキペディアの精神を信じている。その自己弁明的証拠として先ほど少額のお金を偽善的にウィキペディアに寄付した)。


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狩猟採集社会の人間は自然の一部だった。生存に必要な量だけ自然の剰余物を狩猟・採取し暮らしていた。狩猟採取社会の人間はそれなりに余暇も持っていたという。

やがて農業革命が起こった。人間は自然を利用することを覚え始めた。種子・苗・球根などを人工的かつ組織的に植え、計画的な食物生産・貯蔵が可能になった。「文明」が芽生え始めた。

時代は大きく下って18世紀から19世紀に欧州で、工場制機械工業の導入による産業構造と社会構造の変革が生じた。産業革命・工業革命である。産業革命・工業革命は人間の生産力を飛躍的に高めたが、同時にこれは収奪・搾取をも蔓延させた。

収奪・搾取の一例は、産業革命・工業革命により加速した植民地支配に見られる。植民地支配とは、植民地の人間を自分たちと同等の人間とはみなさないことに基づいている。植民地は、工業的にも商業的にも (さらには宗教的そしておそらくは人間的にも) 劣る人々の住む場所であり、被植民者は保護され支配され指導されなければならないとされた。

被植民者は「私たち」とは異なる「他者」である。「他者」との取引が、同胞の人間との取引と異なり収奪や搾取のレベルに達したとしても不思議はない。「他者」は「私たち」ではないのだから。人間は、被植民者から収奪し被植民者を搾取することを覚えた。植民地支配は「他者」から収奪し「他者」を搾取する文化を世界に広めた。

しかし、収奪と搾取は、植民地の「他者」だけに留まらなかった。産業革命・工業革命により一層進展した資本主義は、資本の増大を原理とし自己増殖した。資本を預る資本家は資本の増大のために自国の賃金労働者を「他者」とした。

資本家は、賃金労働者を「他者」と考えることによって、賃金労働者の時間、つまりは人生を収奪し搾取した。(それが正当なものであるか、収奪・搾取といった言葉に相応しい深刻なものであるかどうかは、資本主義社会において生じた貧困の度合によって判断されるべきであろう ― ひょっとしたらそれは狩猟採集社会や農耕社会では見られなかった度合かもしれない ―)

資本主義は、異国の民だけでなく、賃金労働者という自国の同胞も対象として収奪・搾取する文化と習慣を近代社会に大規模に定着させた。


しかし行きすぎた植民地支配は帝国主義の暴走に至った。第二次大戦という暴走の終了と共に植民地主義は少なくとも政治的には解決されようとし始めた。だが、植民地支配が経済的・社会的に続いていることは多くの人が主張する通りである。他国民を収奪・搾取の対象とすることは政治的レベルでは禁忌とされているものの、収奪・搾取は経済的・社会的レベルに浸透している。

また、行きすぎた資本主義は社会主義革命によって止められようとした。社会主義に対抗するために資本主義社会は自らの原理を「修正」し賃金労働者を厚遇した。だが蜜月は長く続かず、輸送・通信技術の発展で進行し、社会主義国家の自壊で決定的になったグローバル資本主義は資本主義的競争を激化させ、「新自由主義」という生き方を私たちに教えた。「修正」されたはずの資本主義はむき出しの資本主義に先祖返りした。


市場原理主義を信奉する新自由主義は、地域共同体のみならず会社共同体まで市場原理で分断しようとした。

人々のつながりは、市場で交換されうる数量的価値に還元された合理性の限りにおいて正当化されるだけになった。例えば街の小商いは大規模店舗に駆逐されるべきだと人々は信じた。

さらに、それまでの資本主義は人々に地域共同体から抜け出して資本家の仲間入りをすることは勧めたが、会社は一種の共同体であった。会社で働く人々は運命共同体として共に働いた。だが新自由主義的な価値観は、会社共同体も分断化しようとした。人は会社の中の「勝ち組」となることを迫られた。さもなければ「負け組」になり会社共同体から「リストラ」されるからである。新自由主義において、人間は同僚を収奪と搾取の対象と見る文化を教えられた。

こうして収奪と搾取が正当化される「他者」は、他国民、自国民だけでなく、近隣住人、職場の同僚も含むまでになった。


さらに、収奪と搾取の対象は人間に限らない。産業革命・工業革命の発想に基づく「農業の工業化」がもはや自然の再生力さえも損ねようとしていることは、例えばジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋) が伝えている通りである。この本はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』と同等の重要性をもつ本だと説く識者も多い。


自然からの収奪と自然の搾取の萌芽は農業革命に既にあったのかもしれない。だがその芽を育てたのは産業革命・工業革命の発想を是とし、農という営みを工業化して資本主義に組み込んだ私たちである。私たちは自然から収奪し、自然を搾取している。自然を大きく損ねる程度まで。


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改めて問う。「私たち」とは何だろう。


狩猟採集社会において「私たち」とは自然であった。自然そのものであった。「私たち」と自然は一体だった。

農耕社会の初期にあって「私たち」とは自然と共に生きる者となった。「私たち」は自分を少しだけ自然から距離をとった。

後年、農業が工業化されるに至って、「私たち」は、自然をもっぱら自分たちとは切り離された「対象」とみた。工業的な発想で可能な限り効率よく自然から収奪し、自然を搾取することを近代的農業だと考え始めた。「私たち」は自分を自然から切り離した。


他の人間との関係でいうならば、かつて「私たち」とは他の人間との運命共同体であり、人々が寄り添って生きることは当たり前だった。

やがて植民地主義により私たちは世界規模で他国の人間を「他者」として「私たち」から切り離した。「他者」とされた人間は収奪と搾取の対象となった。「私たち」は世界的規模で異邦人を切り離した。

その「他者」が「私たち」に近づくことができるとすれば、それは「他者」が自分の生き方を否定し「私たち」の生き方に同化することによってであった。被植民地の「エリート」とされた人間の少なからずはその道を選び、やがて昔の同胞を収奪と搾取の対象として見ることを学んだ。


さらに資本主義の徹底により私たちは自国の人間までも「他者」として「私たち」から切り離した。「私たち」とは資本家あるいは資本家に寄り添う者である。それ以外の賃金労働者 (プロレタリアート) はもはや「他者」であった。「私たち」は同胞の民を切り離そうとした。

「他者」とされた賃金労働者が近代社会における「私たち」になれるチャンスはしばしば近代的学校制度に求められた。近代的学校制度は、近代合理主義を教え、工業生産・資本主義・他者の支配を子どもに学ばせた。その学習に成功した者は「出世」し近代社会の中枢に陣取った。


新自由主義による資本主義の暴走により、私たちは同じ地域の住人や職場の同僚までも「他者」として「私たち」から切り離そうとした。

もはや「私たち」などいないのかもしれない。存在するのは ― 確かに存在するのは ― デカルトが想定したように外界から隔絶された「私」だけなのかもしれない。

デカルトはやはり近代の父であった。



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「私」は解放された。自由になった。なぜならば切り離したからだ。

「私」は近代社会の枠組みにおいて支配する。収奪する。搾取する。

― 自然を、他国民を、自国民を、同僚を、隣人を ―

だがそんな近代社会は歪んでいないのだろうか。



「私」は ―近代社会の成功者である限りであるが― 人類史上に例のない自由と経済力を持つ。解放感を味わう。そうしてその自由と経済力、解放感を少しでも失うことを怖れる。例えば結婚をして家族関係を築くことへのためらいはその例証として解釈できないだろうか。


近代社会の頂点に立つ「私」は、自分を家族という生命のつながりからも切り離そうとしている。

「私」とは切り離された存在である。自然からも他の人々からも。
「私」とは大いなる生命の流れから切り離された存在である。
「私」は、切り離された解放感と自由、そして経済力を手放せない。

そんな「私」は近代社会を先導する。
次々に消費し、資本主義のエンジンを燃焼させることによって。

他方、近代社会の成功からこぼれ落ちた「私」にとっては (も) 、もはやこの世はあまり住み心地のよい場所ではない。一体化する自然はない。自国にも近隣にも会社にも連帯する仲間はいない。人類レベルの同胞意識など夢のまた夢である。

そんな「私」は近代社会を底で支える。
収奪され、搾取され、資本主義エンジンの燃料となることによって。



頂点の「私」も底部の「私」も幸福なのだろうか。



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人間は失う力を失ってしまった。失うことを受け入れ、失うことを喜ぶ力を失ってしまった。



(資本主義的) 交換経済以前の贈与経済で、人間は他人に大切なものを与え (つまり失い)、そのことを大きな喜びとしていた。大切なものを与えられた他人は、それを自分で独り占めすることなく、贈与の循環を続けた。循環は直接の贈り返しかもしれないし、他の第三者への贈与かもしれない。だが第三者への贈与とて、贈与の循環の中でやがては最初の贈り主に何らかの形で返ってくることが当然とされた。当然とされたから、すぐに返ってこなくても、その人が死ぬまでに返ってこなくても問題とはされなかった。

贈与経済は現代にもある。家族の中の経済関係である。家族の支出に損得勘定はない。親は子に与える。与えることを喜びとする。何かの形で子どもがお返しをすればそれを望外の喜びとする。そしてお返しは親ではなく子 (つまりは孫) にしてほしいとも思う。家族とは計算を越えた運命共同体である。

思えばゲーリー・ベッカー (Gary Becker) が結婚を経済学的に分析した時に多くの人が感じた本能的な違和感を大切にしておくべきだった。


だが私たちは分析を道具に過ぎないものと思っていた。分析は分析、自分は自分、と思っていた。しかし道具でさえ、それを使う私たちのあり方を変える (車やコンピュータといった道具は私たちのあり方を大きく変えた)。ましてや分析という物の見方は、私たちの認識や考えを変える ― しばしば根本的に。

私たちが知識人ぶろうとして、経済学的分析に対する素朴な違和感を抑圧した時から私たちは変わってしまった。(私たちは損なわれてしまったのかもしれない。ノーベル経済学賞受賞者たちによって) 。



贈与関係は会社の中にもあるのだろう。誰の目にも触れず、誰も数量的に評価できない「一隅を照らす」営みこそが会社を支えているのだろうから。

まして社会は、資本主義的交換 (という名の収奪と搾取) を超えた贈与関係によって支えられている。「いや、誰かがやらなきゃいかんことでしょう」という言明、あるいはそのような言明以前の、当たり前に習慣化した態度 (=文化) によって。


贈与関係は無論のこと自然の中にあるだろう。人間は自然から与えられ、できるかぎりのものを自然に返す。

いや返すなどはおこがましい。人間は自然から与えられたものに感謝し、必要以上の欲を抑えて自然を損ねないように自然を畏敬することができるだけだ (それは自らの命を畏敬することでもある)。

スピノザが言うように、神とは自然のことである。


「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
(ヨブ記 / 1章 21節 新共同訳)

“ Naked I came from my mother’s womb,
And naked shall I return there.
The LORD gave, and the LORD has taken away;
Blessed be the name of the LORD.”
(Job 1:21 New King James Version)



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人間が生まれたということは、自然・神からの恵みを受けたということだ。
この恵みを自ら育て、やがて他人に分け与えること。
同時に他人からの恵みを受け入れ、共に喜び合うこと。
恵みを循環させること。
― これこそが生きることであった。


だが多くの近代人は互恵ができなくなりつつある。

他人に恵みを与えることを資本主義的に損失と考える。他人から恵みを受けることを資本主義的に借財と考える。

互恵関係から離れ、損失を減らし借財をせずに、「他者」から ― 自分とは切り離された自然・人類・同胞・隣人から ― 資本主義社会的交換関係によってうまく収奪・搾取して快適な生活を作り出そうとする。「他者」から切り離された場所に自分を見出し、そこを自分一人にとって快適な場所にする。互恵関係が理解できない。共有関係も。頭でも身体でも。


私たちは進歩したのか。それとも損なわれたのか。


生きることを収支計算で考えてしまう。よく生きるとは、隔絶された「私」の空間を赤字にせず黒字にすることだ。

「私」以外の「私」とは「他者」にすぎない。
わかり合えず、つながり得ない「他者」にすぎない。
「私」の幸福は「他者」の犠牲を必要とする。「他者」の幸福は「私」の犠牲につながる。
だからできるだけ関わりをもたず、秘やかに生きよう。
― そうとしか考えられない。そうとしか生きられない。

私たちは、近代の社会の歪みの中に生まれ落ちた。私たちの多くは資本主義的上昇を人間の栄光として長時間労働をする父 (そして母) の家庭に生まれた。長時間労働で物質的な豊かさを受け取る家庭もあれば、長時間労働にもかかわらず物質的に苦しむ家庭もある。いずれの家庭においても鋭敏な子どもは家族関係の歪みに苦しみながら育った。

家庭の歪みを抑圧することができた子どもは今度は学校によって近代精神を叩き込まれた (これは学校の正当な役割なのだろうか、それとも歪みなのだろうか)。

私たちは卒業するや近代社会の論理で働かざるを得ない。新自由主義的価値観の下、私たちは賃借対照表・損益計算書以外の考え方・生き方に困難を覚え始める。あなたのプラスは私のマイナスであり、あなたのマイナスは私のプラスである。あなたと私はベクトルを180度異にし、帳簿の右と左できれいに区分けされている。


自分を孤立した「私」として考える限り、資本主義的交換関係以外で与えることは失うことであり、受け取ることは借財か窃盗である。資本主義的人間として「私」は与えることも受け取ることも極力拒む。

だが「私」が共同体的存在だとしたらどうだろう ― 共同体の生を離れて「私」の生はない。
人類的存在だとしたらどうだろう ― 人類の生を離れて「私」の生はない。
自然だとしたらどうだろう ― 自然の生を離れて「私」の生はない。

私から共同体・人類・自然に何かを与えること。
それはさらなる何かを循環させることである。

私が共同体・人類・自然から何かを受け取ること。
それはさらなる何かを循環させることである。

循環こそは命である。



***


私たちは恵まれた。生まれ、育てられたことで一方的に恵まれた。たとえそれが不十分な生まれであり、育ちであったと思えても、私たちは一方的に与えられた。恵まれた。

田口ランディがどこかで言っていたように、人間の赤ん坊とは丸一日でも放置されればたちまちに死んでしまう生き物に過ぎない。それなのに私たちが生きているということは、私たちは誰かに ―親でなくても誰かに― 一日たりとも欠かさずに世話を受けたということだ。この一方的な贈与は、たとえどんなに欠損したものであれ、私たちがこうして生きている限り、恵みではないのか。


ならば「私」も恵みを与えよう。受け取ろう。与え合い、受け取り合おう。分け合おう。

恵みに生きることこそが人間ではないのか。



***



私たちは近代的に損なわれた生しか生きていないのかもしれない。

あなたの生き方も私の生き方もそれぞれに壊れているのかもしれない。

私たちには歪んだ出会いしかできないのかもしれない。


だからこそ恵みを ― 与え合い、受け取り合い、分け合おう。

恵みこそは佳きこと。



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近代社会の「成功者」も、「失敗者」も

奪う者も、奪われる者も


近代社会で幸せな家族も、形だけになってしまった家族も

ようやく巡り逢えた二人も、別れざるを得なかった二人も


自由な独り者も、孤独な独り者も

語る者も、沈黙する者も




メリー・クリスマス



神様は、自然は、あなたを愛しています。
本当は。本当に。



あなたは神様の一部であり自然の一部です。
あなたは受け取っています。与えています。
損なわれ、歪んだ形でかもしれませんが。
気づいていないかもしれないし、気づくことを拒んでいるかもしれませんが。

あなたは今この瞬間も受け取っています。与えています。
私たちは互いに受け取り合い、与え合っているのです。

あなたが生きているということは、損なわれた形であろうとなかろうと、恵みの中にいるということです。

信じてもらえないかもしれませんが、実は私たちは愛し合っているのです。あなたが望むような形ではないかもしれませんが。


あなたが望むような形で私があなたを愛せないにしても。
私が望むような形であなたが私を愛せないにしても。
あなたと私が会うことがなくても。
あなたと私がそれぞれにいくら愛を否定し拒もうとしても。
私たちは互いに愛し合っているのです。
― 人間であることにおいて。生きているということにおいて。

あなたが生きているという事実。
それだけであなたは愛されているのであり、私たちを愛してくれているのです。

私が生きているという事実。
それだけで私は愛されているのであり、あなたを愛しているのです。


私たちはつながっているのです。
本当は。本当に。






イエス・キリストの名を通して神と自然、そして人々の愛に感謝します。
愛が見えるものであれ、見えないものであれ。

メリー・クリスマス





















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