柳らの造語である「民藝」を、彼は「民衆が日々用いる工藝品」、「最も深く人間の生活に交る品物の領域」、「不断使いするもの、誰でも日々用いるもの」、「雑器」あるいは「雑具」などと説明する(21ページ)。彼はその民藝にこそ美を見出した。
その美の発見が、独りよがりなものでも、イデオロギー的なものでもない、純粋に直観的なものであることは、日本民藝館の展示物、そして展示の仕方と建物自体を実際に見れば疑いようのないことであろう。あるいは柳も言うように、茶道を創めた人々が見出し、後年「大名物」(おおめいぶつ)と呼ばれるようになった茶器は、特別に作られた美術品ではなく、当時の民藝に他ならなかったことからも明らかであろう。
仰々しく作られた「芸術」作品よりも、「民藝」にこそ美が存在することを柳は次のように説明する。
なぜ特別な品物よりかえって普通の品物にかくも豊かな美が現れてくるか。それは一つに作る折の心の状態の差異によると云わねばなりません。前者の有想よりも後者の無想が、より清い境地にあるからです。意識よりも無心が、さらに深いものを含むからです。主我の念よりも忘我の念の方が、より深い基礎となるからです。在銘よりも無銘の方が、より安らかな境地にあるからです。作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです。個性よりも伝統が、より大きな根底と云えるからです。人知は賢くとも、より賢い叡智が自然に潜むからです。人知に守られる富貴な品より、自然に守られる民藝品の方に、より確かさがあることに何の不思議もないわけです。(31ページ)
そもそもあのわずかな高価な貴族的な品物の、ほとんどすべてに見られる通有の欠点は、一つに意識の超過により、一つに自我の跳梁によるのです。一言で云えば工夫作為の弊なのです。(73ページ)
繰り返すが、この審美は「貴族が悪くて、民衆が正しい」といったイデオロギー的なものではない。柳は日本民藝館のコレクションが、民衆的工藝品となったことを、(1) 美しいものを集めたら結果的にそれが民衆的工藝品であった、(2) 貴族的な品に美しいものがないわけではないが、それらの例外的存在はすべて「民藝美」の特徴である単純さや素朴さを備えていた、と説明する(106-107ページ)。
「民藝の美の特質」を柳は別箇所で、実用性、廉価性、平常性、健康性、単純性、協力性、国民性の7つの観点から説明する。 (127-132ページ)。このうち、6番目の協力性は、個人主義以外の人間のあり方を忘れがちな近現代人にとって、非常に重要な指摘であるように私には思える。
第六は協力性の美をここに見出すということです。近世の美術品は作者の名を誇ります。他の誰にもできないような仕事であって個性の表現を示すものだと考えられます。それ故仕事は自分の名において作られるのです。ですが元来かかる習慣は個人主義が発生した後の現象で、誰も知る通り、東洋でも西洋でも昔はどんな優れた作にも名は記してありません。宗教時代のことでしたから、吾が名を誇る気持ちはなかったのです。民藝の世界に来ると再び無銘の領域に来るのです。作者は一々自己の名を記しません。このことは作者の不浄な野心や慾望を拭い去って、それを無心な清浄なものにしてくれるのです。しかもそれは大勢の人の協力の仕事なのです。これは工藝の性質自身が要求することなのです。焼物の例を取れば轆轤を引く者、削る者、描く者、焼く者、各々持ち場があって、それ等の人達が協力して仕事が完成されるのです。民藝品は個人の所産ではなく、多くの人達の協力的所産だということに大きな意義があるのです。将来の美学は、個人で美を産むということより、大勢で協力して美を産むということの方が、もっと大きな理念だということを教えねばならないと思います。個人の名誉よりも全体の名誉をもっと重く見るべきです。それ故人々は無銘品の価値をもっと見直さなければなりません。(130-131ページ)。
私は「英語教育学」と一部の人々が呼ぶ分野で仕事をしている人間だが、しばしば高名な先生の講話にうんざりし、有名な先生の研究発表に退屈している。「英語教育達人セミナー」などのように「無名」の現場教員が、互いに語り合っている場所の方にはるかに深い知恵があることを痛感している。もちろん有名者の話が常に駄目で、無名者の話が常に素晴らしいというわけではないが、高名・有名な人の話には、しばしば「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」が見えるように思えて辟易することが多い。(少なくとも私は、自分の「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」には自分でも嫌気がさしている。)
美に関する柳の論考は、真や善に関する教育実践に関しても当てはまるのではないかと思わざるを得ない。
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