それは本書 (ジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』文藝春秋) が紹介しているように、みつばちが大量死し、数々の農作物が収穫できなくなることからも切実に問われるべき問いである。
みつばちの受粉は多くの農作物にとって必須の過程であり、農業を工業化し、大規模で効率的な生産を図るアメリカの農業では、みつばちをできるだけ効率的に使用した(ブロイラーの鶏の過酷な環境から連想してほしい)。
その農業の工業化にともなう、単純なテクノロジーの大規模な適用が複数絡み合った時、それがみつばちの生態系にどれだけの複合的な打撃を与えるかは、誰もも予測できなかったし、今なお正確には説明されていない。ただみつばちが大量死しているという事実は厳然としてある。
考えてみれば、サリドマイドにせよ、フロンガスにせよ、開発当時は「副作用の少ない安全な薬」「夢の化学物質」としてもてはやされた。しかしそれらが使われているうちに、人体や地球環境に対して、それらは深刻な被害をもたらすことが判明した。
これは、近代的発想が引き起こす危険の一例と言えるかもしれない。
それでは近代的発想とは何か。
思いつくがままに、近代を形作った主なキーワードをあげてみるなら、
主客二元論と個人の哲学
産業革命
資本主義
技術的合理性(目標合理性)
コロニアリズム
官僚制
全体主義
などがあがる。これらは相互に関連しているように思える。
(以下、ませた高校生が書くような文章をいい大人である私が書くことをお許し頂きたい。私はしばしば自分の蒙昧を恥をかくことによってしか克服できない)。
主客二元論と個人の哲学は、「私」という意識を世界からも、他者からも乖離させ、「私」が世界や他者に働きかけ、操作するという思考図式を定着させた。ここでの世界や他者は、しばしば「私」を疎外させるものとして現れ、「個人」は世界や他者と対立的に存在するという発想が浸透した。
世界や他者の操作という発想は、自然科学の適用というテクノロジーと相まって、産業革命を可能にした。「個人」は、あるいは「個人」が集合して一つの大きな個となった「組織」は、世界や他者のあり方を変え、他者や世界を巨大な工業生産装置に変えることを可能にした。
巨大な工業生産装置の作成は、巨大な資本を必要とした。巨大な資本も巨大な工業生産装置を必要とした。人間関係を、もっぱら商品を媒介とした関係とみなし、世界を際限のない資本蓄積競争の場とする資本主義は、近代的な哲学とテクノロジーによる工業化と共生関係を築き、共に発展した。
近代哲学・テクノロジー・資本主義の相互発展関係は、技術的合理性(目標合理性)という思考法に結実した。遅れて近代化した日本の大学などは、技術的合理性(目標合理性)に基づく知的営みをもっぱら学問と考えた。工学は、技術的合理性(目標合理性)を世界に対して適用する学問であり、法学・行政学あるいは後年の経営学などは、それを他者に対して適用する学問であった。後者によって発展した(広義の)官僚制は、資本主義による資本の蓄積と相まって、前者の大プロジェクトをこれまでになかった規模で実施することに成功した。
巨大な工業生産は、商品を買い、資本を自らに供給してくれる消費者をますます必要とした。市場は次々海外に作られた。非-近代哲学・テクノロジー・資本主義圏を、近代哲学・テクノロジー・資本主義圏に組入れることは、しばしば道義的にも正当化され、それは後年コロニアリズムとも呼ばれるようになった(この正当化の際にしばしばキリスト教やナショナリズムが用いられた)。
近代哲学・テクノロジー・資本主義、あるいはキリスト教信仰やナショナリズムの共有からはじき出された人々は、徹底的に「他者」とされた。「他者」を「私」の拡大世界(「組織」)に取り込むこと、あるいはそれが適わないなら「他者」を徹底的に排除すること、そのために技術合理性(目標合理性)に基づくテクノロジーや組織機能を最大限に活かすこと―こういった発想は、二度の世界大戦に結実した。
日独伊に典型的に見られるとされたこの発想は「全体主義」とも後年呼ばれるようになったが、これは日独伊に限られた話ではなく、ソ連をはじめとした国家にも見られた。あるいは市場による解決以外の発想を認めようとしない新自由主義にも見られたといっていいかもしれない。
総じて言うなら、20世紀までには多くの全体主義が勃興し、そして破綻した。全体主義は、近代哲学、産業革命、資本主義、技術的合理性(目標合理性)、官僚制、コロニアリズムなどの複合的な発展の一つの帰結であった。必然の結果とは言わないにせよ。
そうしているうちに、私たちは、「近代的」でない人間のありよう、世界のありようを想像することさえ困難になった。知的営みですら、わかりえないものを排除する全体主義的発想に強い影響を受けるようになった。
農業も、グローバル市場で大量販売できる工業生産的発想で行なわれ、自然科学の適用であるテクノロジーは、無批判的に進行した。みつばちは、われわれと共に世界を共有する生命としてでなく、テクノロジーの適用で効用を最大化できる対象とみなされた。その連鎖が複合的になった時に、みつばちは大量死した。
だが、幸い科学・学問と呼ばれる知的探究は、技術的合理性(目標合理性)に基づくものばかりではない。技術的合理性(目標合理性)や資本主義的利益から自由な知的探究は、エコロジー(ecology)や複合性(complexity)といった理論も生み出した―エコロジーや複合性の議論は、反-全体主義的でもある―。
また人間は、技術的合理性(目標合理性)や科学・学問からも自由な感性を保っていた。自他の変化を敏感にそして時に痛切に直知する感性は多くの人に保たれ、その感性によるさまざまな表現は、高度の感性を有しない人にも訴えかけた。
かくしてこの本の著者は、みつばちの大量死をテーマとする論考をまとめた。多くの読者がそれに反応した。甲野善紀氏もその一人で、この本の重要性を何度も訴えた。その繰り返しにより、私も手を取り、この本が訴えかけるテーマの大きさに驚いた―この本は、決して蜂蜜や農作物の高騰だけの問題ではない!―。
中学生の時に甲野善紀氏に影響を受け、現在は現在東京大学理学部数学科在籍中の森田真生氏は、この本の感想を私信で甲野氏に送る。それは現在、ウェブ上で見ることができる。彼はその私信の中で、教育について述べる。
この問いかけを重視した甲野氏は、森田氏との対談の場を設置し、それは公開されることとなった。
こういった近代の問い直し、そして新しい生き方の探究から私は目をそらすことができない。
主客二元論と個人の哲学は、「私」という意識を世界からも、他者からも乖離させ、「私」が世界や他者に働きかけ、操作するという思考図式を定着させた。ここでの世界や他者は、しばしば「私」を疎外させるものとして現れ、「個人」は世界や他者と対立的に存在するという発想が浸透した。
世界や他者の操作という発想は、自然科学の適用というテクノロジーと相まって、産業革命を可能にした。「個人」は、あるいは「個人」が集合して一つの大きな個となった「組織」は、世界や他者のあり方を変え、他者や世界を巨大な工業生産装置に変えることを可能にした。
巨大な工業生産装置の作成は、巨大な資本を必要とした。巨大な資本も巨大な工業生産装置を必要とした。人間関係を、もっぱら商品を媒介とした関係とみなし、世界を際限のない資本蓄積競争の場とする資本主義は、近代的な哲学とテクノロジーによる工業化と共生関係を築き、共に発展した。
近代哲学・テクノロジー・資本主義の相互発展関係は、技術的合理性(目標合理性)という思考法に結実した。遅れて近代化した日本の大学などは、技術的合理性(目標合理性)に基づく知的営みをもっぱら学問と考えた。工学は、技術的合理性(目標合理性)を世界に対して適用する学問であり、法学・行政学あるいは後年の経営学などは、それを他者に対して適用する学問であった。後者によって発展した(広義の)官僚制は、資本主義による資本の蓄積と相まって、前者の大プロジェクトをこれまでになかった規模で実施することに成功した。
巨大な工業生産は、商品を買い、資本を自らに供給してくれる消費者をますます必要とした。市場は次々海外に作られた。非-近代哲学・テクノロジー・資本主義圏を、近代哲学・テクノロジー・資本主義圏に組入れることは、しばしば道義的にも正当化され、それは後年コロニアリズムとも呼ばれるようになった(この正当化の際にしばしばキリスト教やナショナリズムが用いられた)。
近代哲学・テクノロジー・資本主義、あるいはキリスト教信仰やナショナリズムの共有からはじき出された人々は、徹底的に「他者」とされた。「他者」を「私」の拡大世界(「組織」)に取り込むこと、あるいはそれが適わないなら「他者」を徹底的に排除すること、そのために技術合理性(目標合理性)に基づくテクノロジーや組織機能を最大限に活かすこと―こういった発想は、二度の世界大戦に結実した。
日独伊に典型的に見られるとされたこの発想は「全体主義」とも後年呼ばれるようになったが、これは日独伊に限られた話ではなく、ソ連をはじめとした国家にも見られた。あるいは市場による解決以外の発想を認めようとしない新自由主義にも見られたといっていいかもしれない。
総じて言うなら、20世紀までには多くの全体主義が勃興し、そして破綻した。全体主義は、近代哲学、産業革命、資本主義、技術的合理性(目標合理性)、官僚制、コロニアリズムなどの複合的な発展の一つの帰結であった。必然の結果とは言わないにせよ。
そうしているうちに、私たちは、「近代的」でない人間のありよう、世界のありようを想像することさえ困難になった。知的営みですら、わかりえないものを排除する全体主義的発想に強い影響を受けるようになった。
農業も、グローバル市場で大量販売できる工業生産的発想で行なわれ、自然科学の適用であるテクノロジーは、無批判的に進行した。みつばちは、われわれと共に世界を共有する生命としてでなく、テクノロジーの適用で効用を最大化できる対象とみなされた。その連鎖が複合的になった時に、みつばちは大量死した。
だが、幸い科学・学問と呼ばれる知的探究は、技術的合理性(目標合理性)に基づくものばかりではない。技術的合理性(目標合理性)や資本主義的利益から自由な知的探究は、エコロジー(ecology)や複合性(complexity)といった理論も生み出した―エコロジーや複合性の議論は、反-全体主義的でもある―。
また人間は、技術的合理性(目標合理性)や科学・学問からも自由な感性を保っていた。自他の変化を敏感にそして時に痛切に直知する感性は多くの人に保たれ、その感性によるさまざまな表現は、高度の感性を有しない人にも訴えかけた。
かくしてこの本の著者は、みつばちの大量死をテーマとする論考をまとめた。多くの読者がそれに反応した。甲野善紀氏もその一人で、この本の重要性を何度も訴えた。その繰り返しにより、私も手を取り、この本が訴えかけるテーマの大きさに驚いた―この本は、決して蜂蜜や農作物の高騰だけの問題ではない!―。
中学生の時に甲野善紀氏に影響を受け、現在は現在東京大学理学部数学科在籍中の森田真生氏は、この本の感想を私信で甲野氏に送る。それは現在、ウェブ上で見ることができる。彼はその私信の中で、教育について述べる。
現代の教育システムを簡単に総括してしまうなら、「問題解決者の大量生産システム」と呼ぶことができるでしょう。
名のある大学の入試を突破し、数々の難しい資格を取得できる優秀な問題解決者が毎年何万人と生産されています。
一方で、優秀な問題提起者を育てる努力はほとんどなされてこなかったようです。
その結果は火を見るより明らか。
「陳腐な問題を、大量の問題解決者がこぞって解く」
という構図が生まれたのです。
・いかにして1円でも儲けるか
・いかにして1グラムでも多く生産するか
・いかにして1秒でも楽するか
問題提起者の不在により、このようなつまらない問題に大量の人材が人生を賭けて取り組んでいるのです。
・かぼちゃの種からなぜかぼちゃができるのか
・作物に花が咲くとなぜ実がなるのか
・わたしたちはそもそもなんのためにいきているのか
このような根本的な問いを、創造的な形式で問いかける人がひとりでも多くいたら、世界はいまとは違った姿になっていたでしょう。
「かぼちゃの種からなぜかぼちゃができるのか」
そう問う余裕すらなくした人類が、ひとつでも多くのかぼちゃを生産するという面白みのない問いの「解決」に全力で取り組んできた結果が、『ハチはなぜ大量死したのか』に描かれている、いままさにわたしたちが生きている世界なのではないでしょうか。
http://www.shouseikan.com/zuikan0908.htm#4
この問いかけを重視した甲野氏は、森田氏との対談の場を設置し、それは公開されることとなった。
9/19(土)は福岡県福岡市で、9/21(月・祝)は広島県福山市で開催される。
こういった近代の問い直し、そして新しい生き方の探究から私は目をそらすことができない。
というより、森田氏の言う「陳腐な問題を、大量の問題解決者がこぞって解く」という記述は今の大学の現状を言い当てているようにもに思える。そしてその大学で、未来の市民も教師も教育される。
ご興味ある方は、ぜひ本を読むか、福岡市・福山市のセミナーにご参加下さい。
⇒『ハチはなぜ大量死したのか』
ご興味ある方は、ぜひ本を読むか、福岡市・福山市のセミナーにご参加下さい。
⇒『ハチはなぜ大量死したのか』
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